インタビュウ9「再会」

 今生日記konjyo nikki  ーインタビュウ9「再会」


「終戦の年に空襲で高円寺のアパートを焼け出されて。それで、お母さまの故郷の津山へ行かれたんですよね」

 こう尋ねると、林聖子さんはおっとりとした口調で言った。

「ええ。昭和20年4月の空襲で焼け出されて、その年の10月まで津山で過ごしました。東京にいた叔父や叔母も向こうへ帰っていましたし、楽しかったですよ。津山は田舎なので、昔ながらの日本の暮らしがあって、とてものどかでした」

 東京とは一転、岡山県の山間にある町で、聖子さん母娘は穏やかな日々を過ごしたようだ。彼女のエッセイからも、その様子が伝わってくる。


 ぶらぶらしているので、松根油にする松の木の根っこ堀りに駆り出されることもあったが、そんなことは少しも苦にならなかった。母と二人、「こんなもので、本当に飛行機が飛ぶのかしら」などといいながら、サボリサボリ作業をすすめた。


 文中の松根油(しょうこんゆ)というのは、もしかして……と調べてみると、果たしてわたしにはなじみのあるものだった。高校に入るまで習っていた油絵の、絵の具を溶くテレピン油。つん、と鼻孔を突く、くせがあるけれど涼しい香り、あれが案外好きだった。

 松の切り株を乾留して採る油状の液体だ。戦時中、ドイツ軍が松の木の油を使って戦闘機を飛ばしているという情報を得て、やはり燃料不足が深刻だった日本軍が、松根油の製造を試みたらしい。ところが聖子さんたちも「こんなもので……」と思ったように、採取に非常な労力がかかるわりに量をかせげず、飛行機の燃料としての実用化には至らかった模様。

 ともかく、松の根っこ堀りに借り出されるぐらいで、疎開地での暮らしは極めて平静であったのだ。



「津山でも、母は太宰さんから手紙をいただいていました。太宰さん、青森に帰っていらしたんですけれど」

 今もその葉書は聖子さんの手もとにある。せいこチャンもお母様もご無事の由、安心いたしました、私のほうは三鷹でやられ、甲府へ疎開したら、こんどは甲府でやかれ、さんざんのめに逢ひ、いまは生れ故郷の家に居候してゐますーー等と書かれた太宰治からの葉書。

 わたしは訊いた。

「そうすると、8月15日の終戦は津山で迎えられたんですね」

 その日を体験したひとには必ず、どんなふうだったかを尋ねるのが、インタビュアである自分の使命だと(勝手に)思っている。相手はたいてい、ちょっと精気を帯びた表情になって、その日のことを話しはじめる。聖子さんもしかり。

「はい、津山でした。もう、何しろね、玉音放送っていうんですか、電波が悪くてあれが津山ではよく聞こえなかった。ラジオも今と違って、性能がよくなかったんじゃないですか、雑音だらけでね、何を言っているのかわからない。わたしなんか意味がわからなくて、『どうしたの?』『どうしたの?』ってまわりに訊いて。『戦争が終わったらしいぞ』って叔父が教えてくれたんです。それで、叔父と叔母と母とわたしの4人で、とっときの小豆と餅米があったので、お赤飯を炊いてお祝いをしたの」

 風景が目に浮かぶよう。山間の薄暗い家のちゃぶ台で、赤黒く光る豆と、湯気を上げるもっちりとした桃色の米。塩をぱらぱらと振ったわずかな塩分だけで、甘みが立ってほっくりとおいしく、食べるとたちまち力が湧いてくる。再び生きられることの喜びを味わう御馳走である。

 当時17歳だった聖子さんの心身を、終戦は一気に開放した。


 ホットすると同時に、すこし拍子抜けしたような気もした。監房に閉じ込められていた死刑因が、突然、「お前は無罪だ。もう出てもいい」といわれたのに似ている。それまでの私たちは、広島、長崎のこともあり、ここでの幸せな暮らしも、いずれは終わりが来る、と暗黙の裡に認めていたのだと思う。

 母の場合、流石に、頭の切り替えが早く、すぐ東京での新しい暮らしのことを考え始めた。



「お母さまはお身体はお強くなかったけれど、気丈な方だな、って思ったんです。すぐに東京へ戻ることを考えてらしたって、エッセイにあったから」

「津山では、母の弟夫婦のところへ居候していたんです。そこには子どもはいなかったんですが、やっぱり自分たちだけで暮らすほうがラクですよね。津山にいたのでは、いつまでたっても生活のメドが立たないし。それに東京の様子を見たかったですから、できるだけ早く帰りたかったのね」

「だけど終戦直後は、東京へ帰ってくるのもひと苦労だった」

「そう。わたしたちは10月中旬に津山を離れたんですが、途中で熱海の知り合いの家に居候させてもらって、東京へ戻ったのは11月も終わりに近い頃でした」

「途中下車して」

 冗談っぽく笑いながら訊くと、

「途中下車して」

 と聖子さんも笑顔で応えて、あとを続けた。

「一ヶ月ぐらい熱海にいたんです。というのはね、あちこちへ疎開していたひとが、一度にワッと東京へ帰ってくると大変なことになるじゃないですか。何せ、まだ焼け野原なわけだし。だから帰るのが規制されていて、東京へ帰る許可証みたいなものが下りるまで、熱海で待っていたわけなんです。熱海では、高円寺時代に母が肖像画を描いた方の娘さんの家にお世話になっていました。とても親切な方たちで、三鷹の住まいを探してくださったのも、この家の方です」

 再びの、東京の住まいは三鷹・下連雀の長屋だった。



「ふるーい、元はどっかの寮だったらしいんですけど、五軒長屋の真ん中に空きがあったのでそこへ入ったんです。6畳と3畳間で、鍵もない家なんですよ。一間(いっけん)の幅の玄関にガラス戸が2枚入っていて、その重なりの木枠のところに桐で穴を開けてね、こんな長い釘を、出かけるときは刺すの。それで帰ってくると、暗闇の中でその釘を抜いて、今度は内側から反対向きに刺す。だから誰でも簡単に入れちゃう。焼け出されていますから、取られるものがなんにもなかったから、そんな鍵でよかったのね。そんなボロ家でも、焼け跡の東京にいち早く住まいを確保できたのだから、わたしたちは幸せでした」

 三鷹に落ち着くと、聖子さんは都心にある知り合いの会社に勤めだした。母は家で本を読んだり、絵を描いたりしていたが、聖子さんの給料で生活をしていたわけではなく、慎ましやかに暮らしていくだけの蓄えがあったようだ。


 下連雀の家に住み始めて、ちょうど一年がたった頃。昭和21年11月の初めの日曜日だった。聖子さんは駅前の三鷹書店へ、有島生馬が父の林倭衛のことを書いているという雑誌「ロゴス」を買おうとして入っていった。戦中に活字に飢えたひとたちで、夕方の書店はごった返していた。「ロゴス」の場所を店員に尋ねるために、一歩前へ出かかったときだ。レジを離れようとしていた男と向き合う形となった。


 私は魔法をかけられたようになった。「太宰さんの小父さん」といいかけて、あわてて「小父さん」の言葉を呑み込んだ。太宰さんには、もう三年余りも会っていない、多分、私のことなどもう覚えておられないだろう。「小父さん」などという親し気な呼び方は、今の私にはもう許されない。ふとそう感じたのである。


 終戦をはさんで、少女から大人の女になっていたひとの逡巡。


 しかし、太宰さんは、やはり昔のままの太宰さんだった。「聖子ちゃん?」「やはり聖子ちゃんかあー」といいながら、近寄って来られた太宰さんは、温かい手をソッと私の肩に置いて、「無事だったのか、よかった、よかった」というように私の顔をのぞき込んだ。


 約3年ぶりの再会だった。ひととひとは、出会うように仕組まれている。また逢いたい、と念じていなくても。いつか逢える、と信じていなくても。会うものは会うように、できている。そして、会えた奇跡を、歌うたいは詩で讃える。絵描きは線で喜ぶ。物書きは文章で祝福する。


 出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録) 林聖子著・星雲社









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