まほうの10・Five Years(下)

 今生日記konjyo nikki  ーまほうの10・Five Years(下)


あれはたしか大震災の前。地面がガクリガクリと、突然信じられないおおきさで揺れ動いた、そこにつながっていた日々のことを覚えていますか? まるで世界の終わりみたいな青空の日が続いていた。雲ひとつないオソロシイような晴れの日が、来る日も来る日も繰り返されていた。乾いた強い風が吹いて、土や樹木のうるおいを奪い取っていた。二階の仕事部屋の窓から、青い空を毎日ぼうっと眺めていて。静かな町にきーんと、かすかな音を立てて虚無が降り注ぐのを聴きながら、デッドエンドまで来てしまったな、と思った。デッドエンド、さいはてまで、わたしたちは来てしまっている。なにか屈しがたい力が働きつつある。こわれていくための。終わりを迎えるための絨毯が、草むらに、海に、ひかれつつあるーー。でも、それでもまだその時点では絶望ではなかった(絶望が襲ってきたのは大地震が起きてからだ)。それを証拠にわたしはそんな日々の中で、いっそ諦めて、なにやら晴れ晴れとした気持ちになって、ふいに思ったのだ、これからは男の子の力を借りて生きていこう


もう長いこと、男の子の力は必要じゃなかった。なんの足しにもならないものだった。たまに可笑しいことを言って笑わせてくれるぐらいで、だって、彼らの力が何かの役に立ったことがあるだろうか。彼らはすてきなものをくれた? 彼らはおいしいものを作ってくれた? 彼らは連れ去ってくれた? 彼らはわからせてくれた? 彼らは満足させてくれた? 彼らは黙らせてくれた? 彼らは走らせてくれた? 思いきり泣かせてくれた? ぐにゃりと溶かしてくれた? ぎりぎりとねじ巻いてくれた?


それどころか、彼らは行く手を阻む……とまではいかなくても、足手まといになるものたち。すぐにつっかかる、変な方角を見ている、曖昧を良しとする、いじける、調子にのる、口ごもる、逃げる、あえて逆を言ってみる、昔の話を何回でも繰り返す、内向する、根に持つ、やめる、訴える、甘える、文句を言う、とどまる…………彼らの存在はスムーズではない。わたしが乗っている大観覧車の木のハンドルは、スムーズにまわし続けられなければならなかった。大観覧車は、徐々に加速してまわり続けなければならない。「次へ」「次へ」「次へ」………木のハンドルをぐるぐると回さないと、ころん、と大当たりの赤玉は出てこないのだ。赤玉の景品は何だかわからないけれど。きっとシアワセとかなんとか、そんな名前をつけられた偶像物なのでしょう。



70年ほど前のいくさで傷ついたのは、国土やオンナコドモよりも何よりも、生き残った男たちの精神ではなかったか。信じるものを失って骨抜きになった男たちを横目に、女は焼け残りのわずかな地面に食べられるものをせっせと植え、田舎へ出向いてモノと食糧を交換し、やがて小さな家からスタートして、アメリカ式モダンリビングやフリーダムを手にするために、男の尻を叩いて労働させた(ものをじっくり考える時間を彼らから奪い、彼らの口を封じて)。女は子どもに勉強をさせ、自分もより良い仕事やたくさんのお金を手にしようと精を出した。シアワセの赤玉が出るまでは、と大観覧車をまわし続けたのは、だから女なのだと思う。この国に今ある“ゆたかさ”を導いたのは。


笑われるのを覚悟で言うけれど、わたしは自分の半分、いや2/3ぐらいは、世界だと思っている。世界、社会、時代だと思っている。だから〈もう長いこと、男の子の力は必要じゃなかった〉のは、世界、社会、時代。大震災の前の狂ったような青空の日々に、これからは男の子の力を借りて生きていこうと啓示を受けたのは、世界、社会、時代。曖昧なものを、先の尖った鉛筆でくっきり縁取ることを女はしたがる。曖昧のあわいにあるものを見つめる美徳は、すっかり忘れ去られた。でないと物事を「次へ」「次へ」「次へ」………スムーズに進められないから。


女は自分たちにわかりやすい言葉で、この国の風景を変えてきた。モノノケや混沌を消し去った、軽さと元気の跋扈するおとぎの国。それはドラッグのハイ状態にも似た毎日ハレばかりが続く世界だから、いきすぎるとオーバードーズのパンクロッカーみたいな瞳孔の開いた空(くう)になる。狂った青空の日々は、しらじらと明るく塗りこめられた闇だった。覆い隠す層が厚すぎて、もはや暗さが這い出して来られないほどの。まばゆさの中で、わたしは呼吸が難しくなっているのを感じた。視力が落ち、視界が妙に狭まっている感じだった。苦しかった。這い出さなければ、と思った。なんとかして………。だから、デッドエンドにいることが見えたとき、〈異物〉が必要だ、という想いがどこからか湧いてきたのだろう。それまで無いものにしてきたものの力、が必要だと感じた。大観覧車の回転からいち早く遠ざかって(あるいはハジメからそこにいずに)、地下深く潜り込む者たち。彼らが深海の底から持ってくる謎解きみたいな暗号や、玉石混淆の思想こそが、わたし=世界を助けてくれる。それは、〈長いこと必要じゃなかった〉男の子の力だ。



もしも世界が もうひとつあれば

ひとつが終わり ひとつが始まる

そして ひとりは ふたり

ふたりはひとりで

おたがいの空を 見つめあう    



長い前フリの最後に、もうひとつ小話を加えておく。かつて雲南省の麗江を旅したときに、かの地に生きるナシ族の女性の着物の意味を知った。群青色の上着のバックスタイルには、7つの円盤のような丸い飾りがついている。それは北斗七星を表し、「披星載月」(朝早くから星の出るまで働く)の意味が込められているとか。ナシ族の女性はものすごく働き者なのだ。「では、男のひとたちは? 男は何をしているのですか?」。地元のひとに尋ねると、「男たちは鳥を愛で、詩をつくります」という返事。当時30代の働き盛りだったわたしは大いに呆れると同時に、でも案外それが男と女の役割分担の本質かもしれない、と思ったりもした。



これからは男の子の力を借りて生きていこう


こんな呪文をとなえたあとに、大震災が起きて、絶望の波が襲ってきた。それから1年がたった頃に、わたしの前に彼らが現れた。男の子たちが、歌を持って。そして〈まほうの時間〉がはじまった。わたしの側から、この“物語”を見れば、そういうことになる。



2012090218100001.jpg


7月15日、円盤の夏祭りの日。約20年ぶりに〈男〉がライヴをする二回目の日。わたしはてんぱっていた。2フロアある渋谷のライヴスペースには大勢のひとが集まっていたし、知り合いも何人も来ていたし。自分がこんなにまで「惹かれている」と公言している音楽を、彼・彼女たちがどんなふうに受け止めるだろうかと、どきどきだった。それに、わたしがたまたま迷い込んだ〈まほうの時間〉が、渋谷のライヴスペースで開かれる〈お祭りの時間〉とクロスするのだ。時間と時間の重なりに、いったいどんな火花が散るのか、あるいはモクモクと煙が上るのか、あるいはシャボン玉の虹色が混ざり合うのか……とにかくどきどきだった。


ステージに登場したときだったかな、〈男〉が「来たよ」って感じでステージの上で両手を挙げて。オールスタンディングのフロアに集まった客たちが、ウォーという歓声で彼を迎えた。それがわたしには恥ずかしかった。一回目のライヴのときと様子が違うんだな、と思った。一週間前に行われたPOP鈴木祭りでは、約20年ぶりのライヴの一番最初だったせいもあるのか、〈男〉のたたずまいは粛々としていた。アヤシイ風と闇の中から生まれた、熱っぽくふるえる火のような演奏だったけれど、終わりはまた静かに闇へと消え入る慎ましさだった。ところが夏祭りは、もちろん祭りだし、元気な客層であったし、何しろ円盤のイベントだから、〈男〉が御輿に乗って登場したかのような。暗黙の了解で、はなから歓迎されてパフォーマンスが行われるのが、祭というものなのだろうけれど、そういう空気がわたしはあまり好きではない。鼻白む、というやつ。


そんな中でも演奏が始まると、〈男〉はごつごつとした独特なふるえ方で、“その場”に切り込んでいった。どっどど、どどっど、どどっどどど、どっどど、どどっど、どどっどどど…………という太鼓の音でPさんが風を運んできた3曲目あたりから、徐々に演奏がアヤシさを増していった。切羽詰まったものへと。なめらかさがかなぐり捨てられ、ふつふつとしたマグマが〈男〉の内から湧き上がってくる。それは彼の透明なのどを通るときに、過剰なカロリーや水分や不純物をふるい落とされ、水晶の羽根のついた矢となる。彼のからだから飛び出た矢が、こちらをめざしてくる。かわすのも自由。手で払うのも自由。もちろん、射されるのも自由。透明だから見えなかった、と言って無きものにするのも自由。胸に抱いて帰るのも自由。みんなはどうするだろう?


どっどど、どどっど、どどっどどど、どっどど、どどっど、どどっどどどドッドド、ドドッド、ドドッドドド、ドッドド、ドドッド、ドドッドド、円盤というくらいだから、それは丸いものだと思っていると、それは違うんだーーーーっ、尖ったものが、それがすごいスピードでまわっているから、だけなんだって! だから近づきすぎると、細かい傷だらけになって返ってくるでしょ。


風を運ぶ太鼓の中で、歌とも説法ともお囃子とつかない、ふしぎな文句を〈男〉が絶叫すると、客たちはくすくす笑って喜んだ。くすくす笑って、手をたたいて喜んで、そうしてステージから飛んできた透明な矢を、彼らはいったいどうするんだろう? わたしの頭は疑問符だらけ。それこそふしぎだった。


2012090218100002.jpg


続く4曲目も、“その場”を湧かせた。この曲は公開練習で断片が演奏されたことがあって、そのときはきらきらとした可愛らしさのギターの音から始まったのだけれど。夏祭りでは、鳴っていることもわからないくらいのかすかなギターで、こんな言葉を〈男〉がうたいはじめた。



すべてを見せるって なんだろう

ならば何を見せないようにしてるのか

きれぎれのむこうに なにを隠しているのか

ほんきになっているってなんだろう 

では心はどこに置いてあるのだろう

あせやらなみだやら何やらでなんだかからだが光り出す



はじまりはひそやかに。でも次第に力がこもって、歌もギターもドラムも、強く、激しく、明るく、がたがたに、つややかに、なっていく。〈男〉は一呼吸置くと、ギターを弾くのをやめて、両手を打って、歌とも説法ともお囃子とつかない、“その場”限りのふしぎな文句を歌に続けた。ノリのいい客たちが一緒に両手を打つ。どんたん、どんたん、どどん、どん、どたたた、たたた、Pさんの太鼓がめちゃめちゃな変拍子になった。一見、祭りの宴のような盛り上がりを装っているけれど、そこでうたわれているのは実に謎めいた言葉だ。



問題を解決するってなんだろう 答えがそこにあるなら

問題ってわからないじゃない もし答えが見つかったときも

問題ってわからないし だいたい答えが見つかるようなら

問題はほとんどぉ解決してるわけでしょうし であったときに

それが答えかどうかもわからないじゃないの、ってぇ〜



じゃじゃじゃじゃじゃ、じゃじゃじゃじゃん、じゃじゃじゃん、じゃじゃじゃっん、じゃじゃじゃんっ、とギターがひときわ高く強く音を刻んで、その絶頂で〈男〉が、



それではいい音ってなんでしょうぉ?



と鋭く叫んで歌を終えたものだから、ウォーウォーと大きな歓声と拍手が起こった。ざわつきの中で、今度は〈男〉がエレキギターをフォークギターみたいにかき鳴らす。その前奏だけ聴いて、5曲目がわかったひともいたのかな、そうとも思えないけれど。ウェーイ、ヒュー、みたいな歓声がまた湧いて、始まったのが『Five Years』だった。



スーパーマーケットでは みんなが騒いでいた

ニュースがつたわった 地球のいのちが あと五年しかない

ニュースキャスターが泣きながら報告していた

だからきっとうそじゃない

みんなが泣いていた あと五年しかない

麻雀、パチンコ、アルバイト、携帯電話、音楽端末、

焼き鳥屋のおやじ、気のふれたサラリーマン、

問題をーーな人、根拠をもとめる人、

太った人、やせた人、ちびの人、のっぽの人、誰だかわからない人

こんなにたくさんの人が ぼくは必要だと思ったことはない


まだ若い女が 子どもをなぐりつけている

誰かがとめなければ 死ぬほどのことだった

(パンダなんかどうでもいいんだっ!)

腕の折れた兵士が車をみつめている 

(天皇はいったいどうしてるかな?)

ぼくはぼくで今日街へ出て

喫茶店でミルクセーキを飲んでいる君をみつけて

それをこうして歌にしている あらわしている

君はぼくの 美しいーー

寒くて雨が降ってこごえそうだ

突然、母のことを思い出して

お母さんーーーーー 

あと五年、あと五年、あと五年、もう五年

あと五年、あと五年、あと五年、もう五年

あと五年



とたんたたん、とたんたたん、とたんたん、とたんたたん、とくぐもったドラムの音が、つむじ風のように〈男〉の歌声に砂埃を撒き散らす。透明な歌声がざらざらになったり、風の音にかき消されてところどころ聞こえなくなったりしながら、ひとびとの間を通り抜けていく。もう誰も笑わなかった。みんな、静かに彼らの演奏に耳をすましていた。ここは街角だ、とわたしは思った。渋谷のビルの中のライヴスペースでも祭りの会場でもなく、〈男〉とPさんは街角で、ひとびとの前で演奏している。この世の終わりの歌を。パンク吟遊詩人として。淡々とした口調で。確かな呼吸で。つむじ風のようにーーー。『Five Years』という歌は、こんなふうにうたわれる歌なんだ。レコードの黒い溝から立ち上がるわけでもない。朗々とうたい上げられるのでもない。哀しみの感情を込めて演奏されるのでもない。ただ、つむじ風のように。ひととひとの間を通り抜ける澄んだ空気のように。ただ、流れればいい。ラジオのように。くぐもって鳴るから、お腹の底のほうから心臓へざわざわと響くリズムと、淡々とのびやかに、そのときどきの“自分の言葉”でうたわれる詞。彼らの演奏なら、街角から遠くのほうまで流れていくだろう。動きの悪くなった大観覧車に乗ったひとたちのところにも、いつか届くかもしれない。『Five Years』はそういう曲なんだ。



極東の島国にオソロシイような晴れの日が何日も何日も続き、大震災が起きて、絶望の波が襲ってきた。そのあとで。男の子たちがうたう歌がわたしの耳に届くようになった。それぞれのうたい方で、彼らがうたうこの歌が。〈男〉は元歌の『Five Years』の曲名で、田口さん、たけヒーローは、この曲を『5年』というタイトルでうたっている。


『Five Years』のままだったら。BOWIEの有名な曲名だから、それで検索して、たけヒーローがこの曲を演奏するのhttp://www.youtube.com/watch?v=8vJbg8qYkNAYouTubeを、たまたま見聴きすることのできるひとも多いのかもしれない。でも、わたしのところに届いたみたいに、この曲にはもうひとつの流れがあった。〈男〉が岩谷宏の日本語訳をベースに、“自分の言葉”でうたうのを聴いて、男の子たちが自分もうたいだした。そしてこの歌を、歌詞に出てくる『5年』と受けとめて、うたいつないできた。彼ら自身の“言葉”で。それでわたしはこの歌と出会えた。だからもう、『5年』という歌は、DAVID BOWIEの『Five Years』とは違う歌なんだろう。2011年3月11日以降のこの島国では。



夏祭りの夜。演奏を終えて、自分の住む街へ帰る〈男〉を乗り物の場所まで見送りながら。ライヴの興奮さめやらぬ中で、Pさんがつぶやいた。「いやあ、モンスターが目を覚ましちゃいましたね」。2つのライヴを終えて、〈男〉が完全に復活しちゃった、っていうこと。待ってました、とわたしは胸の中でつぶやいて。待ってました、という言葉が、これほどふさわしく使えることもないと思った。


待ってました。現れてくれるのを。だってわたしは彼や彼らに会う前から、呪文をとなえていたのだから。これからは男の子の力を借りて生きていこう、って。ーつづく



挿入歌/羅針盤『がれきの空』

          佐藤幸雄+POP鈴木『Five Years』ほか


★すきすきスウィッチ(=佐藤幸雄 v.g+鈴木惣一朗 dr.g+POP鈴木 dr.kb)のライヴ!→→→●10月14日(日)12:00〜13:00 高円寺円盤にて。チャージ1500円(飲み物込)





コメント
コメントする








   

プロフィール


白江亜古
しらえあこ
ライターなう。

バックナンバー

過去の記事

コメント

others