光りの手

 今生日記konjyo nikki  ー光りの手


いつものようにヘッドフォンで音楽を聴いていて、“手は頭に直結している”という言葉をふいに思い出した。〈男〉の右手がギターの弦をツカッツカッツカッと無骨にかきならす。それはまさに頭の中にあるものがストレートに右手に降りてきている、そんな気がしたから。“手は頭に直結している”という言葉は、世界各地の染織物の収集家である岩立広子さんが言っていたのだ。かつて彼女にインタビューした記事を、久しぶりに取り出して読んでみた。


みずからが織物作家だったとき、岩立さんは個展で毎回、新しいものを出し続けなければならない、それが現代芸術のさだめである、という強迫観念にとらわれていたという。でも、毎日同じことをしている日常の中から、そうそう新しい表現方法なんて出てこない。自分に才能がないのが悪いというよりも、昨日よかったものが、今日はもうダメになってしまう社会のほうが変なんじゃないか、と彼女は考えた。「結局、ルーツが不確かなんですよ、私たちは。何を創作の源にしていくか、何を自分の拠り所にするか。ルーツを見失っているから、“新しさ”に組み敷かれる……」。そう思っていたときに、たまたま古いペルーの布を見て衝撃を受けたことから、彼女は自分で創作することをやめて、貴重な古い手仕事を収集するようになった。


岩立さんの開くフォークテキスタイルミュージアムで、1200年〜1300年前のプレインカの織物を見て。その繊細な紋様が、どんなふうに織られているかの説明を受けたとき、おそろしく時間がかかりそう、とわたしが言うと岩立さんはこう応えた。


「そう。おそろしく時間がかかる。でも、できたんです。昔の人はそれをやっていたの。道具が単純だと、自分の頭で考えていることが、すぐにここに伝わるんですよ」。ここ、と言って触ったのは手だ。「頭で考えたことが、すぐに手に伝わる。つまり、大昔の人たちの頭の中にあるイマジネーションがどれだけすごかったかということが、これを見るとわかるわけね」


頭で考えたことが、すぐに手に伝わる。イマジネーションが手に宿るーー。


                ☆

  

7月8日、吉祥寺の老舗のライヴハウスで行われたPOP鈴木祭り。そこで約20年ぶりに、〈男〉が公式のライヴをした。Pさんがドラムを叩く4バンドのうちのひとつとして、二番手でステージに上がると、〈男〉はA4より大きな厚手の紙を4枚、自分のあしもとに等間隔の半円形に並べた。


同じだな、とおもしろく思った。ここ数年、わたしが夢中でライヴを見てきた山本精一も、やはり演奏前に儀式のように、あしもとに半円形にいくつもの物体を等間隔に並べていた。最低でも4つぐらい、多いときは10個ぐらい。エフェクターというやつを。そんなにたくさんの音響増殖装置をあしもとで自在に扱って音楽を奏でるのは、めちゃめちゃ技量とセンスが必要なのだということを、つい最近になって知ったけれど。山本精一と同じエレキギター弾きの〈男〉があしもとに等間隔に並べたのは、複雑な音を出すための小さな装置ではなかった。もっと(そして、もっとも)単純な“道具”だった。黒いマジックインキで、ひらがなばかりで、歌詞などを走り書きした紙切れ4枚なのだった。


さらに〈男〉は大きめの目覚まし時計を取り出して、アンプの上のよく見えるところに置いた。「律儀なひとなんだね」と後ろの席で同行の友人がつぶやく。わたしたちは〈男〉のライヴを聴くのははじめてだった。わたしも公開練習ではなく、正式なライヴを聴くのがこれがはじめて。〈男〉の約20年ぶりの人前での演奏。いったい何がはじまるんだろう。時計は友人の言うように、演奏時間をきっちり計るためのものかしら? それとも逆に、時間を止めるためのもの?


楽器の準備が整ったのがいつなのか、いつふたりが合図しあったのかわからない。ささやくようなかすかな音で、気がつくと〈男〉が抱きかかえるギターをつまびき、Pさんがドラムをスティックでこすりはじめていた。まだ橙色の明かりが客席を照らしている中で、遠くのほうから音が近づいてくるようにふたりが演奏を始めている。それに気がついたひとびとがお喋りをやめ、客席の照明が落ちてステージが明るくなった。ジャワ島に行ったときに体験した闇の中から自然に沸いて出たような、朝一番めのコーランのことをわたしは思い出した。音と空気と時がまざりあって、なにがかはじまる。


場ができると、〈男〉がすぐに力のみなぎる声でうたいだした。


いちばんはじめはなんだっけな それをそれからどうしたっけな とうとうとまらなくなっちゃったな けっこうむつかしいことになっちゃったなーー


一度も聴いたことのない歌だ、録音物でも公開練習でも。うたっている〈男〉自身も、もしかしてはじめて聴く(うたう)歌かもしれないとわたしはなぜか思った。うまれたてのみずみずしい歌を、彼はうたっているのではないか。いちばん新しい歌で、彼は約20年ぶりの場の口火を切ったのではないか、そんな気がすごくしていた。音楽と、音楽が奏でられる場と、音楽を聴くひとたちへの、この歌は〈男〉からの捧げ物のように思えた。



明るく澄んだおもいきりの力で、〈男〉はからだの中から歌をうたう。掛け値のないひとなんだ! って新発見をしたようにわたしは目を見開いた。大勢のひとの前では、〈男〉はもっとすまして演奏するのかもしれないと思っていたから。もっとかっこつけて、もっと余裕をもって、作ったものをひとへ届けようとするのかと思っていた。だけど〈男〉のやり方はそうじゃなかった。はじめから、いちから、掛け値なしのむきだしのひとの形でそこにいる。高円寺の線路脇の古いビルの二階の公開練習の場でも、早々にチケットがソールドアウトしたライブハウスの満員の客の前でも、〈男〉は何も変わらず、マイクのように震えてそこに立っている。途中で声が出なくても、ギターの音がずれても、歌詞がばらばらになっても、一向に躊躇することなく、顔を歪ませて、からだの中から声を出す。頭と直結した光りの手でギターをならす。ちょっといびつで変わったかたち。でも、ぎりぎりのとぎすませ方でそこにいて、空気の粒の中に潜むものをたぐりよせる。わたしたち、そこいらじゅうの中にあるものを、“まほう”の感度でたぐりよせて、言葉とも音ともつかない現象にして、その場にあらわす。


新しい歌のあとには、公開練習で聴いたことのある歌が続けて演奏された。曲と曲との境目がなく、全部が濃密な闇の中を流れる時間のようにひとつづきなので、お客は拍手を入れるタイミングがなかった。でもだからといって、緊張を強いられるわけでもない。なにか熱をだす光るものがそこにあって、くるくる廻って音をふるえさせているので、わたしたちのたましいがついそこにひきこまれる、という感じ。どこか知らない国の夜祭りの見世物みたいなあやしさ、不思議さ、透明なわくわくがある。


ふつうに生きている中で見過ごしている、気がつかないでいる、だけど大事なことを〈男〉は歌にする。ひらがなの反復の多い歌は、一見、童話のように誰にでもわかりやすくておぼえやすい。ひとつの言葉が幾重にも意味をはらみ、音と一緒になることで本来の意味から自由になっているから、わかりやすいけれど、すごくおもしろくて、いつまでも舐めていたい色変わりのあめ玉をわたしたちは受け取るような感覚だ。


あしもとに等間隔に置かれた紙を、男が演奏中に見ている気配はないけれど。それはセットリストや、歌詞を書いたものであることが遠目でもわかる。歌詞といっても、わりと大きめな文字でへなへなと、一曲につき数行が書かれている程度(メモみたいなものなのだろうか)。でも、そんなものも不要なのでは? と思うほどに、知っている曲も歌詞やメロディやリズムが、公開練習でわたしの聴いた曲のそれとはまるで様相が違う。だから、次にどんな言葉や音が出るのだろう? とドキドキしっぱなしだ。みんなはどんなふうに聴いたかな、と後日ツイッターを覗くと、いくつもの声が挙がっていた。



最小限のアンサンブル、思わず皆が耳をすまして聴いてしまうような小さな音量で鳴っていた音楽。年を重ねたからこそ鳴らせる音楽というものが確かにそこにあった。 


まだ客電がついてるあたりから、さざ波のようなギターを奏で始め、じんわりと演奏が始まったのでした。音量は控えめ。そのかわり歌詞がよく聞き取れ、ふわりとして鼻歌のようなメロディーも耳に残ります。


20年間(?)音楽シーンに居なかったことで、よりピュアな感じで音楽(創作)に向き合えるのかなあと。だから、他のミュージシャンとは違った必然性が佐藤さんの音楽から感じられました。


初めて観た佐藤幸雄さんのLIVE最高でした。『グラントリノ』のクリント・イーストウッドがモーリン・タッカーとセッションしてるかのような、人生の重みを激しくも優しく感じさせる切実な演奏に胸がジーン。


曲間の拍手もためらわれるような流れのライヴで感無量でした。何より歌に奥行きがあった。


佐藤幸雄さんの透明感はヤバかった。



じんわり、とか、人生の重み、とか、年を重ねたからこそ、とか、奥行きとか、そういう言葉で53才の歌い手が表されるのはわかるけれど。透明感だって…………。透明感、という言葉を使っているひとはほかにも何人かいた。


透明感。透明。すきとおっていること。

では、透明じゃないのはどんなもの? 

まじりけのあるもの。混濁しているもの。迷いのあるもの。



約20年ぶりの演奏の最後は、また、〈男〉とPさんの音がどんどん小さくなって、闇の中へと消えていく。〈男〉が唇に指を当てて、シーッというポーズをして、アンプのシードルを静かに抜きとる。それですべての音が消えて、まっくらになっておしまい。目覚まし時計の針が、そこからまた動きだしたような気がしたのは、たぶん〈まほう〉にやられたわたしの錯覚だろう。


頭と直結した右手と、言葉の書かれたあしもとの紙たち。ふるえるからだ。宙を射貫くどんぐりまなこ。すきとおった明るい声と心のまなざし。ロマンティックな形容詞も花鳥風月もうたわない〈男〉の、削ぎ落とされた歌のちから。それはやっぱりすごいものだと、わたしはただ呆気にとられるばかりだった。



もう疑うことを やめてしまえばいい

不思議なものを ただ見とれるだけでいい



挿入歌/羅針盤『光の手』


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白江亜古
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