2012年も今日でおしまい。
そして、当連載も今日でひとまずおしまいです。
永らく(ブログにあるまじき)長文に毎週お付き合いいただき、
これまで本当にありがとうございました。
一寸休んで、今後は月いちの形で
ニヒル牛マガジンに何か書かせてもらう予定です。
それではみなさま、良い年をお迎えください。
最後にもう一度
ありがとうございました。 白江亜古
太宰治の20代はかなりややこしいことになっていた。パビナールという薬物の中毒や、内縁の妻との心中未遂などなど。だが、先輩作家の井伏鱒二の仲人で30歳の頃に結婚すると、その後しばらくは精神的に安定した模様。『富獄百景』『走れメロス』『津軽』『御伽草子』といった代表作を戦前戦中に執筆し、仕事に精力的に取り組んでいる。そして戦後の昭和22年に『斜陽』を発表するや、一躍流行作家となったのだ。
林聖子さんは太宰と再会して間もなく、彼の口利きで新潮社に入社した。
「その頃の太宰治といえば、超売れっ子ですよね」
こう訊くと、彼女は「そうです」と大きくうなづいて言った。
「なにしろ『斜陽』の連載が、雑誌の『新潮』で始まった頃ですから。わたしは出版社の人間として、太宰さんのところへ『斜陽』の原稿をいただきに伺ったり、校正を持って行ったりしていたんですよね」
戦後に起きた出版大ブームの影響もあって、当時の太宰人気はそれはすごいものだったという。
「でも、わたしにとっては、太宰さんは普通のおじさんなの。“先生”でもなんでもないの。だから新潮社に入れていただいて、お仕事で最初に太宰さんのところへ伺うときは悩みました。それまでは“太宰さんのおじさん”と呼んでいたんですけど、さすがにそれではまずいだろうな、って。やはり、ほかの作家の方々と同じように“先生”と呼ぶべきかなぁ、と。それで、『先生』って呼んだんですけど、もう、すっごい恥ずかしくって。歯の間から空気が抜けるようで、はっきり発音できなかったんじゃないかな。『しぇんしぇい』みたいな感じで」
大輪のダリアのような笑顔になって、聖子さんが言葉を続ける。
「そうしたらね、太宰さんもね、なんか、すっごく照れてらした。紅くなったんですよ。今考えてもおかしいんですが」
「太宰治はどんなひとだったんですか」
「お酒の呑み方が上手でらしたですよ」
「あ、そうですか」
と、文字にすると平坦だけれど、「あ、そうですか」という合いの手は、音になると抑揚のあるもの。意外さや面白さの鳥羽口を見つけて、興味津々になっているときにわたしの口から出るものだ。
「あのね、なんかこう、歌ったり、乾杯したりするんだけど、わりあい盛り上げるのがお上手で。まわりのほうがご機嫌になって、とても楽しそうなんだけれど、太宰さんご自身は、実際にはお酒はそんなにあがってらっしゃらなかった。だからいろいろなところで、お酒をすごくたくさん呑んだように書いてあるのを読むたびに、『そうかなぁ』とわたしは思っているんです」
「盛り上げ役というイメージはないですものね、一般的には。聖子さんのエッセイなんかに出てくる太宰さんは、結構明るいおじさんみたいな印象だけれど」
「それはもう、すごく明るい方でした。ただ、写真を撮るとああなるの。ああいう写真になるの」
頬に手をあてて斜め下を向いた、物憂げな表情のーー。「ああいう写真」を頭に浮かべて、聖子さんとわたしはアハハハと笑い合った。「ああいう写真」はどうやらポーズであったようだ。
インタビュウの中で、わたしたちは太宰の死についても話をした。でも、それについてはここには書かないつもりだった。そうでなくても『インタビュウ』と題したこの文章は矢鱈と長いのだし、秋田富子と林聖子さんのことが主題なので、読者の関心が太宰へ傾いては困るのだ。だけど、やっぱり書いておこうという気になったのは、あるひとがわたしに言ったから。「ぼくは太宰治は嫌いだ。自殺した人間は、作品の如何にかかわらず好きじゃない」。
聖子さんのエッセイに、こんな一文がある。
二十二年の中ごろから、母は真剣に、太宰さんの死を案ずるようになった。
このことを、太宰と親しい編集者たちに聖子さんが話しているのが、太宰の耳に入ったらしい。ある日、太宰とふたりで歩いているときに、彼がふと足を止めて言った。「聖子ちゃんは、僕が死ぬのではないか、といってるんだって」。
決して怒った様子ではなく、むしろ、子供の悪戯をとがめるときの、優しさを秘めた口調だった。
私は、全身の血が、一度に引くような気がした。まっさおになって震えている私を眺め、太宰さんはさらに、「ぼくは決して死なない。息子を置いて行くわけにはいかないんだ。お母さんにもそういっておきなさい」といった。
私は、今でも、太宰さんには、自分から自殺するつもりは、決してなかった、と思っている。
「息子を置いて行くわけにはいかないんだ」という言葉は、ダウン症で知能に障害があったという息子のことを指しているのかもしれない。太宰の本当の想いはどこにあったのかーー。
23年6月19日、太宰治と、愛人のひとりである山崎富栄の遺体が玉川上水に上がった。秋田富子も聖子さんも、それぞれ急いでそこへ駆けつけた。
「わたしは新潮社で太宰さんの担当だった野原さんから報せを受けて、野原さんとふたりで玉川上水の土手を歩いたんです。そうしたら、あの、小さな瓶とお皿が……夜店で売っているような、ガラスの安っぽいお皿なんですが、太宰さんのところへ遊びに行くと、それにいつもさっちゃん(山崎富栄)がピーナッツとか入れておつまみに出してくれていたんで、よく覚えていたんです。ずいぶん変なお皿だな、と思っていたものだから……それが落ちていたの。で、見たら、そこの土手に、梅雨でずっと雨が降っていましたから雑草が寝てるでしょ、なのにそこだけレールを引いたみたいにね、ざーっと、下の黒い土が出た筋がついていて。明らかに、ここから川へ落ちた、っていうのがわかるんです。黒い土の筋は、太宰さんの下駄の跡じゃないですかね、あれは生々しかったです。だから、あの、ボッチャン、とふたりで同意して川へ飛び下りたわけではないのかな、という印象がわたしにはあるんですね」
「強い力で引っ張られた、とか?」
「なにか相当な力が加わらないと、下の土が出るほどの筋はつかないでしょう」
うーーむ……。と、うならざるを得ない局面である。わたしは訊いた。
「では、ガラスのお皿はなんのために?」
聖子さんは少し鋭い目になって言った。
「だから、なんか、青酸カリか眠り薬か、そういうものを溶いて飲んだんじゃない? お酒かなにかで……じゃないですかね。何しろ、さっちゃんは青酸カリを持っている、って、よく太宰さんが言っていましたから」
うーーむ……である。
世に流布している話によると、「死ぬ気で恋愛してみないか」と流行作家に誘われて、その気になって。身も心もお金も遣って太宰に尽くしたのに、別の愛人(太田静子)に太宰の子どもができたことが、山崎富栄には大変なショックだったらしい。
激しい嫉妬と、太宰に捨てられるかもしれない怖れを抱いた山崎富栄は、太田静子宛に「修治さん(太宰の本名)はお弱いかたなので 貴女やわたしやその他の人達までおつくし出来ないのです わたしは修治さんが、好きなのでご一緒に死にます」と書いた手紙を出し、その夜に入水した。
発見された山崎富栄が激しく恐怖している形相だったのに対して、太宰の死に顔が穏やかだったことから、太宰は入水前に絶命していたか仮死状態だったと見る説もある。
うーーむ……である。太宰ははたして本当に、みずから死を選んだのだろうか。
38歳でこの世を去ったとき、太宰治は朝日新聞に『グッド・バイ』を連載中だった。小説のタイトルにしても、連載の第“13”話が絶筆になったことにしても、心中自殺と符号するから、世間は安易に太宰を自死をみなしている。けれど、『グッド・バイ』という作品について、林聖子さんがエッセイに書いていることがわたしには気になる。彼女の“読み方”が。
太宰さんは、この作品を、死の一ヶ月前から書きはじめ、死の前日までに十三回分を書いたという。こんなに明るく、軽妙な作品を書いていた人が、どうして死を望んだりするのだろうか。
絶筆、表題から、太宰さんは、すでにこのとき死を決していたという見方は、あまりに単純な見方だと思う。この場合は、それまでのニヒルな世界と別れ、新しい明るい世界へと進むためにの、太宰さん自身による宣言となるはずの作品が「グッド・バイ」だと考えた方がいい、と私は思う。私の耳には、今もなお、「息子を置いて行くわけにはいかないんだ」という言葉が残っている。
林聖子さんにインタビュウする際に、もちろんわたしも『グッド・バイ』を読んでいる。なるほど、なるほど、とまだ見ぬひとだった聖子さんへ、何度も同意の気持ちを向けながら、その未完の小説をおもしろく読んだ。そして、インタビュウの席で、
「やっぱり、死の間際に書いたような小説ではないですよね」
と言うと、
「そうでしょう!」
と聖子さんは顔を輝かせた。どうしても、その点だけは譲りたくないのだな、とその表情を見てあらためて思った。
「あんなに仕事が好きだったひとはいないですもん。書くことが好きで。わたしや母を前にして、呑みながら話をしているときも、全部、次に書くことのイメージを話しているみたいでした。というのはね、あとで『新潮』に載った作品を読むと、呑んでいるときの会話が1行とか2行とか、必ず混ざっているんですよ。だから、ああやって呑んでお喋りしているときも、仕事のことを考えてらしたんだな、って思うから」
人物にじかに触れたひとだからこそ、感じる何かがあるのだろう。
「真相は、結局わからないんですよね」
わたしがつぶやくように言うと、
「あの頃は解剖も何もないんですよね」
彼女もつぶやくように言った。
書くことがあるのなら、死ねないのではないかな。わたしはそう思う。
書くことがなくなったときが、死ぬときじゃないかな。
それにしても、男の弱さにわたしは慣れない。太宰のことを書いていても、どうにも息が詰まるようなのだ。自分が一寸、彼(ら)に近いせいかもしれない。同病相憐れむ、というか。男の弱さを見て見ぬふりができて、知っていながら平然とそばにいられる女が一番、男には必要なんじゃないかしら。そんなひとにはどうやったらなれるのか、皆目見当がつかないけれども。
秋田富子や聖子さんはどうだっただろう? 見て見ぬふりができるひとだっただろうか。いや、“人種”ではないな。質(たち)ではない。その男を、どれぐらい息させて(とパソコンの自動変換でこう出るのが面白い)やりたいか、という想いの大きさかもしれない。強さ、ではなく、愛情。無償の愛ーー。
もうひとつ、本筋からはずれたよぶんな逸話を書き添えておきたい。聖子さんのエッセイに出てくる、個人的に好きなエピソードがある。
昭和23年の春、というから、太宰が6月に亡くなる少し前のこと。三鷹の駅前の通りに、小さな化粧品兼小間物のお店ができたという。化粧品と、女のひとが喜びそうな小さなアクセサリーや、きれいなハンケチなんかを売る店。昭和36年生まれのわたしが子どものときにも、所沢の古い商店街にこの手の店があったので、エッセイを読みながら並んでいる品物が目に浮かんだ。
三鷹のその店の前を太宰と聖子さんが通りかかったとき、太宰は「そうだ、なにか買ってあげよう」と言って聖子さんを中へと促した。ガラスケースの中から、聖子さんは四角い銀のロケットペンダントを選んだ。太宰が「これはお母さんに」と手にとった化粧品の瓶は、なんとシワ取り用のクリーム。秋田富子さんは当時39歳で、クリームの瓶を見て「シワなんかないわよね、いやな太宰さんね」と少し憤慨したそうだ。
実は、所沢の化粧品兼小間物の店で、小学校3、4年の頃にわたしが目にとめたのも、銀色の涙型のロケットだった。表にスズランの彫りがある、とっておきの宝物。もっともわたしには“太宰さんのおじさん”のようなひとはなく、きっと自分のお年玉か何かで買ったのだけれど。
女たちに『メリイクリスマス』を残し、ロケットペンダントとシワ取りクリームを買ってくれた太宰治は、その年の6月に死んだ。そして「あとを追うように」というのは言い過ぎだけれど、同じ年の12月に秋田富子が病死している。ふたりとも40歳になる前に、短い人生を終わらせた。
「結局、お母さまと太宰さんっていうのは……親友……」
途中まで訊きかけたところで、聖子さんが「うーん……」とうなった。それから海面をみつめるように言った。
「すごく、好意を持っていたんですよね、太宰さんに。だけど、恋愛感情はなかったんじゃないでしょうか。お互いに」
そうだろうか。
数ヶ月に渡ってこの長い文章を書いている間に、わたしにはふたりの関係は結局のところ、太宰の片想いだったように思えている。秋田富子が彼に気を持てば、すぐにふたりはそうなったはず。でも、秋田富子は太宰に対して、とうとうその気が持てなかった。太宰も途中で気づいたのではないかと思う。無償の愛は、男女の仲になったとたんに、形を変えてしまうかもしれないことに。
でも、だから、なぜ……という想いが秋田富子に対してずっとある。
あらためて、わたしは訊いておきたかった。
「お母さまは、お父さまのことを本当に、ずっと愛されていたんですか」
18歳で出会ってから、39歳で死ぬまで、ずっと。
「いや、それはね、うちの母はしょっちゅう裏切られていましたから。『ほんと、お父さんは野蛮だから』とよく言ってましたし」
さんざん裏切られて。愛人を何人もつくり、彼女らに子どもを産ませ、酒に沈殿し……林倭衛も太宰に負けず劣らず、たましいの落ち着き処を見つけられぬひとだった。そんな男に向ける秋田富子さんの想いは、ずっと愛していた、なんていうきれいな言葉であらわされるものではないかもしれない。
「でも……」
と聖子さんが再び口をひらいた。
「でも……父が死んだあと、四十九日が終わると、わたしは自分の荷物を持って高円寺の母のアパートへ移ったんです。そのとき、押し入れを開けて荷物を入れようとしたら、赤いりぼんで結んだ白い函があったの。母にしては珍しい包み方なんでね、『これ、なあに?』と聞いたんです。そうしたら、『あ、それね、お父さんがフランスからくれた手紙が入ってるの』って。『見ていい?』って聞いたら、『うん、だめ』って返ってきたから。だから、父からの手紙はそんなふうに大事に函に入れて、りぼんをかけてとっておいたんですよね、母は」
ずっと。18歳で出会ってから、39歳で死ぬまで。ずっと愛していた、というきれいな言葉が、やっぱり彼女にはふさわしい気がする。
84歳の今も、林聖子さんは新宿・花園神社近くのバー風紋のカウンターの中に立っている。太宰治をはじめ、秋田富子が親しかった作家や編集者たちとの縁あってこその文壇バーだから、「風紋は、母と私の親子二代の店」と聖子さんは話す。
歴史の上澄みのところに浮かんでくる話は、ほんのわずかな、目立つ塵みたいなもの。それをすくいとった下には、かすかに笑い、かすかに嘆き、かすかに想う音が沈んでいる。耳をすまさないと聞こえない音。もしかしたら、聞かれなくてもいいのかもしれない音。でも、それを聞いてしまって、耳の中にいつまでも木霊しているものだから、わたしはこの話をどうしても言葉にしておきたかった。かすかに存在していた「唯一のひと」の物語。
出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録) 林聖子著・星雲社
あ、最後の写真(七五三の)が、なんでクリスマスに関連するのか
説明が足りませんでした。これをご覧あれ。
昭和43年12月号の少女漫画雑誌
「なかよし」(講談社)の巻頭グラビアです。
その年の秋に、わたしは7歳のお祝いをしてもらっているので
このグラビアからヒントを得て
母がドレスを縫ってくれたわけではないのだけれど。
まあ、当時の少女のあこがれの
クリスマス&パーティファッションといえば
こういうテイストだったのですね。
ブラックミニドレス、なり。
白いハイソックスで。ツイギーの時代だわ。
というわけで、メリイクリスマス。
よい休日をお過ごしください。
「終戦翌年の11月に、三鷹の駅前の本屋で太宰さんとばったり再会して。あのときは太宰さんひとりじゃなくて、小山清さんていう、太宰さんの家に寄宿していた方も一緒でした」
目の裏にしっかり記憶されているのだろう。約65年前のことを、林聖子さんがつい先日の出来事のように話す。
戦時中、太宰治は疎開先の甲府を焼け出され、妻子とともに津軽の生家へ逃げ延びた。その地で終戦を迎えて、三鷹に戻ったのが昭和21年11月だから、まさに帰ってきたばかりのタイミングで聖子さんと再会したのだ。ちなみに三鷹書店に一緒にいた小山清は太宰の弟子で、のちに小説『小さな町』が芥川賞候補になるなどして評価された人物。
「太宰さんと顔を合わせると、『今どうしてる?』という話になって。母のいる家へ『じゃあ行こう』とすぐに。小山さんは太宰さんの家へお帰りになって、太宰さんとわたしのふたりだけでうちへ向かったんです。道々、話をしながら。うちに着くと、母も太宰さんの姿を見てびっくりしていました。本当に偶然の再会でしたから。それで、あの、その日からあまり立っていなかったと思います。太宰さんがふいに、わが家に来られたのは」
再会から半月(はんつき)ほどたった頃だ。秋田富子と聖子さんの住む三鷹の長屋へ、太宰治はひとりでやってきた。
「着流しでいらして。だからまだ、それほど寒くなかったんですよね、11月の終わり頃じゃなかったかしらね。太宰さん、着流しでいらして。『お母さんと聖子ちゃんへのクリスマスプレゼントだよ』って、懐から雑誌を出してバサッと置かれた。出たばかりの中央公論の新年号でした。太宰さんの『メリイクリスマス』が掲載された号。それを、母とふたりで頬を寄せ合って、太宰さんの目の前で読んだんです」
わたしは待ちきれずに訊いた。
「読んで、太宰さんになんて言ったんですか?」
「なにも言わない。ただ、母とふたりで読みながら、『わあ〜』とか言ってたんです」
男から、思いがけず届けられたクリスマスの贈り物に、高揚して紅くなる“女たち”。湯気の立つような気分が、こちらにも移ってくるようだ。
『メリイクリスマス』は戦後の武蔵野を舞台に、ひとりの作家と、彼の女ともだちの娘との邂逅を描いた物語だ。
ひととひとは、逢うように仕組まれている。会えた奇跡を、物書きは文章で祝福するーー。太宰治は聖子さんたちと再会すると、再び逢えた幸運をひとりでせっせと言葉に紡いでいたのだ。
『メリイクリスマス』はこんなふうに始まる。
東京は、哀しい活気を呈していた、とさいしょの書き出しの一行に書きしるすというような事になるのではあるまいか、と思って東京に舞い戻って来たのに、私の眼には、何の事も無い相変わらずの「東京生活」のごとくに映った。
終戦翌年の暮れ。帝都の大空襲を逃れ、1年3ヶ月の月日を故郷の津軽で過ごして東京に帰ってみると、予想に反して2〜3週間の小旅行から帰ったぐらいの気持ちであった。田舎への手紙にも「この都会は相変わらずです。馬鹿は死ななきゃ、なおらないというような感じです。もう少し、変わってくれてもよい、いや、変わるべきだとさえ思われました」と書いたのだ、と、こう、文中で太宰はうそぶく。
それにしても、この『メリイクリスマス』の冒頭、今わたしたちが読むと、なにやら3.11後の東京の姿とだぶるのが妙である。
師走の雑踏の中を、作家は久留米絣の着流し姿で歩き廻る。小さな映画館でアメリカ映画を見て、本屋で戯曲集を1冊買い求め、それを懐に入れて入り口のほうを向くと、
若い女のひとが、鳥の飛び立つ一瞬前のような感じで立って私を見ていた。口を小さくあけているが、まだ言葉を発しない。
吉か凶か。
吉か凶かーー。作家いわく、昔に激しい恋をしたけれど、今は少しも好きではない女のひとと逢うのは“最大の凶”なのだそうだ。
緑色の帽子をかぶり、帽子の紐を顎で結び、真赤なレンコオトを着ている。見る見るそのひとは若くなって、まるで十二、十三の少女になり、私の思い出の中の或る映像とぴったり重なって来た。
「シズエ子ちゃん。」
吉だ。
と、自分のことをこんなふうに書かれた文章を、書き手の太宰の目前で林聖子さんは読んだわけだ。ヒロインのモデルであるその女(ひと)が、わたしにそっと打ち明ける。
「主人公のシズエ子ちゃんっていう名前、うちの父が倭衛(しずえ)という名前なんで、しずえの子だからシズエ子ちゃんなのかなぁ、って。太宰さんの前で『メリイクリスマス』を読みながら、そんなことを思いました。それと作品の前半はね、三鷹書店でばったり逢ってうちへ行くまでに、わたしと交わした会話がそのままだったんで。『あと、なん町?』と太宰さんに訊かれたりしたこととか、そのまま書かれていたので、すごい記憶力だな、って関心しちゃった」
「メモをとっていたわけでもないのに」
「ええ、そうなんですよね」
メモをとっていたわけでもないのに。でも、その点はわたしも物書きの端くれだから事情がわかる。記憶力が良いーーというのとはたぶん少し違うのだ。目にした風景、耳にした会話、体が覚えた事件……いったん自分の中に落とし込んだそれらの物事を、さもそれが誰にとっての“真実”でもあるかのように書く。その特技を物書きは持っているだけのこと。きれいな嘘をつくのが、上手なだけのこと。
『インタビュウ』と題した、この長い文章の最初にも書いた。太宰は聖子さんの母である秋田富子について、自分の「唯一のひと」であると『メリイクリスマス』の中で公言している。何ゆえにか。
第一に綺麗好きな事。
第二にそのひとがちっとも自分に惚れていない事。自分もそのひとに少しも惚れていない事。
第三にそのひとが他人の身の上に敏感で、つまらぬ事を云わぬ事。
第四にそのひとの処にはいつも酒が豊富にある事。
以上の四つの理由から、シズエ子ちゃんの母は自分にとって「唯一のひと」なのだと、太宰は作中に繰り返し、「唯一のひと」という言葉を使っている。
(前略)それがすなわちお前たち二人の恋愛の形式だったのではないか、と問いつめられると、私は、間抜け顔して、そうかも知れぬ、と答えるより他は無い。男女の親和は全部恋愛であるとするなら、私たちの場合も、そりゃそうかも知れないけれど、しかし私は、そのひとに就いて煩悶した事は一度も無いし、またそにひとも、芝居がかったややこしい事はきらっていた。
小説はおもしろい。わたしは林聖子さんにインタビュウをした数年前と、『インタビュウ』を書き始めた10月の頭に、『メリイクリスマス』を読んだ。そして今再び読み返してみると、先の2回とはまるで違う読後感であることに驚く。自分の眼は節穴だったのか、と思っている。
最初は単純な驚きだった。あの太宰に、彼が手を出さぬ純粋な女ともだちがいた、という驚き。あの太宰に。深い仲にならぬのに、「唯一のひと」という言葉で崇められる。彼女ーー秋田富子さんは、なんてカッコいい女であろうかと憧れた。
だが今は、その部分を大きく受け止めた自分が、むしろ純粋であったのだと思う。3回目に読んで、あれ? と引っかかったのは、「唯一のひと」である勝手な条件を挙げつらねたあとに、作家が(みそぎが済んだとでもいうように)言葉で切り開いてみせる観念の新境地ーーそれはたとえばこんな箇所だ。
「お母さんは? 変わりないかね。」「さっそくこれから訪問しよう。そうしてお母さんを引っぱり出して、どこかその辺の料理屋で大いに飲もう。」 道すがら話しかけるうちに、作家は相手の娘の元気がなくなっていくのを感じる。そして、
私は自惚れた。母に嫉妬するという事も、あるに違いない。
と考えるのだ。
自惚れ? 母に対する嫉妬? なんだそれ、いい齢をして……と読んでいるわたしはいぶかしく思うのだけれど。肩を並べて歩く、輝く若さのシズエ子とさらに言葉を重ねるうちに、
私はいよいよ自惚れた。たしかだと思った。母は私に惚れてはいなかったし、私もまた母に色情を感じた事は無かったが、しかし、この娘とでは、或いは、と思った。
などと、作家は妄想をどんどんエスカレートさせていく。
ばか、ではないか。
いや、男とはこういうものか。
「よく逢えたね。」私は、すかさず話頭を転ずる。「時間をきめてあの本屋で待ち合わせていたようなものだ。」
「本当にねえ。」と、こんどは私の甘い感慨に難なく誘われた。
まったく呆れながら、わたしは文豪の短編から引いているけれど。そんなことおかまいなしに、文中の作家はいっそう調子にのってみせる。娘と逢う前に観ていた映画の話をしては、
恋人同士の話題は、やはり映画に限るようだ。いやにぴったりするものだ。
とひとりごちる。同じ映画を観たと娘から返ってくれば、作品の細部を言葉で描写して、
「逢ったとたんに、二人のあいだに波が、ざあっと来て、またわかれわかれになるね。あそこも、うめえな。あんな事で、また永遠にわかれわかれになるということも、人生には、あるのだからね。」
などと含みのあることを彼女に言い、
これくらい甘い事も平気で言えるようでなくっちゃ、若い女のひとの恋人にはなれない。
と自分で納得してみせる(ばか、か)。挙げ句の果てには、こんなことまで口にする。
「僕があのもう一分まえに本屋から出て、それから、あなたがあの本屋へはいって来たら、僕たちは永遠に、いや少くとも十年間は、逢えなかったのだ。」
私は今宵の邂逅を出来るだけロオマンチックに煽るように努めた。
なんだ、これは喜劇じゃないか。
そうそう、忘れてた。教科書で読んだ『走れメロス』も確かそうだった。太宰治はサービス精神旺盛な、稀代のコメディ作家なのだった。『メリイクリスマス』もおしまいまで読めば、どんでん返しの悲劇な結末が待っているのだけれど、最初は深刻ぶって、途中で笑わせて、事実はもっと酷いと結ぶ。そう結ぶことで、自分をさらにあざ嗤う。自分の愚かさを嗤う、あきらめた醒めた目を、太宰治という作家は持っている。存外、おとなだったのかもしれない。
秋田富子が彼にとって「唯一のひと」だったのは、間違いないだろう。
少女から娘へ変身していた聖子さんと再会して、並んで歩きながら彼の見た夢も、きっと本当だろう。
本当のことを書きながら、欲しがるものは何も手に入らないと、太宰はどこかでわかっている気がする。“物語”をつむぐごとしか、しょせん自分にはできないのだと。
3回目の『メリイクリスマス』を読んで、わたしは思った。これはシズエ子ちゃんこと、若かりし頃の林聖子さんへの、太宰のせめてもの渾身のラブレターだったのではないか。たった、一度きりの。
出典:『メリイクリスマス』太宰治 http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/295_20170.html
「終戦の年に空襲で高円寺のアパートを焼け出されて。それで、お母さまの故郷の津山へ行かれたんですよね」
こう尋ねると、林聖子さんはおっとりとした口調で言った。
「ええ。昭和20年4月の空襲で焼け出されて、その年の10月まで津山で過ごしました。東京にいた叔父や叔母も向こうへ帰っていましたし、楽しかったですよ。津山は田舎なので、昔ながらの日本の暮らしがあって、とてものどかでした」
東京とは一転、岡山県の山間にある町で、聖子さん母娘は穏やかな日々を過ごしたようだ。彼女のエッセイからも、その様子が伝わってくる。
ぶらぶらしているので、松根油にする松の木の根っこ堀りに駆り出されることもあったが、そんなことは少しも苦にならなかった。母と二人、「こんなもので、本当に飛行機が飛ぶのかしら」などといいながら、サボリサボリ作業をすすめた。
文中の松根油(しょうこんゆ)というのは、もしかして……と調べてみると、果たしてわたしにはなじみのあるものだった。高校に入るまで習っていた油絵の、絵の具を溶くテレピン油。つん、と鼻孔を突く、くせがあるけれど涼しい香り、あれが案外好きだった。
松の切り株を乾留して採る油状の液体だ。戦時中、ドイツ軍が松の木の油を使って戦闘機を飛ばしているという情報を得て、やはり燃料不足が深刻だった日本軍が、松根油の製造を試みたらしい。ところが聖子さんたちも「こんなもので……」と思ったように、採取に非常な労力がかかるわりに量をかせげず、飛行機の燃料としての実用化には至らかった模様。
ともかく、松の根っこ堀りに借り出されるぐらいで、疎開地での暮らしは極めて平静であったのだ。
「津山でも、母は太宰さんから手紙をいただいていました。太宰さん、青森に帰っていらしたんですけれど」
今もその葉書は聖子さんの手もとにある。せいこチャンもお母様もご無事の由、安心いたしました、私のほうは三鷹でやられ、甲府へ疎開したら、こんどは甲府でやかれ、さんざんのめに逢ひ、いまは生れ故郷の家に居候してゐますーー等と書かれた太宰治からの葉書。
わたしは訊いた。
「そうすると、8月15日の終戦は津山で迎えられたんですね」
その日を体験したひとには必ず、どんなふうだったかを尋ねるのが、インタビュアである自分の使命だと(勝手に)思っている。相手はたいてい、ちょっと精気を帯びた表情になって、その日のことを話しはじめる。聖子さんもしかり。
「はい、津山でした。もう、何しろね、玉音放送っていうんですか、電波が悪くてあれが津山ではよく聞こえなかった。ラジオも今と違って、性能がよくなかったんじゃないですか、雑音だらけでね、何を言っているのかわからない。わたしなんか意味がわからなくて、『どうしたの?』『どうしたの?』ってまわりに訊いて。『戦争が終わったらしいぞ』って叔父が教えてくれたんです。それで、叔父と叔母と母とわたしの4人で、とっときの小豆と餅米があったので、お赤飯を炊いてお祝いをしたの」
風景が目に浮かぶよう。山間の薄暗い家のちゃぶ台で、赤黒く光る豆と、湯気を上げるもっちりとした桃色の米。塩をぱらぱらと振ったわずかな塩分だけで、甘みが立ってほっくりとおいしく、食べるとたちまち力が湧いてくる。再び生きられることの喜びを味わう御馳走である。
当時17歳だった聖子さんの心身を、終戦は一気に開放した。
ホットすると同時に、すこし拍子抜けしたような気もした。監房に閉じ込められていた死刑因が、突然、「お前は無罪だ。もう出てもいい」といわれたのに似ている。それまでの私たちは、広島、長崎のこともあり、ここでの幸せな暮らしも、いずれは終わりが来る、と暗黙の裡に認めていたのだと思う。
母の場合、流石に、頭の切り替えが早く、すぐ東京での新しい暮らしのことを考え始めた。
「お母さまはお身体はお強くなかったけれど、気丈な方だな、って思ったんです。すぐに東京へ戻ることを考えてらしたって、エッセイにあったから」
「津山では、母の弟夫婦のところへ居候していたんです。そこには子どもはいなかったんですが、やっぱり自分たちだけで暮らすほうがラクですよね。津山にいたのでは、いつまでたっても生活のメドが立たないし。それに東京の様子を見たかったですから、できるだけ早く帰りたかったのね」
「だけど終戦直後は、東京へ帰ってくるのもひと苦労だった」
「そう。わたしたちは10月中旬に津山を離れたんですが、途中で熱海の知り合いの家に居候させてもらって、東京へ戻ったのは11月も終わりに近い頃でした」
「途中下車して」
冗談っぽく笑いながら訊くと、
「途中下車して」
と聖子さんも笑顔で応えて、あとを続けた。
「一ヶ月ぐらい熱海にいたんです。というのはね、あちこちへ疎開していたひとが、一度にワッと東京へ帰ってくると大変なことになるじゃないですか。何せ、まだ焼け野原なわけだし。だから帰るのが規制されていて、東京へ帰る許可証みたいなものが下りるまで、熱海で待っていたわけなんです。熱海では、高円寺時代に母が肖像画を描いた方の娘さんの家にお世話になっていました。とても親切な方たちで、三鷹の住まいを探してくださったのも、この家の方です」
再びの、東京の住まいは三鷹・下連雀の長屋だった。
「ふるーい、元はどっかの寮だったらしいんですけど、五軒長屋の真ん中に空きがあったのでそこへ入ったんです。6畳と3畳間で、鍵もない家なんですよ。一間(いっけん)の幅の玄関にガラス戸が2枚入っていて、その重なりの木枠のところに桐で穴を開けてね、こんな長い釘を、出かけるときは刺すの。それで帰ってくると、暗闇の中でその釘を抜いて、今度は内側から反対向きに刺す。だから誰でも簡単に入れちゃう。焼け出されていますから、取られるものがなんにもなかったから、そんな鍵でよかったのね。そんなボロ家でも、焼け跡の東京にいち早く住まいを確保できたのだから、わたしたちは幸せでした」
三鷹に落ち着くと、聖子さんは都心にある知り合いの会社に勤めだした。母は家で本を読んだり、絵を描いたりしていたが、聖子さんの給料で生活をしていたわけではなく、慎ましやかに暮らしていくだけの蓄えがあったようだ。
下連雀の家に住み始めて、ちょうど一年がたった頃。昭和21年11月の初めの日曜日だった。聖子さんは駅前の三鷹書店へ、有島生馬が父の林倭衛のことを書いているという雑誌「ロゴス」を買おうとして入っていった。戦中に活字に飢えたひとたちで、夕方の書店はごった返していた。「ロゴス」の場所を店員に尋ねるために、一歩前へ出かかったときだ。レジを離れようとしていた男と向き合う形となった。
私は魔法をかけられたようになった。「太宰さんの小父さん」といいかけて、あわてて「小父さん」の言葉を呑み込んだ。太宰さんには、もう三年余りも会っていない、多分、私のことなどもう覚えておられないだろう。「小父さん」などという親し気な呼び方は、今の私にはもう許されない。ふとそう感じたのである。
終戦をはさんで、少女から大人の女になっていたひとの逡巡。
しかし、太宰さんは、やはり昔のままの太宰さんだった。「聖子ちゃん?」「やはり聖子ちゃんかあー」といいながら、近寄って来られた太宰さんは、温かい手をソッと私の肩に置いて、「無事だったのか、よかった、よかった」というように私の顔をのぞき込んだ。
約3年ぶりの再会だった。ひととひとは、出会うように仕組まれている。また逢いたい、と念じていなくても。いつか逢える、と信じていなくても。会うものは会うように、できている。そして、会えた奇跡を、歌うたいは詩で讃える。絵描きは線で喜ぶ。物書きは文章で祝福する。
出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録) 林聖子著・星雲社
・インタビュウ9は明日の夕方の更新になります。すみません。
・さいきん、夜空が澄みきっていて、月や星がとてもきれいですね。地上の人間社会がおぞましい景色になったとき、ふと見上げるとうつくしい世界があるのは、ほんと幸福なことだ、と思います。
・ひとのちからの及ばないところーーたとえば山奥とかに行くほどに、みごとに紅葉した美しい木があったりする。ひとのちから(や想像力)の及ばないところに美しいものがたくさんあるなんて、だからこの世界はすばらしいのだ。という話を少し前に仕事の場でしました。
・一方、うまくいっているとき、バンドにはメンバー以外に「バンドさん」がいるんだ、というのは少し前に親しいひとから聞いた言葉。ひとのちから(や想像力)を超える、ひとのちから(や想像力)なんじゃないかと思う、「バンドさん」は。そういうちから(や想像力)の働きがあるのも、この世界のすてきなところです。
・そんな話ばっか、していたいけれど。この世界のすばらしいところやすてきなところの、そんな話ばっか、していたいけれど。そんな話ばっか、では生きていけない。でも、「そんな話」の割合を自分の中で多くしていけばいいのではなかろうか、って思っている。きもちのスーッとしたり、ふわっとしたりすることの比重を多くしていこう、と。それしか、これからの人生を気分よく過ごす術はない気がしています。
・できるかな、でもやるんだよ。
・というわけで、インタビュウ9は明日の更新になります。すみません。
ペンを置いてからもしばらく、料理をしながら、お風呂に入りながら、ちらちらと「書いたこと」について考え続けている。わたしの日常はいつもそんなふう。そして、だいぶたってから気がつく。〈ああ、そうじゃなかった、自分と真逆なひとだから、秋田富子や林聖子さんに惹かれたのではなかった、聖子さんにインタビュウをした当初は違ったのだ。〉
新宿・花園神社近くのビルの地階にあるバー風紋で、林聖子さんにインタビュウをさせてもらったのは約2年前。以来、聖子さんの母である秋田富子という女のひとが、自分の中に住み着いてしまった。わたしの心の中のアパートに間借りして、ひっそり暮らしているようだった。畳にぺたんと足の裏をつけて、木枠の窓から顔を出し、ときおりこちらをぼんやり眺めている富子さんの姿を思い描くこともできた。
彼女はなぜ、わたしの中に居着いてしまったのか。
わたしが招いたのだ。“真逆なひと”に憧れたからではない。強い共感があったから。もちろん勝手な共感ではあるけれど、〈そうよ、想い続ける人生だっていいんだ。想うだけで、何も手に入れずに、ひとりで生きる人生だってアリなんだ〉と約2年前のわたしはそう思ったのだ。
なんだろう。なにもかもを欲しがることはどうなんだろう、って考えていた。20代からずっと女性誌の仕事をしてきて。わたしの20代は80年代だから、80年代、90年代の日本の女の意識みたいなものを背負って、仕事をしてきた感があったから。
服も靴も本もレコードも、すてきなものをたくさん持っている。お得な情報も、ディープな情報もいちはやくキャッチする。そこそこの学歴がある。英語を喋れる。自己表現のできる、やりがいのある仕事に就いている。すてきな恋人がいる。男友だちも多い。申し分のない夫と家庭を築いている。子どもがいる。子どもをいい学校に入れている。持ち家がある。衣食住のセンスがいい。世界各国の美味を知っている。海外旅行に慣れている。いつも見ている夢がある。いくつになっても若くてきれいな自分でいるーー。
こんなこと、今はもう、おとぎ話だし、若い女の子たちには鼻で笑われてしまいそうだけれど。つい先日までは「そのどれもを持っている」ことが最上で、すてきであるとされていた。資本主義経済とねんごろな女性誌的な価値観では。その価値観の片棒を担ぎながらも、わたしは、わたしたちは欲しがりすぎると感じていた。現実には自分がまるで“持てていない”から、なおさらだった。
それに、林聖子さんにインタビュウをしたときのわたしには欠落感があった。
学歴もなく、英語も喋れず、持ち家もなく、家庭も持たずに生きてきたことに加えて、“欠けているもの”があると考えていた。それは恋心。憧れこそすれ、ひとを希求する心をわたしは失っていた。告白すれば驚かれるほど長い間、恋をしていなかった。男のひとを、まるで好きにならないのだ。男のひとから、好きになってもらうこともなかった。
世の中には恋愛をたくさんすることで、人生や人間が豊かになるという考え方がある。常に恋人がいたり、理解ある夫がいたりするほうが女は幸せ、という通念がある。一理ある、かもしれないし、あるいはそれは真理なのかもしれないけれど、わたしは反発したかった。だって、しかたがないじゃない、好きにならないんだもの。50にもなることだし、もう一生このままかもしれない(人間的ふくらみを持てないままに?)。でも、それでいいじゃない、そういう人間だっているんだよ、しかたがないじゃない、そう思っていた。
だから太宰治のような男の話し相手をしながら、別れた夫を想い続けて、静かな呼吸を繰り返して生きている、秋田富子にとても惹かれた。自分の仕事の場である女性誌でもてはやされる「恋多き女」の対極にある、「恋少なき女」。そういうひともいるんだよ、そういうひともいていいんだよ。秋田富子さんと、時代を超えて、わたしは友だちになりたかった。その母や父と距離を置きながらも、心の中で彼らへ愛あるまなざしを向けている、聖子さんの涼しいたたずまいにも憧れた。
ひととべったり寄り添うことをしなくてもいいではないか。孤独を伴う覚悟さえあれば、ひとりで生きていたっていいではないかーー。それぞれに孤独をにじませている母娘に、だから、わたしは強く惹かれたのだった(その後好きなひとができて、このことを忘れていたのだから、げんきんなものだけれど)。
話を戦前の高円寺に戻そう。秋田富子がひとりで暮らすアパートへは、聖子さんいわく「母とどこか孤独が響きあった」太宰治だけでなく、ダダイストの辻潤もよくやってきた。秋田富子は知的好奇心を持っている上に、「さっぱりとした人で聞き上手」で、女ならではのクッションみたいな包容力を備えていたから、デリケートでいずれ癖のある文筆家業の男たちにとって、気安い話し相手だったに違いない。
あるとき、いつものように立て膝の辻さんが母と話しているところに父がドアを開けた。お金でも届けに来たのだろう。チラリと部屋の中をのぞいた父は、荒々しくドアを閉めると、足早に帰って行った。「馬鹿ねえ、何を考えているのかしら」とつぶやきながら母は、すぐ私に後を追わせた。戻った父は、何事もなかったように母や辻さんと話を始めた。
聖子さんのエッセイの中にある、何かくすぐったいようなエピソード。慌ててドアを閉めた林倭衛のことがちょっとうれしくもあり、猪みたいな体躯を翻して去っていく彼を、富子さんは愛しいと感じたはずだ。
私の家が、世間一般の家庭とはまるで違った家であることを、ハッキリ自覚するようになったのは、やはりこのころからであったと思う。父も時折高円寺のアパートを訪ねていたが、母も私を送りがてら浦和の家を訪れ、食事などをしていた。先妻と後妻が、父をはさんで食事を共にする姿など、普通の家庭ではとても見ることができないだろう。
男友だちや別れた夫が、ときおり訪ねてくる母のアパート。なじみの通い主であった太宰治は、母と離れて暮らす聖子さんを不憫に思ったのか、聖子さんが浦和に帰る際に高円寺駅前の本屋へつかつかと入っていき、彼女のための二冊を買って出てきたことがあるという。
「それがね、『母を尋ねて三千里』と漫画の『フクちゃん』。その頃のわたしはフランス文学を、『クレーヴの奥方』なんかを読んでいましたから、子ども扱いされて不満でした」
ともあれ、彼女たちが高円寺で過ごした昭和15年から、16年、17年、18年、19年あたりまでは、さびしくも楽しい不思議な暮らしが続いたのだった。戦争がいよいよ激しくなるまでは。
戦争ーー。
「私はおおむね浦和にいたので、空襲じたいはそれほど怖いおもいはしていないんです。ただ、高円寺の母のアパートに泊まったときにね、夜に空襲があると、まわりの人はみんな、防空壕に入ったんですよ。だけどうちの母は『どうせ死ぬなら、防空壕みたいなところに埋まって死ぬのは嫌じゃない?』と言って。私も同じ気持ちだったから、ふたりとも部屋の中にいて、窓を開けて寝てました。すると、空が紅くなっているんですよ。そこをB29が通ると、こう、影になって。それをずっと眺めていました。母と並んで寝ながら。怖いとか、全然思わなかったです」
聖子さんがこう言ったので、わたしはオウム返しに聞いた。
「怖いと思わなかった?」
「ええ。女学生だったあの頃は、もう、いつ死ぬかわからない、とかね、そんなふうに思っていて。死ぬっていうことが、だからそんなに……細かく考えていないんですよね。具体的にはなんにも考えていないんだけど、とにかく怖くはなかったんです」
死と生の境界線がぷつぷつと破れていて、空気がしゅうしゅう漏れている。戦時下における人間は、そんな頼りなげな存在なのかもしれない。生きようとする力が弱まる。影法師が薄くなる。
昭和20年1月、いよいよ戦局が危うくなる頃に、大酒による肝硬変腫瘍が自潰して、林倭衛が49歳で死去。聖子さんは17歳だった。父の七七忌と女学校の卒業式をすませると、彼女は浦和を去って、高円寺の母の許に移った。
4月中旬、聖子さんが住民表移動の手続きのために浦和の家に帰っている間に、高円寺のアパートは空襲ですっかり焼け落ちた。母の富子さんは氷川神社に避難していて無事だった。それで母娘は、母の実家のある岡山県津山に疎開することにした。一方、三鷹に住んでいた太宰治は、郷里の青森県金木町に疎開した。
出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録) 林聖子著・星雲社
「高円寺時代に母が、『今日は曇っていて雨が降りそうだから、太宰さん、見えるかもしれないわね』ってよく言っていたのが、印象に残っているんですよ。それで大抵、そういう日に太宰さんはお出かけになった」
早い夕刻。ほんのわずかなあかりだけを灯した開店前のバー風紋は、古いビルの地階ということもあって、水底のように黒かった。その中で、やはり黒い色のワンピースを着て座っている林聖子さんは、陽のにおいが充満する草むらなんかは歩いたことがなくて、しめやかな闇の中でずっと暮らしてきたひとの印象がある。
いまにも雨つぶが落ちてきそうな曇天の日に、高円寺にひとりで暮らす母のアパートを太宰治は訪ねて来たという。ふらりとやってきて、6畳のひと間に膝を抱えて座り込み、秋田富子が出す簡単なものをつまみながら酒を呑んで話をした。そうした姿を少女の林聖子さんは、たびたび目にしている。
家の中で話をしているときは、両方の膝を立てて、両手を抱えるようにして話をされる。だんだん話が佳境に入ってくると、腰を軸にして身体を回し、壁の方を向くようにして話をされていた姿が目に浮かぶ。内容はよくわからなかったが、母との話は文学論が多かったようだ。議論というより、太宰さんの話をただ黙って聞いて上げていたのが、本当だったのだろう。
共に明治42年生まれだから、太宰治も秋田富子も当時31〜32歳。ご存じのように恋愛にだらしがない男で、家庭があっても、そとで係わる女との間に子どもも作れば、心中未遂もする。そんな太宰がひとり暮らしの女のアパートを訪ねて、彼女とは文学の話をするだけの清潔な関係を続けていた。そのことは、林聖子さんにインタビュウをする際にあたった資料で知って、(太宰をよく知らない)わたしにも新鮮な驚きだった。
そんな清らかな女が、太宰治にいたということが。
そんな毅然とした女で、太宰治みたいな男を相手にいられたことに。
からだも、こころも、弱まっていて、ましてや孤独ならば。たとえ頼りがいのない細い木でも、つい、もたれかかりたくなるのが人間というものではないか。
会いにくるのは、求めているからだろうし。曇天におしつぶされそうな日に、「今日あたりみえるかもしれないわね」と予言するのは、心のどこかで待っているからだろうし。
でも、ふたりはからだを触れることはしなかった。
太宰治を可愛いと、秋田富子は思わなかったのだな、とわたしは想ってみる。可愛い、とチラとでも思えば触りたくなるし、いずれちょっとした機会があれば触ってしまうから。だから太宰治はきっと、秋田富子にとって可愛い男ではなかったのだ(余談だけど“可愛い”って“愛が可”なのですね)。
一番気になるところを、林聖子さんはエッセイにこんなふうに書いている。
それにしても、あのころの太宰さんは、なぜ、あのように頻繁に、母の許を訪ねてきていたのであろうか。子どものころのことで私にはよくわからないが、もちろん色恋であったはずはない。あれほどひどい仕打ちをされながら、母は最後まで父を愛していたし、とても色恋などできる人ではなかった。ただ無類の淋しがりやで、父が写生旅行に出掛けたときなど、ほとんど毎日のように手紙を書いていた人なので、あのころの母にとって太宰さんの訪れが、大きな心の支えになっていたことは確かだと思う。
裏切られて別れた夫を、秋田富子はずっと愛していたという。だけど、それはもう、報われない愛なのだ。報われない愛をずっと抱えて暮らす日々の孤独は、いったいどれほどのものだろう。
太宰さんもまた、そんな母に対して、旧家のはぐれ者同士といった共感があり、なにか鬱屈したときなど、母の許をたずねて、ただボンヤリしていることで、心の傷をいやしていたのかもしれない。
こう記したあとで、聖子さんはエッセイの文中に太宰の『津軽』を引用する。そして、太宰が故郷で育ての母を訪ねて、“不思議な安堵感”を覚えたと書くことから、彼女は考える。
このように太宰さんの気持ちの中には、女の中にある母性(無償の愛)というものに対する押え難いあこがれが潜んでいたように思う。ひょっとすると、当時の母の中に、そうしたものを見たのかもしれない。
報われない愛を抱えて生きている女と、無償の愛にあこがれる男。
女がひとりぼっちでも、男が多くの異性と深い仲にあっても、孤独の大きさ深さには変わりがない。今更ながら、そんなことを思って。では、ひとの手に入るものって、いったい何なのだろう、手に入れたものが確かに存在するって、どうして思えるのだろう、とまわりくどいことを考えて。いやいや、そんなことはどうでもいいのだと、頭を振って中身をからっぽにする。考えることと生きることは、違うレールの上にあるとわたしは思っている。
孤独でいても、秋田富子には太宰治という男ともだちがいた。
太宰治には秋田富子という、「唯一のひと」がいた。
その事実に、なぜだか強く長く惹かれるわたしがいる。
それは秋田富子のようなひとに対するあこがれが、自分の中にあるせいだ。
孤独は、そんなものではすくわれないと知るひと。知って、耐えるひと。がまんができるひと。手をのばさずに、そこにあるものを“見つめるだけの人”。
そう。書いていてようやくわかったけれど、秋田富子というひとは、堪え性のかけらもない自分と真逆なひと。その慎み深さに、人間の美しさに、わたしはずっとあこがれている。自分が持ち得ないものだから、興味深く、彼女のことをのぞきこんでいる。
出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録) 林聖子著・星雲社
ことばをつなぐのが たまらなくいやになる
ことばをさわるのが たまらなくいやになる
らららららら らら
ららららららら 『あんなに好きだったこと』山本精一
というわけで、今週は「インタビュウ」シリーズはお休み。
最近のことを少しだけ書きます。
おとつい、納戸の上のほうにのせている紙製の大箱を「これ、なんだっけ?」と開けてみると、中身は大小さまざまなアルバムだった。過去を振り返ることがあまり好きではないので、アルバムなんて滅多なことでは見ないが、おとついはなんとなく開いてみた。稼いでいた頃に泊まった伊豆の高級旅館のバリ風のロビーや、温泉の中で両腕を広げてポーズをとっているまだ若い母。ベトナムを最初に旅したときのハノイの朝もやの風景。ベトナムの魅力に取り憑かれて、山岳少数民族の村など、約一ヶ月間かけてあちこちさまよっていたときの大量の写真。何回となく訪れている中国は……あれはいったい何十年前になるのだろうか……石川夫妻はもとより、特殊音楽家のとうじ魔とうじなんかも一緒に大勢で、神戸から出航する鑑真号という船で上海まで二泊三日かけていったことがあって、そんな写真もアルバムに収められていた。さらに時代をさかのぼると、“東京川クルージング”と称した、東京の川を船で下る催しに参加したときの写真も残っていた。その船の上でたまが演奏をして、それがわたしやあるが彼らと知り合うきっかけだった。恋人がわたしを撮ったポートレートもあった。20歳ぐらいのときにバイトしていた東中野の喫茶店『山猫軒』の前に立つエプロン姿のわたしの姿もいた。
アルバムをめくりながら、なつかしさではなく、妙な感覚に襲われた。いろいろな過去の時間の、いろいろな場所にいる自分の姿を見て、「ああ、こんな女のひとが生きていたんだなぁ」と思うのだ。自分の若い頃ーーというよりも、なにか自分ではないみたいで。知っているようで知らないひとの、生きていたときの姿を見ている、そんな感覚。たぶん今もそうなのだろう。昨日の自分も、おとついの自分も、一週間後、一ヶ月後の自分も、今日のお昼にハムエッグを食べていた自分も、すでに自分ではなくなっている。過去だけでなく、きっと未来も。これから、わたしの身に起こることやわたしの吸う息も、わたしのものではないような気がしている(自分ナゾ、ドウデモイイノダ)。
話は変わるが、今年になって、本当に久しぶりに好きなひとができた。そうしてみると、おもしろいことが起きる。いつか小説の中にでもこっそり紛らせてみようと思っていたのだけれど、いつか、なんて、いつ来るかわからない。だからいいや、ここに書いてしまおう。
あるとき、仕事部屋に面したベランダの端っこに、一羽の鳩が止まって、どういうわけか2、3日ずっと同じ場所にいた。仕事机に向かっているわたしの斜め後、窓の外のベランダの端っこに鳩の存在がずっとある。わたしのそばにいるのだ。で、なんとなく思った、「あ、これは彼だな」。好きなひとがわたしのそばに来ている、と感じた。またあるときは掃除をしていて。わたしは掃除機の長い柄の部分を取ってしまって、ホースを短くして、まるで雑巾がけのように床をはいずりまわりながら掃除機をかけるのだが(ゴミがよく見えるように)、そうして掃除機をかけていると、小さな透明な蜘蛛が床の上にいて、普通は逃げるはずなのに、せっせ、せっせとわたしのほうへ向かってくる。「あ、これは彼だな」って、そのときも思った。好きなひとがわたしのそばに来てくれている。
なんとなく自分のそばにいて、その存在が気になる「生きもの」を、「彼」の化身であると瞬時に感じる。だから、面白いなと思う。恋をしたことで初めて気づいたのだけれど、つまり、わたしはいつしか、人間をそんなものとして捉えるようになっているらしい。たましいは、ときに乗り換え可能なもので。たましいは、それじたいが何らかの意思を持つものではない。たましいは、生きている、というただそれだけの温かい炎。生きものの芯にあるのがたましいで、わたしにとって愛おしいのは、好きなひとのくれる鋭い考察や、甘い言葉や、やさしい眼ざしよりも、彼のたましいなのだ。それが一番大事なもの。この地上に好きなひとのたましいがあることで、わたしは日々、幸せを感じている。
彼に限ったことではなく、自分のまわりにたましいがあるのは幸せなことです。そして、ひとが死んでたましいが消えても、たましいの代わりに残るものはたくさんある気がしている。死んだひとの一部分が、だれかのたましいの中に細かくなって入り込んだりしていると思う。だから、だれかが死んでも、だれかが生きていれば、それでいいのだ(自分ナゾ、ドウデモイイノダ)。
今井次郎さんという希有な音楽家が亡くなった、と知ったのは昨日。きいちがいの浮浪者のおじさんにしか見えなかった今井次郎さんは、石川浩司と『DEBUDEBU』というユニットを組んでいた。http://acocoro.nihirugyubook.but.jp/?eid=117
円盤でのライヴ(なのかな、あれは)が終わったあとで、今井次郎さんは自作のいろんな作品というか気持ちの悪いガラクタ(演奏中に使用する)を大きな風呂敷に包みながら、古い歌謡曲をずっと口ずさんでいた、そのことを夕べは思い出していた。打ち上げのテーブルの端っこで、円盤店主の田口さんや、その日の『DEBUDEBU』のゲストだった日比谷カタンさんを相手に、(確か)戦前の日本のジャズについて熱っぽく話していた姿も思い出した。きいちがいの浮浪者のおじさんにしか見えなかった今井次郎さんだけれど、本当に音楽が好きで、音楽に対して真摯なひとだったのだ、と。今井次郎さんの口ずさんでいた古い歌謡曲のメロディが、夕べはわたしの耳元で鳴っている気がして、そこに彼のたましいの粒子がまぎれているのを感じていた。
死んでいくたましいは、自分の粒子を受け取る生きたたましいがあれば、それでよいのだと思う。だから悼まなくても。自分ナゾ、ドウデモイイノダ。自分であるような・ないようなわたしたちが、それぞれ、たましいを大事に抱えて生きていれば、それでよい気がしています。
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その後の秋田富子について、書こうとして。林聖子さんをインタビュウしたときにつくった、林さん一家の年譜(取材用メモ)を眺めると、一年ごとに様相を変える彼らの暮らしぶりにあらためて驚かされる。
昔の日本人は確かに早死にだったけれど、一年の密度が現代人よりもグッと濃くて、トータルで見ると、わたしたちよりも充実した一生だったのではないか。出会ったり、むすばれたり、別れたり、別れられなかったり、生まれたり、死んだり。男女関係や家族だけでなく、友人関係とか遠い親戚とか、とにかく人間どうしの係わり合いが忙しかったから、日常がわさわさとして、起伏に富んでいたような。
中でも、聖子さんの周辺は次々に変化していって、なのに賑やかさや楽しさの色めき立ちは感じられない。流転の日々を、少女の聖子さんはひとりで淡々と受け止めて過ごしてきたふうに見える。
わたしのつくった年譜には、こんな記述が連なる。
昭和13年、帝展初日。林倭衛が、秋田富子の着物を着た高橋操を連れて現れる。伯母がすぐに、妹の着物だと気づく。→両親の関係に亀裂。
昭和13年秋、鵜原へ。そこには母の代わりに身重の操さんの姿があった。翌年2月、異母妹の葉子誕生。
昭和14年〜15年、祖父母が聖子さんと母を引き取ってくれた。林倭衛と別れたあとも、祖父母は何かと母のことを気に掛けていた。母娘が一つ屋根の下の、ひとときの楽しい暮らし。
昭和15年夏、母が高円寺にアパートを借り、ひとり暮らしを始める。母はいっとき、新宿・武蔵野館近くのカフェ『タイガー』に勤めた。文学好きゆえに、客として来ていた室生犀星、萩原朔太郎、太宰治、亀井勝一郎らと懇意になる。
昭和16年、父、操、聖子さん、葉子、お手伝いさんの5人で、浦和市郊外に祖父母が建てた家に移る。聖子さん、浦和の私立女学校へ通い、土日ごとに高円寺の母のところへ通う。
インタビュウのときには、ノートの下に忍ばせている年譜をちらりと見ながら、確認するようにわたしは訊いた。
「お母様は、高円寺にいらしたんですね」
「ええ。6畳ひと間のアパートでした」
共同の入り口を入り、階段を上がって二階のすぐ左手。戸を開けると半畳ほどの玄関があって、その奧の6畳ひと間が秋田富子のすみかだった。部屋の片隅に、十円玉を入れると火が点くガス台を備えた、小さな流しがあったそうだ。
「カフェで働いたりもして。その頃、お母様のからだは比較的よかったんでしょうか」
聖子さんが答える。
「そうだったようですね。でも完治はしていなかったんです。高円寺時代もカリエスで、胸の骨をね、何カ所かとっているんです。どうも、わたしを産んでから、からだの具合いが悪くなったみたいで。体調のいいときは『タイガー』に勤めていましたが、それも長い期間ではなかったの。そのあとは、何もしていなかったと思います。高円寺のアパートで絵を描いたりして、静かに暮らしていたんです。戦争で焼け出されるまで」
「そのアパートの部屋に、太宰治が遊びに来ていた」
「ええ。太宰さんは『タイガー』にお客としてみえていて。三鷹に住んでいらしたから、高円寺は近いでしょ。それでたまに母のところに寄ってくださったんです。わたしもたびたび、太宰さんにお目にかかりました」
聖子さんが、遠くを見つめるような眼になって話す。
「土日ごとにわたし、浦和から赤羽まで行って、池袋へ出て、新宿、高円寺……と呑気に通っていたんですよね、母のところへ。太宰さんに初めてお目にかかったのは、昭和16年の夏でした。母にお遣いを頼まれて外に出たら、大踏切のところで、白いシャツに黒っぽいズボンをはいて、下駄履きでね、つんのめるように歩いてくる男のひとが向こうから。あ、太宰さん、とわたしはすぐにわかったの。母が描いた太宰さんの顔のスケッチを見ていましたから。それでお遣いから帰ると、さっきの男のひとが母の部屋の前でしゃがみこんでいた。履いていた下駄の前歯がとれちゃったのを打っていたんです」
「それから、アパートでよく遭遇するようになったんですね」
また確認を取るように言ってから、わたしは続けた。
「太宰治の『水仙』は昭和17年に発表されていますけど、あの作品は、お母様が太宰さんに送った手紙がヒントになっているんですよね? 敬愛していた萩原朔太郎の死を嘆く、お母様の手紙が使われた……。作家にそこまでさせるって、やっぱり秋田富子さんは太宰さんにとって特別な、すごく大事な存在だったんじゃないかと思う」
「そうでしょうか。なんか、うちの母はすごい嫌がっていました」
「『水仙』という作品を?」
「ええ」
確かに『水仙』は、読後にもやもやとしたものが残る短編だ。
主人公は金のない小説家。彼と付き合いのある財産家夫婦に起きた出来事を、主人公がひとり語りするスタイルで物語は進む。財産家夫婦の夫人の実家が破産した。それを非常な恥辱と考えた夫人は、もとは「無智なくらい明るくよく笑う」ひとだったのに、妙に冷たく取りすました女に変身してしまった。育ちがよく温厚な夫は彼女を慰めるために、洋画を習うことをすすめる。夫人が絵を始めると、夫はもとより、師である老耄の画伯や同じアトリエへ通う若い研究生などが褒めちぎるものだから、夫人は夫人であることに飽きたらず、「あたしは天才だ」と言って大金を持って家出をしてしまう。困り果てた夫が「こちらに来ていませんか」と訪ねてきたことから、主人公の小説家は事の次第を知る。「とにかく、僕がわるいんです。おだて過ぎたのです。薬がききすぎました」と話す夫を小説家は心の中で嘲笑し、“お金持ちの家庭にありがちな、ばかばかしい喜劇だ”と考えた。
その後、夫人がふいに小説家のところへやって来る。「奥さん、もの笑いの種ですよ」「二十世紀には、芸術家も天才もないんです」と諭すと、「あなたは俗物ね」と夫人に返されたことから、(生まれ育ちや経済上のことで、実は劣等感を持っている)小説家の心情が露呈する部分が面白い。
僕に対して、こんな失敬なことを言うお客には帰ってもらうことにしている。僕には、信じている一言があるのだ。誰かれに、わかってもらわなくてもいいのだ。いやなら来るな。
「あなたは、何しに来たのですか。お帰りになったらどうですか。」
「帰ります。」少し笑って、「画を、お見せしましょうか。」
「たくさんです。たいていわかっています。」
「そう。」僕の顔を、それこそ穴のあくほど見つめた。「さようなら。」
帰ってしまった。
なんという事だ。あのひとは、たしか僕と同じとしの筈だ。十二、三歳の子供さえあるのだ。人におだてられて発狂した。おだてる人も、おだてる人だ。不愉快な事件である。僕は、この事件に対して、恐怖さえ感じた。
と書き写すうちにもわくわくしてくる、太宰の文章のリズムの良さは、やはり凄いものだなぁ、と余計な感想をはさみつつ。引き続き、『水仙』のあらすじを。
自分の絵がまずかったことに気づいた夫人は、酒に溺れる日々の中で、小説家に長い手紙を送ってくる。「いままでかいた絵は、みんな破って捨てました」「私の絵は、とても下手だったのです。あなただけが、本当の事をおっしゃいました」「私は、出来る事なら、あなたのような、まずしくとも気楽な、芸術家の生活をしたかった」と。さらには、かつて小説家を訪ねたのは、ちょっとましな画がかけたと思ったので見せたかった、見て褒めてもらって、小説家の家の近くに間借りして、まずしい芸術家どうしの友だちになってもらいたかった、という真意もそこには書き添えられていた。
封書にあった番地を小説家が訪ねると、6畳ひと間の何も無いアパートに、あやしい安酒のせいで耳が聞こえなくなり、瞳に生きる輝きの消えた夫人が淋しく笑ってそこにいた。彼女と筆談するうちに、「もしや」と小説家は思う。そして老耄の画伯のアトリエに行き、そこにわずかに残っていた夫人のデッサンを目にするや、小説家は自分の勘が正しかったことを知り、その水仙の絵を画伯の前で破ってしまう。
水仙の絵は、断じて、つまらない絵ではなかった。美事だった。なぜそれを僕が引き裂いたのか。それは読者の推量にまかせる。静子夫人は、草田氏の手許に引きとられ、そのとしの暮に自殺した。僕の不安は増大する一方だ。
太宰治流『藪の中』といったところだろうか。何が真理なのか、ひとの価値観や審美眼とは何なのか。うらやむものと、うらやまれるものとの違いは何なのかーー。この地上にはすべて真理がないものと感じさせ、読み手まで主人公同様に不安な気持ちにさせてしまう。太宰の筆力に、わたしは『水仙』を読んで圧倒される思いだったけれど。
この作品に、実生活で係わりのある人物にとっては、複雑、いや不快な読後感が残るだろう。聖子さんはエッセイに綴っている。
母をモデルにしたというより、母の手紙にヒントを得たと思われる太宰さんの「水仙」には、
ーー耳が聞こえなくなりました。悪いお酒をたくさん飲んで、中耳炎を起こしたのです。
という部分があるが、これはいかにも太宰さんらしい脚色で、悪いお酒を飲んだためではない。萩原先生の死を悼む悲しみの涙が耳に入り、それが中耳炎となって、母の鼓膜を損傷したというのが真相。
なお、母は手紙を無断でつかわれたことと、「水仙」の主人公のあつかいを好まなかった。
「……雨の音も、風の音も、私にはなんにも聞こえませぬ。サイレントの映画のやうで、おそろしいくらゐ、淋しい夕暮です。この手紙にはお返事は要りませんのですよ。私のことは、どうか気になさらないで下さい。淋しさのあまり、ちょっと書いてみたいのです」
という心の奥底を世間に晒されたことと、次のような部分がこたえたのではないかと思う。(『風紋五十年』収録・林聖子エッセイ「いとぐるま」より)
聖子さんが「次のような部分」として挙げるのは、主人公の小説家が夫人のアパートを訪れて目の当たりにした、夫人の描写。「けれども、なんだか気味がわるい。眼に、ちからが無い。生きてゐる人の眼ではなかった。瞳が灰色に濁つてゐる」などという箇所だ。
この件について、わたしには何も言う資格はない。ひとからもらった手紙や、ひとからもらった情報や、そのひと自信のマイナスなことを、なんのことわりもなく文章に組み込んだり、脚色したりして、公然のものとすることを自分もやってしまうから。酷いことだと思うし、そんな自分を庇護するつもりはないけれど、太宰のしたことを責める気にも正直なれない。そういう体質なのだから、しかたがないと思うだけ。嫌われても、縁を切られても、しかたがない。やめられないのだから、わたしたちはそれを。
誰かを傷つける罪とひきかえに、“ほかの誰か”を楽しませることを物書きはする。でもそれだって本当のところは、“ほかの誰か”を楽しませたいわけではなくて、自分が楽しいから、それをするのだと思う。たとえひとをひどく傷つけても、書くことが楽しいから、自分の喜びだから、それをしてしまうのだ。
自分勝手で性悪で薄情な人間である点で、太宰もわたしも同じ。文豪と自分を一緒にする大胆不敵を許してもらえるのなら、わたしたちは同じ穴のむじな。
だとしたら、せめて自分だけでなく、“ほかの誰か”も楽しめる文章を書かなければ。わたしはともかく、太宰治は確かにそれをした。“ほかの誰か”を楽しませることもさんざんしたし、彼はその上、ひどく傷つけたひとたちを、逆にものすごく喜ばせることも文章でやっている。存外、やさしいひとだったのかもしれない。薄情である一方で。
出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録)林聖
子著・星雲社 『水仙』太宰治 参考文献:東京
人2008年12.10臨時増刊号 林聖子インタビュー
/文・森まゆみ「太宰さんは明るい方でした」
バー風紋の黒いソファに向き合って座り、インタビュウを始めて1時間が過ぎた頃だろうか。
「わたし、イボンヌさんの写真を持ってきたの」
聖子さんが唐突に、しかも自分からその話を切り出したので、わたしはハッとした。
イボンヌ。彼女のことは資料の中に出てきたので知っていた。林倭衛のフランスの恋人。
大正10年(1921年)に初めてパリへ渡ったときに、林倭衛はほかの日本人画家のモデルをしていたイボンヌと出会い、恋に落ちた。日本に帰ると彼は秋田富子と深い仲になり、富子の妊娠がわかって結婚したけれど、心はまだフランスに向いていたようだ。
昭和3年(1928年)1月、聖子さん誕生の年に再び渡仏し、イボンヌと再会。パリのアパルトマンや、かつてセザンヌが使っていたプロヴァンスのアトリエを借りて彼女と暮らし、昭和4年3月に帰国するときには、イボンヌのお腹に赤ちゃんがいたという。
「え、イボンヌさんの写真ですか?」
聖子さんの言葉に驚きながら、わたしはとっさにこう続けた。
「どうして、それを聖子さんが持ってるんですかねぇ」
すると、穏やかな目をした銀髪のひとは、ちっとも悪びれずに言うのだ。
「父が旅行していて家にいなかったときに、引き出しを覗いたらネガが出てきたんで、現像しちゃったんです。戦時中、女学校のころに。そうしたら男の子と、女の人が映っていたの。ジョルジュ、という名前なんですけど、わたしよりひとつ下の異母弟は」
差し出されたセピア色の1枚を見ると、思いの外おとなしい感じの異国の女性と、巻き毛の小さな男の子が映っていた。
共犯のものたちーー。そんなフレーズが頭に浮かんだ。思い出したのだ。高校を早退した午後に、薄暗い友だちの家で過ごした時間のことを。父親の不倫相手が有名な女性評論家の誰それだった、とか、認知だけされている新聞記者の実の父に会いに行った、とか。わたしも父が家に帰らぬひとだったし、よくもそんな境遇の女の子ばかりが集まったものだと思うけれど、ロック雑誌を通して知り合った、有名進学校に通う年長の女子高生たちと3人で、秘密の打ち明け話になった。知ってはいけないことを知る、見てはいけないものを覗き見る、共犯の罪悪感と好奇心。見せてはいけないものを見せて、束の間の仲間をつくる、心のさびしい少女たち。わたしたちは、わるものになりたかった。
「お父さまは、そういうことを、お話になる方だったんですか」
写真を手にして訊くと、
「なんとなく、わたしもふたりのことは知っていましたよ。うちの母から聞いたのかなぁ」
聖子さんの口ぶりははっきりしなかった。だが、彼女には次に用意していたものがあったのだ。傍らに置いていた茶封筒から、それを取り出すと、テーブルの上にひらりとのせて話す。
「それでこれが、父がイボンヌと自分を描いた絵。だいぶ前だけれど、信濃毎日新聞に私がイボンヌのことを書きました」
1989年の信濃毎日新聞の記事の切り抜き。林倭衛の作品『無題 パイプをくわえた男の肖像』の写真が大きく掲載され、その下に聖子さんが書いた文章が添えられている。わたしは切り抜きをテーブルの上に置いたまま上からのぞきこんで、絵を一瞥してから活字を目で追った。文章はこんな書きだしだった。
私は、この画を見るたびに不思議ななつかしさを感じる。この気持ちは、単に若き日の父の姿がそこにあるというだけではない。父の部屋の掃除などをしているうちに、押し入れの奥にあるこの画を見つけ、「この女の人は誰だろう」「なぜこの画はいつもこんなところに置かれているのだろう」などと感じた少女時代の自分を思い出すからである。
押し入れから聖子さんが発見した絵は、元はセザンヌが使っていたプロヴァンスのアトリエでの一場面らしい。四角いテーブルにパイプをくわえた黒い口髭の男が座り、その隣で、あごの長さに切りそろえたボブヘアのカーディガン姿の女性が本を読んでいる。壁も、彼らの着ているものも、ジンクホワイトをたくさん混ぜた灰色。全体にモノトーンの絵の中で、テーブルにころがる果物の黄色だけが色味を放ち、さびしげではあるけれど、その空間にしみじみと温かいものが流れていることが伝わってくる。
「イボンヌさん、どんなひとだったんでしょうね」
切り抜きから顔を上げて、わたしは訊いた。
「なんか、とっても面倒見のいいひとだったようです。日本女性以上に男のひとに尽くすタイプで、顔立ちも日本人に似てた、って、父の知人でイボンヌさんに会ったことのある方がおっしゃっています。うちの父はイボンヌさんに愛されて、大事にされていた」
「幸せですよね、お父様は」
「だけどイボンヌには、すごく失礼な話でしょう」
もちろん!と胸の中で応えて、わたしは大きくうなづいた。
もちろん、もちろん、資料を読んで、事の次第を知ったときから思っていた。なんていう男だろう、と呆れていた。だけど娘である聖子さんが事も無げに淡々と話すのに、インタビュアが熱くなってはいけないと思って自制していたのだ。その封印が解かれた気がして、わたしは立ち入ったことを口にした。
「イボンヌさん、知っているわけでしょう? 日本に妻子があることを」
「どうなんでしょう、そのへんはわからない。仕送りだって、ねぇ、最初はしていたかもしれないけれど」
あぁ、仕送り……。「本当に好きな人でないと描けない」画家である林倭衛の経済状態が、決してよかったとは思えない。秋田富子の病気の入院費や治療費もかかっただろうし、富子さんと別れたあともたまに生活費を渡していたようだし。二番目の妻との間にも、子どもがふたりいるし……。その上、海の向こうの遠く離れた“家族”の面倒まで、彼が見たとは思えないのだ。
あ、それじゃあ……と気がついて、わたしは言った。
「じゃあ、お父様、そのあとはバッタリ、ですか」
「2度目に行って、そのあとはフランスへ行っていないんですよ」
「ああ……。イボンヌさん、再婚していればいいけどね」
語尾がいきなり馴れ馴れしくなったのは、親密さを図るインタビュアの計算ではなくて、本心でそう思ったからだ。それに、イボンヌとは結婚していたわけではないから、正しくは“再婚”ではないのだけれど……話が話なだけに、会話が少しくだけたテンポになった。インタビュウ相手が同性だと、女どうしの気楽さで、場がこんなふうに井戸端会議めくことがままある。
聖子さんも、女ともだちに耳打ちするみたいに言う。
「それが、してないの、たぶん」
イボンヌがその後に結婚を、である。
「有島生馬さんが、ときどき向こうへいらしたときに……」
と続いて彼女の口から出た名前は、作家の有島武郎の弟である洋画家で、林倭衛と懇意だった人物。
「有島さんがパリに来ているという情報を知って、イボンヌさんが訪ねてきたらしいんです。だから、しょっちゅう気にしていたんじゃないですか、フランスに渡ってくる日本人の動きを。イボンヌさん、ジョルジュを連れて有島さんのところにやってきて、『どうしていますか』って父のことを聞いてたみたいですよ」
「わあ、せつないですね、それ」
「でしょう?」
「お父さん、ひどいですよ」
とうとう、わたしは訴えてしまった。
「ほっんとうに、ひどいと思います」
聖子さんも深くうなづく。
「数々、みんなをーーー」
という批判めいた言葉も、わたしの口から突いて出た。
「そう」
と、ため息まじりにうなづく聖子さん。
遠い目になって、わたしはつぶやく。
「ジョルジュ、どうしちゃったんでしょうね」
父に一度も逢うことのなかった、海の向こうの彼の人生。想像もつかないではないか。
「だからもう……どうしているんでしょう。わたしよりひとつ下だから、82歳でしょう。亡くなってるんじゃないの? 男のひとのほうが早く亡くなるでしょう」
あぁ、なんという話であろうか。
と、こんなやりとりをしながらも、ずっと、わたしの胸の中でざわざわしていたのは林倭衛の身勝手さではなく、つい今しがた知った事実のほう。不在の父の引き出しからネガを見つけて、こっそり現像した女学校時代の聖子さんのことだ。
印画紙に現れた異国の母子の肖像、それを見たときの彼女の、時間の流れがそこだけパタッと停止したような心の静けさ。遠い昔日のその瞬間を想うと、まるで自分のからだに刻み込まれた記憶みたいだ。秘め事を知ってきゅっとしたあとに、胸にひろがる時化た海の静けさーー。
知ることは、引き受けること。知りたくて知って、引き受けたところで自分にはどうすることもできない虚空を、彼女はその後抱いて歩くことになる。わるものになる快感とひきかえに、おとなになる前に知ってしまった、少女の一生の諦念。それを伴侶に生きることが、彼女に強いられ瞬間だった気がする。
出典:『風紋五十年』(《無題ーパイプをくわえた男の肖像》」収録 林聖子著・星雲社)
「鵜原にも、そんなに長くはいなかったんですよ。6ヶ月ぐらい」
エメラルドの入江をのぞむ南房総の鵜原理想郷で、林聖子さんは小学校3
年生の秋から冬にかけてを過ごした。昭和13年。いくさが始まる3年前の、
まだ世の中がいくぶん静かだった頃に。
理想郷と名の付く風光明媚な土地に暮らしても、(一カ所に定住できな
い)父は絵を描きに方々へ出かけて留守がちだった。代わりに聖子さんの
側にいたのは父方の祖父母と、博多で芸者をしていた二番目の母の高橋操、
それに鵜原で生まれたばかりの義母妹。前年に林倭衛(はやししずえ)と
離婚した、聖子さんの母の秋田富子の姿は当然そこにはなかった。
「母はその頃はサナトリウムから帰ってきて、津山の実家にいたり、東京
に住む伯母の許に身を寄せていたり。未遂に終わったんですが、鵜原から
わたしを連れだそうとしたこともあったみたいですね」
君が行為ゆるすべからずいつとせの吾がいきどほりきはまりにけり
汝を思ふ心は成らずふる里のふりにし家にゆきて忍ばむ
うみべにし夜はさびしき虫の声ききつつあらむ吾子が思ほゆ
これは秋田富子が当時詠んだ歌だ。夫の裏切りに対する憤りと喪失感、
離れて暮らす我が子を思う気持ち……。なんのひねりもなく、感情のまま
にストレートな言葉でうたわれる歌は、かえって詠み手の切羽詰まった“行
き場のなさ”を浮き彫りにする。そしてまた、女という性の単純明快さも。
それにひきかえ、わたしにとって不可解なのは林倭衛という男の言動だ。
1937年(昭和12年)に林倭衛は富子さんと別れたが、自分の身から出た
錆なのに、離婚は彼の本意ではなかったらしい。聖子さんはエッセイ『い
とぐるま』に書いている。
父の傍にはすでに操さんがいたにもかかわらず、どうしても離婚に同意
せず、母を苦しめることになった。父は父なりに母を愛していたのだと思
う。しかし潔癖な母に、そうした境遇が耐えられるはずもなかった。
父は父なりに母を愛していたのだと思うーーと娘の聖子さんはさらりと
書くけれど。絵の才にも友にも知性や経験にも恵まれた林倭衛は、14歳年
下の富子さんを娶るとすぐにヨーロッパに渡り、1年以上も滞在して彼女を
ひとりぼっちにした。女学校のときに岡山の津山から上京し、18歳で結婚
してすぐに子どもを産み、病気を患い……世間を知りようもない年若い妻
はどんなに心細かったことだろう。夫は帰国後もしょっちゅう旅に出てい
たし、その挙げ句によそに女をつくる、子どもを孕ませる。いったいどん
なふうに、林倭衛は秋田富子を愛していたというのだろうか。
わたしには男の心がわからない。どうせわからないのだからと、ハナか
ら知ろうとしないところもある。それでインタビュウのときも、のちに原
稿を書くときにも、そこいらへんは“考えない”“触れない”ことにしてスル
ーしていた(太宰治の話を筆頭に、ほかに触れなければいけない事柄がた
くさんあったし)。でも、インタビュウから時を経て、この文章を書くた
めに再び資料に目を通していると、ふと、心に留まることがあった。
風紋30周年を記念した冊子に、聖子さんが寄せた『林倭衛日記抄』と
いうエッセイ。そこに彼女の父の昭和10年の日記が挙げられている。昭和
10年は、林倭衛と秋田富子が結婚して8年目。父は尾道に滞在して絵を描
き、母は千葉の市川の家で自宅療養をしていた。
一日たりとも欠かさぬ日記の中の林倭衛は、定宿でカンバスに向かい、
仕事に飽きると地元の画家友だちと酒を呑み、カフェーへ行ったり、時に
は芸者をあげたりして、勝手に暮らしている印象だ。電話のない当時の習
わしであったのだろう、家族、親族、友人(意味深?な女性も含む)と盛
んに手紙のやりとりもしている。特に「発信父、富子」「来信、児玉、秋
田房次郎、富子」「十月四日 仕事せず。来信富子」といった記述が目立
つことから、富子さんと頻繁に手紙のやりとりをしていたことがわかる。
その日記を読んで、わたしの目がとまった部分がこれだ。
九月二十九日 曇ったり晴れたり。朝食前、室から六号を描く。ひる前、
岩と松を十号に始める、去年と同じ構図也。午後、長江道にて六号を始め
後ち昨日の十号を描きあげる。富子に雑誌「改造」「文芸春秋」、「週刊
朝日」増刊等を送ってやる。(後略)
林倭衛は尾道から、富子さんに雑誌を買って送っているのだ。病気で外
に出られない妻を思ってのことだろうが、その奧にくすぶる景色が今のわ
たしにはなんとなく目に浮かぶ。
自分が選んだ読み物を届けることは、林倭衛の、彼なりの富子さんの“愛
し方”ではなかったか。遠方から、そばにいられない代わりに、自分が選ん
だ活字を送ることは。一方の富子さんにとっても、男が自分の身の代わり
に送ってくるような書物を繰る時間は、せめてもの幸せのときだったに違
いない。ざらりとした紙の手ざわり。黒々として並ぶ無骨な活字。硬派な
雑誌を開くのは、男のにおいがしみついたセーターをこっそり着てみる感
覚に近い気がする。
林倭衛は1895年(明治28年)長野県上田に生まれた。父親が政治にお
金をつぎ込んだため家業がうまくいかず、12、3歳で上京。書店や印刷会
社に務めるなど早くから労働をした。そうした中で思想関係の印刷物に触
れ、街角でチラシを受け取ったりするうちに、自らの逆境に対する不満も
あって、アナキズムにひかれるようになる。会合に出て16歳で大杉栄に出
会い、大杉らが興したサンジカリズム研究所に参加。同時期に日本水彩画
研究所の夜間部に通い始める。絵よりも政治運動のほうが彼にとって比重
が重かったようで、道路人夫をやりながら大杉栄が出していた『平民新聞』
の配布を手伝っていたが、「大好きな大杉さんが父に、君は運動をやめて
絵一本で行けよ、と勧めたから」(『東京人』記事内の聖子さん談)、19
16年(大正5年)の第三回二科展に出展し、21歳で初入選(東郷青児や
田中善之助も同年の初入選者)。1919年、大杉栄をモデルとした『出獄の
日のO氏』を二科展に出そうとした際に、東京検察局から撤回命令が出て、
やむなく出展を辞退。そのことでジャーナリズムが騒ぎ、大杉本人が「な
ら、俺が絵の代わりに壁の前に立つ」と言ったことなどから、新進画家・
林倭衛の存在がかえって注目されることとなる。その後、渡仏。帰国して
秋田富子と結婚。再び渡仏。1926年(大正15年)に帰国してからは、日
本各地の風景画や人物画を描いたが、徐々に酒や人と付き合う時間のほう
が増してゆき、絵を描く体力と魂の力が弱まっていったようだ。1932年
(昭和7年)、親友の詩人・辻潤を描いた『或る詩人の像』など5点を春陽
会に出品。だが、上記の絵のほかは芳しい批評を得られず、春陽会雑報に
林倭衛はみずからの筆で、自作がふるわない言い訳を書いている。
本性が怠者の故であるか、常に物資と義理を欠き、酒を呑むことだけが
唯一の日常となつたやうな工合である。至極ありふれた道である。仮に、
絵を描くに不自由でない境遇に置かれたとして、果たして僕はその道に精
進するだらうか。さうなつて見ねば自分には明瞭りとは分らない。怠け、
酒を飲み、漫然とぶらついていゐることに後悔なく、泰然としてゐられる
なら、そこにも一つの理はあると思ふ。僕は今の社会に対して甚だ興味が
薄い。(抜粋)
書くことを本業としないひとの文章には、人柄がよく表れる。これを読
んでわたしは、林倭衛は無茶はするけれど、精神の清らかなゆえに弱い人
物だった気がしてきた。だから絵を描けぬ理由も、彼自身の言う「怠け」
というよりも、聖子さんが雑誌『東京人』のインタビュウで話しているこ
とが、本当のところを言い当てているのではないかと思った(以下、文中の
「野枝」は作家でアナキストの伊藤野枝。辻潤の妻で、大杉栄と愛人関係にあった)。
父は、野枝さんの肖像も描く約束をしていましたが、それが果たせなく
なりました。約束はしたけど、どうしても描けなかったとも言っています。
父は本当に好きな人でないと描けない。野枝さんが辻(潤)さんを捨てた
ことも、大杉が前の奥さんや神近さんを捨てて野枝さんといたことも、ス
ッキリしなかったんじゃないですか。
またもや聖子さんはさらりと口にしているが、「本当に好きな人でない
と描けない」画家が、今生で生きやすいはずがない。生きにくさの慰みに
なるのは、酒か女かーー(彼はそのどちらも取ったのだろう)。友人で詩
人の岡本潤は林倭衛をこう描写している。〈猪のような体躯で、飲んでい
るあいだはほとんど固形食物を口にせず、アルコール飲料ばかり底なしに
飲んでいた。それに林は、いつも可愛らしい六つぐらいの女の子をつれて
いた〉(岡本潤『罰当たりは生きている』未来社刊)。
無茶な酒の飲み方をしていたらしい。それにこの文章で気になるのは、
林倭衛が幼い聖子さんを傍らに置いて酒場で呑んでいたこと。いや、それ
を咎めたいのではなくて。つまり聖子さんは父に可愛がられていたらしい。
父がとくべつに愛し、信頼を置いた娘だったらしい。
インタビュウのとき、聖子さんが言った言葉も忘れられない。
「父はアトリエの掃除だけは、二番目の母にはやらせなかったんです。い
つもわたしに『おまえ、掃除しろ』って。ほこりが立つと、描きかけの絵
にほこりがくっついちゃうので。注意深く掃除しないといけないので」
初対面のインタビュアを相手に、つい調子にのったり、余計なことを言
い過ぎたりしない冷静沈着なひと。それでも、この言葉には聖子さんのさ
さやかな自負を感じた。継母や異母妹よりも、自分が父親にとくべつ愛さ
れていたという自負をーー。わたしは自分が父親の愛情を途中で見失った
ふうなので、彼女がちょっとうらやましくもあった。彼女に少し嫉妬した。
著書『風紋五十年』の中のインタビュウでも、聖子さんは聴き手に対し
て話している。
亡くなったのが一九四五(昭和二十)年一月でしょ。その前の年の秋に、
父は「もう戦争は終わる。日本は負ける」って。「そうしたら、フランス
へ行くから、おまえは、俺の鞄持ちだ。ついて来い」「じゃあ、葉子ちゃ
ん(著者の異母妹)は?」と訊いたら、「葉子は嫁に行くんだ」「じゃあ、
もっちゃん(木平。著者の異母弟)は、どうするの?」「男は、ほってお
けばいいんだ」ですって(笑)。(フランス行きを)楽しみにしてたのに。
こう語る人の内心のうれしさがわかるのは、わたしも聖子さんと同じ長
女だからだろうか。自分が父親にとってとくべつな子であるというふうに
思いたがるところが、わたしたち長女にはあるのかもしれない。それが世
に言うファザーコンプレックスというものなのか、知らないけれど。
アトリエに入って、ものに触れることは、聖子さんだけに許された特権
だった。戦火が激しくなる前の戦時中、いつものように父が不在だったと
きだ。手持ちぶさたゆえか孤独をまぎらわせるためか、特権を行使してア
トリエに入った聖子さんは、父の机の引き出しをまさぐり、秘密のものを
見つけてしまった。
出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録 林聖子著・星雲社)『風紋30年ALBUM』
『大杉栄、辻潤、林倭衛をめぐる、愛すべきアナキストたち』(東京人2008年10月号
森まゆみ・文)
「金木犀の香りはわざとらしくて好きじゃない」って、いつか言っていた親友は、今月もライヴが終わると早々にパートナーとどこかへ消えた。きっと、いつものように高円寺の市場の中のベトナム料理屋で、ディルをまぶした揚げ白身魚やライムを搾ったトマトと牛肉のフォーでランチをすませて、次の楽しみ事へと彼らは急ぐのだ。
10月の日曜日の真昼間。2012年からのすきすきスウィッチの、3回目になるライヴの日。わたしはT夫妻と、金木犀の甘い香りがどうしたってつきまとう青い秋空の下を歩いていた。ゆるい陽ざしと、お酒が入って熱くなった頬を冷やしてくれる気持ちのいい風。円盤での打ち上げを続けているひとたちより一足早く、T夫妻を次の打ち上げ場所である安い中華屋へ案内する役目を買って出たのだけれど。円盤で黒霧島のロックをすでに2、3杯呑んでいる、ふんわりした気分のままにどうやら道を間違えたらしい。近いはずの中華屋になかなか辿り着けない。
「ごめんなさい。間違えちゃったみたい。すごい遠回りしてる気がする」
いつもライヴに来ているので、顔見知りではあるけれど、直接的には言葉を交わしたことがなかったT夫妻にわたしは詫びた。
「いや、これはむしろいい回り道だよ」
夫のTさんがニコニコとした顔で言った。もちろん、わたしに気を遣って、ではあるけれど、実際、彼らは迷い込んだ裏道のなんてことない風景を面白がっているようにも見える。
ひとり暮らし用の小さなマンションや、やっているのかいないのか判別のつかぬ飲食店が混在する迷路ーー。確かに彼の言うとおり、わたしたちがしているのは「いい回り道」だった。50歳を過ぎた大人の男や女になって、日曜日の昼間に、物理的にはまったく親しくないつながりにもかかわらず、ほろ酔いで肩を並べて高円寺の見知らぬ小道を歩いている。ふわふわとニコニコとした気持ちで、意味も目的もない遠回りを楽しんでいる。これもまた例の……ふつうならありえない時空間(そうか ふつうじゃないんだっけ)。
T夫妻はいつから円盤に通っていたのだろう? 夫のTさんはとあるバンドのギタリストで、〈男〉とは旧知の仲らしいから、去年11月に〈男〉とPさんが公開練習を始めたときからずっとなのかもしれない。練習後にそのまま円盤の窓際でずるずると続けられる打ち上げに、わたしが初めて加えてもらった4月には、彼らはすでにそこにいた。いつもニコニコとして、穏やかな口調で〈男〉と会話しているTさん。奥さんが静かに寄り添って、うなづいたり微かに笑ったりしている。そんな彼らの間に割り込むことは憚られたから、わたしはT夫妻と、それまで言葉を交わすことをしてこなかった。でも、それでも彼らは充分に“親しいひと”だった。遠回りの小道を肩を並べて歩きながら、わたしは初めて彼らに話しかけた。
「公開練習の録音を繰り返し聴いているものだから、おふたりの声をわたしはいつも聴いていて」
え? という顔でT夫妻がわたしのほうを見る。
「おふたりがちいさな声で、演奏が始まる前や合間にささやく言葉が、録音されているんです。わたしにとっては、それが公開練習の演奏の一部になっていて、なんとも心地がいいんです。おふたりのささやきが」
本当だった。〈男〉とPさんがカバー曲を演奏したあとで、Tさんが「ブライアン・イーノ」とうれしそうな声で隣の妻にささやき、妻も「はい」とうれしそうに返す。何かの演奏のあとには、よっぽど彼らの好きな曲だったのだろう、「ちょっとこわい」とくすぐったいような声で妻が夫にささやくのも聞こえる。そういう声や、円盤店主の田口さんが演奏の始まる前に流している曲や、誰かの咳き込む音のすべてが、わたしにとっての公開練習の記憶。音楽だけがぽん、と浮かび上がるんじゃなく、そこにいるひとたちの気配の中に音楽がある。そういう時間が、わたしも好きだった。T夫妻同様に。
でも、それももう、遠い時間の記憶となっていく。公開練習を経て、〈男〉とPさんに彼が加わってすきすきスウィッチになって、公開練習の続きのように、円盤の“昼の部”で3回のライヴをやった。次の11月のライヴは、円盤の夜のレギュラーの時間帯に行われる。だから昼間のまほうは、ひとまず10月でおしまい(またそのうちに再開される様子だけれど、そのときはまたそれで新しい時間になるわけだし)。11月からは、また違う物語が始まりそうな気配がある。
10月のライヴのあとで〈男〉が、中華屋での打ち上げにTさん夫妻を誘うと、Tさんは言った、「今日は、参加させてもらおうかな」。「今日は、」なのだな、とわたしは端で聞いていて思った。ということは、いつもは彼らは遠慮していたのだ。ズカズカと入り込まない、ベタベタと馴れ合わない、慎み深いひとたち。
公開練習も円盤の夏祭りも、毎回欠かさず〈男〉の演奏を聴きにきていたT夫妻が、9月のすきすきスウィッチの2回目のライヴには入れなかった。予約をしようとしたときには、すでに定員に満ちていたのだという。入れなくても、彼らは円盤に来ていて、閉められたドアの外で聴いていた。その姿を見つけたとき、なんて奇特な……と少し驚くと同時にわたしは内心呆れてもいたのだけれど。「いやあ、外に漏れてくる演奏を聴くのは、それはそれでいいものなんだよ」とTさんがニコニコしながら言ったので、このひとたちにはまったくかなわないな、と思った。どういうわけか〈男〉には、この手のファンがいる。遠回りを「いい回り道だよ」と言うようなひとたちが。急がない、焦らない、怒らない、決めつけない(わたしと真逆なタイプだ)。だから〈男〉のことを、なんて幸せなひとなんだろうと思う。そんなにすてきなひとたちが回りにいるのだから、彼自身もきっとすてきなひとなのだろう、と思う。でも、実際の彼については、まだよく知らない。
10月のすきすきスウィッチのライヴは、不思議な親密度に満ちていた。〈男〉はなにかを「伝えよう」として、この場に来ているとわたしは感じた。ゆっくりと、かすかにうごめくものを見失わないように、ゆっくりと、ゆっくりと進んでいこうーー。そんなことを、1時間みっちりの演奏のすべてで「伝えよう」としていた気がわたしにはする。演奏の終わりあたりに、彼はこんなことを喋った。
少し話をします。今から100年ぐらい前までは、音楽っていうのは必ず、演奏するひとがそこにいないと、聴けなかったわけですが。そうすると、演奏しているひとが奴隷だろうが、召使いだろうが、村のひとだろうが、必ず関係をとらないと、音楽っていうのは聴けなかったわけです。それが数十年前から、からだがないのに音楽が聴けるようになりました。で、自分の生活のほうに勝手に音楽を引き寄せてこられるようになったのは、この20年のことだと思います。散歩するのに、音楽って聴かないといけないのか。部屋で体操するときに、あるいは料理するときに、音楽かけなくたっていいじゃないか。って思います。ほかに、聞こえてくるものを聴けばいいじゃないか。なあんて思うんですが。だから、かなり音楽の歴史の中で特殊なことが起きている上に、60億の人間の中でそんなことをしているのは、はたしてどれぐらいいるんだろうか、ということも考えます。そんな中、ここに集まってくだすった、え〜、30数名は、ほんとに誤差みたいなもんだと思うんですが、ただ、全員が顔見知りということで。そういうことで、始めませんか。今月はこれで終わります。お店がこれから営業時間になりますので、ぜひ、買い物をしたり、お茶を飲んだり、お酒を呑んだりしてください。そして、僕たちに話しかけてください。今後のことをぜひ相談したいと思います。……………ここは笑ってもらっていいところです。
「顔見知りから始めませんか」なんて客をくどくバンドが、2012年の日本に存在する奇跡に、わたしは驚いて呆れた。呆れて、そうか、そういうつもりなのか、と何やらすがすがしい気持ちになった。それなら焦る必要も、怖れる必要も、焦がれる必要もないのだ、と。
ライヴのあとで、ツイッターに上がった感想を読んで、そのすがすがしさは決して、(またお得意の)自分の思い込みだけではなかったと思った。
すきすきスウィッチの歌には、人間関係を構築する勇気みたいなものを、そっと後押ししてくれる力があると思ってたけど、日曜日見たライヴではそれを直に感じられてとても感動。
昨日のすきすきスウィッチ。先月よりも、更に心情的、とも。『忘れてもいいよ』を1枚目から5枚目まで順番に聴いた、その先の、今の佐藤さんの唄か、と思うと、すきすきは、生活とか、日常の中の音楽であることを、強く印象づけられる。
「これからのことを相談しましょう」って佐藤幸雄さんが最後に冗談で言ったんだけど、"はじめて"の歌詞の世界を体現してくれているようで、ほろりときた。
今も変わらなかった佐藤幸雄の「うた」に対する真摯さに、初ライブの感激も相まって泣きそうになった14日のすきすきスウィッチのライブ。そのライブ後に友人3人と呑んだ酒は今年ベスト3に入る旨さだった。
日曜日の真昼に高円寺のビルの二階の“原っぱ”でたちのぼる音は、ドラムもギターもキーボードも歌も、ただひたすらにみずみずしく、冒険心にあふれたものだ。すくいとって喉をうるおせば、じんわりからだにエナジーがいきわたる。いや、からだじゃなく、たましいに。たましいの奧深いところを、すきすきスウィッチは押してくる。じわっとお灸のように、押されたところはあたたかい。くすぐったいようなあたたかさが続く。まったく希有なバンドだ。たぶん彼らは音楽を聴かせるためにいるわけじゃない。共に存在するために、彼らは演奏している。記憶を共につくるために。だから、ただで帰してはくれないのです。
10月の日曜日。T夫妻は結局、安い中華屋での打ち上げのあとの、安い焼き鳥屋での打ち上げにもつきあって、最終バスに乗り遅れるまでその場にいた。ニコニコと静かに笑いながら、わたしたちはいつまでも尽きない話をした。
それもまた、遠い昼や夜の記憶になっていく。ひとつひとつが記憶となって、はるか遠くへ駆け去っていく。まほうが始まってから、いとおしくてたまらない記憶がわたしの中に降り積もっていくばかり。そして、やがて冬がくる。
★すきすきスウィッチ(佐藤幸雄+鈴木惣一朗+POP鈴木)のライヴ
●11月4日(日曜日)19時開場/19時30分開演@高円寺・円盤 チャー
ジ1500円(1ドリンク込) 予約受付中。
http://enbanschedule.blogspot.jp/2010/05/11.html
●12月2日(日曜日)18時開場/19時開演@渋谷・LAST WALTZ
チャージ2000円(ドリンク別途・前売当日共)
今ここで書き進めている「インタビュウ」は、手袋をはめた指先をさらにポケットに入れたい寒さになる、年の瀬まで続く長い読み物。だからたまにこうして、雑談の隙間を挟もうと思います。
すこし前ですが、事実無根の事柄を調子にのった文章でここに書いてしまって、あるひとに迷惑をかけた、ということがありました。しかも相手に教えてもらうまで、当時者の自分がそのことにまるで気がつかなかった、というお粗末ぶり。文章を書くことは、(書かれる)人や世界に荷を負わせること。自分がそれをしてしまう人間であるという現実と戦う覚悟がなければ、ものを書いたりしてはいけない。あこさんは自分の文章がどれだけ危険なものなのかということに無自覚すぎる気がする。文章の力というのは武器なんですーー。わたしが迷惑をかけてしまったひとは、こんな内容のことをメールで伝えてくれました。本当におっしゃるとおりで、返す言葉もないのです。事実無根の事柄については、表現を変えて書き直したけれど、ブログは一過性のものである割合が高いと思うから、後の祭りかもしれない。それで、自分が「調子にのる」ことがちょっと怖くなっています。というか、それからずっと考え中。文章を書くこと、書いてしまうことについて。
これは「インタビュウ」に今後書くことなのだけれど、太宰治は、誰かと交わした会話がそのまま作品に出てくる、みたいなことがわりとあったそうです。話していることがすでに、次の作品の文章だった、というか。頭の中にあることや日常が、文章と直結していたのだと思います。「インタビュウ」の主人物のひとりである秋田富子さんが、尊敬していた萩原朔太郎が死んだときに泣き暮れて(流した涙が耳に入って結核性の中耳炎になったくらいに)、その哀しみを太宰に宛てた手紙に書いた。太宰の『水仙』は、富子さんのその手紙をモチーフにした短編で、自分の手紙を勝手に使われたことと、小説の中の太宰流の(事実とは異なる少し残酷な)脚色に対して、富子さんはひそかに傷ついていたといいます。この話を知ったとき、「ああ、わたしもやってしまいがちだな」とわたしはすぐに思いました。し、現に過去にも最近にも、そういうことをしてしまっている。自分がとくべつ大事に思うひとに対しても、そういうことをしてしまうのです。おかしな話です。
なんでそんなことをしてしまうのだろう……と考えるに。実際ここにいるひとよりも、物語や文章をでっちあげることのほうが、もしかしたら、わたしには大切なのかもしれない。酷い話だけれど、そうとしか思えないのです。人ごとのようだけれど。物語や文章をでっちあげることのほうが大切だから、自分が好きなひとたちを傷つけることを平気でしてしまう(たぶん肉親に対しても平気でそれをする)。もちろん、そういう行為を肯定したいわけじゃありません。ひとを傷つけたり悲しませたり怒らせたりすることは、もちろんしたくないし、自分だってそれによって傷つくのだし、それをしてしまう自分は許しがたいのです。なのに、してしまう。大げさに言えば、一種の自傷行為のように。そこまでして物語や文章をでっちあげることに、いったいどんな意味があるんだろうか。そんなことをここのところ、ずっと考えています。
と、こんな惨い話につきあってもらって、しかも中途半端で終わるなんて、読んでくださっている方々にまことに申しわけない。なので、ひとつだけ、また物語を。〈まほう外伝〉です。
★
「金木犀の香りはわざとらしくて好きじゃない」って、いつか言っていた親友は、今月もライヴが終わると早々に彼のパートナーとどこかへ消えた。きっと、いつものように高円寺の市場の中のベトナム料理屋で、ディルをまぶした揚げ白身魚やライムを搾ったトマトと牛肉のフォーでランチをすませて、次の楽しみ事へと彼らは急ぐのだ。
10月の日曜日の真昼間。2012年からのすきすきスウィッチの、3回目になるライヴの日。わたしはT夫妻と、金木犀の甘い香りがどうしたってつきまとう青い秋空の下を歩いていた。
ゆるい陽ざしと、お酒が入って熱くなった頬を冷やしてくれる気持ちのいい風。円盤での打ち上げを続けているひとたちより一足早く、T夫妻を次の打ち上げ場所である安い中華屋へ案内する役目を買って出たのだけれど。円盤で黒霧島のロックをすでに2、3杯呑んでいる、ふんわりした気分のままにどうやら道を間違えたらしい。近いはずの中華屋になかなか辿り着けない。
「ごめんなさい。間違えちゃったみたい。すごい遠回りしてる気がする」
いつもライヴに来ているので、顔見知りではあるけれど、直接的には言葉を交わしたことがなかったT夫妻にわたしは詫びた。
「いや、これはむしろいい回り道だよ」
夫のTさんがニコニコとした顔で言った。もちろん、わたしに気を遣って、ではあるけれど、実際、彼らは迷い込んだ裏道のなんてことない風景を面白がっているようにも見える。
ひとり暮らし用の小さなマンションや、やっているのかいないのか判別のつかぬ飲食店が混在する迷路ーー。確かに彼の言うとおり、わたしたちがしているのは「いい回り道」だった。50歳を過ぎた大人の男や女になって、日曜日の昼間に、物理的にはまったく親しくないつながりにもかかわらず、ほろ酔いで肩を並べて高円寺の見知らぬ小道を歩いている。ふわふわとニコニコとした気持ちで、意味も目的もない遠回りを楽しんでいる。これもまた例の……ふつうならありえない、まほうの時間なのだ(そうか ふつうじゃないんだっけ)。
T夫妻はいつから円盤に通っていたのだろう? 夫のTさんはとあるバンドのギタリストで、〈男〉とは旧知の仲らしいから、去年11月に〈男〉とPさんが公開練習を始めときからずっとなのかもしれない。練習後にそのまま円盤の窓際でずるずると続けられる打ち上げに、わたしが初めて加えてもらった4月には、彼らはすでにそこにいた。
いつもニコニコとして、穏やかな口調で〈男〉と会話しているTさん。奥さんが静かに寄り添って、うなづいたり微かに笑ったりしている。そんな彼らの間に割り込むことは憚られたから、わたしはT夫妻と、それまで言葉を交わすことをしてこなかった。でも、それでも彼らは充分に“親しいひと”だった。
遠回りの小道を肩を並べて歩きながら、わたしは初めて彼らに話しかけた。
「公開練習の録音を繰り返し聴いているものだから、おふたりの声をわたしはいつも聴いていて」
え? という顔でT夫妻がわたしのほうを見る。
「おふたりがちいさな声で、演奏が始まる前や合間にささやく言葉が、録音されているんです。わたしにとっては、それが公開練習の演奏の一部になっていて、なんとも心地がいいんです。おふたりのささやきが」
本当だった。〈男〉とPさんがカバー曲を演奏したあとで、Tさんが「ブライアン・イーノ」とうれしそうな声で隣の妻にささやき、妻も「はい」とうれしそうに返す。何かの演奏のあとには、よっぽど彼らの好きな曲だったのだろう、「ちょっとこわい」とくすぐったいような声で妻が夫にささやくのも聞こえる。そういう声や、円盤店主の田口さんが演奏の始まる前に流している曲や、誰かの咳き込む音のすべてが、わたしにとっての公開練習の記憶。音楽だけがぽん、と浮かび上がるんじゃなく、そこにいるひとたちの気配の中に音楽がある。そういう時間が、わたしも好きだった。T夫妻同様に。
でも、それももう、遠い時間の記憶となっていく。公開練習を経て、〈男〉とPさんに彼が加わってすきすきスウィッチになって、公開練習の続きのように、円盤の“昼の部”で3回のライヴをやった。次の11月のライヴは、円盤の夜のレギュラーの時間帯に行われる。だから昼間のまほうは、ひとまず10月でおしまい(またそのうちに再開される様子だけれど、そのときはまたそれで新しい時間になるわけだし)。11月からは、また違う物語が始まりそうな気配がある。
10月のライヴのあとで〈男〉が、中華屋での打ち上げにTさん夫妻を誘うと、Tさんは言った。
「今日は、参加させてもらおうかな」
「今日は、」なのだな、とわたしは端で聞いていて思った。ということは、いつもは彼らは遠慮していたのだ。ズカズカと入り込まない、ベタベタと馴れ合わない、慎み深いひとたち。
公開練習も円盤の夏祭りも、毎回欠かさず〈男〉の演奏を聴きにきていたT夫妻が、9月のすきすきスウィッチの2回目のライヴには入れなかった。予約をしようとしたときには、すでに定員に満ちていたのだという。入れなくても、彼らは円盤に来ていて、閉められたドアの外で聴いていた。その姿を見つけたとき、なんて奇特な……と少し驚くと同時にわたしは内心呆れてもいたのだけれど。
「いやあ、外に漏れてくる演奏を聴くのは、それはそれでいいものなんだよ」
Tさんがニコニコしながら言ったので、このひとたちにはまったくかなわないな、と思った。
どういうわけか〈男〉には、この手のファンがいる。遠回りを「いい回り道だよ」と言うようなひとたちが。急がない、焦らない、怒らない、決めつけない(わたしと真逆なタイプだ)。だから〈男〉のことを、なんて幸せなひとなんだろうと思う。そんなにすてきなひとたちが回りにいるのだから、彼自身もきっとすてきなひとなのだろう、と思う。でも、実際の彼については、まだよく知らないのだけれど。
10月のすきすきスウィッチのライヴは、不思議な親密度に満ちていた。〈男〉は「伝えよう」と思って来ていた。ゆっくりと、かすかにうごめく本当に大切なものを見失わないように、ゆっくりと、いい遠回りをして、一緒に歩いていこうーー。そんなことを、1時間みっちりの演奏のすべてで「伝えよう」としていた気がわたしにはする。
音楽はもともと、左官屋さんとか巫女さんとか床屋のおじさんとか誰でもいいんだけど、村の中で歌のうまいひとが歌うのを聴くものだった。どこかの場所に集まって、知っているひとの歌や演奏をみんなで聴いたものなんです。それが、音楽だけが切り離されて、CDだかなんだかの再生装置で自分のところへ音楽だけを引っ張ってきて聴くようになったのは、たかだかこの数十年の話なわけで。だから、顔見知りから始めませんか。
言葉は正確ではないけれど、〈男〉は演奏の合間にこんなことを喋った。「顔見知りから始めませんか」なんて客をくどくバンドが、2012年の日本に存在する奇跡に、わたしは驚いて呆れた。呆れて、そうか、そういうつもりなのか、と何やらすがすがしい気持ちになった。それなら焦る必要も、怖れる必要も、焦がれる必要もないのだ、と。
ライヴのあとで、ツイッターに上がった感想を読んで、そのすがすがしさは決して、(またお得意の)自分の思い込みだけではなかったと思った。
すきすきスウィッチの歌には、人間関係を構築する勇気みたいなものを、そっと後押ししてくれる力があると思ってたけど、日曜日見たライヴではそれを直に感じられてとても感動。
昨日のすきすきスウィッチ。先月よりも、更に心情的、とも。『忘れてもいいよ』を1枚目から5枚目まで順番に聴いた、その先の、今の佐藤さんの唄か、と思うと、すきすきは、生活とか、日常の中の音楽であることを、強く印象づけられる。
「これからのことを相談しましょう」って佐藤幸雄さんが最後に冗談で言ったんだけど、"はじめて"の歌詞の世界を体現してくれているようで、ほろりときた。
今も変わらなかった佐藤幸雄の「うた」に対する真摯さに、初ライブの感激も相まって泣きそうになった14日のすきすきスウィッチのライブ。そのライブ後に友人3人と呑んだ酒は今年ベスト3に入る旨さだった。
日曜日の真昼間のライヴは、大人の不思議な密会現場のようで、そこからたちのぼる音はドラムもギターもキーボードも歌も、ただひたすらにみずみずしく、冒険心にあふれたものだ。
すくいとって喉をうるおせば、じんわりからだにエナジーがいきわたる。いや、からだじゃなく、たましいに。たましいの奧深いところを、すきすきスウィッチは押してくる。じわっとお灸のように、押されたところはあたたかい。くすぐったいようなあたたかさが続く。まったく希有なバンドだ。たぶん彼らは音楽を聴かせるためにいるわけじゃない。関係するために、彼らは演奏している。記憶を共につくるために。だから、ただで帰してはくれないのです。
10月の日曜日。T夫妻は結局、安い中華屋での打ち上げのあとの、安い焼き鳥屋での打ち上げにもつきあって、最終バスに乗り遅れるまでその場にいた。ニコニコと静かに笑いながら、わたしたちはいつまでも尽きない話をした。
それもまた、遠い昼や夜の記憶になっていく。ひとつひとつが記憶となって、はるか遠くへ駆け去っていく。まほうが始まってから、いとおしくてたまらない記憶がわたしの中に降り積もっていくばかり。そして、やがて冬がくる。
★すきすきスウィッチ(佐藤幸雄+鈴木惣一朗+POP鈴木)のライヴ
●11月4日(日曜日)19時会場/19時30分開演@高円寺・円盤 チャー
ジ1500円(1ドリンク込) 予約受付中。
http://enbanschedule.blogspot.jp/2010/05/11.html
●12月2日(日曜日)夜@渋谷・LAST WALTZ 詳細は近日発表。
林倭衛(はやししずえ)が2度目の洋行から帰ってきたのは、大正15
年5月。パリの5月、といえば、muguetつまりスズランであり、五月
革命……なんて想ってしまうけれど。15年は大正の終年で、西暦にする
と1926年。アナキストやマオイストが学生・労働者を主導した五月革命
は1968年に起こっているから、大杉栄や林倭衛ら日本のアナキストたち
がいたパリは、40年以上も前の“革命前夜”なのだった(日本と違って、
かの地にはアナキズムが根づいたのだ)。
帰国するとすぐに林倭衛は荻窪の家を引き払って、小石川の借家へ移っ
た。そしてようやく妻の富子、生まれたばかりの聖子さんとの三人の生活
が始まったのだが、その安穏も長くは続かなかった。
昭和5年、富子さんが風邪をこじらせ、肺浸潤に冒されて入院。退院後
は妻の転地療養を兼ねて、林倭衛はアナキスト仲間の紹介で、伊豆・静浦
の知人が持つ別荘へ居を移した。
昭和7年、静浦を離れ、小石川の以前とは違う借家へ移転。
昭和9年、聖子さん、小石川小学校に入学。母が腎臓結核に罹り、右腎
臓摘出手術を行う。
昭和10年、母の転地療養のため、千葉の市川へ移転。
昭和11年、母が肋骨カリエス、脊髄カリエスに罹り、八ヶ岳南麓のサナ
トリウムに入院。父と聖子さんは新宿三光町の祖父母の家へ身を寄せる。
バー風紋のソファで。向かい合って座る林聖子さんに、わたしは訊く、
というか話しかける。
「お母さま、お病気で。たまに会える感じだったんですよね。それに小学
校を、卒業までに全部で8回でしたっけ、転校して」
聖子さんは、うふふと笑って、まるで人ごとみたいに言う。
「すごいですね。勉強する暇ないですよ。転校するたびに緊張するし、友
だちはずっと少なかったですね。母の療養のためもありましたが、父が一
カ所に落ち着いていられない人だったんです。散歩に出かけて、いいとこ
ろを見つけると、すぐに『引っ越しだ、引っ越しだ』って父が騒ぎ始める
の。すると、電報で何人かに声をかけて、手伝ってもらって、新しい家に
移るという。忙しいんですよ」
「そんなふうにあちこち移り住む家に、退院しているお母さまがいたり、
いなかったり」
「ええ。うちにいるときも、母は病気だから寝てるでしょう。寝て、本ば
かり読んでいました。もともとが読書家だから。退屈して、わたしが『読
んで』『読んで』と言うと、子どもの本ではなく、自分が読んでいる本を
声を出して読んでくれました。ツルゲーネフなんかを」
いつもインタビュウのとき、当たり前のことを訊くのは相手にもつまら
ないのでは、と思って気がひけるのだが、ときに“当たり前”を投げかけて
みると、その人らしさが浮かびあがってくることがある。それでわたしは
遠慮がちに言ってみる。
「まだ小学生で、お母さまが入退院を繰り返していたから、寂しくなかっ
たかなぁ、って」
取材相手が男なら、ウケを狙う意味でも「そりゃあ、」と返ってくると
ころ。しかし、
「うちの父も絵描きですから、旅行ばかりしていて、わたしひとりのこと
も多かったんです。そういうときは、お婆ちゃんが泊まりに来てくれたり。
小学校1、2年の頃は祖父母の家が近かったんで、しょっちゅう行ったり
来たりしてました」
寂しい、という言葉を、聖子さんは口にしなかった。言葉になってしま
うと、彼女には遠すぎるのだと思った。
昭和12年、母がサナトリウムから帰ってくると、一家は杉並の和田本町
へ引っ越した。この年に事件が起こった。博多で芸者をしていた高橋操と、
父との仲が発覚したのだ。聖子さんのエッセイ『いとぐるま』にこうある。
父は十四歳も年下の妻に手をついてあやまったが、母は祖父に相談のた
め津山に戻った。父と母との間は決定的な破局を迎えようとしていた。
林倭衛は画の頒布会などで、たびたび博多へ出かけていた。そうした中
で高橋操と関係ができていたらしい。博多では手にしたお金を使い果たし
たばかりか、多額の借金を抱えて身動きができず、伯父(富子の姉の夫)
がお金を持って迎えに行ったこともあった。また、林倭衛を駅に送りにき
た高橋操が座敷姿のまま上京して、三光町の祖父母の家を訪ねてきたりも
した。おだやかならぬ空気が徐々にふくれあがっていたのだ。
あれは確か、昭和十三年の帝展の初日のときのことだと思う。操さんは
母の着物を着て父と出かけた。会場には別府夫妻がいた。伯母はすぐに妹
の着物に気がついた。別府の伯父も流石に激怒したが、父もまた自分のま
いた種子の結果に意地になっていた。
そんな最中にも、林倭衛はまた住むところを変えている。津山の実家に
帰った母が不在の状態で、昭和13年秋、聖子さんは父、祖父母と南房総の
鵜原に移った。
鵜原ーーそれは、林聖子さんの資料を読む中で、わたしがもうひとつ心
に留めていた場所だ。
いつだったか、もうずいぶん昔のことだけれど、義弟の石川浩司や友人
たちと連れだって鵜原へ遊びに行ったことがある。いつものように、なん
の目的があるわけでもなく、ぶらぶらと歩く小旅行だった。
エメラルド色に光る入江を臨む、小高い林の道をみんなでゆっくり歩い
ていた。ひっそりとした涼しい空気と南房総のおだやかな陽ざし。その中
に身を置くと、わたしはなんの予備知識もなくそこを訪れたものだから、
不思議に心地よい非日常の世界へ紛れこんだ気分になった。
「いいところだねぇ」
歩きながら思わずつぶやくと、
「なにしろ、理想郷っていうぐらいだからね」
と石川浩司。物知りな、というか、それを知っていたから、彼がみんな
を誘導したのだ。
「へえ。理想郷、なんだ」
「昔は与謝野晶子とか、作家や画家が住んでいたらしいよ」
ふうん……と言いながら、林の斜面に立つ古びた石造りの一軒家を見て、
こういうところに住むのもいいものだろうな、と思った。そんな鵜原のこ
とがずっと忘れられず、数年前には母と妹と再訪して、入江のすぐ近くに
ある鵜原館というこぢんまりとした温泉宿に泊まってもいる。
聖子さんの口から鵜原の地名が出たのは、実はインタビュウを始めてわ
りとすぐのタイミングだった。
「一番最初の、覚えている風景は?」
とわたしが問いかけたとき、彼女は言った。
「それはやっぱり、あの……わたし、鵜原っていうね、千葉県の外房にい
たことがあるんです。うちの父の引っ越し好きのせいで。小学校3年ぐら
いのときかな。当時の鵜原の小学校は一階建てでした。生徒がもう何人も
いないような学校。まず、その村には郵便局がないんです。駅はあるんで
すけど、単線運転の駅で。鵜原って、勝浦の先なんですが」
「はい。行ったことがあります。わたしも鵜原館に泊まったんです」
こう申し出たのは、聖子さん一家が鵜原に移り住んだとき、最初は鵜原
館に滞在したことを知っていたから。自分も泊まったことのある宿に、林
倭衛たちが暮らしていたなんて……と資料を読んで興奮したのだ。
一家はそのあと、近くの別荘を借りて住んだ。そこには母に代わって、
身重の高橋操の姿があったという。翌年二月、この地で聖子さんの異母妹
が生まれている。
一番最初の覚えている風景のことを、聖子さんが話す。
「夏なんか、今は海水浴で賑わうんでしょうけれど、わたしのいた頃の鵜
原は本当に田舎で寂しくてね。宿も鵜原館一軒しかなかったんです。それ
で例によって友だちがいませんから、鵜原館のメイドさんがわたしの遊び
相手だったの。鵜原館の裏にトンネルがあるんだけど、行かれましたか?
トンネルを抜けると、大きな砂浜が広がっていて、その先に通った鵜原の
小学校がある。あのあたりはね、ちょっと口に出すのも恥ずかしい、理想
郷というところなんですよ。昔は“沖津町鵜原理想郷”で、番地がなくても
郵便物が届いた。わたし、自分の店に『風紋』という屋号をつけましたが、
それは鵜原で見た風景が心に残っているからなんです。ひとりでよく、鵜
原館の裏のトンネルを抜けて砂浜に行って。風で砂に模様ができるのを、
不思議な気持ちで見ていたんだけれど、それに名前があるとは知らなくて。
ずいぶんあとになって、鳥取の友だちに『風紋って言うんだよ』と教わっ
たんです。それと『アラビアのロレンス』。あの映画を観ていたら、波模
様の砂浜を馬で進む場面が出てきて、『あぁ、子どものときに鵜原で見て
た。あれが風紋っていうのか』と。鵜原は外房で太平洋に面していますか
ら、結構、波が荒くて風が強いんですよね」
店の名前を『風紋』にした理由、目を通した資料のどこにも出てこない、
初めて聞く話だった。
見つめていた風景に名前があることを、幼い彼女に誰も教えてくれなか
った。それは、彼女がいつもひとりでそれを見ていたからだ。一番最初の
風景ーーを訊いたとき、聖子さんのように、すぐに答えが返ってくる人が
たまにいる。自分の対峙した風景を、からだの奧深くに染み込ませている
人が。
★林聖子さんの著者名で『風紋五十年』(星雲社)が上梓されています。聖
子さんへのインタビューを軸に、風紋を取り巻く人々のよせた文章で構成さ
れた1冊。巻末におさめられた『いとぐるま』などの聖子さん自身によるエ
ッセイは、わたしも取材前に資料として頼りにしたもので、秋田富子や太宰
治のことが詳しく書かれています。アマゾンでも購入可能。