インタビュウ10「メリイクリスマス」

 今生日記konjyo nikki  ーインタビュウ10「メリイクリスマス」


「終戦翌年の11月に、三鷹の駅前の本屋で太宰さんとばったり再会して。あのときは太宰さんひとりじゃなくて、小山清さんていう、太宰さんの家に寄宿していた方も一緒でした」

 目の裏にしっかり記憶されているのだろう。約65年前のことを、林聖子さんがつい先日の出来事のように話す。

 戦時中、太宰治は疎開先の甲府を焼け出され、妻子とともに津軽の生家へ逃げ延びた。その地で終戦を迎えて、三鷹に戻ったのが昭和21年11月だから、まさに帰ってきたばかりのタイミングで聖子さんと再会したのだ。ちなみに三鷹書店に一緒にいた小山清は太宰の弟子で、のちに小説『小さな町』が芥川賞候補になるなどして評価された人物。

「太宰さんと顔を合わせると、『今どうしてる?』という話になって。母のいる家へ『じゃあ行こう』とすぐに。小山さんは太宰さんの家へお帰りになって、太宰さんとわたしのふたりだけでうちへ向かったんです。道々、話をしながら。うちに着くと、母も太宰さんの姿を見てびっくりしていました。本当に偶然の再会でしたから。それで、あの、その日からあまり立っていなかったと思います。太宰さんがふいに、わが家に来られたのは」



 再会から半月(はんつき)ほどたった頃だ。秋田富子と聖子さんの住む三鷹の長屋へ、太宰治はひとりでやってきた。

「着流しでいらして。だからまだ、それほど寒くなかったんですよね、11月の終わり頃じゃなかったかしらね。太宰さん、着流しでいらして。『お母さんと聖子ちゃんへのクリスマスプレゼントだよ』って、懐から雑誌を出してバサッと置かれた。出たばかりの中央公論の新年号でした。太宰さんの『メリイクリスマス』が掲載された号。それを、母とふたりで頬を寄せ合って、太宰さんの目の前で読んだんです」

 わたしは待ちきれずに訊いた。

「読んで、太宰さんになんて言ったんですか?」

「なにも言わない。ただ、母とふたりで読みながら、『わあ〜』とか言ってたんです」

 男から、思いがけず届けられたクリスマスの贈り物に、高揚して紅くなる“女たち”。湯気の立つような気分が、こちらにも移ってくるようだ。


 『メリイクリスマス』は戦後の武蔵野を舞台に、ひとりの作家と、彼の女ともだちの娘との邂逅を描いた物語だ。

 ひととひとは、逢うように仕組まれている。会えた奇跡を、物書きは文章で祝福するーー。太宰治は聖子さんたちと再会すると、再び逢えた幸運をひとりでせっせと言葉に紡いでいたのだ。



 『メリイクリスマス』はこんなふうに始まる。


 東京は、哀しい活気を呈していた、とさいしょの書き出しの一行に書きしるすというような事になるのではあるまいか、と思って東京に舞い戻って来たのに、私の眼には、何の事も無い相変わらずの「東京生活」のごとくに映った。


 終戦翌年の暮れ。帝都の大空襲を逃れ、1年3ヶ月の月日を故郷の津軽で過ごして東京に帰ってみると、予想に反して2〜3週間の小旅行から帰ったぐらいの気持ちであった。田舎への手紙にも「この都会は相変わらずです。馬鹿は死ななきゃ、なおらないというような感じです。もう少し、変わってくれてもよい、いや、変わるべきだとさえ思われました」と書いたのだ、と、こう、文中で太宰はうそぶく。

 それにしても、この『メリイクリスマス』の冒頭、今わたしたちが読むと、なにやら3.11後の東京の姿とだぶるのが妙である。



 師走の雑踏の中を、作家は久留米絣の着流し姿で歩き廻る。小さな映画館でアメリカ映画を見て、本屋で戯曲集を1冊買い求め、それを懐に入れて入り口のほうを向くと、


 若い女のひとが、鳥の飛び立つ一瞬前のような感じで立って私を見ていた。口を小さくあけているが、まだ言葉を発しない。

 吉か凶か。


 吉か凶かーー。作家いわく、昔に激しい恋をしたけれど、今は少しも好きではない女のひとと逢うのは“最大の凶”なのだそうだ。


 緑色の帽子をかぶり、帽子の紐を顎で結び、真赤なレンコオトを着ている。見る見るそのひとは若くなって、まるで十二、十三の少女になり、私の思い出の中の或る映像とぴったり重なって来た。

「シズエ子ちゃん。」

 吉だ。


 と、自分のことをこんなふうに書かれた文章を、書き手の太宰の目前で林聖子さんは読んだわけだ。ヒロインのモデルであるその女(ひと)が、わたしにそっと打ち明ける。

「主人公のシズエ子ちゃんっていう名前、うちの父が倭衛(しずえ)という名前なんで、しずえの子だからシズエ子ちゃんなのかなぁ、って。太宰さんの前で『メリイクリスマス』を読みながら、そんなことを思いました。それと作品の前半はね、三鷹書店でばったり逢ってうちへ行くまでに、わたしと交わした会話がそのままだったんで。『あと、なん町?』と太宰さんに訊かれたりしたこととか、そのまま書かれていたので、すごい記憶力だな、って関心しちゃった」

「メモをとっていたわけでもないのに」

「ええ、そうなんですよね」

 メモをとっていたわけでもないのに。でも、その点はわたしも物書きの端くれだから事情がわかる。記憶力が良いーーというのとはたぶん少し違うのだ。目にした風景、耳にした会話、体が覚えた事件……いったん自分の中に落とし込んだそれらの物事を、さもそれが誰にとっての“真実”でもあるかのように書く。その特技を物書きは持っているだけのこと。きれいな嘘をつくのが、上手なだけのこと。



 『インタビュウ』と題した、この長い文章の最初にも書いた。太宰は聖子さんの母である秋田富子について、自分の「唯一のひと」であると『メリイクリスマス』の中で公言している。何ゆえにか。

 第一に綺麗好きな事。

 第二にそのひとがちっとも自分に惚れていない事。自分もそのひとに少しも惚れていない事。

 第三にそのひとが他人の身の上に敏感で、つまらぬ事を云わぬ事。 

 第四にそのひとの処にはいつも酒が豊富にある事。

 以上の四つの理由から、シズエ子ちゃんの母は自分にとって「唯一のひと」なのだと、太宰は作中に繰り返し、「唯一のひと」という言葉を使っている。


 (前略)それがすなわちお前たち二人の恋愛の形式だったのではないか、と問いつめられると、私は、間抜け顔して、そうかも知れぬ、と答えるより他は無い。男女の親和は全部恋愛であるとするなら、私たちの場合も、そりゃそうかも知れないけれど、しかし私は、そのひとに就いて煩悶した事は一度も無いし、またそにひとも、芝居がかったややこしい事はきらっていた。



 小説はおもしろい。わたしは林聖子さんにインタビュウをした数年前と、『インタビュウ』を書き始めた10月の頭に、『メリイクリスマス』を読んだ。そして今再び読み返してみると、先の2回とはまるで違う読後感であることに驚く。自分の眼は節穴だったのか、と思っている。

 最初は単純な驚きだった。あの太宰に、彼が手を出さぬ純粋な女ともだちがいた、という驚き。あの太宰に。深い仲にならぬのに、「唯一のひと」という言葉で崇められる。彼女ーー秋田富子さんは、なんてカッコいい女であろうかと憧れた。

 だが今は、その部分を大きく受け止めた自分が、むしろ純粋であったのだと思う。3回目に読んで、あれ? と引っかかったのは、「唯一のひと」である勝手な条件を挙げつらねたあとに、作家が(みそぎが済んだとでもいうように)言葉で切り開いてみせる観念の新境地ーーそれはたとえばこんな箇所だ。

「お母さんは? 変わりないかね。」「さっそくこれから訪問しよう。そうしてお母さんを引っぱり出して、どこかその辺の料理屋で大いに飲もう。」 道すがら話しかけるうちに、作家は相手の娘の元気がなくなっていくのを感じる。そして、


 私は自惚れた。母に嫉妬するという事も、あるに違いない。


 と考えるのだ。

 自惚れ? 母に対する嫉妬? なんだそれ、いい齢をして……と読んでいるわたしはいぶかしく思うのだけれど。肩を並べて歩く、輝く若さのシズエ子とさらに言葉を重ねるうちに、


 私はいよいよ自惚れた。たしかだと思った。母は私に惚れてはいなかったし、私もまた母に色情を感じた事は無かったが、しかし、この娘とでは、或いは、と思った。


 などと、作家は妄想をどんどんエスカレートさせていく。

 ばか、ではないか。

 いや、男とはこういうものか。


「よく逢えたね。」私は、すかさず話頭を転ずる。「時間をきめてあの本屋で待ち合わせていたようなものだ。」

「本当にねえ。」と、こんどは私の甘い感慨に難なく誘われた。


 まったく呆れながら、わたしは文豪の短編から引いているけれど。そんなことおかまいなしに、文中の作家はいっそう調子にのってみせる。娘と逢う前に観ていた映画の話をしては、


 恋人同士の話題は、やはり映画に限るようだ。いやにぴったりするものだ。


 とひとりごちる。同じ映画を観たと娘から返ってくれば、作品の細部を言葉で描写して、


「逢ったとたんに、二人のあいだに波が、ざあっと来て、またわかれわかれになるね。あそこも、うめえな。あんな事で、また永遠にわかれわかれになるということも、人生には、あるのだからね。」


 などと含みのあることを彼女に言い、


 これくらい甘い事も平気で言えるようでなくっちゃ、若い女のひとの恋人にはなれない。


 と自分で納得してみせる(ばか、か)。挙げ句の果てには、こんなことまで口にする。


「僕があのもう一分まえに本屋から出て、それから、あなたがあの本屋へはいって来たら、僕たちは永遠に、いや少くとも十年間は、逢えなかったのだ。」

 私は今宵の邂逅を出来るだけロオマンチックに煽るように努めた。


 なんだ、これは喜劇じゃないか。



 そうそう、忘れてた。教科書で読んだ『走れメロス』も確かそうだった。太宰治はサービス精神旺盛な、稀代のコメディ作家なのだった。『メリイクリスマス』もおしまいまで読めば、どんでん返しの悲劇な結末が待っているのだけれど、最初は深刻ぶって、途中で笑わせて、事実はもっと酷いと結ぶ。そう結ぶことで、自分をさらにあざ嗤う。自分の愚かさを嗤う、あきらめた醒めた目を、太宰治という作家は持っている。存外、おとなだったのかもしれない。


 秋田富子が彼にとって「唯一のひと」だったのは、間違いないだろう。

 少女から娘へ変身していた聖子さんと再会して、並んで歩きながら彼の見た夢も、きっと本当だろう。

 本当のことを書きながら、欲しがるものは何も手に入らないと、太宰はどこかでわかっている気がする。“物語”をつむぐごとしか、しょせん自分にはできないのだと。

 3回目の『メリイクリスマス』を読んで、わたしは思った。これはシズエ子ちゃんこと、若かりし頃の林聖子さんへの、太宰のせめてもの渾身のラブレターだったのではないか。たった、一度きりの。


出典:『メリイクリスマス』太宰治  http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/295_20170.html

    



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白江亜古
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