インタビュウ最終回「白い函」

 今生日記konjyo nikki  ーインタビュウ最終回「白い函」


 太宰治の20代はかなりややこしいことになっていた。パビナールという薬物の中毒や、内縁の妻との心中未遂などなど。だが、先輩作家の井伏鱒二の仲人で30歳の頃に結婚すると、その後しばらくは精神的に安定した模様。『富獄百景』『走れメロス』『津軽』『御伽草子』といった代表作を戦前戦中に執筆し、仕事に精力的に取り組んでいる。そして戦後の昭和22年に『斜陽』を発表するや、一躍流行作家となったのだ。


 林聖子さんは太宰と再会して間もなく、彼の口利きで新潮社に入社した。

「その頃の太宰治といえば、超売れっ子ですよね」

 こう訊くと、彼女は「そうです」と大きくうなづいて言った。

「なにしろ『斜陽』の連載が、雑誌の『新潮』で始まった頃ですから。わたしは出版社の人間として、太宰さんのところへ『斜陽』の原稿をいただきに伺ったり、校正を持って行ったりしていたんですよね」

 戦後に起きた出版大ブームの影響もあって、当時の太宰人気はそれはすごいものだったという。

「でも、わたしにとっては、太宰さんは普通のおじさんなの。“先生”でもなんでもないの。だから新潮社に入れていただいて、お仕事で最初に太宰さんのところへ伺うときは悩みました。それまでは“太宰さんのおじさん”と呼んでいたんですけど、さすがにそれではまずいだろうな、って。やはり、ほかの作家の方々と同じように“先生”と呼ぶべきかなぁ、と。それで、『先生』って呼んだんですけど、もう、すっごい恥ずかしくって。歯の間から空気が抜けるようで、はっきり発音できなかったんじゃないかな。『しぇんしぇい』みたいな感じで」

 大輪のダリアのような笑顔になって、聖子さんが言葉を続ける。

「そうしたらね、太宰さんもね、なんか、すっごく照れてらした。紅くなったんですよ。今考えてもおかしいんですが」

「太宰治はどんなひとだったんですか」

「お酒の呑み方が上手でらしたですよ」

「あ、そうですか」

 と、文字にすると平坦だけれど、「あ、そうですか」という合いの手は、音になると抑揚のあるもの。意外さや面白さの鳥羽口を見つけて、興味津々になっているときにわたしの口から出るものだ。

「あのね、なんかこう、歌ったり、乾杯したりするんだけど、わりあい盛り上げるのがお上手で。まわりのほうがご機嫌になって、とても楽しそうなんだけれど、太宰さんご自身は、実際にはお酒はそんなにあがってらっしゃらなかった。だからいろいろなところで、お酒をすごくたくさん呑んだように書いてあるのを読むたびに、『そうかなぁ』とわたしは思っているんです」

「盛り上げ役というイメージはないですものね、一般的には。聖子さんのエッセイなんかに出てくる太宰さんは、結構明るいおじさんみたいな印象だけれど」

「それはもう、すごく明るい方でした。ただ、写真を撮るとああなるの。ああいう写真になるの」

 頬に手をあてて斜め下を向いた、物憂げな表情のーー。「ああいう写真」を頭に浮かべて、聖子さんとわたしはアハハハと笑い合った。「ああいう写真」はどうやらポーズであったようだ。



 インタビュウの中で、わたしたちは太宰の死についても話をした。でも、それについてはここには書かないつもりだった。そうでなくても『インタビュウ』と題したこの文章は矢鱈と長いのだし、秋田富子と林聖子さんのことが主題なので、読者の関心が太宰へ傾いては困るのだ。だけど、やっぱり書いておこうという気になったのは、あるひとがわたしに言ったから。「ぼくは太宰治は嫌いだ。自殺した人間は、作品の如何にかかわらず好きじゃない」。


 聖子さんのエッセイに、こんな一文がある。


 二十二年の中ごろから、母は真剣に、太宰さんの死を案ずるようになった。


 このことを、太宰と親しい編集者たちに聖子さんが話しているのが、太宰の耳に入ったらしい。ある日、太宰とふたりで歩いているときに、彼がふと足を止めて言った。「聖子ちゃんは、僕が死ぬのではないか、といってるんだって」。


 決して怒った様子ではなく、むしろ、子供の悪戯をとがめるときの、優しさを秘めた口調だった。

 私は、全身の血が、一度に引くような気がした。まっさおになって震えている私を眺め、太宰さんはさらに、「ぼくは決して死なない。息子を置いて行くわけにはいかないんだ。お母さんにもそういっておきなさい」といった。

 私は、今でも、太宰さんには、自分から自殺するつもりは、決してなかった、と思っている。


 「息子を置いて行くわけにはいかないんだ」という言葉は、ダウン症で知能に障害があったという息子のことを指しているのかもしれない。太宰の本当の想いはどこにあったのかーー。

 23年6月19日、太宰治と、愛人のひとりである山崎富栄の遺体が玉川上水に上がった。秋田富子も聖子さんも、それぞれ急いでそこへ駆けつけた。

「わたしは新潮社で太宰さんの担当だった野原さんから報せを受けて、野原さんとふたりで玉川上水の土手を歩いたんです。そうしたら、あの、小さな瓶とお皿が……夜店で売っているような、ガラスの安っぽいお皿なんですが、太宰さんのところへ遊びに行くと、それにいつもさっちゃん(山崎富栄)がピーナッツとか入れておつまみに出してくれていたんで、よく覚えていたんです。ずいぶん変なお皿だな、と思っていたものだから……それが落ちていたの。で、見たら、そこの土手に、梅雨でずっと雨が降っていましたから雑草が寝てるでしょ、なのにそこだけレールを引いたみたいにね、ざーっと、下の黒い土が出た筋がついていて。明らかに、ここから川へ落ちた、っていうのがわかるんです。黒い土の筋は、太宰さんの下駄の跡じゃないですかね、あれは生々しかったです。だから、あの、ボッチャン、とふたりで同意して川へ飛び下りたわけではないのかな、という印象がわたしにはあるんですね」

「強い力で引っ張られた、とか?」

「なにか相当な力が加わらないと、下の土が出るほどの筋はつかないでしょう」

 うーーむ……。と、うならざるを得ない局面である。わたしは訊いた。

「では、ガラスのお皿はなんのために?」

 聖子さんは少し鋭い目になって言った。

「だから、なんか、青酸カリか眠り薬か、そういうものを溶いて飲んだんじゃない? お酒かなにかで……じゃないですかね。何しろ、さっちゃんは青酸カリを持っている、って、よく太宰さんが言っていましたから」

 うーーむ……である。

 世に流布している話によると、「死ぬ気で恋愛してみないか」と流行作家に誘われて、その気になって。身も心もお金も遣って太宰に尽くしたのに、別の愛人(太田静子)に太宰の子どもができたことが、山崎富栄には大変なショックだったらしい。

 激しい嫉妬と、太宰に捨てられるかもしれない怖れを抱いた山崎富栄は、太田静子宛に「修治さん(太宰の本名)はお弱いかたなので 貴女やわたしやその他の人達までおつくし出来ないのです わたしは修治さんが、好きなのでご一緒に死にます」と書いた手紙を出し、その夜に入水した。

 発見された山崎富栄が激しく恐怖している形相だったのに対して、太宰の死に顔が穏やかだったことから、太宰は入水前に絶命していたか仮死状態だったと見る説もある。

 うーーむ……である。太宰ははたして本当に、みずから死を選んだのだろうか。



 38歳でこの世を去ったとき、太宰治は朝日新聞に『グッド・バイ』を連載中だった。小説のタイトルにしても、連載の第“13”話が絶筆になったことにしても、心中自殺と符号するから、世間は安易に太宰を自死をみなしている。けれど、『グッド・バイ』という作品について、林聖子さんがエッセイに書いていることがわたしには気になる。彼女の“読み方”が。


 太宰さんは、この作品を、死の一ヶ月前から書きはじめ、死の前日までに十三回分を書いたという。こんなに明るく、軽妙な作品を書いていた人が、どうして死を望んだりするのだろうか。

 絶筆、表題から、太宰さんは、すでにこのとき死を決していたという見方は、あまりに単純な見方だと思う。この場合は、それまでのニヒルな世界と別れ、新しい明るい世界へと進むためにの、太宰さん自身による宣言となるはずの作品が「グッド・バイ」だと考えた方がいい、と私は思う。私の耳には、今もなお、「息子を置いて行くわけにはいかないんだ」という言葉が残っている。


 林聖子さんにインタビュウする際に、もちろんわたしも『グッド・バイ』を読んでいる。なるほど、なるほど、とまだ見ぬひとだった聖子さんへ、何度も同意の気持ちを向けながら、その未完の小説をおもしろく読んだ。そして、インタビュウの席で、

「やっぱり、死の間際に書いたような小説ではないですよね」

 と言うと、

「そうでしょう!」

 と聖子さんは顔を輝かせた。どうしても、その点だけは譲りたくないのだな、とその表情を見てあらためて思った。

「あんなに仕事が好きだったひとはいないですもん。書くことが好きで。わたしや母を前にして、呑みながら話をしているときも、全部、次に書くことのイメージを話しているみたいでした。というのはね、あとで『新潮』に載った作品を読むと、呑んでいるときの会話が1行とか2行とか、必ず混ざっているんですよ。だから、ああやって呑んでお喋りしているときも、仕事のことを考えてらしたんだな、って思うから」

 人物にじかに触れたひとだからこそ、感じる何かがあるのだろう。

「真相は、結局わからないんですよね」

 わたしがつぶやくように言うと、

「あの頃は解剖も何もないんですよね」

 彼女もつぶやくように言った。


 書くことがあるのなら、死ねないのではないかな。わたしはそう思う。

 書くことがなくなったときが、死ぬときじゃないかな。


 それにしても、男の弱さにわたしは慣れない。太宰のことを書いていても、どうにも息が詰まるようなのだ。自分が一寸、彼(ら)に近いせいかもしれない。同病相憐れむ、というか。男の弱さを見て見ぬふりができて、知っていながら平然とそばにいられる女が一番、男には必要なんじゃないかしら。そんなひとにはどうやったらなれるのか、皆目見当がつかないけれども。

 秋田富子や聖子さんはどうだっただろう? 見て見ぬふりができるひとだっただろうか。いや、“人種”ではないな。質(たち)ではない。その男を、どれぐらい息させて(とパソコンの自動変換でこう出るのが面白い)やりたいか、という想いの大きさかもしれない。強さ、ではなく、愛情。無償の愛ーー。



 もうひとつ、本筋からはずれたよぶんな逸話を書き添えておきたい。聖子さんのエッセイに出てくる、個人的に好きなエピソードがある。

 昭和23年の春、というから、太宰が6月に亡くなる少し前のこと。三鷹の駅前の通りに、小さな化粧品兼小間物のお店ができたという。化粧品と、女のひとが喜びそうな小さなアクセサリーや、きれいなハンケチなんかを売る店。昭和36年生まれのわたしが子どものときにも、所沢の古い商店街にこの手の店があったので、エッセイを読みながら並んでいる品物が目に浮かんだ。

 三鷹のその店の前を太宰と聖子さんが通りかかったとき、太宰は「そうだ、なにか買ってあげよう」と言って聖子さんを中へと促した。ガラスケースの中から、聖子さんは四角い銀のロケットペンダントを選んだ。太宰が「これはお母さんに」と手にとった化粧品の瓶は、なんとシワ取り用のクリーム。秋田富子さんは当時39歳で、クリームの瓶を見て「シワなんかないわよね、いやな太宰さんね」と少し憤慨したそうだ。

 実は、所沢の化粧品兼小間物の店で、小学校3、4年の頃にわたしが目にとめたのも、銀色の涙型のロケットだった。表にスズランの彫りがある、とっておきの宝物。もっともわたしには“太宰さんのおじさん”のようなひとはなく、きっと自分のお年玉か何かで買ったのだけれど。

 

 女たちに『メリイクリスマス』を残し、ロケットペンダントとシワ取りクリームを買ってくれた太宰治は、その年の6月に死んだ。そして「あとを追うように」というのは言い過ぎだけれど、同じ年の12月に秋田富子が病死している。ふたりとも40歳になる前に、短い人生を終わらせた。


「結局、お母さまと太宰さんっていうのは……親友……」

 途中まで訊きかけたところで、聖子さんが「うーん……」とうなった。それから海面をみつめるように言った。

「すごく、好意を持っていたんですよね、太宰さんに。だけど、恋愛感情はなかったんじゃないでしょうか。お互いに」

 そうだろうか。

 数ヶ月に渡ってこの長い文章を書いている間に、わたしにはふたりの関係は結局のところ、太宰の片想いだったように思えている。秋田富子が彼に気を持てば、すぐにふたりはそうなったはず。でも、秋田富子は太宰に対して、とうとうその気が持てなかった。太宰も途中で気づいたのではないかと思う。無償の愛は、男女の仲になったとたんに、形を変えてしまうかもしれないことに。



 でも、だから、なぜ……という想いが秋田富子に対してずっとある。

 あらためて、わたしは訊いておきたかった。

「お母さまは、お父さまのことを本当に、ずっと愛されていたんですか」

 18歳で出会ってから、39歳で死ぬまで、ずっと。

「いや、それはね、うちの母はしょっちゅう裏切られていましたから。『ほんと、お父さんは野蛮だから』とよく言ってましたし」

 さんざん裏切られて。愛人を何人もつくり、彼女らに子どもを産ませ、酒に沈殿し……林倭衛も太宰に負けず劣らず、たましいの落ち着き処を見つけられぬひとだった。そんな男に向ける秋田富子さんの想いは、ずっと愛していた、なんていうきれいな言葉であらわされるものではないかもしれない。

「でも……」 

 と聖子さんが再び口をひらいた。

「でも……父が死んだあと、四十九日が終わると、わたしは自分の荷物を持って高円寺の母のアパートへ移ったんです。そのとき、押し入れを開けて荷物を入れようとしたら、赤いりぼんで結んだ白い函があったの。母にしては珍しい包み方なんでね、『これ、なあに?』と聞いたんです。そうしたら、『あ、それね、お父さんがフランスからくれた手紙が入ってるの』って。『見ていい?』って聞いたら、『うん、だめ』って返ってきたから。だから、父からの手紙はそんなふうに大事に函に入れて、りぼんをかけてとっておいたんですよね、母は」

 ずっと。18歳で出会ってから、39歳で死ぬまで。ずっと愛していた、というきれいな言葉が、やっぱり彼女にはふさわしい気がする。


 84歳の今も、林聖子さんは新宿・花園神社近くのバー風紋のカウンターの中に立っている。太宰治をはじめ、秋田富子が親しかった作家や編集者たちとの縁あってこその文壇バーだから、「風紋は、母と私の親子二代の店」と聖子さんは話す。

 歴史の上澄みのところに浮かんでくる話は、ほんのわずかな、目立つ塵みたいなもの。それをすくいとった下には、かすかに笑い、かすかに嘆き、かすかに想う音が沈んでいる。耳をすまさないと聞こえない音。もしかしたら、聞かれなくてもいいのかもしれない音。でも、それを聞いてしまって、耳の中にいつまでも木霊しているものだから、わたしはこの話をどうしても言葉にしておきたかった。かすかに存在していた「唯一のひと」の物語。

 

出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録) 林聖子著・星雲社

 






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