すきまの1

 今生日記konjyo nikki  ーすきまの1

鳥渡(と書いてチョット、と当て字で読ませるらしいですよ)前のことだけれど。

「ことしは風呂敷がクルね!」と宣言したのです。

西荻と吉祥寺の間の吉祥寺寄りにある、

日本モノの古雑貨屋クイーンズホテルアンティークスの2階にて。




折しもそこでは『風呂敷の部屋』なるフェアが開かれていて。

http://blackscreen.weblogs.jp/queens/2012/01/風呂敷をたくさん集めました.html

ディスプレイされていた風呂敷の使用例や、

商品である風呂敷の柄行きの楽しさもさることながら

わたしはクイーンズホテルアンティークス店主のりみちゃんが見せてくれた

風呂敷の本(図書館で借りた二冊)の中の写真に魅せられた。

昭和20年〜30年代の老若男女が自由闊達に風呂敷を使いこなしている、

そのあまりのかっこよさに大いにシゲキされた。




それで「ことしは風呂敷がクルね!」と思わず言ったものの、内心思っていた。

“でも、こけしブームみたいになるのはイヤだな”と。

伝統こけしの学術的熱烈ファンは愛すべき存在だが、

雑貨テイストでこけしを愛でる昨今のブームはどうも……。




いや、しかし、風呂敷はキット大丈夫だ。とそう思ったのは、

某月某日、高円寺の円盤にてのDEBUDEBUのライヴのとき。

決して広くはない円盤店内にて

風呂敷をデイリーに愛用している方をふたりお見かけした。

ひとりは某モガ女史。ボルドーと赤の中間ほどの色合いの絹の風呂敷は、

コロンと丸い形に結ばれると、まるでベルベットのバッグのよう。




もうおひとりは、DEBUDEBUの「年とったデブのほう」(←石川浩司による呼称)の

メンバーであられる方。どこぞの漁業組合のロゴ入りの、淡いブルーの大判風呂敷で

楽器(というかアートオブジェというかゴミというか)を包んでいらした。

彼らを見て確信した、「やっぱり、ことしは風呂敷がクルね!」。

“すきま”なひとたちの間でのブームかもしれないけど。




さてさて、“すきま”とは何ぞ。

ここのところずっと考えているテーマです。

まあ、発端は3.11の引き起こした原発の爆発事故のこと。

あれのせいで福島・宮城・岩手・山形・茨城、群馬・栃木・千葉・埼玉・東京・神奈川、

日本の本州の半分ぐらいの土壌や空気や水がすっかり汚染されてしまった。

わたしはあれから趣味のウォーキングもやってない。

憩いの地である善福寺公園の枯れ葉は大丈夫なのか。

それより有酸素運動で積極的に取り入れる空気は大丈夫なのか。そんなこと、

真剣に考えてるわけじゃないんだけど、どうもね、その気になれないのだ。




食品の安全性に関してもはなはだ疑問でありますし。

それでまた大きな地震が来たら、東京じゃ逃げるとこもないし。

福島あたりが大きく揺れたら、またさらにトンデモナイ事態になるわけだし。

逃げたほうがいいよね。頭の働くひとはそりゃ逃げるさ。そーゆう事態だよ。

いわゆる有事だよ。逃げるよ普通は。

でも何処へ?

ということを悶々悶々悶々悶々と考えて、行き当たったのが

“すきま”というテーマ。




DEBUDEBUのこの間のライヴは月曜の夜だった。

友人知人や知らないひとが結構たくさん集った。

ちなみにDEBUDEBUは円盤店主の田口さんに「でたらめやってください」と言われて

結成されたようなバンド。50歳と60代のおデブな男性おふたりが、

がらくたみたいなアートオブジェやマジながらくたや楽器や豊満なからだや

狂ったソウルの持てる限りを使って、即興の演奏(と言っていいのか)を行う。




それを週のはじまりの平日の夜に、ひとびとは鑑賞するのである。

それはまごうことなき“すきま”なひとびとなのだと思う。

林立する高層ビルの白昼のごとき照明を避けて、

ビルとビルのエアポケットのような暗闇で遊ぶ大人たち。




彼らの遊び場、行き場はほかにあるかしら? 

わたしの遊び場、生き場は、ここいらへん以外にもあるかしら?




“すきま”が気になりだすと、“すきま”に関係することばが

あっちこちから集まってくる。

風に乗って、わたしのところへ舞い込んでくるみたいに。自然に。

不思議なことだ。




すきすきスウィッチというバンドのアルバムを買って、

そればかり聴いていて、すきすきスウィッチのことばかり考えていたある日のこと。

ウェブで「すきすきスウィッチ」を検索して、行き当たったブログのページ

http://d.hatena.ne.jp/nomrakenta/20110206/1297516386

最初に書いてあった言葉がこれだった。




〈小さな頃は、もっと隙間があったように思う。

いや、隙間同士がつながっているのが世界だと理解していた〉

〈大人とよばれるものになんとかなってみると、

まず第一に、空と自分の頭との間の隙間は確実に五十センチは狭まった。

ハイウェイのようにすり抜け疾走していた小さな路地も

雑で粗くなった視界には入らなくなるか、あるいは本当に無くなってしまった〉



そうそう、すきすきスウィッチというバンドの名前だって、そうなのだ。

(と思いついて、最近はいつもベッド脇の小さな椅子の上に置きっぱなしになっている

『忘れてもいいよ』のジャケットを机まで持ってきた)

バンドの主宰者である佐藤幸雄は、アルバムのブックレットに書いている。

〈“すきすき”は、好き好きだけでなく、隙き隙きだったし、

透き透きでもあったし、空き空きでもあった〉

〈なんとなく、畳語を強調したかったので、もうひとつ“す”から始まる

“スウィッチ”を重ねた。入れたり切ったり、継いだり断ったり、開いたり閉じたり、

点けたり消したり、切り換えたり。(もののけ、妖怪のたぐいは

同じ語を2語繰り返して言うことができない、ということはずいぶん後から知った〉



“すきま”の話はまだ終わりそうもないので、来週も引き続き。

あ、ひとつ、忘れないうちに書いておこう。

風呂敷は結び目をほどいて、中身を出せば、ぺろんと1枚の布になる。

ぺしゃんこの平面になる。

それで端っこと端っこを結んだり畳んだりすれば、中にぽわんと空間ができる。

結んだり開いたり。畳んだりほどいたり。かたちをいかようにも変えられる。

そして、いつだってぺろんと1枚の布に戻れる。

ただの平面の布になれる。

包んで、逃して。受けて、無くして。

そうした行為の合間に生まれるのが、“すきま”なんじゃないかな。たぶん。





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白江亜古
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