わたしてきまほう

 今生日記konjyo nikki  ーわたしてきまほう


どーおんなーに、はーや〜いー、しーん〜ご〜でも

1…………………2………………3…………………


ほら、3センテンス。たった3センテンスでしょ。ごつごつ、かつかつとしたエレキギターと生の声だけで、どんなに速い信号でも、とうたわれる出だしの3センテンス、「それだけでいい」と今のわたしは思ってしまう。いつも胸の奧で、その調べが鳴っている。声高らかに。本当にふしぎ。ふしぎなことだ。それこそ、まほう。どーおんなーに、とうたわれる1センテンスの中だけでも、ぐんっと何かが立ちのぼる。ぐんっぐんっぐんっと上がっていく。夏休みの前の日の入道雲みたいに。ぐんっと胸が誇らしくひらいて、ひろがる。なんでも入って来られるひろさにひろがる。目の前にいつかの遠い夏の青い海原がひろがる。つまり、自由になれる。言葉の意味、なんかじゃない。意味は関係ない。なんだろう、これはいったい。言葉が言葉の意味から開放されて、音とひとつになっている。それと、のびやかであかるくてつよくてきれいな声の持つまほう、かな。それが、わたしの芯の部分に響きかけるのだ。だから「意味なんてどうでもいい」と今のわたしは、古いハンカチを投げ捨てたい気持ちになっている。〈公開練習vol.8 6:26〉



たら、たら、たら、たら、たら、たら、たららら

たたん、たたん、たたん、たたん、たたん、たたん たたん

ちゃちゃ、ちゃちゃ、ちゃちゃ、ちゃちゃ、ちゃちゃ ちゃちゃん

つんっ、つんっ、つんっ、つんっ、つっどど、つっどど、つどど 

どど、どど、どどっ、どどっ、どどっ、どどっ、すべてをみせるとはなんだろう?


たら、たら、たら、なんて文字にすると不細工だけれど、そのはじまりのとっかかりのギターは、きらきら燦めくすごくきれいな音。かわいい、といつも思わずつぶやいてしまう。そのきらきらの次に、音階を下げて(というのかな楽器のことはわからない)同じように刻むギターの音がいくつも続いて、最後にどっどどどど、という日本の音(風の又三郎みたいな)に変わる。そこから歌が始まるんだけど。歌が始まるまでのカツカツとしたギターの4つのラインがすでに歌みたい。つなひきしてるみたい。ギターの音のつなひきで、言葉を含むメロディが土(闇?)の中から出てくるみたい。芋掘りみたい。それでやっぱりわたしには、言葉の意味はどうでもよくなっている。汗だくとか涙とか、なにやら、ひかりだーす、どどっどどっどどっどどっ、とうたわれ演奏されるとき、言葉と音には切れ目がないわけだし。それでこの曲は、ではひみつって、と歌われたところで突然終わる。演奏がプツッと切れてしまう。未完ということなのだろうけれど。ではひみつって、のあとがうたわれなくてもいいとわたしは思う。ではひみつって、のままだったら、そのあとにいくらでもそれこそ無尽蔵に、歌が続いていくから。〈男〉がこう続けてうたうんじゃないかな、という妄想の中で、自分の中で、誰かの中でも。とぎれとぎれでも永遠に歌が続いて、残っていく。だから思うのだ。そもそも歌(曲)って、完成させなきゃいけないものなの? なんていうアヤシイことまで考え始めてしまった。〈公開練習vol.8 9:20〉


と、少しスケッチ風に書き出してみたけれど。最近のわたしは毎晩こんなことをしている。6月3日の公開練習vol.8の録音を、来る日も来る日も聴いて、こんなことを考えている。考えている、というか、考え中。トータル1時間47分54秒、計30曲の録音。そんなふうにカウントするのも意味のないことかもしれない。たった一行の短いフレーズや、鼻歌もあるし。どこまで続くのかわからない長い曲や、がたがたがたと途中で崩壊してまた再構築される曲や、アイドルの歌のカバーや、Fripp&Enoやビーチボーイズの曲の日本語カバーや、すきすきスウィッチ絶望の友の曲や、いろんなスガタカタチの曲がぞくぞくぞくぞくと続けて演奏される。〈男〉は最後に客(というか、円盤タグチさんはじめとする公開練習の立ち会い人)に言っている。自分史上最長なんだよ。こんなに長い時間、人前でやったのって。ものすごく、びっくりしてる、自分でも。



“普遍性”という言葉を使っているひとがいたな。6.3の公開練習vol.8を聴いて。今の〈男〉の歌(演奏)には、その場にいて聴いたひとが「どうして自分のことがうたわれているんだろう?」「どうして、そのことを知っているんだろう?」と思ってしまうような“普遍性”がある、って。そうね、わたしも最初はそう思った。あの場では。自分のことがうたわれている、と思った。ほかにも、ほかにも、そう思ったひとが何人もいたみたい。だからたぶん、みんながそう思うんだと思う。“普遍性”という言葉は好みではないので、“永遠性”と置き換えたいのだけれど、今の男の歌(演奏)に“永遠性”みたいなもの、があるのは確か。でも、それだけではない。


本当のことを言えばあのとき、高円寺の線路脇の古いビルの二階で8回目の公開練習の場にいたとき、わたしは固い椅子にからだが縛りつけられたみたいに、身動きひとつできなかった。演奏を見聴きしながら、なにかとんでもないことが起こっているな、と思った。目の前で、と同時に、自分の中で。大切なことが起きてしまっている。でもそれが何なのかわからなくて。からだをじっと固くして、あの場にしっかり芯根を張って、groundingしているしかなかった。揺るがないように。そうしたら、それまで自分のまわりをびょうびょうと吹いていた風が、わたしの中に一気に全部流れ込んでしまったのだ。だから今、あの日を境にからだの外は凪。しーんとしている。一方、からだの中の奥深いところで風がざわざわと鳴り続けている。



今年の2月にCDを買い、3月から月に一度の公開練習に行くようになって、わたしは本当に〈男〉の音楽以外の音楽が聴けなくなってしまった。それが今はさらに進んで(悪化して?)、極端な話、6.3の公開練習vol.8の録音(=いちばん新しい〈男〉の演奏)しか聴きたくないような気持ち。さらに言えば6.3の中でも、最初だけだったり、断片だったり、かたちを次々に変えていったりする、完成されていないような曲や音や演奏しか、聴きたくないような気持ちになっている。変態になってしまったんじゃないだろうかと、不安になるほどだ。


なんでだろう? わからない。試しにほかの音楽を聴いてみることがある。すると、〈わあ、音でぎっしり塗りつぶされてる。すきまがないんだね〉と驚いたりする。〈ベタっと塗られた油絵のようだ〉と感じたりする。〈約束の繰り返しばかりだね。それが果たされることはないんだろうな〉と思ったりもする。〈これとこれをつなぐためだけに配置されているんだな〉と言葉や音がかわいそうになる。でも、かわいそうだけど、いらないものはいらない。世の中にはなんてムダが多いんだろう。



そう。ムダが、わたしはダメになったのかもしれない(とこれを書きながら考えている)。ムダって何か、って言ったら、“ほんとう”を包んだり隠したりしているもの、かな。“ほんとう”を見えなくしているもの。“ほんとう”の生気を失わせるもの。“ほんとう”のむきだしのみずみずしさを損なうもの。すきまはムダではない。すきまはいつも“ほんとう”と隣り合わせにあるから。ムダは空(くう)ではなくて、むしろ空を埋めるもの。いたずらに。亀裂があると不安だからと塗り込めるパテみたいなもの。そうだ、とりあえず安心させるためのうそが“ムダ”なのだ。


2010年に再発された、すきすきスウィッチのCD『忘れてもいいよ』のライナーノートに、〈男〉がみずから書いたこんな一文がある。


「すきすきスウィッチ」の本体自体のスタイルはかなりの速さで移ろって行った。(人口に膾炙するためにはもっとじっくりとやらなくてはだめなのだろう。)


約20年ぶりにまた音楽を始めた〈男〉の演奏は、彼が約20年分の齢をとっても、かなりの速さで移ろい行くことに変わりはないようだ。同じ曲も、次に演奏されるときはもう、姿を変えている。ひとつの曲の中でも、曲がどんどん姿を変えていく。


変わる、変わる、次へ行くために、変わる、壊す、壊す、ばらばらにする。安心、安定、安寧、安泰よせつけず。うっとりもさせてもらえない。それなのに、わたし(たち)は彼によって壊されることに、むしろ安堵するのだ。壊して次へ、と切り立つところに、永遠を見るのだ。


それで困ったことに、これはどうやら音楽の話だけではないみたいなのね。価値観にもまっすぐ係わってくること。ものごとの見方にも。だからムダがイヤになってしまったわたしは、ムダな言葉を使う前にふと立ち止まるようになった。そのうち、ムダな文章も書けなくなる気がしている(まだまだその途中。それに仕事は別ものにしてる)。つまり、そこまで及んでしまっている。音楽が。こんなふしぎがあるんだね。ふしぎ、というか、まほう。


まほうはつづく。のかな?



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白江亜古
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