インタビュウ1「唯一のひと」
「白江さん、面白い人みつけたんですけど、どうすかねぇ」
と言って、その人は編集のOくんが探してきた取材相手だった。
あしかけ6年やっている、女性誌の連載のインタビュウページ。75歳
以上で、名前が知られていても知られていなくてもよく、未だ現役で何か
をやっている興味深い女性ーーの括りで、わたしたちは取材相手を選び、
アポイントメントをとって会いに行き、肖像写真を撮り、話を聞いて、4
ページの読み物を作る仕事を毎月続けていた。
「新宿で『風紋』という文壇バーをやっている、林聖子さんといって。太
宰治の小説のモデルにもなっている人なんですよ。林さんのお母さんが太
宰と親交があったらしくて」
「へえ。そんな人がいるんだ。Oくん、どこでそれ知ったの?」
「呑みに行ったんです、そのバーへ。たまたま女優のNさんのマネージャー
に連れられて行ったんですよ。呑んでて店のママと話したら、それが林聖
子さんで、知る人ぞ知る女性だということがわかって。こういう連載やっ
てるんですけど取材お願いできませんか、って言ってみたら、いいですよ、
と返ってきたんです。どうすかねぇ」
「面白いじゃない。取材をお願いしようよ。アポとってよ。太宰の、なん
ていう作品なんだろう。さっそく読んでみるわ」
「僕もまだ読んでないんですけど。確か『メリイクリスマス』だったかな。
シズエ子というヒロインの少女が林聖子さんで、お母さんも出てくるらし
い」
恥ずかしながら、わたしは太宰治をほとんど読んだことがなかった。教
科書に載っているあたりを少し、くらいの、とても低レベルな読者。最近
夢中になって聴いているビーチボーイズにしてもそうだけれど、あまりに
も名前やイメージや断片が世間一般で浮き彫りになっている存在には、ど
うも積極的に近づく気になれないのだ。
でも仕事となると話は別。好きとか嫌いとかはさて置き、先入観はかな
ぐり捨て、インタビュウ相手のことを事前にできるだけ知っておかなけれ
ばならない。
とにかく資料を読み込む。読んで情報を得るだけでなく、これから会う
人物の人となりに思いを馳せる。それはもしかしたら、役者が台本を読ん
で役作りをするのに少し似ているかもしれない。取材後、いざ記事を書く
段になると、第三者の客観的な視点でというよりも、その人物に成り代わ
って言葉を文字に起こしているようなところがわたしにはあるから。イタ
コのよう、と昔から仕事仲間に言われてきた。
林聖子さんの資料はごくわずかなものだった。
彼女自身の著作もなければ、新聞や雑誌等の記事もほとんどない。唯一、
ひとりの女性作家が、太宰治や聖子さんの父の洋画家・林倭衛(はやしし
ずえ)、林倭衛と親交のあった大杉栄らアナキストのことを訊くために、
インタビュウをしている雑誌の記事が見つかる程度。それからOくんが手
に入れてくれた、バー風紋の25周年記念の冊子と、30周年記念の冊子、
その中に聖子さんが父や母や太宰治や辻潤らについて書いた興味深い文章
が載っていた。
そしてもちろん、読んでおくべきは太宰治『メイリクリスマス』。さら
に聖子さんのお母さん、秋田富子が太宰へ宛てた手紙が、作品に無断で使
われたという『水仙』。作中に秋田富子を思わせる人物が出てくる、太宰
の未完の遺作『グッド・バイ』。
これだけ読めば、取材前の勉強としては充分だったかもしれないけれど。
太宰を読み始めると、文章から立ち上る彼の人柄に興味が沸いて、檀一雄
(バー風紋の常連客だった)が太宰との交流を書いたエッセイにもいくつ
か目を通すことになった。
わたしは明るくいきいきとした太宰の文章に面食らった。なんてチャー
ミングな、という印象。暗さや隠し事の微塵も感じられぬ、むしろ開けた
人物である気がした。世間一般に流布しているイメージとはだいぶ違うと
思った。
それに、酒と女と貧乏と放浪ーー。太宰治や檀一雄や林倭衛を筆頭に、
大正、昭和初期を生きた男たちのたましいと体は、なんと人間らしくはず
んでいたことか。苦しさにはずみ、うれしさにはずみ、夢にはずみ、嫉妬
にはずみ、絶望にはずみ、心と体をたくさん使って、彼らはそれぞれの場
所で死んでいった。当然のこと、かたわらには女がいた。深い仲になる女
だけでなく、男たちをずっと見つめるだけの女もいた。
聖子さんの母、秋田富子はそんな人だった。
短編『メリイクリスマス』は“シズエ子ちゃん”こと林聖子さんと、作家
が戦後の武蔵野の街でばったり再会するシーンから始まる。すっかり娘に
なっている旧知の女の子と自分の係わり合いを書く中で、話がシズエ子ち
ゃんの母たる人に及ぶと、太宰は自分にとって「唯一のひと」という言葉
で秋田富子のことを表現している。その理由として彼が挙げるのはこうだ。
第一には綺麗好きな事である。(中略)第二には、そのひとは少しも私
に惚れていない事であった。そうして私もまた、少しもそのひとに惚れて
いないのである。性慾に就いての、あのどぎまぎした、いやらしくめんど
うな、思いやりだか自惚れだか、気を引いてみるとか、ひとり角力とか、
何が何やら十年一日どころか千年一日の如き陳腐な男女闘争をせずともよ
かった。私の見たところでは、そのひとは、やはり別れた夫を愛していた。
そうして、その夫の妻としての誇を、胸の奥深くにしっかり持っていた。
秋田富子は18歳で絵画の師であった林倭衛と結婚し、10代のうちに聖子
さんを出産した。ほかの女性に妻の座を奪われるような形で、夫と別居し
たのは聖子さんが9つぐらいのとき。新宿の「カフェードラゴン」に勤め
たのちに、富子は31歳で高円寺のアパートでひとり暮らしを始めた。その
部屋をたびたび訪ねていたのが太宰治なのである。
第三には、そのひとが私の身の上に敏感な事であった。私がこの世の事
がすべてつまらなくて、たまらなくなっている時に、この頃おさかんなよ
うですね、などと言われるのは味気ないものである。そのひとは、私が遊
びに行くといつでもその時の私の身の上にぴったり合った話をした。いつ
の時代でも本当の事を言ったら殺されますわね、ヨハネでも、キリストで
も、そうしてヨハネなんかは復活さえ無いんですからね、と言ったことも
あった。日本の生きている作家に就いては一言も言った事が無かった。
第四には、これが最も重大なところかも知れないが、そのひとのアパー
トには、いつも酒が豊富にあった事である。(後略)
こうした自分勝手な言い分を重ねた上で、太宰は秋田富子との結局のと
ころの“関係”を、わりとさっぱりと結論づけている。
以上の四つが、なぜそのひとが私にとって、れいの「唯一のひと」であ
るかという設問の答案なのであるが、それがすなわちお前たち二人の恋愛
の形式だったのではないか、と問いつめられると、私は、間抜け顔して、
そうかも知れぬ、と答えるより他は無い。男女の親和は全部恋愛であると
するなら、私たちの場合も、そりゃそうかも知れないけれど、しかし私は、
そのひとに就いて煩悶した事は一度も無いし、またそのひとも、芝居がか
ったややこしい事はきらっていた。(後略)
つまり、秋田富子は美貌の人でありながら、太宰治と男女の仲にならな
かった「唯一のひと」らしい。あの、太宰と。本当だろうか、という気も
するけれど、いやたぶん本当なのだろうと思う。そこにわたしは強くひか
れた。触れもしないで、たましいの交流を求めにやってくる男をただ受け
入れ、見つめているだけの女。
そんな母を見てきた娘の聖子さんもどうやら、自分の人生を“見つめるだ
けの人”として生きてきた様子。
見つめるだけの人は、歴史の中にも、伝承の中にも、物語の中にも、歌
の中にも浮上しない。でも、それらが生まれるあちらこちらで、彼女たち
はひっそりと息をしていた。
開店する前のバー風紋を訪ねた。新宿花園神社のちょっと先、古いビル
の地階への外階段を下りて、暗闇の中にある重たい扉を押す。そこにはお
ばあさんーーとはとても言いがたい、静かな灯のような女がわたしたちを
待っていた。
出典:太宰治「メリイクリスマス」
- 2012.10.01 Monday
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- by acocoro
惜しみない亜古さんとニヒル牛マガジンに深く感謝します。
(。-人-。)合掌