インタビュウ6「水仙」

 今生日記konjyo nikki  ーインタビュウ6「水仙」


 その後の秋田富子について、書こうとして。林聖子さんをインタビュウしたときにつくった、林さん一家の年譜(取材用メモ)を眺めると、一年ごとに様相を変える彼らの暮らしぶりにあらためて驚かされる。

 昔の日本人は確かに早死にだったけれど、一年の密度が現代人よりもグッと濃くて、トータルで見ると、わたしたちよりも充実した一生だったのではないか。出会ったり、むすばれたり、別れたり、別れられなかったり、生まれたり、死んだり。男女関係や家族だけでなく、友人関係とか遠い親戚とか、とにかく人間どうしの係わり合いが忙しかったから、日常がわさわさとして、起伏に富んでいたような。

 中でも、聖子さんの周辺は次々に変化していって、なのに賑やかさや楽しさの色めき立ちは感じられない。流転の日々を、少女の聖子さんはひとりで淡々と受け止めて過ごしてきたふうに見える。

 わたしのつくった年譜には、こんな記述が連なる。


 昭和13年、帝展初日。林倭衛が、秋田富子の着物を着た高橋操を連れて現れる。伯母がすぐに、妹の着物だと気づく。→両親の関係に亀裂。


 昭和13年秋、鵜原へ。そこには母の代わりに身重の操さんの姿があった。翌年2月、異母妹の葉子誕生。

 

 昭和14年〜15年、祖父母が聖子さんと母を引き取ってくれた。林倭衛と別れたあとも、祖父母は何かと母のことを気に掛けていた。母娘が一つ屋根の下の、ひとときの楽しい暮らし。


 昭和15年夏、母が高円寺にアパートを借り、ひとり暮らしを始める。母はいっとき、新宿・武蔵野館近くのカフェ『タイガー』に勤めた。文学好きゆえに、客として来ていた室生犀星、萩原朔太郎、太宰治、亀井勝一郎らと懇意になる。


 昭和16年、父、操、聖子さん、葉子、お手伝いさんの5人で、浦和市郊外に祖父母が建てた家に移る。聖子さん、浦和の私立女学校へ通い、土日ごとに高円寺の母のところへ通う。



 インタビュウのときには、ノートの下に忍ばせている年譜をちらりと見ながら、確認するようにわたしは訊いた。

「お母様は、高円寺にいらしたんですね」

「ええ。6畳ひと間のアパートでした」

 共同の入り口を入り、階段を上がって二階のすぐ左手。戸を開けると半畳ほどの玄関があって、その奧の6畳ひと間が秋田富子のすみかだった。部屋の片隅に、十円玉を入れると火が点くガス台を備えた、小さな流しがあったそうだ。

「カフェで働いたりもして。その頃、お母様のからだは比較的よかったんでしょうか」

 聖子さんが答える。

「そうだったようですね。でも完治はしていなかったんです。高円寺時代もカリエスで、胸の骨をね、何カ所かとっているんです。どうも、わたしを産んでから、からだの具合いが悪くなったみたいで。体調のいいときは『タイガー』に勤めていましたが、それも長い期間ではなかったの。そのあとは、何もしていなかったと思います。高円寺のアパートで絵を描いたりして、静かに暮らしていたんです。戦争で焼け出されるまで」

「そのアパートの部屋に、太宰治が遊びに来ていた」

「ええ。太宰さんは『タイガー』にお客としてみえていて。三鷹に住んでいらしたから、高円寺は近いでしょ。それでたまに母のところに寄ってくださったんです。わたしもたびたび、太宰さんにお目にかかりました」

 聖子さんが、遠くを見つめるような眼になって話す。

「土日ごとにわたし、浦和から赤羽まで行って、池袋へ出て、新宿、高円寺……と呑気に通っていたんですよね、母のところへ。太宰さんに初めてお目にかかったのは、昭和16年の夏でした。母にお遣いを頼まれて外に出たら、大踏切のところで、白いシャツに黒っぽいズボンをはいて、下駄履きでね、つんのめるように歩いてくる男のひとが向こうから。あ、太宰さん、とわたしはすぐにわかったの。母が描いた太宰さんの顔のスケッチを見ていましたから。それでお遣いから帰ると、さっきの男のひとが母の部屋の前でしゃがみこんでいた。履いていた下駄の前歯がとれちゃったのを打っていたんです」

「それから、アパートでよく遭遇するようになったんですね」

 また確認を取るように言ってから、わたしは続けた。

「太宰治の『水仙』は昭和17年に発表されていますけど、あの作品は、お母様が太宰さんに送った手紙がヒントになっているんですよね? 敬愛していた萩原朔太郎の死を嘆く、お母様の手紙が使われた……。作家にそこまでさせるって、やっぱり秋田富子さんは太宰さんにとって特別な、すごく大事な存在だったんじゃないかと思う」

「そうでしょうか。なんか、うちの母はすごい嫌がっていました」

「『水仙』という作品を?」

「ええ」



 確かに『水仙』は、読後にもやもやとしたものが残る短編だ。

 主人公は金のない小説家。彼と付き合いのある財産家夫婦に起きた出来事を、主人公がひとり語りするスタイルで物語は進む。財産家夫婦の夫人の実家が破産した。それを非常な恥辱と考えた夫人は、もとは「無智なくらい明るくよく笑う」ひとだったのに、妙に冷たく取りすました女に変身してしまった。育ちがよく温厚な夫は彼女を慰めるために、洋画を習うことをすすめる。夫人が絵を始めると、夫はもとより、師である老耄の画伯や同じアトリエへ通う若い研究生などが褒めちぎるものだから、夫人は夫人であることに飽きたらず、「あたしは天才だ」と言って大金を持って家出をしてしまう。困り果てた夫が「こちらに来ていませんか」と訪ねてきたことから、主人公の小説家は事の次第を知る。「とにかく、僕がわるいんです。おだて過ぎたのです。薬がききすぎました」と話す夫を小説家は心の中で嘲笑し、“お金持ちの家庭にありがちな、ばかばかしい喜劇だ”と考えた。

 その後、夫人がふいに小説家のところへやって来る。「奥さん、もの笑いの種ですよ」「二十世紀には、芸術家も天才もないんです」と諭すと、「あなたは俗物ね」と夫人に返されたことから、(生まれ育ちや経済上のことで、実は劣等感を持っている)小説家の心情が露呈する部分が面白い。


 僕に対して、こんな失敬なことを言うお客には帰ってもらうことにしている。僕には、信じている一言があるのだ。誰かれに、わかってもらわなくてもいいのだ。いやなら来るな。

「あなたは、何しに来たのですか。お帰りになったらどうですか。」

「帰ります。」少し笑って、「画を、お見せしましょうか。」

「たくさんです。たいていわかっています。」

「そう。」僕の顔を、それこそ穴のあくほど見つめた。「さようなら。」

 帰ってしまった。

 なんという事だ。あのひとは、たしか僕と同じとしの筈だ。十二、三歳の子供さえあるのだ。人におだてられて発狂した。おだてる人も、おだてる人だ。不愉快な事件である。僕は、この事件に対して、恐怖さえ感じた。


 と書き写すうちにもわくわくしてくる、太宰の文章のリズムの良さは、やはり凄いものだなぁ、と余計な感想をはさみつつ。引き続き、『水仙』のあらすじを。



 自分の絵がまずかったことに気づいた夫人は、酒に溺れる日々の中で、小説家に長い手紙を送ってくる。「いままでかいた絵は、みんな破って捨てました」「私の絵は、とても下手だったのです。あなただけが、本当の事をおっしゃいました」「私は、出来る事なら、あなたのような、まずしくとも気楽な、芸術家の生活をしたかった」と。さらには、かつて小説家を訪ねたのは、ちょっとましな画がかけたと思ったので見せたかった、見て褒めてもらって、小説家の家の近くに間借りして、まずしい芸術家どうしの友だちになってもらいたかった、という真意もそこには書き添えられていた。

 封書にあった番地を小説家が訪ねると、6畳ひと間の何も無いアパートに、あやしい安酒のせいで耳が聞こえなくなり、瞳に生きる輝きの消えた夫人が淋しく笑ってそこにいた。彼女と筆談するうちに、「もしや」と小説家は思う。そして老耄の画伯のアトリエに行き、そこにわずかに残っていた夫人のデッサンを目にするや、小説家は自分の勘が正しかったことを知り、その水仙の絵を画伯の前で破ってしまう。


 水仙の絵は、断じて、つまらない絵ではなかった。美事だった。なぜそれを僕が引き裂いたのか。それは読者の推量にまかせる。静子夫人は、草田氏の手許に引きとられ、そのとしの暮に自殺した。僕の不安は増大する一方だ。

 

 太宰治流『藪の中』といったところだろうか。何が真理なのか、ひとの価値観や審美眼とは何なのか。うらやむものと、うらやまれるものとの違いは何なのかーー。この地上にはすべて真理がないものと感じさせ、読み手まで主人公同様に不安な気持ちにさせてしまう。太宰の筆力に、わたしは『水仙』を読んで圧倒される思いだったけれど。



 この作品に、実生活で係わりのある人物にとっては、複雑、いや不快な読後感が残るだろう。聖子さんはエッセイに綴っている。


 母をモデルにしたというより、母の手紙にヒントを得たと思われる太宰さんの「水仙」には、

 ーー耳が聞こえなくなりました。悪いお酒をたくさん飲んで、中耳炎を起こしたのです。

 という部分があるが、これはいかにも太宰さんらしい脚色で、悪いお酒を飲んだためではない。萩原先生の死を悼む悲しみの涙が耳に入り、それが中耳炎となって、母の鼓膜を損傷したというのが真相。


 なお、母は手紙を無断でつかわれたことと、「水仙」の主人公のあつかいを好まなかった。

「……雨の音も、風の音も、私にはなんにも聞こえませぬ。サイレントの映画のやうで、おそろしいくらゐ、淋しい夕暮です。この手紙にはお返事は要りませんのですよ。私のことは、どうか気になさらないで下さい。淋しさのあまり、ちょっと書いてみたいのです」

 という心の奥底を世間に晒されたことと、次のような部分がこたえたのではないかと思う。(『風紋五十年』収録・林聖子エッセイ「いとぐるま」より)


 聖子さんが「次のような部分」として挙げるのは、主人公の小説家が夫人のアパートを訪れて目の当たりにした、夫人の描写。「けれども、なんだか気味がわるい。眼に、ちからが無い。生きてゐる人の眼ではなかった。瞳が灰色に濁つてゐる」などという箇所だ。


 この件について、わたしには何も言う資格はない。ひとからもらった手紙や、ひとからもらった情報や、そのひと自信のマイナスなことを、なんのことわりもなく文章に組み込んだり、脚色したりして、公然のものとすることを自分もやってしまうから。酷いことだと思うし、そんな自分を庇護するつもりはないけれど、太宰のしたことを責める気にも正直なれない。そういう体質なのだから、しかたがないと思うだけ。嫌われても、縁を切られても、しかたがない。やめられないのだから、わたしたちはそれを。

 誰かを傷つける罪とひきかえに、“ほかの誰か”を楽しませることを物書きはする。でもそれだって本当のところは、“ほかの誰か”を楽しませたいわけではなくて、自分が楽しいから、それをするのだと思う。たとえひとをひどく傷つけても、書くことが楽しいから、自分の喜びだから、それをしてしまうのだ。

 自分勝手で性悪で薄情な人間である点で、太宰もわたしも同じ。文豪と自分を一緒にする大胆不敵を許してもらえるのなら、わたしたちは同じ穴のむじな。

 だとしたら、せめて自分だけでなく、“ほかの誰か”も楽しめる文章を書かなければ。わたしはともかく、太宰治は確かにそれをした。“ほかの誰か”を楽しませることもさんざんしたし、彼はその上、ひどく傷つけたひとたちを、逆にものすごく喜ばせることも文章でやっている。存外、やさしいひとだったのかもしれない。薄情である一方で。


出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録)林

子著・星雲社 『水仙』太宰治  参考文献:東京

人2008年12.10臨時増刊号 林聖子インタビュー

/文・森まゆみ「太宰さんは明るい方でした」



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