インタビュウ4「父」

 今生日記konjyo nikki  ーインタビュウ4「父」


「鵜原にも、そんなに長くはいなかったんですよ。6ヶ月ぐらい」

 エメラルドの入江をのぞむ南房総の鵜原理想郷で、林聖子さんは小学校3

年生の秋から冬にかけてを過ごした。昭和13年。いくさが始まる3年前の、

まだ世の中がいくぶん静かだった頃に。

 理想郷と名の付く風光明媚な土地に暮らしても、(一カ所に定住できな

い)父は絵を描きに方々へ出かけて留守がちだった。代わりに聖子さんの

側にいたのは父方の祖父母と、博多で芸者をしていた二番目の母の高橋操、

それに鵜原で生まれたばかりの義母妹。前年に林倭衛(はやししずえ)と

離婚した、聖子さんの母の秋田富子の姿は当然そこにはなかった。

「母はその頃はサナトリウムから帰ってきて、津山の実家にいたり、東京

に住む伯母の許に身を寄せていたり。未遂に終わったんですが、鵜原から

わたしを連れだそうとしたこともあったみたいですね」


 君が行為ゆるすべからずいつとせの吾がいきどほりきはまりにけり

 汝を思ふ心は成らずふる里のふりにし家にゆきて忍ばむ

 うみべにし夜はさびしき虫の声ききつつあらむ吾子が思ほゆ


 これは秋田富子が当時詠んだ歌だ。夫の裏切りに対する憤りと喪失感、

離れて暮らす我が子を思う気持ち……。なんのひねりもなく、感情のまま

にストレートな言葉でうたわれる歌は、かえって詠み手の切羽詰まった“行

き場のなさ”を浮き彫りにする。そしてまた、女という性の単純明快さも。

 それにひきかえ、わたしにとって不可解なのは林倭衛という男の言動だ。

1937年(昭和12年)に林倭衛は富子さんと別れたが、自分の身から出た

錆なのに、離婚は彼の本意ではなかったらしい。聖子さんはエッセイ『い

とぐるま』に書いている。


 父の傍にはすでに操さんがいたにもかかわらず、どうしても離婚に同意

せず、母を苦しめることになった。父は父なりに母を愛していたのだと思

う。しかし潔癖な母に、そうした境遇が耐えられるはずもなかった。


 父は父なりに母を愛していたのだと思うーーと娘の聖子さんはさらりと

書くけれど。絵の才にも友にも知性や経験にも恵まれた林倭衛は、14歳年

下の富子さんを娶るとすぐにヨーロッパに渡り、1年以上も滞在して彼女を

ひとりぼっちにした。女学校のときに岡山の津山から上京し、18歳で結婚

してすぐに子どもを産み、病気を患い……世間を知りようもない年若い妻

はどんなに心細かったことだろう。夫は帰国後もしょっちゅう旅に出てい

たし、その挙げ句によそに女をつくる、子どもを孕ませる。いったいどん

なふうに、林倭衛は秋田富子を愛していたというのだろうか。

 わたしには男の心がわからない。どうせわからないのだからと、ハナか

ら知ろうとしないところもある。それでインタビュウのときも、のちに原

稿を書くときにも、そこいらへんは“考えない”“触れない”ことにしてス

ーしていた(太宰治の話を筆頭に、ほかに触れなければいけない事柄がた

くさんあったし)。でも、インタビュウから時を経て、この文章を書くた

めに再び資料に目を通していると、ふと、心に留まることがあった。


 風紋30周年を記念した冊子に、聖子さんが寄せた『林倭衛日記抄』と

いうエッセイ。そこに彼女の父の昭和10年の日記が挙げられている。昭和

10年は、林倭衛と秋田富子が結婚して8年目。父は尾道に滞在して絵を描

き、母は千葉の市川の家で自宅療養をしていた。

 一日たりとも欠かさぬ日記の中の林倭衛は、定宿でカンバスに向かい、

仕事に飽きると地元の画家友だちと酒を呑み、カフェーへ行ったり、時に

は芸者をあげたりして、勝手に暮らしている印象だ。電話のない当時の習

わしであったのだろう、家族、親族、友人(意味深?な女性も含む)と盛

んに手紙のやりとりもしている。特に「発信父、富子」「来信、児玉、秋

田房次郎、富子」「十月四日 仕事せず。来信富子」といった記述が目立

つことから、富子さんと頻繁に手紙のやりとりをしていたことがわかる。

 その日記を読んで、わたしの目がとまった部分がこれだ。


九月二十九日 曇ったり晴れたり。朝食前、室から六号を描く。ひる前、

岩と松を十号に始める、去年と同じ構図也。午後、長江道にて六号を始め

後ち昨日の十号を描きあげる。富子に雑誌「改造」「文芸春秋」、「週刊

朝日」増刊等を送ってやる。(後略)


 林倭衛は尾道から、富子さんに雑誌を買って送っているのだ。病気で外

に出られない妻を思ってのことだろうが、その奧にくすぶる景色が今のわ

たしにはなんとなく目に浮かぶ。

 自分が選んだ読み物を届けることは、林倭衛の、彼なりの富子さんの“愛

し方”ではなかったか。遠方から、そばにいられない代わりに、自分が選ん

だ活字を送ることは。一方の富子さんにとっても、男が自分の身の代わり

に送ってくるような書物を繰る時間は、せめてもの幸せのときだったに違

いない。ざらりとした紙の手ざわり。黒々として並ぶ無骨な活字。硬派な

雑誌を開くのは、男のにおいがしみついたセーターをこっそり着てみる感

覚に近い気がする。



 林倭衛は1895年(明治28年)長野県上田に生まれた。父親が政治に

金をつぎ込んだため家業がうまくいかず、12、3歳で上京。書店や印刷会

社に務めるなど早くから労働をした。そうした中で思想関係の印刷物に触

れ、街角でチラシを受け取ったりするうちに、自らの逆境に対する不満も

あって、アナキズムにひかれるようになる。会合に出て16歳で大杉栄に出

会い、大杉らが興したサンジカリズム研究所に参加。同時期に日本水彩画

研究所の夜間部に通い始める。絵よりも政治運動のほうが彼にとって比重

重かったようで、道路人夫をやりながら大杉栄が出していた『平民新聞』

の配布を手伝っていたが、「大好きな大杉さんが父に、君は運動をやめて

一本で行けよ、と勧めたから」(『東京人』記事内の聖子さん談)、19

16年(大正5年)の第三回二科展に出展し、21歳で初入選(東郷青児や

田中善之助も同年の初入選者)。1919年、大杉栄をモデルとした『出獄の

日のO氏』を二科展に出そうとした際に、東京検察局から撤回命令が出て、

やむなく出展を辞退。そのことでジャーナリズムが騒ぎ、大杉本人が「な

ら、俺が絵の代わりに壁の前に立つ」と言ったことなどから、新進画家・

林倭衛の存在がかえって注目されることとなる。その後、渡仏。帰国して

秋田富子と結婚。再び渡仏。1926年(大正15年)に帰国してからは、日

本各地の風景画や人物画を描いたが、徐々に酒や人と付き合う時間のほう

が増してゆき、絵を描く体力と魂の力が弱まっていったようだ。1932年

(昭和7年)、親友の詩人・辻潤を描いた『或る詩人の像』など5点を春陽

会に出品。だが、上記の絵のほかは芳しい批評を得られず、春陽会雑報に

林倭衛はみずからの筆で、自作がふるわない言い訳を書いている。


 本性が怠者の故であるか、常に物資と義理を欠き、酒を呑むことだけが

唯一の日常となつたやうな工合である。至極ありふれた道である。仮に、

絵を描くに不自由でない境遇に置かれたとして、果たして僕はその道に精

進するだらうか。さうなつて見ねば自分には明瞭りとは分らない。怠け、

酒を飲み、漫然とぶらついていゐることに後悔なく、泰然としてゐられる

なら、そこにも一つの理はあると思ふ。僕は今の社会に対して甚だ興味が

薄い。(抜粋)


 書くことを本業としないひとの文章には、人柄がよく表れる。これを読

んでわたしは、林倭衛は無茶はするけれど、精神の清らかなゆえに弱い人

物だった気がしてきた。だから絵を描けぬ理由も、彼自身の言う「怠け」

というよりも、聖子さんが雑誌『東京人』のインタビュウで話しているこ

とが、本当のところを言い当てているのではないかと思った(以下、文中の

「野枝」は作家でアナキストの伊藤野枝。辻潤の妻で、大杉栄と愛人関係にあった)


 父は、野枝さんの肖像も描く約束をしていましたが、それが果たせなく

なりました。約束はしたけど、どうしても描けなかったとも言っています。

父は本当に好きな人でないと描けない。野枝さんが辻(潤)さんを捨てた

ことも、大杉が前の奥さんや神近さんを捨てて野枝さんといたことも、ス

ッキリしなかったんじゃないですか。


 またもや聖子さんはさらりと口にしているが、「本当に好きな人でない

と描けない」画家が、今生で生きやすいはずがない。生きにくさの慰みに

なるのは、酒か女かーー(彼はそのどちらも取ったのだろう)。友人で

人の岡本潤は林倭衛をこう描写している。〈猪のよな体躯で、飲んでい

るあいだはほとんど固形食物を口にせず、アルコ飲料ばかり底なしに

飲んでいた。それに林は、いつも可愛らしい六ついの女の子をつれて

いた〉(岡本潤『罰当たりは生きている』未来社刊)。

 無茶な酒の飲み方をしていたらしい。それにこの文章で気になるのは、

林倭衛が幼い聖子さんを傍らに置いて酒場で呑んでいたこと。いや、それ

を咎めたいのではなくて。つまり聖子さんは父に可愛がられていたらしい。

父がとくべつに愛し、信頼を置いた娘だったらしい

 インタビュウのとき、聖子さんが言った言葉も忘れられない。

「父はアトリエの掃除だけは、二番目の母にはやらせなかったんです。い

つもわたしに『おまえ、掃除しろ』って。ほこりが立つと、描きかけの絵

にほこりがくっついちゃうので。注意深く掃除しないといけないので」

 初対面のインタビュアを相手に、つい調子にのったり、余計なことを言

い過ぎたりしない冷静沈着なひと。それでも、この言葉には聖子さんの

さやな自負を感じた。継母や異母妹よりも、自分が父親にとくべつ愛さ

れていたという自負をーー。わたしは自分が父親の愛情を途中で見失った

ふうなので、彼女がちょっとうらやましくもあった。彼女に少し嫉妬した。

 著書『風紋五十年』の中のインタビュウでも、聖子さんは聴き手に対し

している。

 

 亡くなったのが一九四五(昭和二十)年一月でしょ。その前の年の秋に、

父は「もう戦争は終わる。日本は負ける」って。「そうしたら、フランス

へ行くから、おまえは、俺の鞄持ちだ。ついて来い」「じゃあ、葉子ちゃ

ん(著者の異母妹)は?」と訊いたら、「葉子は嫁に行くんだ」「じゃあ、

もっちゃん(木平。著者の異母弟)は、どうするの?」「男は、ほってお

けばいいんだ」ですって(笑)。(フランス行きを)楽しみにしてたのに。


 こう語る人の内心のうれしさがわかるのは、わたしも聖子さんと同じ長

女だからだろうか。自分が父親にとってとくべつな子であるというふうに

思いたがるところが、わたしたち長女にはあるのかもしれない。それが世

に言うファザーコンプレックスというものなのか、知らないけれど。

 アトリエに入って、ものに触れることは、聖子さんだけに許された特権

だった。戦火が激しくなる前の戦時中、いつものように父が不在だったと

きだ。手持ちぶさたゆえか孤独をまぎらわせるためか、特権を行使してア

トリエに入った聖子さんは、父の机の引き出しをまさぐり、秘密のものを

見つけてしまった。


出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録 林聖子著・星雲社)『風紋30年ALBUM』

『大杉栄、辻潤、林倭衛をめぐる、愛すべきアナキストたち』(東京人2008年10月号 

森まゆみ・文)



コメント
「父」の「秘密のもの」!

私ごとですが、両親なき後の実家を閉ざすことになった時、長女である私は「父」の書き残したものをとりあえずすべて自分の住まいへ送りました。
ダンボールから取り出してつぶさに読むことが、父の供養になるのか否か…
迷ったまま、私は未だに箱を開けずにいます。

お忙しい中の更新に感謝します。



  • イデリツコ
  • 2012/11/06 8:30 PM
コメントを残していただいてありがとうございます。イデさんのお持ちになる「物語」は、たぶん今後のこの物語の展開に大いにだぶってくると思います。何しろ最終回(今年最後のこのブログ)のタイトルは「白い函」。長い道のりですが、最後までお付き合いくださいますよう、どうぞよろしくお願いいたします。
  • 白江亜古
  • 2012/11/07 6:29 AM
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