インタビュウ8「欠落」

 今生日記konjyo nikki  ーインタビュウ8「欠落」


 ペンを置いてからもしばらく、料理をしながら、お風呂に入りながら、ちらちらと「書いたこと」について考え続けている。わたしの日常はいつもそんなふう。そして、だいぶたってから気がつく。〈ああ、そうじゃなかった、自分と真逆なひとだから、秋田富子や林聖子さんに惹かれたのではなかった、聖子さんにインタビュウをした当初は違ったのだ。〉


 新宿・花園神社近くのビルの地階にあるバー風紋で、林聖子さんにインタビュウをさせてもらったのは約2年前。以来、聖子さんの母である秋田富子という女のひとが、自分の中に住み着いてしまった。わたしの心の中のアパートに間借りして、ひっそり暮らしているようだった。畳にぺたんと足の裏をつけて、木枠の窓から顔を出し、ときおりこちらをぼんやり眺めている富子さんの姿を思い描くこともできた。

 彼女はなぜ、わたしの中に居着いてしまったのか。

 わたしが招いたのだ。“真逆なひと”に憧れたからではない。強い共感があったから。もちろん勝手な共感ではあるけれど、〈そうよ、想い続ける人生だっていいんだ。想うだけで、何も手に入れずに、ひとりで生きる人生だってアリなんだ〉と約2年前のわたしはそう思ったのだ。



 なんだろう。なにもかもを欲しがることはどうなんだろう、って考えていた。20代からずっと女性誌の仕事をしてきて。わたしの20代は80年代だから、80年代、90年代の日本の女の意識みたいなものを背負って、仕事をしてきた感があったから。

 服も靴も本もレコードも、すてきなものをたくさん持っている。お得な情報も、ディープな情報もいちはやくキャッチする。そこそこの学歴がある。英語を喋れる。自己表現のできる、やりがいのある仕事に就いている。すてきな恋人がいる。男友だちも多い。申し分のない夫と家庭を築いている。子どもがいる。子どもをいい学校に入れている。持ち家がある。衣食住のセンスがいい。世界各国の美味を知っている。海外旅行に慣れている。いつも見ている夢がある。いくつになっても若くてきれいな自分でいるーー。

 こんなこと、今はもう、おとぎ話だし、若い女の子たちには鼻で笑われてしまいそうだけれど。つい先日までは「そのどれもを持っている」ことが最上で、すてきであるとされていた。資本主義経済とねんごろな女性誌的な価値観では。その価値観の片棒を担ぎながらも、わたしは、わたしたちは欲しがりすぎると感じていた。現実には自分がまるで“持てていない”から、なおさらだった。


 

 それに、林聖子さんにインタビュウをしたときのわたしには欠落感があった。

 学歴もなく、英語も喋れず、持ち家もなく、家庭も持たずに生きてきたことに加えて、“欠けているもの”があると考えていた。それは恋心。憧れこそすれ、ひとを希求する心をわたしは失っていた。告白すれば驚かれるほど長い間、恋をしていなかった。男のひとを、まるで好きにならないのだ。男のひとから、好きになってもらうこともなかった。

 世の中には恋愛をたくさんすることで、人生や人間が豊かになるという考え方がある。常に恋人がいたり、理解ある夫がいたりするほうが女は幸せ、という通念がある。一理ある、かもしれないし、あるいはそれは真理なのかもしれないけれど、わたしは反発したかった。だって、しかたがないじゃない、好きにならないんだもの。50にもなることだし、もう一生このままかもしれない(人間的ふくらみを持てないままに?)。でも、それでいいじゃない、そういう人間だっているんだよ、しかたがないじゃない、そう思っていた。

 だから太宰治のような男の話し相手をしながら、別れた夫を想い続けて、静かな呼吸を繰り返して生きている、秋田富子にとても惹かれた。自分の仕事の場である女性誌でもてはやされる「恋多き女」の対極にある、「恋少なき女」。そういうひともいるんだよ、そういうひともいていいんだよ。秋田富子さんと、時代を超えて、わたしは友だちになりたかった。その母や父と距離を置きながらも、心の中で彼らへ愛あるまなざしを向けている、聖子さんの涼しいたたずまいにも憧れた。


 ひととべったり寄り添うことをしなくてもいいではないか。孤独を伴う覚悟さえあれば、ひとりで生きていたっていいではないかーー。それぞれに孤独をにじませている母娘に、だから、わたしは強く惹かれたのだった(その後好きなひとができて、このことを忘れていたのだから、げんきんなものだけれど)。



 話を戦前の高円寺に戻そう。秋田富子がひとりで暮らすアパートへは、聖子さんいわく「母とどこか孤独が響きあった」太宰治だけでなく、ダダイストの辻潤もよくやってきた。秋田富子は知的好奇心を持っている上に、「さっぱりとした人で聞き上手」で、女ならではのクッションみたいな包容力を備えていたから、デリケートでいずれ癖のある文筆家業の男たちにとって、気安い話し相手だったに違いない。


 あるとき、いつものように立て膝の辻さんが母と話しているところに父がドアを開けた。お金でも届けに来たのだろう。チラリと部屋の中をのぞいた父は、荒々しくドアを閉めると、足早に帰って行った。「馬鹿ねえ、何を考えているのかしら」とつぶやきながら母は、すぐ私に後を追わせた。戻った父は、何事もなかったように母や辻さんと話を始めた。


 聖子さんのエッセイの中にある、何かくすぐったいようなエピソード。慌ててドアを閉めた林倭衛のことがちょっとうれしくもあり、猪みたいな体躯を翻して去っていく彼を、富子さんは愛しいと感じたはずだ。


 私の家が、世間一般の家庭とはまるで違った家であることを、ハッキリ自覚するようになったのは、やはりこのころからであったと思う。父も時折高円寺のアパートを訪ねていたが、母も私を送りがてら浦和の家を訪れ、食事などをしていた。先妻と後妻が、父をはさんで食事を共にする姿など、普通の家庭ではとても見ることができないだろう。


 男友だちや別れた夫が、ときおり訪ねてくる母のアパート。なじみの通い主であった太宰治は、母と離れて暮らす聖子さんを不憫に思ったのか、聖子さんが浦和に帰る際に高円寺駅前の本屋へつかつかと入っていき、彼女のための二冊を買って出てきたことがあるという。

「それがね、『母を尋ねて三千里』と漫画の『フクちゃん』。その頃のわたしはフランス文学を、『クレーヴの奥方』なんかを読んでいましたから、子ども扱いされて不満でした」

 ともあれ、彼女たちが高円寺で過ごした昭和15年から、16年、17年、18年、19年あたりまでは、さびしくも楽しい不思議な暮らしが続いたのだった。戦争がいよいよ激しくなるまでは。



 戦争ーー。

「私はおおむね浦和にいたので、空襲じたいはそれほど怖いおもいはしていないんです。ただ、高円寺の母のアパートに泊まったときにね、夜に空襲があると、まわりの人はみんな、防空壕に入ったんですよ。だけどうちの母は『どうせ死ぬなら、防空壕みたいなところに埋まって死ぬのは嫌じゃない?』と言って。私も同じ気持ちだったから、ふたりとも部屋の中にいて、窓を開けて寝てました。すると、空が紅くなっているんですよ。そこをB29が通ると、こう、影になって。それをずっと眺めていました。母と並んで寝ながら。怖いとか、全然思わなかったです」

 聖子さんがこう言ったので、わたしはオウム返しに聞いた。

「怖いと思わなかった?」

「ええ。女学生だったあの頃は、もう、いつ死ぬかわからない、とかね、そんなふうに思っていて。死ぬっていうことが、だからそんなに……細かく考えていないんですよね。具体的にはなんにも考えていないんだけど、とにかく怖くはなかったんです」

 死と生の境界線がぷつぷつと破れていて、空気がしゅうしゅう漏れている。戦時下における人間は、そんな頼りなげな存在なのかもしれない。生きようとする力が弱まる。影法師が薄くなる。

 昭和20年1月、いよいよ戦局が危うくなる頃に、大酒による肝硬変腫瘍が自潰して、林倭衛が49歳で死去。聖子さんは17歳だった。父の七七忌と女学校の卒業式をすませると、彼女は浦和を去って、高円寺の母の許に移った。

 4月中旬、聖子さんが住民表移動の手続きのために浦和の家に帰っている間に、高円寺のアパートは空襲ですっかり焼け落ちた。母の富子さんは氷川神社に避難していて無事だった。それで母娘は、母の実家のある岡山県津山に疎開することにした。一方、三鷹に住んでいた太宰治は、郷里の青森県金木町に疎開した。


出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録) 林聖子著・星雲社


 




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