おしまい

 今生日記konjyo nikki  ーおしまい

2012年も今日でおしまい。

そして、当連載も今日でひとまずおしまいです。

永らく(ブログにあるまじき)長文に毎週お付き合いいただき、

これまで本当にありがとうございました。

一寸休んで、今後は月いちの形で

ニヒル牛マガジンに何か書かせてもらう予定です。

それではみなさま、良い年をお迎えください。

最後にもう一度

ありがとうございました。         白江亜古





インタビュウ最終回「白い函」

 今生日記konjyo nikki  ーインタビュウ最終回「白い函」


 太宰治の20代はかなりややこしいことになっていた。パビナールという薬物の中毒や、内縁の妻との心中未遂などなど。だが、先輩作家の井伏鱒二の仲人で30歳の頃に結婚すると、その後しばらくは精神的に安定した模様。『富獄百景』『走れメロス』『津軽』『御伽草子』といった代表作を戦前戦中に執筆し、仕事に精力的に取り組んでいる。そして戦後の昭和22年に『斜陽』を発表するや、一躍流行作家となったのだ。


 林聖子さんは太宰と再会して間もなく、彼の口利きで新潮社に入社した。

「その頃の太宰治といえば、超売れっ子ですよね」

 こう訊くと、彼女は「そうです」と大きくうなづいて言った。

「なにしろ『斜陽』の連載が、雑誌の『新潮』で始まった頃ですから。わたしは出版社の人間として、太宰さんのところへ『斜陽』の原稿をいただきに伺ったり、校正を持って行ったりしていたんですよね」

 戦後に起きた出版大ブームの影響もあって、当時の太宰人気はそれはすごいものだったという。

「でも、わたしにとっては、太宰さんは普通のおじさんなの。“先生”でもなんでもないの。だから新潮社に入れていただいて、お仕事で最初に太宰さんのところへ伺うときは悩みました。それまでは“太宰さんのおじさん”と呼んでいたんですけど、さすがにそれではまずいだろうな、って。やはり、ほかの作家の方々と同じように“先生”と呼ぶべきかなぁ、と。それで、『先生』って呼んだんですけど、もう、すっごい恥ずかしくって。歯の間から空気が抜けるようで、はっきり発音できなかったんじゃないかな。『しぇんしぇい』みたいな感じで」

 大輪のダリアのような笑顔になって、聖子さんが言葉を続ける。

「そうしたらね、太宰さんもね、なんか、すっごく照れてらした。紅くなったんですよ。今考えてもおかしいんですが」

「太宰治はどんなひとだったんですか」

「お酒の呑み方が上手でらしたですよ」

「あ、そうですか」

 と、文字にすると平坦だけれど、「あ、そうですか」という合いの手は、音になると抑揚のあるもの。意外さや面白さの鳥羽口を見つけて、興味津々になっているときにわたしの口から出るものだ。

「あのね、なんかこう、歌ったり、乾杯したりするんだけど、わりあい盛り上げるのがお上手で。まわりのほうがご機嫌になって、とても楽しそうなんだけれど、太宰さんご自身は、実際にはお酒はそんなにあがってらっしゃらなかった。だからいろいろなところで、お酒をすごくたくさん呑んだように書いてあるのを読むたびに、『そうかなぁ』とわたしは思っているんです」

「盛り上げ役というイメージはないですものね、一般的には。聖子さんのエッセイなんかに出てくる太宰さんは、結構明るいおじさんみたいな印象だけれど」

「それはもう、すごく明るい方でした。ただ、写真を撮るとああなるの。ああいう写真になるの」

 頬に手をあてて斜め下を向いた、物憂げな表情のーー。「ああいう写真」を頭に浮かべて、聖子さんとわたしはアハハハと笑い合った。「ああいう写真」はどうやらポーズであったようだ。



 インタビュウの中で、わたしたちは太宰の死についても話をした。でも、それについてはここには書かないつもりだった。そうでなくても『インタビュウ』と題したこの文章は矢鱈と長いのだし、秋田富子と林聖子さんのことが主題なので、読者の関心が太宰へ傾いては困るのだ。だけど、やっぱり書いておこうという気になったのは、あるひとがわたしに言ったから。「ぼくは太宰治は嫌いだ。自殺した人間は、作品の如何にかかわらず好きじゃない」。


 聖子さんのエッセイに、こんな一文がある。


 二十二年の中ごろから、母は真剣に、太宰さんの死を案ずるようになった。


 このことを、太宰と親しい編集者たちに聖子さんが話しているのが、太宰の耳に入ったらしい。ある日、太宰とふたりで歩いているときに、彼がふと足を止めて言った。「聖子ちゃんは、僕が死ぬのではないか、といってるんだって」。


 決して怒った様子ではなく、むしろ、子供の悪戯をとがめるときの、優しさを秘めた口調だった。

 私は、全身の血が、一度に引くような気がした。まっさおになって震えている私を眺め、太宰さんはさらに、「ぼくは決して死なない。息子を置いて行くわけにはいかないんだ。お母さんにもそういっておきなさい」といった。

 私は、今でも、太宰さんには、自分から自殺するつもりは、決してなかった、と思っている。


 「息子を置いて行くわけにはいかないんだ」という言葉は、ダウン症で知能に障害があったという息子のことを指しているのかもしれない。太宰の本当の想いはどこにあったのかーー。

 23年6月19日、太宰治と、愛人のひとりである山崎富栄の遺体が玉川上水に上がった。秋田富子も聖子さんも、それぞれ急いでそこへ駆けつけた。

「わたしは新潮社で太宰さんの担当だった野原さんから報せを受けて、野原さんとふたりで玉川上水の土手を歩いたんです。そうしたら、あの、小さな瓶とお皿が……夜店で売っているような、ガラスの安っぽいお皿なんですが、太宰さんのところへ遊びに行くと、それにいつもさっちゃん(山崎富栄)がピーナッツとか入れておつまみに出してくれていたんで、よく覚えていたんです。ずいぶん変なお皿だな、と思っていたものだから……それが落ちていたの。で、見たら、そこの土手に、梅雨でずっと雨が降っていましたから雑草が寝てるでしょ、なのにそこだけレールを引いたみたいにね、ざーっと、下の黒い土が出た筋がついていて。明らかに、ここから川へ落ちた、っていうのがわかるんです。黒い土の筋は、太宰さんの下駄の跡じゃないですかね、あれは生々しかったです。だから、あの、ボッチャン、とふたりで同意して川へ飛び下りたわけではないのかな、という印象がわたしにはあるんですね」

「強い力で引っ張られた、とか?」

「なにか相当な力が加わらないと、下の土が出るほどの筋はつかないでしょう」

 うーーむ……。と、うならざるを得ない局面である。わたしは訊いた。

「では、ガラスのお皿はなんのために?」

 聖子さんは少し鋭い目になって言った。

「だから、なんか、青酸カリか眠り薬か、そういうものを溶いて飲んだんじゃない? お酒かなにかで……じゃないですかね。何しろ、さっちゃんは青酸カリを持っている、って、よく太宰さんが言っていましたから」

 うーーむ……である。

 世に流布している話によると、「死ぬ気で恋愛してみないか」と流行作家に誘われて、その気になって。身も心もお金も遣って太宰に尽くしたのに、別の愛人(太田静子)に太宰の子どもができたことが、山崎富栄には大変なショックだったらしい。

 激しい嫉妬と、太宰に捨てられるかもしれない怖れを抱いた山崎富栄は、太田静子宛に「修治さん(太宰の本名)はお弱いかたなので 貴女やわたしやその他の人達までおつくし出来ないのです わたしは修治さんが、好きなのでご一緒に死にます」と書いた手紙を出し、その夜に入水した。

 発見された山崎富栄が激しく恐怖している形相だったのに対して、太宰の死に顔が穏やかだったことから、太宰は入水前に絶命していたか仮死状態だったと見る説もある。

 うーーむ……である。太宰ははたして本当に、みずから死を選んだのだろうか。



 38歳でこの世を去ったとき、太宰治は朝日新聞に『グッド・バイ』を連載中だった。小説のタイトルにしても、連載の第“13”話が絶筆になったことにしても、心中自殺と符号するから、世間は安易に太宰を自死をみなしている。けれど、『グッド・バイ』という作品について、林聖子さんがエッセイに書いていることがわたしには気になる。彼女の“読み方”が。


 太宰さんは、この作品を、死の一ヶ月前から書きはじめ、死の前日までに十三回分を書いたという。こんなに明るく、軽妙な作品を書いていた人が、どうして死を望んだりするのだろうか。

 絶筆、表題から、太宰さんは、すでにこのとき死を決していたという見方は、あまりに単純な見方だと思う。この場合は、それまでのニヒルな世界と別れ、新しい明るい世界へと進むためにの、太宰さん自身による宣言となるはずの作品が「グッド・バイ」だと考えた方がいい、と私は思う。私の耳には、今もなお、「息子を置いて行くわけにはいかないんだ」という言葉が残っている。


 林聖子さんにインタビュウする際に、もちろんわたしも『グッド・バイ』を読んでいる。なるほど、なるほど、とまだ見ぬひとだった聖子さんへ、何度も同意の気持ちを向けながら、その未完の小説をおもしろく読んだ。そして、インタビュウの席で、

「やっぱり、死の間際に書いたような小説ではないですよね」

 と言うと、

「そうでしょう!」

 と聖子さんは顔を輝かせた。どうしても、その点だけは譲りたくないのだな、とその表情を見てあらためて思った。

「あんなに仕事が好きだったひとはいないですもん。書くことが好きで。わたしや母を前にして、呑みながら話をしているときも、全部、次に書くことのイメージを話しているみたいでした。というのはね、あとで『新潮』に載った作品を読むと、呑んでいるときの会話が1行とか2行とか、必ず混ざっているんですよ。だから、ああやって呑んでお喋りしているときも、仕事のことを考えてらしたんだな、って思うから」

 人物にじかに触れたひとだからこそ、感じる何かがあるのだろう。

「真相は、結局わからないんですよね」

 わたしがつぶやくように言うと、

「あの頃は解剖も何もないんですよね」

 彼女もつぶやくように言った。


 書くことがあるのなら、死ねないのではないかな。わたしはそう思う。

 書くことがなくなったときが、死ぬときじゃないかな。


 それにしても、男の弱さにわたしは慣れない。太宰のことを書いていても、どうにも息が詰まるようなのだ。自分が一寸、彼(ら)に近いせいかもしれない。同病相憐れむ、というか。男の弱さを見て見ぬふりができて、知っていながら平然とそばにいられる女が一番、男には必要なんじゃないかしら。そんなひとにはどうやったらなれるのか、皆目見当がつかないけれども。

 秋田富子や聖子さんはどうだっただろう? 見て見ぬふりができるひとだっただろうか。いや、“人種”ではないな。質(たち)ではない。その男を、どれぐらい息させて(とパソコンの自動変換でこう出るのが面白い)やりたいか、という想いの大きさかもしれない。強さ、ではなく、愛情。無償の愛ーー。



 もうひとつ、本筋からはずれたよぶんな逸話を書き添えておきたい。聖子さんのエッセイに出てくる、個人的に好きなエピソードがある。

 昭和23年の春、というから、太宰が6月に亡くなる少し前のこと。三鷹の駅前の通りに、小さな化粧品兼小間物のお店ができたという。化粧品と、女のひとが喜びそうな小さなアクセサリーや、きれいなハンケチなんかを売る店。昭和36年生まれのわたしが子どものときにも、所沢の古い商店街にこの手の店があったので、エッセイを読みながら並んでいる品物が目に浮かんだ。

 三鷹のその店の前を太宰と聖子さんが通りかかったとき、太宰は「そうだ、なにか買ってあげよう」と言って聖子さんを中へと促した。ガラスケースの中から、聖子さんは四角い銀のロケットペンダントを選んだ。太宰が「これはお母さんに」と手にとった化粧品の瓶は、なんとシワ取り用のクリーム。秋田富子さんは当時39歳で、クリームの瓶を見て「シワなんかないわよね、いやな太宰さんね」と少し憤慨したそうだ。

 実は、所沢の化粧品兼小間物の店で、小学校3、4年の頃にわたしが目にとめたのも、銀色の涙型のロケットだった。表にスズランの彫りがある、とっておきの宝物。もっともわたしには“太宰さんのおじさん”のようなひとはなく、きっと自分のお年玉か何かで買ったのだけれど。

 

 女たちに『メリイクリスマス』を残し、ロケットペンダントとシワ取りクリームを買ってくれた太宰治は、その年の6月に死んだ。そして「あとを追うように」というのは言い過ぎだけれど、同じ年の12月に秋田富子が病死している。ふたりとも40歳になる前に、短い人生を終わらせた。


「結局、お母さまと太宰さんっていうのは……親友……」

 途中まで訊きかけたところで、聖子さんが「うーん……」とうなった。それから海面をみつめるように言った。

「すごく、好意を持っていたんですよね、太宰さんに。だけど、恋愛感情はなかったんじゃないでしょうか。お互いに」

 そうだろうか。

 数ヶ月に渡ってこの長い文章を書いている間に、わたしにはふたりの関係は結局のところ、太宰の片想いだったように思えている。秋田富子が彼に気を持てば、すぐにふたりはそうなったはず。でも、秋田富子は太宰に対して、とうとうその気が持てなかった。太宰も途中で気づいたのではないかと思う。無償の愛は、男女の仲になったとたんに、形を変えてしまうかもしれないことに。



 でも、だから、なぜ……という想いが秋田富子に対してずっとある。

 あらためて、わたしは訊いておきたかった。

「お母さまは、お父さまのことを本当に、ずっと愛されていたんですか」

 18歳で出会ってから、39歳で死ぬまで、ずっと。

「いや、それはね、うちの母はしょっちゅう裏切られていましたから。『ほんと、お父さんは野蛮だから』とよく言ってましたし」

 さんざん裏切られて。愛人を何人もつくり、彼女らに子どもを産ませ、酒に沈殿し……林倭衛も太宰に負けず劣らず、たましいの落ち着き処を見つけられぬひとだった。そんな男に向ける秋田富子さんの想いは、ずっと愛していた、なんていうきれいな言葉であらわされるものではないかもしれない。

「でも……」 

 と聖子さんが再び口をひらいた。

「でも……父が死んだあと、四十九日が終わると、わたしは自分の荷物を持って高円寺の母のアパートへ移ったんです。そのとき、押し入れを開けて荷物を入れようとしたら、赤いりぼんで結んだ白い函があったの。母にしては珍しい包み方なんでね、『これ、なあに?』と聞いたんです。そうしたら、『あ、それね、お父さんがフランスからくれた手紙が入ってるの』って。『見ていい?』って聞いたら、『うん、だめ』って返ってきたから。だから、父からの手紙はそんなふうに大事に函に入れて、りぼんをかけてとっておいたんですよね、母は」

 ずっと。18歳で出会ってから、39歳で死ぬまで。ずっと愛していた、というきれいな言葉が、やっぱり彼女にはふさわしい気がする。


 84歳の今も、林聖子さんは新宿・花園神社近くのバー風紋のカウンターの中に立っている。太宰治をはじめ、秋田富子が親しかった作家や編集者たちとの縁あってこその文壇バーだから、「風紋は、母と私の親子二代の店」と聖子さんは話す。

 歴史の上澄みのところに浮かんでくる話は、ほんのわずかな、目立つ塵みたいなもの。それをすくいとった下には、かすかに笑い、かすかに嘆き、かすかに想う音が沈んでいる。耳をすまさないと聞こえない音。もしかしたら、聞かれなくてもいいのかもしれない音。でも、それを聞いてしまって、耳の中にいつまでも木霊しているものだから、わたしはこの話をどうしても言葉にしておきたかった。かすかに存在していた「唯一のひと」の物語。

 

出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録) 林聖子著・星雲社

 






メリイクリスマスのおまけ

 今生日記konjyo nikki  ーメリイクリスマスのおまけ

あ、最後の写真(七五三の)が、なんでクリスマスに関連するのか

説明が足りませんでした。これをご覧あれ。


昭和43年12月号の少女漫画雑誌

「なかよし」(講談社)の巻頭グラビアです。

その年の秋に、わたしは7歳のお祝いをしてもらっているので

このグラビアからヒントを得て

母がドレスを縫ってくれたわけではないのだけれど。



まあ、当時の少女のあこがれの

クリスマス&パーティファッションといえば

こういうテイストだったのですね。

ブラックミニドレス、なり。

白いハイソックスで。ツイギーの時代だわ。



というわけで、メリイクリスマス。

よい休日をお過ごしください。





インタビュウ10「メリイクリスマス」

 今生日記konjyo nikki  ーインタビュウ10「メリイクリスマス」


「終戦翌年の11月に、三鷹の駅前の本屋で太宰さんとばったり再会して。あのときは太宰さんひとりじゃなくて、小山清さんていう、太宰さんの家に寄宿していた方も一緒でした」

 目の裏にしっかり記憶されているのだろう。約65年前のことを、林聖子さんがつい先日の出来事のように話す。

 戦時中、太宰治は疎開先の甲府を焼け出され、妻子とともに津軽の生家へ逃げ延びた。その地で終戦を迎えて、三鷹に戻ったのが昭和21年11月だから、まさに帰ってきたばかりのタイミングで聖子さんと再会したのだ。ちなみに三鷹書店に一緒にいた小山清は太宰の弟子で、のちに小説『小さな町』が芥川賞候補になるなどして評価された人物。

「太宰さんと顔を合わせると、『今どうしてる?』という話になって。母のいる家へ『じゃあ行こう』とすぐに。小山さんは太宰さんの家へお帰りになって、太宰さんとわたしのふたりだけでうちへ向かったんです。道々、話をしながら。うちに着くと、母も太宰さんの姿を見てびっくりしていました。本当に偶然の再会でしたから。それで、あの、その日からあまり立っていなかったと思います。太宰さんがふいに、わが家に来られたのは」



 再会から半月(はんつき)ほどたった頃だ。秋田富子と聖子さんの住む三鷹の長屋へ、太宰治はひとりでやってきた。

「着流しでいらして。だからまだ、それほど寒くなかったんですよね、11月の終わり頃じゃなかったかしらね。太宰さん、着流しでいらして。『お母さんと聖子ちゃんへのクリスマスプレゼントだよ』って、懐から雑誌を出してバサッと置かれた。出たばかりの中央公論の新年号でした。太宰さんの『メリイクリスマス』が掲載された号。それを、母とふたりで頬を寄せ合って、太宰さんの目の前で読んだんです」

 わたしは待ちきれずに訊いた。

「読んで、太宰さんになんて言ったんですか?」

「なにも言わない。ただ、母とふたりで読みながら、『わあ〜』とか言ってたんです」

 男から、思いがけず届けられたクリスマスの贈り物に、高揚して紅くなる“女たち”。湯気の立つような気分が、こちらにも移ってくるようだ。


 『メリイクリスマス』は戦後の武蔵野を舞台に、ひとりの作家と、彼の女ともだちの娘との邂逅を描いた物語だ。

 ひととひとは、逢うように仕組まれている。会えた奇跡を、物書きは文章で祝福するーー。太宰治は聖子さんたちと再会すると、再び逢えた幸運をひとりでせっせと言葉に紡いでいたのだ。



 『メリイクリスマス』はこんなふうに始まる。


 東京は、哀しい活気を呈していた、とさいしょの書き出しの一行に書きしるすというような事になるのではあるまいか、と思って東京に舞い戻って来たのに、私の眼には、何の事も無い相変わらずの「東京生活」のごとくに映った。


 終戦翌年の暮れ。帝都の大空襲を逃れ、1年3ヶ月の月日を故郷の津軽で過ごして東京に帰ってみると、予想に反して2〜3週間の小旅行から帰ったぐらいの気持ちであった。田舎への手紙にも「この都会は相変わらずです。馬鹿は死ななきゃ、なおらないというような感じです。もう少し、変わってくれてもよい、いや、変わるべきだとさえ思われました」と書いたのだ、と、こう、文中で太宰はうそぶく。

 それにしても、この『メリイクリスマス』の冒頭、今わたしたちが読むと、なにやら3.11後の東京の姿とだぶるのが妙である。



 師走の雑踏の中を、作家は久留米絣の着流し姿で歩き廻る。小さな映画館でアメリカ映画を見て、本屋で戯曲集を1冊買い求め、それを懐に入れて入り口のほうを向くと、


 若い女のひとが、鳥の飛び立つ一瞬前のような感じで立って私を見ていた。口を小さくあけているが、まだ言葉を発しない。

 吉か凶か。


 吉か凶かーー。作家いわく、昔に激しい恋をしたけれど、今は少しも好きではない女のひとと逢うのは“最大の凶”なのだそうだ。


 緑色の帽子をかぶり、帽子の紐を顎で結び、真赤なレンコオトを着ている。見る見るそのひとは若くなって、まるで十二、十三の少女になり、私の思い出の中の或る映像とぴったり重なって来た。

「シズエ子ちゃん。」

 吉だ。


 と、自分のことをこんなふうに書かれた文章を、書き手の太宰の目前で林聖子さんは読んだわけだ。ヒロインのモデルであるその女(ひと)が、わたしにそっと打ち明ける。

「主人公のシズエ子ちゃんっていう名前、うちの父が倭衛(しずえ)という名前なんで、しずえの子だからシズエ子ちゃんなのかなぁ、って。太宰さんの前で『メリイクリスマス』を読みながら、そんなことを思いました。それと作品の前半はね、三鷹書店でばったり逢ってうちへ行くまでに、わたしと交わした会話がそのままだったんで。『あと、なん町?』と太宰さんに訊かれたりしたこととか、そのまま書かれていたので、すごい記憶力だな、って関心しちゃった」

「メモをとっていたわけでもないのに」

「ええ、そうなんですよね」

 メモをとっていたわけでもないのに。でも、その点はわたしも物書きの端くれだから事情がわかる。記憶力が良いーーというのとはたぶん少し違うのだ。目にした風景、耳にした会話、体が覚えた事件……いったん自分の中に落とし込んだそれらの物事を、さもそれが誰にとっての“真実”でもあるかのように書く。その特技を物書きは持っているだけのこと。きれいな嘘をつくのが、上手なだけのこと。



 『インタビュウ』と題した、この長い文章の最初にも書いた。太宰は聖子さんの母である秋田富子について、自分の「唯一のひと」であると『メリイクリスマス』の中で公言している。何ゆえにか。

 第一に綺麗好きな事。

 第二にそのひとがちっとも自分に惚れていない事。自分もそのひとに少しも惚れていない事。

 第三にそのひとが他人の身の上に敏感で、つまらぬ事を云わぬ事。 

 第四にそのひとの処にはいつも酒が豊富にある事。

 以上の四つの理由から、シズエ子ちゃんの母は自分にとって「唯一のひと」なのだと、太宰は作中に繰り返し、「唯一のひと」という言葉を使っている。


 (前略)それがすなわちお前たち二人の恋愛の形式だったのではないか、と問いつめられると、私は、間抜け顔して、そうかも知れぬ、と答えるより他は無い。男女の親和は全部恋愛であるとするなら、私たちの場合も、そりゃそうかも知れないけれど、しかし私は、そのひとに就いて煩悶した事は一度も無いし、またそにひとも、芝居がかったややこしい事はきらっていた。



 小説はおもしろい。わたしは林聖子さんにインタビュウをした数年前と、『インタビュウ』を書き始めた10月の頭に、『メリイクリスマス』を読んだ。そして今再び読み返してみると、先の2回とはまるで違う読後感であることに驚く。自分の眼は節穴だったのか、と思っている。

 最初は単純な驚きだった。あの太宰に、彼が手を出さぬ純粋な女ともだちがいた、という驚き。あの太宰に。深い仲にならぬのに、「唯一のひと」という言葉で崇められる。彼女ーー秋田富子さんは、なんてカッコいい女であろうかと憧れた。

 だが今は、その部分を大きく受け止めた自分が、むしろ純粋であったのだと思う。3回目に読んで、あれ? と引っかかったのは、「唯一のひと」である勝手な条件を挙げつらねたあとに、作家が(みそぎが済んだとでもいうように)言葉で切り開いてみせる観念の新境地ーーそれはたとえばこんな箇所だ。

「お母さんは? 変わりないかね。」「さっそくこれから訪問しよう。そうしてお母さんを引っぱり出して、どこかその辺の料理屋で大いに飲もう。」 道すがら話しかけるうちに、作家は相手の娘の元気がなくなっていくのを感じる。そして、


 私は自惚れた。母に嫉妬するという事も、あるに違いない。


 と考えるのだ。

 自惚れ? 母に対する嫉妬? なんだそれ、いい齢をして……と読んでいるわたしはいぶかしく思うのだけれど。肩を並べて歩く、輝く若さのシズエ子とさらに言葉を重ねるうちに、


 私はいよいよ自惚れた。たしかだと思った。母は私に惚れてはいなかったし、私もまた母に色情を感じた事は無かったが、しかし、この娘とでは、或いは、と思った。


 などと、作家は妄想をどんどんエスカレートさせていく。

 ばか、ではないか。

 いや、男とはこういうものか。


「よく逢えたね。」私は、すかさず話頭を転ずる。「時間をきめてあの本屋で待ち合わせていたようなものだ。」

「本当にねえ。」と、こんどは私の甘い感慨に難なく誘われた。


 まったく呆れながら、わたしは文豪の短編から引いているけれど。そんなことおかまいなしに、文中の作家はいっそう調子にのってみせる。娘と逢う前に観ていた映画の話をしては、


 恋人同士の話題は、やはり映画に限るようだ。いやにぴったりするものだ。


 とひとりごちる。同じ映画を観たと娘から返ってくれば、作品の細部を言葉で描写して、


「逢ったとたんに、二人のあいだに波が、ざあっと来て、またわかれわかれになるね。あそこも、うめえな。あんな事で、また永遠にわかれわかれになるということも、人生には、あるのだからね。」


 などと含みのあることを彼女に言い、


 これくらい甘い事も平気で言えるようでなくっちゃ、若い女のひとの恋人にはなれない。


 と自分で納得してみせる(ばか、か)。挙げ句の果てには、こんなことまで口にする。


「僕があのもう一分まえに本屋から出て、それから、あなたがあの本屋へはいって来たら、僕たちは永遠に、いや少くとも十年間は、逢えなかったのだ。」

 私は今宵の邂逅を出来るだけロオマンチックに煽るように努めた。


 なんだ、これは喜劇じゃないか。



 そうそう、忘れてた。教科書で読んだ『走れメロス』も確かそうだった。太宰治はサービス精神旺盛な、稀代のコメディ作家なのだった。『メリイクリスマス』もおしまいまで読めば、どんでん返しの悲劇な結末が待っているのだけれど、最初は深刻ぶって、途中で笑わせて、事実はもっと酷いと結ぶ。そう結ぶことで、自分をさらにあざ嗤う。自分の愚かさを嗤う、あきらめた醒めた目を、太宰治という作家は持っている。存外、おとなだったのかもしれない。


 秋田富子が彼にとって「唯一のひと」だったのは、間違いないだろう。

 少女から娘へ変身していた聖子さんと再会して、並んで歩きながら彼の見た夢も、きっと本当だろう。

 本当のことを書きながら、欲しがるものは何も手に入らないと、太宰はどこかでわかっている気がする。“物語”をつむぐごとしか、しょせん自分にはできないのだと。

 3回目の『メリイクリスマス』を読んで、わたしは思った。これはシズエ子ちゃんこと、若かりし頃の林聖子さんへの、太宰のせめてもの渾身のラブレターだったのではないか。たった、一度きりの。


出典:『メリイクリスマス』太宰治  http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/295_20170.html

    



インタビュウ9「再会」

 今生日記konjyo nikki  ーインタビュウ9「再会」


「終戦の年に空襲で高円寺のアパートを焼け出されて。それで、お母さまの故郷の津山へ行かれたんですよね」

 こう尋ねると、林聖子さんはおっとりとした口調で言った。

「ええ。昭和20年4月の空襲で焼け出されて、その年の10月まで津山で過ごしました。東京にいた叔父や叔母も向こうへ帰っていましたし、楽しかったですよ。津山は田舎なので、昔ながらの日本の暮らしがあって、とてものどかでした」

 東京とは一転、岡山県の山間にある町で、聖子さん母娘は穏やかな日々を過ごしたようだ。彼女のエッセイからも、その様子が伝わってくる。


 ぶらぶらしているので、松根油にする松の木の根っこ堀りに駆り出されることもあったが、そんなことは少しも苦にならなかった。母と二人、「こんなもので、本当に飛行機が飛ぶのかしら」などといいながら、サボリサボリ作業をすすめた。


 文中の松根油(しょうこんゆ)というのは、もしかして……と調べてみると、果たしてわたしにはなじみのあるものだった。高校に入るまで習っていた油絵の、絵の具を溶くテレピン油。つん、と鼻孔を突く、くせがあるけれど涼しい香り、あれが案外好きだった。

 松の切り株を乾留して採る油状の液体だ。戦時中、ドイツ軍が松の木の油を使って戦闘機を飛ばしているという情報を得て、やはり燃料不足が深刻だった日本軍が、松根油の製造を試みたらしい。ところが聖子さんたちも「こんなもので……」と思ったように、採取に非常な労力がかかるわりに量をかせげず、飛行機の燃料としての実用化には至らかった模様。

 ともかく、松の根っこ堀りに借り出されるぐらいで、疎開地での暮らしは極めて平静であったのだ。



「津山でも、母は太宰さんから手紙をいただいていました。太宰さん、青森に帰っていらしたんですけれど」

 今もその葉書は聖子さんの手もとにある。せいこチャンもお母様もご無事の由、安心いたしました、私のほうは三鷹でやられ、甲府へ疎開したら、こんどは甲府でやかれ、さんざんのめに逢ひ、いまは生れ故郷の家に居候してゐますーー等と書かれた太宰治からの葉書。

 わたしは訊いた。

「そうすると、8月15日の終戦は津山で迎えられたんですね」

 その日を体験したひとには必ず、どんなふうだったかを尋ねるのが、インタビュアである自分の使命だと(勝手に)思っている。相手はたいてい、ちょっと精気を帯びた表情になって、その日のことを話しはじめる。聖子さんもしかり。

「はい、津山でした。もう、何しろね、玉音放送っていうんですか、電波が悪くてあれが津山ではよく聞こえなかった。ラジオも今と違って、性能がよくなかったんじゃないですか、雑音だらけでね、何を言っているのかわからない。わたしなんか意味がわからなくて、『どうしたの?』『どうしたの?』ってまわりに訊いて。『戦争が終わったらしいぞ』って叔父が教えてくれたんです。それで、叔父と叔母と母とわたしの4人で、とっときの小豆と餅米があったので、お赤飯を炊いてお祝いをしたの」

 風景が目に浮かぶよう。山間の薄暗い家のちゃぶ台で、赤黒く光る豆と、湯気を上げるもっちりとした桃色の米。塩をぱらぱらと振ったわずかな塩分だけで、甘みが立ってほっくりとおいしく、食べるとたちまち力が湧いてくる。再び生きられることの喜びを味わう御馳走である。

 当時17歳だった聖子さんの心身を、終戦は一気に開放した。


 ホットすると同時に、すこし拍子抜けしたような気もした。監房に閉じ込められていた死刑因が、突然、「お前は無罪だ。もう出てもいい」といわれたのに似ている。それまでの私たちは、広島、長崎のこともあり、ここでの幸せな暮らしも、いずれは終わりが来る、と暗黙の裡に認めていたのだと思う。

 母の場合、流石に、頭の切り替えが早く、すぐ東京での新しい暮らしのことを考え始めた。



「お母さまはお身体はお強くなかったけれど、気丈な方だな、って思ったんです。すぐに東京へ戻ることを考えてらしたって、エッセイにあったから」

「津山では、母の弟夫婦のところへ居候していたんです。そこには子どもはいなかったんですが、やっぱり自分たちだけで暮らすほうがラクですよね。津山にいたのでは、いつまでたっても生活のメドが立たないし。それに東京の様子を見たかったですから、できるだけ早く帰りたかったのね」

「だけど終戦直後は、東京へ帰ってくるのもひと苦労だった」

「そう。わたしたちは10月中旬に津山を離れたんですが、途中で熱海の知り合いの家に居候させてもらって、東京へ戻ったのは11月も終わりに近い頃でした」

「途中下車して」

 冗談っぽく笑いながら訊くと、

「途中下車して」

 と聖子さんも笑顔で応えて、あとを続けた。

「一ヶ月ぐらい熱海にいたんです。というのはね、あちこちへ疎開していたひとが、一度にワッと東京へ帰ってくると大変なことになるじゃないですか。何せ、まだ焼け野原なわけだし。だから帰るのが規制されていて、東京へ帰る許可証みたいなものが下りるまで、熱海で待っていたわけなんです。熱海では、高円寺時代に母が肖像画を描いた方の娘さんの家にお世話になっていました。とても親切な方たちで、三鷹の住まいを探してくださったのも、この家の方です」

 再びの、東京の住まいは三鷹・下連雀の長屋だった。



「ふるーい、元はどっかの寮だったらしいんですけど、五軒長屋の真ん中に空きがあったのでそこへ入ったんです。6畳と3畳間で、鍵もない家なんですよ。一間(いっけん)の幅の玄関にガラス戸が2枚入っていて、その重なりの木枠のところに桐で穴を開けてね、こんな長い釘を、出かけるときは刺すの。それで帰ってくると、暗闇の中でその釘を抜いて、今度は内側から反対向きに刺す。だから誰でも簡単に入れちゃう。焼け出されていますから、取られるものがなんにもなかったから、そんな鍵でよかったのね。そんなボロ家でも、焼け跡の東京にいち早く住まいを確保できたのだから、わたしたちは幸せでした」

 三鷹に落ち着くと、聖子さんは都心にある知り合いの会社に勤めだした。母は家で本を読んだり、絵を描いたりしていたが、聖子さんの給料で生活をしていたわけではなく、慎ましやかに暮らしていくだけの蓄えがあったようだ。


 下連雀の家に住み始めて、ちょうど一年がたった頃。昭和21年11月の初めの日曜日だった。聖子さんは駅前の三鷹書店へ、有島生馬が父の林倭衛のことを書いているという雑誌「ロゴス」を買おうとして入っていった。戦中に活字に飢えたひとたちで、夕方の書店はごった返していた。「ロゴス」の場所を店員に尋ねるために、一歩前へ出かかったときだ。レジを離れようとしていた男と向き合う形となった。


 私は魔法をかけられたようになった。「太宰さんの小父さん」といいかけて、あわてて「小父さん」の言葉を呑み込んだ。太宰さんには、もう三年余りも会っていない、多分、私のことなどもう覚えておられないだろう。「小父さん」などという親し気な呼び方は、今の私にはもう許されない。ふとそう感じたのである。


 終戦をはさんで、少女から大人の女になっていたひとの逡巡。


 しかし、太宰さんは、やはり昔のままの太宰さんだった。「聖子ちゃん?」「やはり聖子ちゃんかあー」といいながら、近寄って来られた太宰さんは、温かい手をソッと私の肩に置いて、「無事だったのか、よかった、よかった」というように私の顔をのぞき込んだ。


 約3年ぶりの再会だった。ひととひとは、出会うように仕組まれている。また逢いたい、と念じていなくても。いつか逢える、と信じていなくても。会うものは会うように、できている。そして、会えた奇跡を、歌うたいは詩で讃える。絵描きは線で喜ぶ。物書きは文章で祝福する。


 出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録) 林聖子著・星雲社









遅延のおしらせ

 今生日記konjyo nikki ー遅延のおしらせ


・インタビュウ9は明日の夕方の更新になります。すみません。


・さいきん、夜空が澄みきっていて、月や星がとてもきれいですね。地上の人間社会がおぞましい景色になったとき、ふと見上げるとうつくしい世界があるのは、ほんと幸福なことだ、と思います。


・ひとのちからの及ばないところーーたとえば山奥とかに行くほどに、みごとに紅葉した美しい木があったりする。ひとのちから(や想像力)の及ばないところに美しいものがたくさんあるなんて、だからこの世界はすばらしいのだ。という話を少し前に仕事の場でしました。


・一方、うまくいっているとき、バンドにはメンバー以外に「バンドさん」がいるんだ、というのは少し前に親しいひとから聞いた言葉。ひとのちから(や想像力)を超える、ひとのちから(や想像力)なんじゃないかと思う、「バンドさん」は。そういうちから(や想像力)の働きがあるのも、この世界のすてきなところです。


・そんな話ばっか、していたいけれど。この世界のすばらしいところやすてきなところの、そんな話ばっか、していたいけれど。そんな話ばっか、では生きていけない。でも、「そんな話」の割合を自分の中で多くしていけばいいのではなかろうか、って思っている。きもちのスーッとしたり、ふわっとしたりすることの比重を多くしていこう、と。それしか、これからの人生を気分よく過ごす術はない気がしています。


・できるかな、でもやるんだよ。


・というわけで、インタビュウ9は明日の更新になります。すみません。


インタビュウ8「欠落」

 今生日記konjyo nikki  ーインタビュウ8「欠落」


 ペンを置いてからもしばらく、料理をしながら、お風呂に入りながら、ちらちらと「書いたこと」について考え続けている。わたしの日常はいつもそんなふう。そして、だいぶたってから気がつく。〈ああ、そうじゃなかった、自分と真逆なひとだから、秋田富子や林聖子さんに惹かれたのではなかった、聖子さんにインタビュウをした当初は違ったのだ。〉


 新宿・花園神社近くのビルの地階にあるバー風紋で、林聖子さんにインタビュウをさせてもらったのは約2年前。以来、聖子さんの母である秋田富子という女のひとが、自分の中に住み着いてしまった。わたしの心の中のアパートに間借りして、ひっそり暮らしているようだった。畳にぺたんと足の裏をつけて、木枠の窓から顔を出し、ときおりこちらをぼんやり眺めている富子さんの姿を思い描くこともできた。

 彼女はなぜ、わたしの中に居着いてしまったのか。

 わたしが招いたのだ。“真逆なひと”に憧れたからではない。強い共感があったから。もちろん勝手な共感ではあるけれど、〈そうよ、想い続ける人生だっていいんだ。想うだけで、何も手に入れずに、ひとりで生きる人生だってアリなんだ〉と約2年前のわたしはそう思ったのだ。



 なんだろう。なにもかもを欲しがることはどうなんだろう、って考えていた。20代からずっと女性誌の仕事をしてきて。わたしの20代は80年代だから、80年代、90年代の日本の女の意識みたいなものを背負って、仕事をしてきた感があったから。

 服も靴も本もレコードも、すてきなものをたくさん持っている。お得な情報も、ディープな情報もいちはやくキャッチする。そこそこの学歴がある。英語を喋れる。自己表現のできる、やりがいのある仕事に就いている。すてきな恋人がいる。男友だちも多い。申し分のない夫と家庭を築いている。子どもがいる。子どもをいい学校に入れている。持ち家がある。衣食住のセンスがいい。世界各国の美味を知っている。海外旅行に慣れている。いつも見ている夢がある。いくつになっても若くてきれいな自分でいるーー。

 こんなこと、今はもう、おとぎ話だし、若い女の子たちには鼻で笑われてしまいそうだけれど。つい先日までは「そのどれもを持っている」ことが最上で、すてきであるとされていた。資本主義経済とねんごろな女性誌的な価値観では。その価値観の片棒を担ぎながらも、わたしは、わたしたちは欲しがりすぎると感じていた。現実には自分がまるで“持てていない”から、なおさらだった。


 

 それに、林聖子さんにインタビュウをしたときのわたしには欠落感があった。

 学歴もなく、英語も喋れず、持ち家もなく、家庭も持たずに生きてきたことに加えて、“欠けているもの”があると考えていた。それは恋心。憧れこそすれ、ひとを希求する心をわたしは失っていた。告白すれば驚かれるほど長い間、恋をしていなかった。男のひとを、まるで好きにならないのだ。男のひとから、好きになってもらうこともなかった。

 世の中には恋愛をたくさんすることで、人生や人間が豊かになるという考え方がある。常に恋人がいたり、理解ある夫がいたりするほうが女は幸せ、という通念がある。一理ある、かもしれないし、あるいはそれは真理なのかもしれないけれど、わたしは反発したかった。だって、しかたがないじゃない、好きにならないんだもの。50にもなることだし、もう一生このままかもしれない(人間的ふくらみを持てないままに?)。でも、それでいいじゃない、そういう人間だっているんだよ、しかたがないじゃない、そう思っていた。

 だから太宰治のような男の話し相手をしながら、別れた夫を想い続けて、静かな呼吸を繰り返して生きている、秋田富子にとても惹かれた。自分の仕事の場である女性誌でもてはやされる「恋多き女」の対極にある、「恋少なき女」。そういうひともいるんだよ、そういうひともいていいんだよ。秋田富子さんと、時代を超えて、わたしは友だちになりたかった。その母や父と距離を置きながらも、心の中で彼らへ愛あるまなざしを向けている、聖子さんの涼しいたたずまいにも憧れた。


 ひととべったり寄り添うことをしなくてもいいではないか。孤独を伴う覚悟さえあれば、ひとりで生きていたっていいではないかーー。それぞれに孤独をにじませている母娘に、だから、わたしは強く惹かれたのだった(その後好きなひとができて、このことを忘れていたのだから、げんきんなものだけれど)。



 話を戦前の高円寺に戻そう。秋田富子がひとりで暮らすアパートへは、聖子さんいわく「母とどこか孤独が響きあった」太宰治だけでなく、ダダイストの辻潤もよくやってきた。秋田富子は知的好奇心を持っている上に、「さっぱりとした人で聞き上手」で、女ならではのクッションみたいな包容力を備えていたから、デリケートでいずれ癖のある文筆家業の男たちにとって、気安い話し相手だったに違いない。


 あるとき、いつものように立て膝の辻さんが母と話しているところに父がドアを開けた。お金でも届けに来たのだろう。チラリと部屋の中をのぞいた父は、荒々しくドアを閉めると、足早に帰って行った。「馬鹿ねえ、何を考えているのかしら」とつぶやきながら母は、すぐ私に後を追わせた。戻った父は、何事もなかったように母や辻さんと話を始めた。


 聖子さんのエッセイの中にある、何かくすぐったいようなエピソード。慌ててドアを閉めた林倭衛のことがちょっとうれしくもあり、猪みたいな体躯を翻して去っていく彼を、富子さんは愛しいと感じたはずだ。


 私の家が、世間一般の家庭とはまるで違った家であることを、ハッキリ自覚するようになったのは、やはりこのころからであったと思う。父も時折高円寺のアパートを訪ねていたが、母も私を送りがてら浦和の家を訪れ、食事などをしていた。先妻と後妻が、父をはさんで食事を共にする姿など、普通の家庭ではとても見ることができないだろう。


 男友だちや別れた夫が、ときおり訪ねてくる母のアパート。なじみの通い主であった太宰治は、母と離れて暮らす聖子さんを不憫に思ったのか、聖子さんが浦和に帰る際に高円寺駅前の本屋へつかつかと入っていき、彼女のための二冊を買って出てきたことがあるという。

「それがね、『母を尋ねて三千里』と漫画の『フクちゃん』。その頃のわたしはフランス文学を、『クレーヴの奥方』なんかを読んでいましたから、子ども扱いされて不満でした」

 ともあれ、彼女たちが高円寺で過ごした昭和15年から、16年、17年、18年、19年あたりまでは、さびしくも楽しい不思議な暮らしが続いたのだった。戦争がいよいよ激しくなるまでは。



 戦争ーー。

「私はおおむね浦和にいたので、空襲じたいはそれほど怖いおもいはしていないんです。ただ、高円寺の母のアパートに泊まったときにね、夜に空襲があると、まわりの人はみんな、防空壕に入ったんですよ。だけどうちの母は『どうせ死ぬなら、防空壕みたいなところに埋まって死ぬのは嫌じゃない?』と言って。私も同じ気持ちだったから、ふたりとも部屋の中にいて、窓を開けて寝てました。すると、空が紅くなっているんですよ。そこをB29が通ると、こう、影になって。それをずっと眺めていました。母と並んで寝ながら。怖いとか、全然思わなかったです」

 聖子さんがこう言ったので、わたしはオウム返しに聞いた。

「怖いと思わなかった?」

「ええ。女学生だったあの頃は、もう、いつ死ぬかわからない、とかね、そんなふうに思っていて。死ぬっていうことが、だからそんなに……細かく考えていないんですよね。具体的にはなんにも考えていないんだけど、とにかく怖くはなかったんです」

 死と生の境界線がぷつぷつと破れていて、空気がしゅうしゅう漏れている。戦時下における人間は、そんな頼りなげな存在なのかもしれない。生きようとする力が弱まる。影法師が薄くなる。

 昭和20年1月、いよいよ戦局が危うくなる頃に、大酒による肝硬変腫瘍が自潰して、林倭衛が49歳で死去。聖子さんは17歳だった。父の七七忌と女学校の卒業式をすませると、彼女は浦和を去って、高円寺の母の許に移った。

 4月中旬、聖子さんが住民表移動の手続きのために浦和の家に帰っている間に、高円寺のアパートは空襲ですっかり焼け落ちた。母の富子さんは氷川神社に避難していて無事だった。それで母娘は、母の実家のある岡山県津山に疎開することにした。一方、三鷹に住んでいた太宰治は、郷里の青森県金木町に疎開した。


出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録) 林聖子著・星雲社


 




インタビュウ7「太宰」

 今生日記konjyo nikki  ーインタビュウ7「太宰」


「高円寺時代に母が、『今日は曇っていて雨が降りそうだから、太宰さん、見えるかもしれないわね』ってよく言っていたのが、印象に残っているんですよ。それで大抵、そういう日に太宰さんはお出かけになった」

 早い夕刻。ほんのわずかなあかりだけを灯した開店前のバー風紋は、古いビルの地階ということもあって、水底のように黒かった。その中で、やはり黒い色のワンピースを着て座っている林聖子さんは、陽のにおいが充満する草むらなんかは歩いたことがなくて、しめやかな闇の中でずっと暮らしてきたひとの印象がある。

 いまにも雨つぶが落ちてきそうな曇天の日に、高円寺にひとりで暮らす母のアパートを太宰治は訪ねて来たという。ふらりとやってきて、6畳のひと間に膝を抱えて座り込み、秋田富子が出す簡単なものをつまみながら酒を呑んで話をした。そうした姿を少女の林聖子さんは、たびたび目にしている。


 家の中で話をしているときは、両方の膝を立てて、両手を抱えるようにして話をされる。だんだん話が佳境に入ってくると、腰を軸にして身体を回し、壁の方を向くようにして話をされていた姿が目に浮かぶ。内容はよくわからなかったが、母との話は文学論が多かったようだ。議論というより、太宰さんの話をただ黙って聞いて上げていたのが、本当だったのだろう。


 共に明治42年生まれだから、太宰治も秋田富子も当時31〜32歳。ご存じのように恋愛にだらしがない男で、家庭があっても、そとで係わる女との間に子どもも作れば、心中未遂もする。そんな太宰がひとり暮らしの女のアパートを訪ねて、彼女とは文学の話をするだけの清潔な関係を続けていた。そのことは、林聖子さんにインタビュウをする際にあたった資料で知って、(太宰をよく知らない)わたしにも新鮮な驚きだった。


 そんな清らかな女が、太宰治にいたということが。

 そんな毅然とした女で、太宰治みたいな男を相手にいられたことに。



 からだも、こころも、弱まっていて、ましてや孤独ならば。たとえ頼りがいのない細い木でも、つい、もたれかかりたくなるのが人間というものではないか。

 会いにくるのは、求めているからだろうし。曇天におしつぶされそうな日に、「今日あたりみえるかもしれないわね」と予言するのは、心のどこかで待っているからだろうし。

 でも、ふたりはからだを触れることはしなかった。

 太宰治を可愛いと、秋田富子は思わなかったのだな、とわたしは想ってみる。可愛い、とチラとでも思えば触りたくなるし、いずれちょっとした機会があれば触ってしまうから。だから太宰治はきっと、秋田富子にとって可愛い男ではなかったのだ(余談だけど“可愛い”って“愛が可”なのですね)。

 一番気になるところを、林聖子さんはエッセイにこんなふうに書いている。


 それにしても、あのころの太宰さんは、なぜ、あのように頻繁に、母の許を訪ねてきていたのであろうか。子どものころのことで私にはよくわからないが、もちろん色恋であったはずはない。あれほどひどい仕打ちをされながら、母は最後まで父を愛していたし、とても色恋などできる人ではなかった。ただ無類の淋しがりやで、父が写生旅行に出掛けたときなど、ほとんど毎日のように手紙を書いていた人なので、あのころの母にとって太宰さんの訪れが、大きな心の支えになっていたことは確かだと思う。


 裏切られて別れた夫を、秋田富子はずっと愛していたという。だけど、それはもう、報われない愛なのだ。報われない愛をずっと抱えて暮らす日々の孤独は、いったいどれほどのものだろう。


 太宰さんもまた、そんな母に対して、旧家のはぐれ者同士といった共感があり、なにか鬱屈したときなど、母の許をたずねて、ただボンヤリしていることで、心の傷をいやしていたのかもしれない。


 こう記したあとで、聖子さんはエッセイの文中に太宰の『津軽』を引用する。そして、太宰が故郷で育ての母を訪ねて、“不思議な安堵感”を覚えたと書くことから、彼女は考える。


 このように太宰さんの気持ちの中には、女の中にある母性(無償の愛)というものに対する押え難いあこがれが潜んでいたように思う。ひょっとすると、当時の母の中に、そうしたものを見たのかもしれない。


 報われない愛を抱えて生きている女と、無償の愛にあこがれる男。

 女がひとりぼっちでも、男が多くの異性と深い仲にあっても、孤独の大きさ深さには変わりがない。今更ながら、そんなことを思って。では、ひとの手に入るものって、いったい何なのだろう、手に入れたものが確かに存在するって、どうして思えるのだろう、とまわりくどいことを考えて。いやいや、そんなことはどうでもいいのだと、頭を振って中身をからっぽにする。考えることと生きることは、違うレールの上にあるとわたしは思っている。


 孤独でいても、秋田富子には太宰治という男ともだちがいた。

 太宰治には秋田富子という、「唯一のひと」がいた。

 その事実に、なぜだか強く長く惹かれるわたしがいる。

 それは秋田富子のようなひとに対するあこがれが、自分の中にあるせいだ。

 孤独は、そんなものではすくわれないと知るひと。知って、耐えるひと。がまんができるひと。手をのばさずに、そこにあるものを“見つめるだけの人”。

 そう。書いていてようやくわかったけれど、秋田富子というひとは、堪え性のかけらもない自分と真逆なひと。その慎み深さに、人間の美しさに、わたしはずっとあこがれている。自分が持ち得ないものだから、興味深く、彼女のことをのぞきこんでいる。


出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録) 林聖子著・星雲社







自分ナゾ……

 今生日記konjyo nikki  ー自分ナゾ……


ことばをつなぐのが たまらなくいやになる

ことばをさわるのが たまらなくいやになる

らららららら らら

ららららららら           『あんなに好きだったこと』山本精一


というわけで、今週は「インタビュウ」シリーズはお休み。

最近のことを少しだけ書きます。




おとつい、納戸の上のほうにのせている紙製の大箱を「これ、なんだっけ?」と開けてみると、中身は大小さまざまなアルバムだった。過去を振り返ることがあまり好きではないので、アルバムなんて滅多なことでは見ないが、おとついはなんとなく開いてみた。稼いでいた頃に泊まった伊豆の高級旅館のバリ風のロビーや、温泉の中で両腕を広げてポーズをとっているまだ若い母。ベトナムを最初に旅したときのハノイの朝もやの風景。ベトナムの魅力に取り憑かれて、山岳少数民族の村など、約一ヶ月間かけてあちこちさまよっていたときの大量の写真。何回となく訪れている中国は……あれはいったい何十年前になるのだろうか……石川夫妻はもとより、特殊音楽家のとうじ魔とうじなんかも一緒に大勢で、神戸から出航する鑑真号という船で上海まで二泊三日かけていったことがあって、そんな写真もアルバムに収められていた。さらに時代をさかのぼると、“東京川クルージング”と称した、東京の川を船で下る催しに参加したときの写真も残っていた。その船の上でたまが演奏をして、それがわたしやあるが彼らと知り合うきっかけだった。恋人がわたしを撮ったポートレートもあった。20歳ぐらいのときにバイトしていた東中野の喫茶店『山猫軒』の前に立つエプロン姿のわたしの姿もいた。


アルバムをめくりながら、なつかしさではなく、妙な感覚に襲われた。いろいろな過去の時間の、いろいろな場所にいる自分の姿を見て、「ああ、こんな女のひとが生きていたんだなぁ」と思うのだ。自分の若い頃ーーというよりも、なにか自分ではないみたいで。知っているようで知らないひとの、生きていたときの姿を見ている、そんな感覚。たぶん今もそうなのだろう。昨日の自分も、おとついの自分も、一週間後、一ヶ月後の自分も、今日のお昼にハムエッグを食べていた自分も、すでに自分ではなくなっている。過去だけでなく、きっと未来も。これから、わたしの身に起こることやわたしの吸う息も、わたしのものではないような気がしている(自分ナゾ、ドウデモイイノダ)。



話は変わるが、今年になって、本当に久しぶりに好きなひとができた。そうしてみると、おもしろいことが起きる。いつか小説の中にでもこっそり紛らせてみようと思っていたのだけれど、いつか、なんて、いつ来るかわからない。だからいいや、ここに書いてしまおう。



あるとき、仕事部屋に面したベランダの端っこに、一羽の鳩が止まって、どういうわけか2、3日ずっと同じ場所にいた。仕事机に向かっているわたしの斜め後、窓の外のベランダの端っこに鳩の存在がずっとある。わたしのそばにいるのだ。で、なんとなく思った、「あ、これは彼だな」。好きなひとがわたしのそばに来ている、と感じた。またあるときは掃除をしていて。わたしは掃除機の長い柄の部分を取ってしまって、ホースを短くして、まるで雑巾がけのように床をはいずりまわりながら掃除機をかけるのだが(ゴミがよく見えるように)、そうして掃除機をかけていると、小さな透明な蜘蛛が床の上にいて、普通は逃げるはずなのに、せっせ、せっせとわたしのほうへ向かってくる。「あ、これは彼だな」って、そのときも思った。好きなひとがわたしのそばに来てくれている。



なんとなく自分のそばにいて、その存在が気になる「生きもの」を、「彼」の化身であると瞬時に感じる。だから、面白いなと思う。恋をしたことで初めて気づいたのだけれど、つまり、わたしはいつしか、人間をそんなものとして捉えるようになっているらしい。たましいは、ときに乗り換え可能なもので。たましいは、それじたいが何らかの意思を持つものではない。たましいは、生きている、というただそれだけの温かい炎。生きものの芯にあるのがたましいで、わたしにとって愛おしいのは、好きなひとのくれる鋭い考察や、甘い言葉や、やさしい眼ざしよりも、彼のたましいなのだ。それが一番大事なもの。この地上に好きなひとのたましいがあることで、わたしは日々、幸せを感じている。


彼に限ったことではなく、自分のまわりにたましいがあるのは幸せなことです。そして、ひとが死んでたましいが消えても、たましいの代わりに残るものはたくさんある気がしている。死んだひとの一部分が、だれかのたましいの中に細かくなって入り込んだりしていると思う。だから、だれかが死んでも、だれかが生きていれば、それでいいのだ(自分ナゾ、ドウデモイイノダ)。




今井次郎さんという希有な音楽家が亡くなった、と知ったのは昨日。きいちがいの浮浪者のおじさんにしか見えなかった今井次郎さんは、石川浩司と『DEBUDEBU』というユニットを組んでいた。http://acocoro.nihirugyubook.but.jp/?eid=117


円盤でのライヴ(なのかな、あれは)が終わったあとで、今井次郎さんは自作のいろんな作品というか気持ちの悪いガラクタ(演奏中に使用する)を大きな風呂敷に包みながら、古い歌謡曲をずっと口ずさんでいた、そのことを夕べは思い出していた。打ち上げのテーブルの端っこで、円盤店主の田口さんや、その日の『DEBUDEBU』のゲストだった日比谷カタンさんを相手に、(確か)戦前の日本のジャズについて熱っぽく話していた姿も思い出した。きいちがいの浮浪者のおじさんにしか見えなかった今井次郎さんだけれど、本当に音楽が好きで、音楽に対して真摯なひとだったのだ、と。今井次郎さんの口ずさんでいた古い歌謡曲のメロディが、夕べはわたしの耳元で鳴っている気がして、そこに彼のたましいの粒子がまぎれているのを感じていた。


死んでいくたましいは、自分の粒子を受け取る生きたたましいがあれば、それでよいのだと思う。だから悼まなくても。自分ナゾ、ドウデモイイノダ。自分であるような・ないようなわたしたちが、それぞれ、たましいを大事に抱えて生きていれば、それでよい気がしています。






インタビュウ6「水仙」

 今生日記konjyo nikki  ーインタビュウ6「水仙」


 その後の秋田富子について、書こうとして。林聖子さんをインタビュウしたときにつくった、林さん一家の年譜(取材用メモ)を眺めると、一年ごとに様相を変える彼らの暮らしぶりにあらためて驚かされる。

 昔の日本人は確かに早死にだったけれど、一年の密度が現代人よりもグッと濃くて、トータルで見ると、わたしたちよりも充実した一生だったのではないか。出会ったり、むすばれたり、別れたり、別れられなかったり、生まれたり、死んだり。男女関係や家族だけでなく、友人関係とか遠い親戚とか、とにかく人間どうしの係わり合いが忙しかったから、日常がわさわさとして、起伏に富んでいたような。

 中でも、聖子さんの周辺は次々に変化していって、なのに賑やかさや楽しさの色めき立ちは感じられない。流転の日々を、少女の聖子さんはひとりで淡々と受け止めて過ごしてきたふうに見える。

 わたしのつくった年譜には、こんな記述が連なる。


 昭和13年、帝展初日。林倭衛が、秋田富子の着物を着た高橋操を連れて現れる。伯母がすぐに、妹の着物だと気づく。→両親の関係に亀裂。


 昭和13年秋、鵜原へ。そこには母の代わりに身重の操さんの姿があった。翌年2月、異母妹の葉子誕生。

 

 昭和14年〜15年、祖父母が聖子さんと母を引き取ってくれた。林倭衛と別れたあとも、祖父母は何かと母のことを気に掛けていた。母娘が一つ屋根の下の、ひとときの楽しい暮らし。


 昭和15年夏、母が高円寺にアパートを借り、ひとり暮らしを始める。母はいっとき、新宿・武蔵野館近くのカフェ『タイガー』に勤めた。文学好きゆえに、客として来ていた室生犀星、萩原朔太郎、太宰治、亀井勝一郎らと懇意になる。


 昭和16年、父、操、聖子さん、葉子、お手伝いさんの5人で、浦和市郊外に祖父母が建てた家に移る。聖子さん、浦和の私立女学校へ通い、土日ごとに高円寺の母のところへ通う。



 インタビュウのときには、ノートの下に忍ばせている年譜をちらりと見ながら、確認するようにわたしは訊いた。

「お母様は、高円寺にいらしたんですね」

「ええ。6畳ひと間のアパートでした」

 共同の入り口を入り、階段を上がって二階のすぐ左手。戸を開けると半畳ほどの玄関があって、その奧の6畳ひと間が秋田富子のすみかだった。部屋の片隅に、十円玉を入れると火が点くガス台を備えた、小さな流しがあったそうだ。

「カフェで働いたりもして。その頃、お母様のからだは比較的よかったんでしょうか」

 聖子さんが答える。

「そうだったようですね。でも完治はしていなかったんです。高円寺時代もカリエスで、胸の骨をね、何カ所かとっているんです。どうも、わたしを産んでから、からだの具合いが悪くなったみたいで。体調のいいときは『タイガー』に勤めていましたが、それも長い期間ではなかったの。そのあとは、何もしていなかったと思います。高円寺のアパートで絵を描いたりして、静かに暮らしていたんです。戦争で焼け出されるまで」

「そのアパートの部屋に、太宰治が遊びに来ていた」

「ええ。太宰さんは『タイガー』にお客としてみえていて。三鷹に住んでいらしたから、高円寺は近いでしょ。それでたまに母のところに寄ってくださったんです。わたしもたびたび、太宰さんにお目にかかりました」

 聖子さんが、遠くを見つめるような眼になって話す。

「土日ごとにわたし、浦和から赤羽まで行って、池袋へ出て、新宿、高円寺……と呑気に通っていたんですよね、母のところへ。太宰さんに初めてお目にかかったのは、昭和16年の夏でした。母にお遣いを頼まれて外に出たら、大踏切のところで、白いシャツに黒っぽいズボンをはいて、下駄履きでね、つんのめるように歩いてくる男のひとが向こうから。あ、太宰さん、とわたしはすぐにわかったの。母が描いた太宰さんの顔のスケッチを見ていましたから。それでお遣いから帰ると、さっきの男のひとが母の部屋の前でしゃがみこんでいた。履いていた下駄の前歯がとれちゃったのを打っていたんです」

「それから、アパートでよく遭遇するようになったんですね」

 また確認を取るように言ってから、わたしは続けた。

「太宰治の『水仙』は昭和17年に発表されていますけど、あの作品は、お母様が太宰さんに送った手紙がヒントになっているんですよね? 敬愛していた萩原朔太郎の死を嘆く、お母様の手紙が使われた……。作家にそこまでさせるって、やっぱり秋田富子さんは太宰さんにとって特別な、すごく大事な存在だったんじゃないかと思う」

「そうでしょうか。なんか、うちの母はすごい嫌がっていました」

「『水仙』という作品を?」

「ええ」



 確かに『水仙』は、読後にもやもやとしたものが残る短編だ。

 主人公は金のない小説家。彼と付き合いのある財産家夫婦に起きた出来事を、主人公がひとり語りするスタイルで物語は進む。財産家夫婦の夫人の実家が破産した。それを非常な恥辱と考えた夫人は、もとは「無智なくらい明るくよく笑う」ひとだったのに、妙に冷たく取りすました女に変身してしまった。育ちがよく温厚な夫は彼女を慰めるために、洋画を習うことをすすめる。夫人が絵を始めると、夫はもとより、師である老耄の画伯や同じアトリエへ通う若い研究生などが褒めちぎるものだから、夫人は夫人であることに飽きたらず、「あたしは天才だ」と言って大金を持って家出をしてしまう。困り果てた夫が「こちらに来ていませんか」と訪ねてきたことから、主人公の小説家は事の次第を知る。「とにかく、僕がわるいんです。おだて過ぎたのです。薬がききすぎました」と話す夫を小説家は心の中で嘲笑し、“お金持ちの家庭にありがちな、ばかばかしい喜劇だ”と考えた。

 その後、夫人がふいに小説家のところへやって来る。「奥さん、もの笑いの種ですよ」「二十世紀には、芸術家も天才もないんです」と諭すと、「あなたは俗物ね」と夫人に返されたことから、(生まれ育ちや経済上のことで、実は劣等感を持っている)小説家の心情が露呈する部分が面白い。


 僕に対して、こんな失敬なことを言うお客には帰ってもらうことにしている。僕には、信じている一言があるのだ。誰かれに、わかってもらわなくてもいいのだ。いやなら来るな。

「あなたは、何しに来たのですか。お帰りになったらどうですか。」

「帰ります。」少し笑って、「画を、お見せしましょうか。」

「たくさんです。たいていわかっています。」

「そう。」僕の顔を、それこそ穴のあくほど見つめた。「さようなら。」

 帰ってしまった。

 なんという事だ。あのひとは、たしか僕と同じとしの筈だ。十二、三歳の子供さえあるのだ。人におだてられて発狂した。おだてる人も、おだてる人だ。不愉快な事件である。僕は、この事件に対して、恐怖さえ感じた。


 と書き写すうちにもわくわくしてくる、太宰の文章のリズムの良さは、やはり凄いものだなぁ、と余計な感想をはさみつつ。引き続き、『水仙』のあらすじを。



 自分の絵がまずかったことに気づいた夫人は、酒に溺れる日々の中で、小説家に長い手紙を送ってくる。「いままでかいた絵は、みんな破って捨てました」「私の絵は、とても下手だったのです。あなただけが、本当の事をおっしゃいました」「私は、出来る事なら、あなたのような、まずしくとも気楽な、芸術家の生活をしたかった」と。さらには、かつて小説家を訪ねたのは、ちょっとましな画がかけたと思ったので見せたかった、見て褒めてもらって、小説家の家の近くに間借りして、まずしい芸術家どうしの友だちになってもらいたかった、という真意もそこには書き添えられていた。

 封書にあった番地を小説家が訪ねると、6畳ひと間の何も無いアパートに、あやしい安酒のせいで耳が聞こえなくなり、瞳に生きる輝きの消えた夫人が淋しく笑ってそこにいた。彼女と筆談するうちに、「もしや」と小説家は思う。そして老耄の画伯のアトリエに行き、そこにわずかに残っていた夫人のデッサンを目にするや、小説家は自分の勘が正しかったことを知り、その水仙の絵を画伯の前で破ってしまう。


 水仙の絵は、断じて、つまらない絵ではなかった。美事だった。なぜそれを僕が引き裂いたのか。それは読者の推量にまかせる。静子夫人は、草田氏の手許に引きとられ、そのとしの暮に自殺した。僕の不安は増大する一方だ。

 

 太宰治流『藪の中』といったところだろうか。何が真理なのか、ひとの価値観や審美眼とは何なのか。うらやむものと、うらやまれるものとの違いは何なのかーー。この地上にはすべて真理がないものと感じさせ、読み手まで主人公同様に不安な気持ちにさせてしまう。太宰の筆力に、わたしは『水仙』を読んで圧倒される思いだったけれど。



 この作品に、実生活で係わりのある人物にとっては、複雑、いや不快な読後感が残るだろう。聖子さんはエッセイに綴っている。


 母をモデルにしたというより、母の手紙にヒントを得たと思われる太宰さんの「水仙」には、

 ーー耳が聞こえなくなりました。悪いお酒をたくさん飲んで、中耳炎を起こしたのです。

 という部分があるが、これはいかにも太宰さんらしい脚色で、悪いお酒を飲んだためではない。萩原先生の死を悼む悲しみの涙が耳に入り、それが中耳炎となって、母の鼓膜を損傷したというのが真相。


 なお、母は手紙を無断でつかわれたことと、「水仙」の主人公のあつかいを好まなかった。

「……雨の音も、風の音も、私にはなんにも聞こえませぬ。サイレントの映画のやうで、おそろしいくらゐ、淋しい夕暮です。この手紙にはお返事は要りませんのですよ。私のことは、どうか気になさらないで下さい。淋しさのあまり、ちょっと書いてみたいのです」

 という心の奥底を世間に晒されたことと、次のような部分がこたえたのではないかと思う。(『風紋五十年』収録・林聖子エッセイ「いとぐるま」より)


 聖子さんが「次のような部分」として挙げるのは、主人公の小説家が夫人のアパートを訪れて目の当たりにした、夫人の描写。「けれども、なんだか気味がわるい。眼に、ちからが無い。生きてゐる人の眼ではなかった。瞳が灰色に濁つてゐる」などという箇所だ。


 この件について、わたしには何も言う資格はない。ひとからもらった手紙や、ひとからもらった情報や、そのひと自信のマイナスなことを、なんのことわりもなく文章に組み込んだり、脚色したりして、公然のものとすることを自分もやってしまうから。酷いことだと思うし、そんな自分を庇護するつもりはないけれど、太宰のしたことを責める気にも正直なれない。そういう体質なのだから、しかたがないと思うだけ。嫌われても、縁を切られても、しかたがない。やめられないのだから、わたしたちはそれを。

 誰かを傷つける罪とひきかえに、“ほかの誰か”を楽しませることを物書きはする。でもそれだって本当のところは、“ほかの誰か”を楽しませたいわけではなくて、自分が楽しいから、それをするのだと思う。たとえひとをひどく傷つけても、書くことが楽しいから、自分の喜びだから、それをしてしまうのだ。

 自分勝手で性悪で薄情な人間である点で、太宰もわたしも同じ。文豪と自分を一緒にする大胆不敵を許してもらえるのなら、わたしたちは同じ穴のむじな。

 だとしたら、せめて自分だけでなく、“ほかの誰か”も楽しめる文章を書かなければ。わたしはともかく、太宰治は確かにそれをした。“ほかの誰か”を楽しませることもさんざんしたし、彼はその上、ひどく傷つけたひとたちを、逆にものすごく喜ばせることも文章でやっている。存外、やさしいひとだったのかもしれない。薄情である一方で。


出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録)林

子著・星雲社 『水仙』太宰治  参考文献:東京

人2008年12.10臨時増刊号 林聖子インタビュー

/文・森まゆみ「太宰さんは明るい方でした」




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白江亜古
しらえあこ
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