2012年も今日でおしまい。
そして、当連載も今日でひとまずおしまいです。
永らく(ブログにあるまじき)長文に毎週お付き合いいただき、
これまで本当にありがとうございました。
一寸休んで、今後は月いちの形で
ニヒル牛マガジンに何か書かせてもらう予定です。
それではみなさま、良い年をお迎えください。
最後にもう一度
ありがとうございました。 白江亜古
太宰治の20代はかなりややこしいことになっていた。パビナールという薬物の中毒や、内縁の妻との心中未遂などなど。だが、先輩作家の井伏鱒二の仲人で30歳の頃に結婚すると、その後しばらくは精神的に安定した模様。『富獄百景』『走れメロス』『津軽』『御伽草子』といった代表作を戦前戦中に執筆し、仕事に精力的に取り組んでいる。そして戦後の昭和22年に『斜陽』を発表するや、一躍流行作家となったのだ。
林聖子さんは太宰と再会して間もなく、彼の口利きで新潮社に入社した。
「その頃の太宰治といえば、超売れっ子ですよね」
こう訊くと、彼女は「そうです」と大きくうなづいて言った。
「なにしろ『斜陽』の連載が、雑誌の『新潮』で始まった頃ですから。わたしは出版社の人間として、太宰さんのところへ『斜陽』の原稿をいただきに伺ったり、校正を持って行ったりしていたんですよね」
戦後に起きた出版大ブームの影響もあって、当時の太宰人気はそれはすごいものだったという。
「でも、わたしにとっては、太宰さんは普通のおじさんなの。“先生”でもなんでもないの。だから新潮社に入れていただいて、お仕事で最初に太宰さんのところへ伺うときは悩みました。それまでは“太宰さんのおじさん”と呼んでいたんですけど、さすがにそれではまずいだろうな、って。やはり、ほかの作家の方々と同じように“先生”と呼ぶべきかなぁ、と。それで、『先生』って呼んだんですけど、もう、すっごい恥ずかしくって。歯の間から空気が抜けるようで、はっきり発音できなかったんじゃないかな。『しぇんしぇい』みたいな感じで」
大輪のダリアのような笑顔になって、聖子さんが言葉を続ける。
「そうしたらね、太宰さんもね、なんか、すっごく照れてらした。紅くなったんですよ。今考えてもおかしいんですが」
「太宰治はどんなひとだったんですか」
「お酒の呑み方が上手でらしたですよ」
「あ、そうですか」
と、文字にすると平坦だけれど、「あ、そうですか」という合いの手は、音になると抑揚のあるもの。意外さや面白さの鳥羽口を見つけて、興味津々になっているときにわたしの口から出るものだ。
「あのね、なんかこう、歌ったり、乾杯したりするんだけど、わりあい盛り上げるのがお上手で。まわりのほうがご機嫌になって、とても楽しそうなんだけれど、太宰さんご自身は、実際にはお酒はそんなにあがってらっしゃらなかった。だからいろいろなところで、お酒をすごくたくさん呑んだように書いてあるのを読むたびに、『そうかなぁ』とわたしは思っているんです」
「盛り上げ役というイメージはないですものね、一般的には。聖子さんのエッセイなんかに出てくる太宰さんは、結構明るいおじさんみたいな印象だけれど」
「それはもう、すごく明るい方でした。ただ、写真を撮るとああなるの。ああいう写真になるの」
頬に手をあてて斜め下を向いた、物憂げな表情のーー。「ああいう写真」を頭に浮かべて、聖子さんとわたしはアハハハと笑い合った。「ああいう写真」はどうやらポーズであったようだ。
インタビュウの中で、わたしたちは太宰の死についても話をした。でも、それについてはここには書かないつもりだった。そうでなくても『インタビュウ』と題したこの文章は矢鱈と長いのだし、秋田富子と林聖子さんのことが主題なので、読者の関心が太宰へ傾いては困るのだ。だけど、やっぱり書いておこうという気になったのは、あるひとがわたしに言ったから。「ぼくは太宰治は嫌いだ。自殺した人間は、作品の如何にかかわらず好きじゃない」。
聖子さんのエッセイに、こんな一文がある。
二十二年の中ごろから、母は真剣に、太宰さんの死を案ずるようになった。
このことを、太宰と親しい編集者たちに聖子さんが話しているのが、太宰の耳に入ったらしい。ある日、太宰とふたりで歩いているときに、彼がふと足を止めて言った。「聖子ちゃんは、僕が死ぬのではないか、といってるんだって」。
決して怒った様子ではなく、むしろ、子供の悪戯をとがめるときの、優しさを秘めた口調だった。
私は、全身の血が、一度に引くような気がした。まっさおになって震えている私を眺め、太宰さんはさらに、「ぼくは決して死なない。息子を置いて行くわけにはいかないんだ。お母さんにもそういっておきなさい」といった。
私は、今でも、太宰さんには、自分から自殺するつもりは、決してなかった、と思っている。
「息子を置いて行くわけにはいかないんだ」という言葉は、ダウン症で知能に障害があったという息子のことを指しているのかもしれない。太宰の本当の想いはどこにあったのかーー。
23年6月19日、太宰治と、愛人のひとりである山崎富栄の遺体が玉川上水に上がった。秋田富子も聖子さんも、それぞれ急いでそこへ駆けつけた。
「わたしは新潮社で太宰さんの担当だった野原さんから報せを受けて、野原さんとふたりで玉川上水の土手を歩いたんです。そうしたら、あの、小さな瓶とお皿が……夜店で売っているような、ガラスの安っぽいお皿なんですが、太宰さんのところへ遊びに行くと、それにいつもさっちゃん(山崎富栄)がピーナッツとか入れておつまみに出してくれていたんで、よく覚えていたんです。ずいぶん変なお皿だな、と思っていたものだから……それが落ちていたの。で、見たら、そこの土手に、梅雨でずっと雨が降っていましたから雑草が寝てるでしょ、なのにそこだけレールを引いたみたいにね、ざーっと、下の黒い土が出た筋がついていて。明らかに、ここから川へ落ちた、っていうのがわかるんです。黒い土の筋は、太宰さんの下駄の跡じゃないですかね、あれは生々しかったです。だから、あの、ボッチャン、とふたりで同意して川へ飛び下りたわけではないのかな、という印象がわたしにはあるんですね」
「強い力で引っ張られた、とか?」
「なにか相当な力が加わらないと、下の土が出るほどの筋はつかないでしょう」
うーーむ……。と、うならざるを得ない局面である。わたしは訊いた。
「では、ガラスのお皿はなんのために?」
聖子さんは少し鋭い目になって言った。
「だから、なんか、青酸カリか眠り薬か、そういうものを溶いて飲んだんじゃない? お酒かなにかで……じゃないですかね。何しろ、さっちゃんは青酸カリを持っている、って、よく太宰さんが言っていましたから」
うーーむ……である。
世に流布している話によると、「死ぬ気で恋愛してみないか」と流行作家に誘われて、その気になって。身も心もお金も遣って太宰に尽くしたのに、別の愛人(太田静子)に太宰の子どもができたことが、山崎富栄には大変なショックだったらしい。
激しい嫉妬と、太宰に捨てられるかもしれない怖れを抱いた山崎富栄は、太田静子宛に「修治さん(太宰の本名)はお弱いかたなので 貴女やわたしやその他の人達までおつくし出来ないのです わたしは修治さんが、好きなのでご一緒に死にます」と書いた手紙を出し、その夜に入水した。
発見された山崎富栄が激しく恐怖している形相だったのに対して、太宰の死に顔が穏やかだったことから、太宰は入水前に絶命していたか仮死状態だったと見る説もある。
うーーむ……である。太宰ははたして本当に、みずから死を選んだのだろうか。
38歳でこの世を去ったとき、太宰治は朝日新聞に『グッド・バイ』を連載中だった。小説のタイトルにしても、連載の第“13”話が絶筆になったことにしても、心中自殺と符号するから、世間は安易に太宰を自死をみなしている。けれど、『グッド・バイ』という作品について、林聖子さんがエッセイに書いていることがわたしには気になる。彼女の“読み方”が。
太宰さんは、この作品を、死の一ヶ月前から書きはじめ、死の前日までに十三回分を書いたという。こんなに明るく、軽妙な作品を書いていた人が、どうして死を望んだりするのだろうか。
絶筆、表題から、太宰さんは、すでにこのとき死を決していたという見方は、あまりに単純な見方だと思う。この場合は、それまでのニヒルな世界と別れ、新しい明るい世界へと進むためにの、太宰さん自身による宣言となるはずの作品が「グッド・バイ」だと考えた方がいい、と私は思う。私の耳には、今もなお、「息子を置いて行くわけにはいかないんだ」という言葉が残っている。
林聖子さんにインタビュウする際に、もちろんわたしも『グッド・バイ』を読んでいる。なるほど、なるほど、とまだ見ぬひとだった聖子さんへ、何度も同意の気持ちを向けながら、その未完の小説をおもしろく読んだ。そして、インタビュウの席で、
「やっぱり、死の間際に書いたような小説ではないですよね」
と言うと、
「そうでしょう!」
と聖子さんは顔を輝かせた。どうしても、その点だけは譲りたくないのだな、とその表情を見てあらためて思った。
「あんなに仕事が好きだったひとはいないですもん。書くことが好きで。わたしや母を前にして、呑みながら話をしているときも、全部、次に書くことのイメージを話しているみたいでした。というのはね、あとで『新潮』に載った作品を読むと、呑んでいるときの会話が1行とか2行とか、必ず混ざっているんですよ。だから、ああやって呑んでお喋りしているときも、仕事のことを考えてらしたんだな、って思うから」
人物にじかに触れたひとだからこそ、感じる何かがあるのだろう。
「真相は、結局わからないんですよね」
わたしがつぶやくように言うと、
「あの頃は解剖も何もないんですよね」
彼女もつぶやくように言った。
書くことがあるのなら、死ねないのではないかな。わたしはそう思う。
書くことがなくなったときが、死ぬときじゃないかな。
それにしても、男の弱さにわたしは慣れない。太宰のことを書いていても、どうにも息が詰まるようなのだ。自分が一寸、彼(ら)に近いせいかもしれない。同病相憐れむ、というか。男の弱さを見て見ぬふりができて、知っていながら平然とそばにいられる女が一番、男には必要なんじゃないかしら。そんなひとにはどうやったらなれるのか、皆目見当がつかないけれども。
秋田富子や聖子さんはどうだっただろう? 見て見ぬふりができるひとだっただろうか。いや、“人種”ではないな。質(たち)ではない。その男を、どれぐらい息させて(とパソコンの自動変換でこう出るのが面白い)やりたいか、という想いの大きさかもしれない。強さ、ではなく、愛情。無償の愛ーー。
もうひとつ、本筋からはずれたよぶんな逸話を書き添えておきたい。聖子さんのエッセイに出てくる、個人的に好きなエピソードがある。
昭和23年の春、というから、太宰が6月に亡くなる少し前のこと。三鷹の駅前の通りに、小さな化粧品兼小間物のお店ができたという。化粧品と、女のひとが喜びそうな小さなアクセサリーや、きれいなハンケチなんかを売る店。昭和36年生まれのわたしが子どものときにも、所沢の古い商店街にこの手の店があったので、エッセイを読みながら並んでいる品物が目に浮かんだ。
三鷹のその店の前を太宰と聖子さんが通りかかったとき、太宰は「そうだ、なにか買ってあげよう」と言って聖子さんを中へと促した。ガラスケースの中から、聖子さんは四角い銀のロケットペンダントを選んだ。太宰が「これはお母さんに」と手にとった化粧品の瓶は、なんとシワ取り用のクリーム。秋田富子さんは当時39歳で、クリームの瓶を見て「シワなんかないわよね、いやな太宰さんね」と少し憤慨したそうだ。
実は、所沢の化粧品兼小間物の店で、小学校3、4年の頃にわたしが目にとめたのも、銀色の涙型のロケットだった。表にスズランの彫りがある、とっておきの宝物。もっともわたしには“太宰さんのおじさん”のようなひとはなく、きっと自分のお年玉か何かで買ったのだけれど。
女たちに『メリイクリスマス』を残し、ロケットペンダントとシワ取りクリームを買ってくれた太宰治は、その年の6月に死んだ。そして「あとを追うように」というのは言い過ぎだけれど、同じ年の12月に秋田富子が病死している。ふたりとも40歳になる前に、短い人生を終わらせた。
「結局、お母さまと太宰さんっていうのは……親友……」
途中まで訊きかけたところで、聖子さんが「うーん……」とうなった。それから海面をみつめるように言った。
「すごく、好意を持っていたんですよね、太宰さんに。だけど、恋愛感情はなかったんじゃないでしょうか。お互いに」
そうだろうか。
数ヶ月に渡ってこの長い文章を書いている間に、わたしにはふたりの関係は結局のところ、太宰の片想いだったように思えている。秋田富子が彼に気を持てば、すぐにふたりはそうなったはず。でも、秋田富子は太宰に対して、とうとうその気が持てなかった。太宰も途中で気づいたのではないかと思う。無償の愛は、男女の仲になったとたんに、形を変えてしまうかもしれないことに。
でも、だから、なぜ……という想いが秋田富子に対してずっとある。
あらためて、わたしは訊いておきたかった。
「お母さまは、お父さまのことを本当に、ずっと愛されていたんですか」
18歳で出会ってから、39歳で死ぬまで、ずっと。
「いや、それはね、うちの母はしょっちゅう裏切られていましたから。『ほんと、お父さんは野蛮だから』とよく言ってましたし」
さんざん裏切られて。愛人を何人もつくり、彼女らに子どもを産ませ、酒に沈殿し……林倭衛も太宰に負けず劣らず、たましいの落ち着き処を見つけられぬひとだった。そんな男に向ける秋田富子さんの想いは、ずっと愛していた、なんていうきれいな言葉であらわされるものではないかもしれない。
「でも……」
と聖子さんが再び口をひらいた。
「でも……父が死んだあと、四十九日が終わると、わたしは自分の荷物を持って高円寺の母のアパートへ移ったんです。そのとき、押し入れを開けて荷物を入れようとしたら、赤いりぼんで結んだ白い函があったの。母にしては珍しい包み方なんでね、『これ、なあに?』と聞いたんです。そうしたら、『あ、それね、お父さんがフランスからくれた手紙が入ってるの』って。『見ていい?』って聞いたら、『うん、だめ』って返ってきたから。だから、父からの手紙はそんなふうに大事に函に入れて、りぼんをかけてとっておいたんですよね、母は」
ずっと。18歳で出会ってから、39歳で死ぬまで。ずっと愛していた、というきれいな言葉が、やっぱり彼女にはふさわしい気がする。
84歳の今も、林聖子さんは新宿・花園神社近くのバー風紋のカウンターの中に立っている。太宰治をはじめ、秋田富子が親しかった作家や編集者たちとの縁あってこその文壇バーだから、「風紋は、母と私の親子二代の店」と聖子さんは話す。
歴史の上澄みのところに浮かんでくる話は、ほんのわずかな、目立つ塵みたいなもの。それをすくいとった下には、かすかに笑い、かすかに嘆き、かすかに想う音が沈んでいる。耳をすまさないと聞こえない音。もしかしたら、聞かれなくてもいいのかもしれない音。でも、それを聞いてしまって、耳の中にいつまでも木霊しているものだから、わたしはこの話をどうしても言葉にしておきたかった。かすかに存在していた「唯一のひと」の物語。
出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録) 林聖子著・星雲社
あ、最後の写真(七五三の)が、なんでクリスマスに関連するのか
説明が足りませんでした。これをご覧あれ。
昭和43年12月号の少女漫画雑誌
「なかよし」(講談社)の巻頭グラビアです。
その年の秋に、わたしは7歳のお祝いをしてもらっているので
このグラビアからヒントを得て
母がドレスを縫ってくれたわけではないのだけれど。
まあ、当時の少女のあこがれの
クリスマス&パーティファッションといえば
こういうテイストだったのですね。
ブラックミニドレス、なり。
白いハイソックスで。ツイギーの時代だわ。
というわけで、メリイクリスマス。
よい休日をお過ごしください。
「終戦翌年の11月に、三鷹の駅前の本屋で太宰さんとばったり再会して。あのときは太宰さんひとりじゃなくて、小山清さんていう、太宰さんの家に寄宿していた方も一緒でした」
目の裏にしっかり記憶されているのだろう。約65年前のことを、林聖子さんがつい先日の出来事のように話す。
戦時中、太宰治は疎開先の甲府を焼け出され、妻子とともに津軽の生家へ逃げ延びた。その地で終戦を迎えて、三鷹に戻ったのが昭和21年11月だから、まさに帰ってきたばかりのタイミングで聖子さんと再会したのだ。ちなみに三鷹書店に一緒にいた小山清は太宰の弟子で、のちに小説『小さな町』が芥川賞候補になるなどして評価された人物。
「太宰さんと顔を合わせると、『今どうしてる?』という話になって。母のいる家へ『じゃあ行こう』とすぐに。小山さんは太宰さんの家へお帰りになって、太宰さんとわたしのふたりだけでうちへ向かったんです。道々、話をしながら。うちに着くと、母も太宰さんの姿を見てびっくりしていました。本当に偶然の再会でしたから。それで、あの、その日からあまり立っていなかったと思います。太宰さんがふいに、わが家に来られたのは」
再会から半月(はんつき)ほどたった頃だ。秋田富子と聖子さんの住む三鷹の長屋へ、太宰治はひとりでやってきた。
「着流しでいらして。だからまだ、それほど寒くなかったんですよね、11月の終わり頃じゃなかったかしらね。太宰さん、着流しでいらして。『お母さんと聖子ちゃんへのクリスマスプレゼントだよ』って、懐から雑誌を出してバサッと置かれた。出たばかりの中央公論の新年号でした。太宰さんの『メリイクリスマス』が掲載された号。それを、母とふたりで頬を寄せ合って、太宰さんの目の前で読んだんです」
わたしは待ちきれずに訊いた。
「読んで、太宰さんになんて言ったんですか?」
「なにも言わない。ただ、母とふたりで読みながら、『わあ〜』とか言ってたんです」
男から、思いがけず届けられたクリスマスの贈り物に、高揚して紅くなる“女たち”。湯気の立つような気分が、こちらにも移ってくるようだ。
『メリイクリスマス』は戦後の武蔵野を舞台に、ひとりの作家と、彼の女ともだちの娘との邂逅を描いた物語だ。
ひととひとは、逢うように仕組まれている。会えた奇跡を、物書きは文章で祝福するーー。太宰治は聖子さんたちと再会すると、再び逢えた幸運をひとりでせっせと言葉に紡いでいたのだ。
『メリイクリスマス』はこんなふうに始まる。
東京は、哀しい活気を呈していた、とさいしょの書き出しの一行に書きしるすというような事になるのではあるまいか、と思って東京に舞い戻って来たのに、私の眼には、何の事も無い相変わらずの「東京生活」のごとくに映った。
終戦翌年の暮れ。帝都の大空襲を逃れ、1年3ヶ月の月日を故郷の津軽で過ごして東京に帰ってみると、予想に反して2〜3週間の小旅行から帰ったぐらいの気持ちであった。田舎への手紙にも「この都会は相変わらずです。馬鹿は死ななきゃ、なおらないというような感じです。もう少し、変わってくれてもよい、いや、変わるべきだとさえ思われました」と書いたのだ、と、こう、文中で太宰はうそぶく。
それにしても、この『メリイクリスマス』の冒頭、今わたしたちが読むと、なにやら3.11後の東京の姿とだぶるのが妙である。
師走の雑踏の中を、作家は久留米絣の着流し姿で歩き廻る。小さな映画館でアメリカ映画を見て、本屋で戯曲集を1冊買い求め、それを懐に入れて入り口のほうを向くと、
若い女のひとが、鳥の飛び立つ一瞬前のような感じで立って私を見ていた。口を小さくあけているが、まだ言葉を発しない。
吉か凶か。
吉か凶かーー。作家いわく、昔に激しい恋をしたけれど、今は少しも好きではない女のひとと逢うのは“最大の凶”なのだそうだ。
緑色の帽子をかぶり、帽子の紐を顎で結び、真赤なレンコオトを着ている。見る見るそのひとは若くなって、まるで十二、十三の少女になり、私の思い出の中の或る映像とぴったり重なって来た。
「シズエ子ちゃん。」
吉だ。
と、自分のことをこんなふうに書かれた文章を、書き手の太宰の目前で林聖子さんは読んだわけだ。ヒロインのモデルであるその女(ひと)が、わたしにそっと打ち明ける。
「主人公のシズエ子ちゃんっていう名前、うちの父が倭衛(しずえ)という名前なんで、しずえの子だからシズエ子ちゃんなのかなぁ、って。太宰さんの前で『メリイクリスマス』を読みながら、そんなことを思いました。それと作品の前半はね、三鷹書店でばったり逢ってうちへ行くまでに、わたしと交わした会話がそのままだったんで。『あと、なん町?』と太宰さんに訊かれたりしたこととか、そのまま書かれていたので、すごい記憶力だな、って関心しちゃった」
「メモをとっていたわけでもないのに」
「ええ、そうなんですよね」
メモをとっていたわけでもないのに。でも、その点はわたしも物書きの端くれだから事情がわかる。記憶力が良いーーというのとはたぶん少し違うのだ。目にした風景、耳にした会話、体が覚えた事件……いったん自分の中に落とし込んだそれらの物事を、さもそれが誰にとっての“真実”でもあるかのように書く。その特技を物書きは持っているだけのこと。きれいな嘘をつくのが、上手なだけのこと。
『インタビュウ』と題した、この長い文章の最初にも書いた。太宰は聖子さんの母である秋田富子について、自分の「唯一のひと」であると『メリイクリスマス』の中で公言している。何ゆえにか。
第一に綺麗好きな事。
第二にそのひとがちっとも自分に惚れていない事。自分もそのひとに少しも惚れていない事。
第三にそのひとが他人の身の上に敏感で、つまらぬ事を云わぬ事。
第四にそのひとの処にはいつも酒が豊富にある事。
以上の四つの理由から、シズエ子ちゃんの母は自分にとって「唯一のひと」なのだと、太宰は作中に繰り返し、「唯一のひと」という言葉を使っている。
(前略)それがすなわちお前たち二人の恋愛の形式だったのではないか、と問いつめられると、私は、間抜け顔して、そうかも知れぬ、と答えるより他は無い。男女の親和は全部恋愛であるとするなら、私たちの場合も、そりゃそうかも知れないけれど、しかし私は、そのひとに就いて煩悶した事は一度も無いし、またそにひとも、芝居がかったややこしい事はきらっていた。
小説はおもしろい。わたしは林聖子さんにインタビュウをした数年前と、『インタビュウ』を書き始めた10月の頭に、『メリイクリスマス』を読んだ。そして今再び読み返してみると、先の2回とはまるで違う読後感であることに驚く。自分の眼は節穴だったのか、と思っている。
最初は単純な驚きだった。あの太宰に、彼が手を出さぬ純粋な女ともだちがいた、という驚き。あの太宰に。深い仲にならぬのに、「唯一のひと」という言葉で崇められる。彼女ーー秋田富子さんは、なんてカッコいい女であろうかと憧れた。
だが今は、その部分を大きく受け止めた自分が、むしろ純粋であったのだと思う。3回目に読んで、あれ? と引っかかったのは、「唯一のひと」である勝手な条件を挙げつらねたあとに、作家が(みそぎが済んだとでもいうように)言葉で切り開いてみせる観念の新境地ーーそれはたとえばこんな箇所だ。
「お母さんは? 変わりないかね。」「さっそくこれから訪問しよう。そうしてお母さんを引っぱり出して、どこかその辺の料理屋で大いに飲もう。」 道すがら話しかけるうちに、作家は相手の娘の元気がなくなっていくのを感じる。そして、
私は自惚れた。母に嫉妬するという事も、あるに違いない。
と考えるのだ。
自惚れ? 母に対する嫉妬? なんだそれ、いい齢をして……と読んでいるわたしはいぶかしく思うのだけれど。肩を並べて歩く、輝く若さのシズエ子とさらに言葉を重ねるうちに、
私はいよいよ自惚れた。たしかだと思った。母は私に惚れてはいなかったし、私もまた母に色情を感じた事は無かったが、しかし、この娘とでは、或いは、と思った。
などと、作家は妄想をどんどんエスカレートさせていく。
ばか、ではないか。
いや、男とはこういうものか。
「よく逢えたね。」私は、すかさず話頭を転ずる。「時間をきめてあの本屋で待ち合わせていたようなものだ。」
「本当にねえ。」と、こんどは私の甘い感慨に難なく誘われた。
まったく呆れながら、わたしは文豪の短編から引いているけれど。そんなことおかまいなしに、文中の作家はいっそう調子にのってみせる。娘と逢う前に観ていた映画の話をしては、
恋人同士の話題は、やはり映画に限るようだ。いやにぴったりするものだ。
とひとりごちる。同じ映画を観たと娘から返ってくれば、作品の細部を言葉で描写して、
「逢ったとたんに、二人のあいだに波が、ざあっと来て、またわかれわかれになるね。あそこも、うめえな。あんな事で、また永遠にわかれわかれになるということも、人生には、あるのだからね。」
などと含みのあることを彼女に言い、
これくらい甘い事も平気で言えるようでなくっちゃ、若い女のひとの恋人にはなれない。
と自分で納得してみせる(ばか、か)。挙げ句の果てには、こんなことまで口にする。
「僕があのもう一分まえに本屋から出て、それから、あなたがあの本屋へはいって来たら、僕たちは永遠に、いや少くとも十年間は、逢えなかったのだ。」
私は今宵の邂逅を出来るだけロオマンチックに煽るように努めた。
なんだ、これは喜劇じゃないか。
そうそう、忘れてた。教科書で読んだ『走れメロス』も確かそうだった。太宰治はサービス精神旺盛な、稀代のコメディ作家なのだった。『メリイクリスマス』もおしまいまで読めば、どんでん返しの悲劇な結末が待っているのだけれど、最初は深刻ぶって、途中で笑わせて、事実はもっと酷いと結ぶ。そう結ぶことで、自分をさらにあざ嗤う。自分の愚かさを嗤う、あきらめた醒めた目を、太宰治という作家は持っている。存外、おとなだったのかもしれない。
秋田富子が彼にとって「唯一のひと」だったのは、間違いないだろう。
少女から娘へ変身していた聖子さんと再会して、並んで歩きながら彼の見た夢も、きっと本当だろう。
本当のことを書きながら、欲しがるものは何も手に入らないと、太宰はどこかでわかっている気がする。“物語”をつむぐごとしか、しょせん自分にはできないのだと。
3回目の『メリイクリスマス』を読んで、わたしは思った。これはシズエ子ちゃんこと、若かりし頃の林聖子さんへの、太宰のせめてもの渾身のラブレターだったのではないか。たった、一度きりの。
出典:『メリイクリスマス』太宰治 http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/295_20170.html
「終戦の年に空襲で高円寺のアパートを焼け出されて。それで、お母さまの故郷の津山へ行かれたんですよね」
こう尋ねると、林聖子さんはおっとりとした口調で言った。
「ええ。昭和20年4月の空襲で焼け出されて、その年の10月まで津山で過ごしました。東京にいた叔父や叔母も向こうへ帰っていましたし、楽しかったですよ。津山は田舎なので、昔ながらの日本の暮らしがあって、とてものどかでした」
東京とは一転、岡山県の山間にある町で、聖子さん母娘は穏やかな日々を過ごしたようだ。彼女のエッセイからも、その様子が伝わってくる。
ぶらぶらしているので、松根油にする松の木の根っこ堀りに駆り出されることもあったが、そんなことは少しも苦にならなかった。母と二人、「こんなもので、本当に飛行機が飛ぶのかしら」などといいながら、サボリサボリ作業をすすめた。
文中の松根油(しょうこんゆ)というのは、もしかして……と調べてみると、果たしてわたしにはなじみのあるものだった。高校に入るまで習っていた油絵の、絵の具を溶くテレピン油。つん、と鼻孔を突く、くせがあるけれど涼しい香り、あれが案外好きだった。
松の切り株を乾留して採る油状の液体だ。戦時中、ドイツ軍が松の木の油を使って戦闘機を飛ばしているという情報を得て、やはり燃料不足が深刻だった日本軍が、松根油の製造を試みたらしい。ところが聖子さんたちも「こんなもので……」と思ったように、採取に非常な労力がかかるわりに量をかせげず、飛行機の燃料としての実用化には至らかった模様。
ともかく、松の根っこ堀りに借り出されるぐらいで、疎開地での暮らしは極めて平静であったのだ。
「津山でも、母は太宰さんから手紙をいただいていました。太宰さん、青森に帰っていらしたんですけれど」
今もその葉書は聖子さんの手もとにある。せいこチャンもお母様もご無事の由、安心いたしました、私のほうは三鷹でやられ、甲府へ疎開したら、こんどは甲府でやかれ、さんざんのめに逢ひ、いまは生れ故郷の家に居候してゐますーー等と書かれた太宰治からの葉書。
わたしは訊いた。
「そうすると、8月15日の終戦は津山で迎えられたんですね」
その日を体験したひとには必ず、どんなふうだったかを尋ねるのが、インタビュアである自分の使命だと(勝手に)思っている。相手はたいてい、ちょっと精気を帯びた表情になって、その日のことを話しはじめる。聖子さんもしかり。
「はい、津山でした。もう、何しろね、玉音放送っていうんですか、電波が悪くてあれが津山ではよく聞こえなかった。ラジオも今と違って、性能がよくなかったんじゃないですか、雑音だらけでね、何を言っているのかわからない。わたしなんか意味がわからなくて、『どうしたの?』『どうしたの?』ってまわりに訊いて。『戦争が終わったらしいぞ』って叔父が教えてくれたんです。それで、叔父と叔母と母とわたしの4人で、とっときの小豆と餅米があったので、お赤飯を炊いてお祝いをしたの」
風景が目に浮かぶよう。山間の薄暗い家のちゃぶ台で、赤黒く光る豆と、湯気を上げるもっちりとした桃色の米。塩をぱらぱらと振ったわずかな塩分だけで、甘みが立ってほっくりとおいしく、食べるとたちまち力が湧いてくる。再び生きられることの喜びを味わう御馳走である。
当時17歳だった聖子さんの心身を、終戦は一気に開放した。
ホットすると同時に、すこし拍子抜けしたような気もした。監房に閉じ込められていた死刑因が、突然、「お前は無罪だ。もう出てもいい」といわれたのに似ている。それまでの私たちは、広島、長崎のこともあり、ここでの幸せな暮らしも、いずれは終わりが来る、と暗黙の裡に認めていたのだと思う。
母の場合、流石に、頭の切り替えが早く、すぐ東京での新しい暮らしのことを考え始めた。
「お母さまはお身体はお強くなかったけれど、気丈な方だな、って思ったんです。すぐに東京へ戻ることを考えてらしたって、エッセイにあったから」
「津山では、母の弟夫婦のところへ居候していたんです。そこには子どもはいなかったんですが、やっぱり自分たちだけで暮らすほうがラクですよね。津山にいたのでは、いつまでたっても生活のメドが立たないし。それに東京の様子を見たかったですから、できるだけ早く帰りたかったのね」
「だけど終戦直後は、東京へ帰ってくるのもひと苦労だった」
「そう。わたしたちは10月中旬に津山を離れたんですが、途中で熱海の知り合いの家に居候させてもらって、東京へ戻ったのは11月も終わりに近い頃でした」
「途中下車して」
冗談っぽく笑いながら訊くと、
「途中下車して」
と聖子さんも笑顔で応えて、あとを続けた。
「一ヶ月ぐらい熱海にいたんです。というのはね、あちこちへ疎開していたひとが、一度にワッと東京へ帰ってくると大変なことになるじゃないですか。何せ、まだ焼け野原なわけだし。だから帰るのが規制されていて、東京へ帰る許可証みたいなものが下りるまで、熱海で待っていたわけなんです。熱海では、高円寺時代に母が肖像画を描いた方の娘さんの家にお世話になっていました。とても親切な方たちで、三鷹の住まいを探してくださったのも、この家の方です」
再びの、東京の住まいは三鷹・下連雀の長屋だった。
「ふるーい、元はどっかの寮だったらしいんですけど、五軒長屋の真ん中に空きがあったのでそこへ入ったんです。6畳と3畳間で、鍵もない家なんですよ。一間(いっけん)の幅の玄関にガラス戸が2枚入っていて、その重なりの木枠のところに桐で穴を開けてね、こんな長い釘を、出かけるときは刺すの。それで帰ってくると、暗闇の中でその釘を抜いて、今度は内側から反対向きに刺す。だから誰でも簡単に入れちゃう。焼け出されていますから、取られるものがなんにもなかったから、そんな鍵でよかったのね。そんなボロ家でも、焼け跡の東京にいち早く住まいを確保できたのだから、わたしたちは幸せでした」
三鷹に落ち着くと、聖子さんは都心にある知り合いの会社に勤めだした。母は家で本を読んだり、絵を描いたりしていたが、聖子さんの給料で生活をしていたわけではなく、慎ましやかに暮らしていくだけの蓄えがあったようだ。
下連雀の家に住み始めて、ちょうど一年がたった頃。昭和21年11月の初めの日曜日だった。聖子さんは駅前の三鷹書店へ、有島生馬が父の林倭衛のことを書いているという雑誌「ロゴス」を買おうとして入っていった。戦中に活字に飢えたひとたちで、夕方の書店はごった返していた。「ロゴス」の場所を店員に尋ねるために、一歩前へ出かかったときだ。レジを離れようとしていた男と向き合う形となった。
私は魔法をかけられたようになった。「太宰さんの小父さん」といいかけて、あわてて「小父さん」の言葉を呑み込んだ。太宰さんには、もう三年余りも会っていない、多分、私のことなどもう覚えておられないだろう。「小父さん」などという親し気な呼び方は、今の私にはもう許されない。ふとそう感じたのである。
終戦をはさんで、少女から大人の女になっていたひとの逡巡。
しかし、太宰さんは、やはり昔のままの太宰さんだった。「聖子ちゃん?」「やはり聖子ちゃんかあー」といいながら、近寄って来られた太宰さんは、温かい手をソッと私の肩に置いて、「無事だったのか、よかった、よかった」というように私の顔をのぞき込んだ。
約3年ぶりの再会だった。ひととひとは、出会うように仕組まれている。また逢いたい、と念じていなくても。いつか逢える、と信じていなくても。会うものは会うように、できている。そして、会えた奇跡を、歌うたいは詩で讃える。絵描きは線で喜ぶ。物書きは文章で祝福する。
出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録) 林聖子著・星雲社
・インタビュウ9は明日の夕方の更新になります。すみません。
・さいきん、夜空が澄みきっていて、月や星がとてもきれいですね。地上の人間社会がおぞましい景色になったとき、ふと見上げるとうつくしい世界があるのは、ほんと幸福なことだ、と思います。
・ひとのちからの及ばないところーーたとえば山奥とかに行くほどに、みごとに紅葉した美しい木があったりする。ひとのちから(や想像力)の及ばないところに美しいものがたくさんあるなんて、だからこの世界はすばらしいのだ。という話を少し前に仕事の場でしました。
・一方、うまくいっているとき、バンドにはメンバー以外に「バンドさん」がいるんだ、というのは少し前に親しいひとから聞いた言葉。ひとのちから(や想像力)を超える、ひとのちから(や想像力)なんじゃないかと思う、「バンドさん」は。そういうちから(や想像力)の働きがあるのも、この世界のすてきなところです。
・そんな話ばっか、していたいけれど。この世界のすばらしいところやすてきなところの、そんな話ばっか、していたいけれど。そんな話ばっか、では生きていけない。でも、「そんな話」の割合を自分の中で多くしていけばいいのではなかろうか、って思っている。きもちのスーッとしたり、ふわっとしたりすることの比重を多くしていこう、と。それしか、これからの人生を気分よく過ごす術はない気がしています。
・できるかな、でもやるんだよ。
・というわけで、インタビュウ9は明日の更新になります。すみません。
ペンを置いてからもしばらく、料理をしながら、お風呂に入りながら、ちらちらと「書いたこと」について考え続けている。わたしの日常はいつもそんなふう。そして、だいぶたってから気がつく。〈ああ、そうじゃなかった、自分と真逆なひとだから、秋田富子や林聖子さんに惹かれたのではなかった、聖子さんにインタビュウをした当初は違ったのだ。〉
新宿・花園神社近くのビルの地階にあるバー風紋で、林聖子さんにインタビュウをさせてもらったのは約2年前。以来、聖子さんの母である秋田富子という女のひとが、自分の中に住み着いてしまった。わたしの心の中のアパートに間借りして、ひっそり暮らしているようだった。畳にぺたんと足の裏をつけて、木枠の窓から顔を出し、ときおりこちらをぼんやり眺めている富子さんの姿を思い描くこともできた。
彼女はなぜ、わたしの中に居着いてしまったのか。
わたしが招いたのだ。“真逆なひと”に憧れたからではない。強い共感があったから。もちろん勝手な共感ではあるけれど、〈そうよ、想い続ける人生だっていいんだ。想うだけで、何も手に入れずに、ひとりで生きる人生だってアリなんだ〉と約2年前のわたしはそう思ったのだ。
なんだろう。なにもかもを欲しがることはどうなんだろう、って考えていた。20代からずっと女性誌の仕事をしてきて。わたしの20代は80年代だから、80年代、90年代の日本の女の意識みたいなものを背負って、仕事をしてきた感があったから。
服も靴も本もレコードも、すてきなものをたくさん持っている。お得な情報も、ディープな情報もいちはやくキャッチする。そこそこの学歴がある。英語を喋れる。自己表現のできる、やりがいのある仕事に就いている。すてきな恋人がいる。男友だちも多い。申し分のない夫と家庭を築いている。子どもがいる。子どもをいい学校に入れている。持ち家がある。衣食住のセンスがいい。世界各国の美味を知っている。海外旅行に慣れている。いつも見ている夢がある。いくつになっても若くてきれいな自分でいるーー。
こんなこと、今はもう、おとぎ話だし、若い女の子たちには鼻で笑われてしまいそうだけれど。つい先日までは「そのどれもを持っている」ことが最上で、すてきであるとされていた。資本主義経済とねんごろな女性誌的な価値観では。その価値観の片棒を担ぎながらも、わたしは、わたしたちは欲しがりすぎると感じていた。現実には自分がまるで“持てていない”から、なおさらだった。
それに、林聖子さんにインタビュウをしたときのわたしには欠落感があった。
学歴もなく、英語も喋れず、持ち家もなく、家庭も持たずに生きてきたことに加えて、“欠けているもの”があると考えていた。それは恋心。憧れこそすれ、ひとを希求する心をわたしは失っていた。告白すれば驚かれるほど長い間、恋をしていなかった。男のひとを、まるで好きにならないのだ。男のひとから、好きになってもらうこともなかった。
世の中には恋愛をたくさんすることで、人生や人間が豊かになるという考え方がある。常に恋人がいたり、理解ある夫がいたりするほうが女は幸せ、という通念がある。一理ある、かもしれないし、あるいはそれは真理なのかもしれないけれど、わたしは反発したかった。だって、しかたがないじゃない、好きにならないんだもの。50にもなることだし、もう一生このままかもしれない(人間的ふくらみを持てないままに?)。でも、それでいいじゃない、そういう人間だっているんだよ、しかたがないじゃない、そう思っていた。
だから太宰治のような男の話し相手をしながら、別れた夫を想い続けて、静かな呼吸を繰り返して生きている、秋田富子にとても惹かれた。自分の仕事の場である女性誌でもてはやされる「恋多き女」の対極にある、「恋少なき女」。そういうひともいるんだよ、そういうひともいていいんだよ。秋田富子さんと、時代を超えて、わたしは友だちになりたかった。その母や父と距離を置きながらも、心の中で彼らへ愛あるまなざしを向けている、聖子さんの涼しいたたずまいにも憧れた。
ひととべったり寄り添うことをしなくてもいいではないか。孤独を伴う覚悟さえあれば、ひとりで生きていたっていいではないかーー。それぞれに孤独をにじませている母娘に、だから、わたしは強く惹かれたのだった(その後好きなひとができて、このことを忘れていたのだから、げんきんなものだけれど)。
話を戦前の高円寺に戻そう。秋田富子がひとりで暮らすアパートへは、聖子さんいわく「母とどこか孤独が響きあった」太宰治だけでなく、ダダイストの辻潤もよくやってきた。秋田富子は知的好奇心を持っている上に、「さっぱりとした人で聞き上手」で、女ならではのクッションみたいな包容力を備えていたから、デリケートでいずれ癖のある文筆家業の男たちにとって、気安い話し相手だったに違いない。
あるとき、いつものように立て膝の辻さんが母と話しているところに父がドアを開けた。お金でも届けに来たのだろう。チラリと部屋の中をのぞいた父は、荒々しくドアを閉めると、足早に帰って行った。「馬鹿ねえ、何を考えているのかしら」とつぶやきながら母は、すぐ私に後を追わせた。戻った父は、何事もなかったように母や辻さんと話を始めた。
聖子さんのエッセイの中にある、何かくすぐったいようなエピソード。慌ててドアを閉めた林倭衛のことがちょっとうれしくもあり、猪みたいな体躯を翻して去っていく彼を、富子さんは愛しいと感じたはずだ。
私の家が、世間一般の家庭とはまるで違った家であることを、ハッキリ自覚するようになったのは、やはりこのころからであったと思う。父も時折高円寺のアパートを訪ねていたが、母も私を送りがてら浦和の家を訪れ、食事などをしていた。先妻と後妻が、父をはさんで食事を共にする姿など、普通の家庭ではとても見ることができないだろう。
男友だちや別れた夫が、ときおり訪ねてくる母のアパート。なじみの通い主であった太宰治は、母と離れて暮らす聖子さんを不憫に思ったのか、聖子さんが浦和に帰る際に高円寺駅前の本屋へつかつかと入っていき、彼女のための二冊を買って出てきたことがあるという。
「それがね、『母を尋ねて三千里』と漫画の『フクちゃん』。その頃のわたしはフランス文学を、『クレーヴの奥方』なんかを読んでいましたから、子ども扱いされて不満でした」
ともあれ、彼女たちが高円寺で過ごした昭和15年から、16年、17年、18年、19年あたりまでは、さびしくも楽しい不思議な暮らしが続いたのだった。戦争がいよいよ激しくなるまでは。
戦争ーー。
「私はおおむね浦和にいたので、空襲じたいはそれほど怖いおもいはしていないんです。ただ、高円寺の母のアパートに泊まったときにね、夜に空襲があると、まわりの人はみんな、防空壕に入ったんですよ。だけどうちの母は『どうせ死ぬなら、防空壕みたいなところに埋まって死ぬのは嫌じゃない?』と言って。私も同じ気持ちだったから、ふたりとも部屋の中にいて、窓を開けて寝てました。すると、空が紅くなっているんですよ。そこをB29が通ると、こう、影になって。それをずっと眺めていました。母と並んで寝ながら。怖いとか、全然思わなかったです」
聖子さんがこう言ったので、わたしはオウム返しに聞いた。
「怖いと思わなかった?」
「ええ。女学生だったあの頃は、もう、いつ死ぬかわからない、とかね、そんなふうに思っていて。死ぬっていうことが、だからそんなに……細かく考えていないんですよね。具体的にはなんにも考えていないんだけど、とにかく怖くはなかったんです」
死と生の境界線がぷつぷつと破れていて、空気がしゅうしゅう漏れている。戦時下における人間は、そんな頼りなげな存在なのかもしれない。生きようとする力が弱まる。影法師が薄くなる。
昭和20年1月、いよいよ戦局が危うくなる頃に、大酒による肝硬変腫瘍が自潰して、林倭衛が49歳で死去。聖子さんは17歳だった。父の七七忌と女学校の卒業式をすませると、彼女は浦和を去って、高円寺の母の許に移った。
4月中旬、聖子さんが住民表移動の手続きのために浦和の家に帰っている間に、高円寺のアパートは空襲ですっかり焼け落ちた。母の富子さんは氷川神社に避難していて無事だった。それで母娘は、母の実家のある岡山県津山に疎開することにした。一方、三鷹に住んでいた太宰治は、郷里の青森県金木町に疎開した。
出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録) 林聖子著・星雲社
「高円寺時代に母が、『今日は曇っていて雨が降りそうだから、太宰さん、見えるかもしれないわね』ってよく言っていたのが、印象に残っているんですよ。それで大抵、そういう日に太宰さんはお出かけになった」
早い夕刻。ほんのわずかなあかりだけを灯した開店前のバー風紋は、古いビルの地階ということもあって、水底のように黒かった。その中で、やはり黒い色のワンピースを着て座っている林聖子さんは、陽のにおいが充満する草むらなんかは歩いたことがなくて、しめやかな闇の中でずっと暮らしてきたひとの印象がある。
いまにも雨つぶが落ちてきそうな曇天の日に、高円寺にひとりで暮らす母のアパートを太宰治は訪ねて来たという。ふらりとやってきて、6畳のひと間に膝を抱えて座り込み、秋田富子が出す簡単なものをつまみながら酒を呑んで話をした。そうした姿を少女の林聖子さんは、たびたび目にしている。
家の中で話をしているときは、両方の膝を立てて、両手を抱えるようにして話をされる。だんだん話が佳境に入ってくると、腰を軸にして身体を回し、壁の方を向くようにして話をされていた姿が目に浮かぶ。内容はよくわからなかったが、母との話は文学論が多かったようだ。議論というより、太宰さんの話をただ黙って聞いて上げていたのが、本当だったのだろう。
共に明治42年生まれだから、太宰治も秋田富子も当時31〜32歳。ご存じのように恋愛にだらしがない男で、家庭があっても、そとで係わる女との間に子どもも作れば、心中未遂もする。そんな太宰がひとり暮らしの女のアパートを訪ねて、彼女とは文学の話をするだけの清潔な関係を続けていた。そのことは、林聖子さんにインタビュウをする際にあたった資料で知って、(太宰をよく知らない)わたしにも新鮮な驚きだった。
そんな清らかな女が、太宰治にいたということが。
そんな毅然とした女で、太宰治みたいな男を相手にいられたことに。
からだも、こころも、弱まっていて、ましてや孤独ならば。たとえ頼りがいのない細い木でも、つい、もたれかかりたくなるのが人間というものではないか。
会いにくるのは、求めているからだろうし。曇天におしつぶされそうな日に、「今日あたりみえるかもしれないわね」と予言するのは、心のどこかで待っているからだろうし。
でも、ふたりはからだを触れることはしなかった。
太宰治を可愛いと、秋田富子は思わなかったのだな、とわたしは想ってみる。可愛い、とチラとでも思えば触りたくなるし、いずれちょっとした機会があれば触ってしまうから。だから太宰治はきっと、秋田富子にとって可愛い男ではなかったのだ(余談だけど“可愛い”って“愛が可”なのですね)。
一番気になるところを、林聖子さんはエッセイにこんなふうに書いている。
それにしても、あのころの太宰さんは、なぜ、あのように頻繁に、母の許を訪ねてきていたのであろうか。子どものころのことで私にはよくわからないが、もちろん色恋であったはずはない。あれほどひどい仕打ちをされながら、母は最後まで父を愛していたし、とても色恋などできる人ではなかった。ただ無類の淋しがりやで、父が写生旅行に出掛けたときなど、ほとんど毎日のように手紙を書いていた人なので、あのころの母にとって太宰さんの訪れが、大きな心の支えになっていたことは確かだと思う。
裏切られて別れた夫を、秋田富子はずっと愛していたという。だけど、それはもう、報われない愛なのだ。報われない愛をずっと抱えて暮らす日々の孤独は、いったいどれほどのものだろう。
太宰さんもまた、そんな母に対して、旧家のはぐれ者同士といった共感があり、なにか鬱屈したときなど、母の許をたずねて、ただボンヤリしていることで、心の傷をいやしていたのかもしれない。
こう記したあとで、聖子さんはエッセイの文中に太宰の『津軽』を引用する。そして、太宰が故郷で育ての母を訪ねて、“不思議な安堵感”を覚えたと書くことから、彼女は考える。
このように太宰さんの気持ちの中には、女の中にある母性(無償の愛)というものに対する押え難いあこがれが潜んでいたように思う。ひょっとすると、当時の母の中に、そうしたものを見たのかもしれない。
報われない愛を抱えて生きている女と、無償の愛にあこがれる男。
女がひとりぼっちでも、男が多くの異性と深い仲にあっても、孤独の大きさ深さには変わりがない。今更ながら、そんなことを思って。では、ひとの手に入るものって、いったい何なのだろう、手に入れたものが確かに存在するって、どうして思えるのだろう、とまわりくどいことを考えて。いやいや、そんなことはどうでもいいのだと、頭を振って中身をからっぽにする。考えることと生きることは、違うレールの上にあるとわたしは思っている。
孤独でいても、秋田富子には太宰治という男ともだちがいた。
太宰治には秋田富子という、「唯一のひと」がいた。
その事実に、なぜだか強く長く惹かれるわたしがいる。
それは秋田富子のようなひとに対するあこがれが、自分の中にあるせいだ。
孤独は、そんなものではすくわれないと知るひと。知って、耐えるひと。がまんができるひと。手をのばさずに、そこにあるものを“見つめるだけの人”。
そう。書いていてようやくわかったけれど、秋田富子というひとは、堪え性のかけらもない自分と真逆なひと。その慎み深さに、人間の美しさに、わたしはずっとあこがれている。自分が持ち得ないものだから、興味深く、彼女のことをのぞきこんでいる。
出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録) 林聖子著・星雲社
ことばをつなぐのが たまらなくいやになる
ことばをさわるのが たまらなくいやになる
らららららら らら
ららららららら 『あんなに好きだったこと』山本精一
というわけで、今週は「インタビュウ」シリーズはお休み。
最近のことを少しだけ書きます。
おとつい、納戸の上のほうにのせている紙製の大箱を「これ、なんだっけ?」と開けてみると、中身は大小さまざまなアルバムだった。過去を振り返ることがあまり好きではないので、アルバムなんて滅多なことでは見ないが、おとついはなんとなく開いてみた。稼いでいた頃に泊まった伊豆の高級旅館のバリ風のロビーや、温泉の中で両腕を広げてポーズをとっているまだ若い母。ベトナムを最初に旅したときのハノイの朝もやの風景。ベトナムの魅力に取り憑かれて、山岳少数民族の村など、約一ヶ月間かけてあちこちさまよっていたときの大量の写真。何回となく訪れている中国は……あれはいったい何十年前になるのだろうか……石川夫妻はもとより、特殊音楽家のとうじ魔とうじなんかも一緒に大勢で、神戸から出航する鑑真号という船で上海まで二泊三日かけていったことがあって、そんな写真もアルバムに収められていた。さらに時代をさかのぼると、“東京川クルージング”と称した、東京の川を船で下る催しに参加したときの写真も残っていた。その船の上でたまが演奏をして、それがわたしやあるが彼らと知り合うきっかけだった。恋人がわたしを撮ったポートレートもあった。20歳ぐらいのときにバイトしていた東中野の喫茶店『山猫軒』の前に立つエプロン姿のわたしの姿もいた。
アルバムをめくりながら、なつかしさではなく、妙な感覚に襲われた。いろいろな過去の時間の、いろいろな場所にいる自分の姿を見て、「ああ、こんな女のひとが生きていたんだなぁ」と思うのだ。自分の若い頃ーーというよりも、なにか自分ではないみたいで。知っているようで知らないひとの、生きていたときの姿を見ている、そんな感覚。たぶん今もそうなのだろう。昨日の自分も、おとついの自分も、一週間後、一ヶ月後の自分も、今日のお昼にハムエッグを食べていた自分も、すでに自分ではなくなっている。過去だけでなく、きっと未来も。これから、わたしの身に起こることやわたしの吸う息も、わたしのものではないような気がしている(自分ナゾ、ドウデモイイノダ)。
話は変わるが、今年になって、本当に久しぶりに好きなひとができた。そうしてみると、おもしろいことが起きる。いつか小説の中にでもこっそり紛らせてみようと思っていたのだけれど、いつか、なんて、いつ来るかわからない。だからいいや、ここに書いてしまおう。
あるとき、仕事部屋に面したベランダの端っこに、一羽の鳩が止まって、どういうわけか2、3日ずっと同じ場所にいた。仕事机に向かっているわたしの斜め後、窓の外のベランダの端っこに鳩の存在がずっとある。わたしのそばにいるのだ。で、なんとなく思った、「あ、これは彼だな」。好きなひとがわたしのそばに来ている、と感じた。またあるときは掃除をしていて。わたしは掃除機の長い柄の部分を取ってしまって、ホースを短くして、まるで雑巾がけのように床をはいずりまわりながら掃除機をかけるのだが(ゴミがよく見えるように)、そうして掃除機をかけていると、小さな透明な蜘蛛が床の上にいて、普通は逃げるはずなのに、せっせ、せっせとわたしのほうへ向かってくる。「あ、これは彼だな」って、そのときも思った。好きなひとがわたしのそばに来てくれている。
なんとなく自分のそばにいて、その存在が気になる「生きもの」を、「彼」の化身であると瞬時に感じる。だから、面白いなと思う。恋をしたことで初めて気づいたのだけれど、つまり、わたしはいつしか、人間をそんなものとして捉えるようになっているらしい。たましいは、ときに乗り換え可能なもので。たましいは、それじたいが何らかの意思を持つものではない。たましいは、生きている、というただそれだけの温かい炎。生きものの芯にあるのがたましいで、わたしにとって愛おしいのは、好きなひとのくれる鋭い考察や、甘い言葉や、やさしい眼ざしよりも、彼のたましいなのだ。それが一番大事なもの。この地上に好きなひとのたましいがあることで、わたしは日々、幸せを感じている。
彼に限ったことではなく、自分のまわりにたましいがあるのは幸せなことです。そして、ひとが死んでたましいが消えても、たましいの代わりに残るものはたくさんある気がしている。死んだひとの一部分が、だれかのたましいの中に細かくなって入り込んだりしていると思う。だから、だれかが死んでも、だれかが生きていれば、それでいいのだ(自分ナゾ、ドウデモイイノダ)。
今井次郎さんという希有な音楽家が亡くなった、と知ったのは昨日。きいちがいの浮浪者のおじさんにしか見えなかった今井次郎さんは、石川浩司と『DEBUDEBU』というユニットを組んでいた。http://acocoro.nihirugyubook.but.jp/?eid=117
円盤でのライヴ(なのかな、あれは)が終わったあとで、今井次郎さんは自作のいろんな作品というか気持ちの悪いガラクタ(演奏中に使用する)を大きな風呂敷に包みながら、古い歌謡曲をずっと口ずさんでいた、そのことを夕べは思い出していた。打ち上げのテーブルの端っこで、円盤店主の田口さんや、その日の『DEBUDEBU』のゲストだった日比谷カタンさんを相手に、(確か)戦前の日本のジャズについて熱っぽく話していた姿も思い出した。きいちがいの浮浪者のおじさんにしか見えなかった今井次郎さんだけれど、本当に音楽が好きで、音楽に対して真摯なひとだったのだ、と。今井次郎さんの口ずさんでいた古い歌謡曲のメロディが、夕べはわたしの耳元で鳴っている気がして、そこに彼のたましいの粒子がまぎれているのを感じていた。
死んでいくたましいは、自分の粒子を受け取る生きたたましいがあれば、それでよいのだと思う。だから悼まなくても。自分ナゾ、ドウデモイイノダ。自分であるような・ないようなわたしたちが、それぞれ、たましいを大事に抱えて生きていれば、それでよい気がしています。
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その後の秋田富子について、書こうとして。林聖子さんをインタビュウしたときにつくった、林さん一家の年譜(取材用メモ)を眺めると、一年ごとに様相を変える彼らの暮らしぶりにあらためて驚かされる。
昔の日本人は確かに早死にだったけれど、一年の密度が現代人よりもグッと濃くて、トータルで見ると、わたしたちよりも充実した一生だったのではないか。出会ったり、むすばれたり、別れたり、別れられなかったり、生まれたり、死んだり。男女関係や家族だけでなく、友人関係とか遠い親戚とか、とにかく人間どうしの係わり合いが忙しかったから、日常がわさわさとして、起伏に富んでいたような。
中でも、聖子さんの周辺は次々に変化していって、なのに賑やかさや楽しさの色めき立ちは感じられない。流転の日々を、少女の聖子さんはひとりで淡々と受け止めて過ごしてきたふうに見える。
わたしのつくった年譜には、こんな記述が連なる。
昭和13年、帝展初日。林倭衛が、秋田富子の着物を着た高橋操を連れて現れる。伯母がすぐに、妹の着物だと気づく。→両親の関係に亀裂。
昭和13年秋、鵜原へ。そこには母の代わりに身重の操さんの姿があった。翌年2月、異母妹の葉子誕生。
昭和14年〜15年、祖父母が聖子さんと母を引き取ってくれた。林倭衛と別れたあとも、祖父母は何かと母のことを気に掛けていた。母娘が一つ屋根の下の、ひとときの楽しい暮らし。
昭和15年夏、母が高円寺にアパートを借り、ひとり暮らしを始める。母はいっとき、新宿・武蔵野館近くのカフェ『タイガー』に勤めた。文学好きゆえに、客として来ていた室生犀星、萩原朔太郎、太宰治、亀井勝一郎らと懇意になる。
昭和16年、父、操、聖子さん、葉子、お手伝いさんの5人で、浦和市郊外に祖父母が建てた家に移る。聖子さん、浦和の私立女学校へ通い、土日ごとに高円寺の母のところへ通う。
インタビュウのときには、ノートの下に忍ばせている年譜をちらりと見ながら、確認するようにわたしは訊いた。
「お母様は、高円寺にいらしたんですね」
「ええ。6畳ひと間のアパートでした」
共同の入り口を入り、階段を上がって二階のすぐ左手。戸を開けると半畳ほどの玄関があって、その奧の6畳ひと間が秋田富子のすみかだった。部屋の片隅に、十円玉を入れると火が点くガス台を備えた、小さな流しがあったそうだ。
「カフェで働いたりもして。その頃、お母様のからだは比較的よかったんでしょうか」
聖子さんが答える。
「そうだったようですね。でも完治はしていなかったんです。高円寺時代もカリエスで、胸の骨をね、何カ所かとっているんです。どうも、わたしを産んでから、からだの具合いが悪くなったみたいで。体調のいいときは『タイガー』に勤めていましたが、それも長い期間ではなかったの。そのあとは、何もしていなかったと思います。高円寺のアパートで絵を描いたりして、静かに暮らしていたんです。戦争で焼け出されるまで」
「そのアパートの部屋に、太宰治が遊びに来ていた」
「ええ。太宰さんは『タイガー』にお客としてみえていて。三鷹に住んでいらしたから、高円寺は近いでしょ。それでたまに母のところに寄ってくださったんです。わたしもたびたび、太宰さんにお目にかかりました」
聖子さんが、遠くを見つめるような眼になって話す。
「土日ごとにわたし、浦和から赤羽まで行って、池袋へ出て、新宿、高円寺……と呑気に通っていたんですよね、母のところへ。太宰さんに初めてお目にかかったのは、昭和16年の夏でした。母にお遣いを頼まれて外に出たら、大踏切のところで、白いシャツに黒っぽいズボンをはいて、下駄履きでね、つんのめるように歩いてくる男のひとが向こうから。あ、太宰さん、とわたしはすぐにわかったの。母が描いた太宰さんの顔のスケッチを見ていましたから。それでお遣いから帰ると、さっきの男のひとが母の部屋の前でしゃがみこんでいた。履いていた下駄の前歯がとれちゃったのを打っていたんです」
「それから、アパートでよく遭遇するようになったんですね」
また確認を取るように言ってから、わたしは続けた。
「太宰治の『水仙』は昭和17年に発表されていますけど、あの作品は、お母様が太宰さんに送った手紙がヒントになっているんですよね? 敬愛していた萩原朔太郎の死を嘆く、お母様の手紙が使われた……。作家にそこまでさせるって、やっぱり秋田富子さんは太宰さんにとって特別な、すごく大事な存在だったんじゃないかと思う」
「そうでしょうか。なんか、うちの母はすごい嫌がっていました」
「『水仙』という作品を?」
「ええ」
確かに『水仙』は、読後にもやもやとしたものが残る短編だ。
主人公は金のない小説家。彼と付き合いのある財産家夫婦に起きた出来事を、主人公がひとり語りするスタイルで物語は進む。財産家夫婦の夫人の実家が破産した。それを非常な恥辱と考えた夫人は、もとは「無智なくらい明るくよく笑う」ひとだったのに、妙に冷たく取りすました女に変身してしまった。育ちがよく温厚な夫は彼女を慰めるために、洋画を習うことをすすめる。夫人が絵を始めると、夫はもとより、師である老耄の画伯や同じアトリエへ通う若い研究生などが褒めちぎるものだから、夫人は夫人であることに飽きたらず、「あたしは天才だ」と言って大金を持って家出をしてしまう。困り果てた夫が「こちらに来ていませんか」と訪ねてきたことから、主人公の小説家は事の次第を知る。「とにかく、僕がわるいんです。おだて過ぎたのです。薬がききすぎました」と話す夫を小説家は心の中で嘲笑し、“お金持ちの家庭にありがちな、ばかばかしい喜劇だ”と考えた。
その後、夫人がふいに小説家のところへやって来る。「奥さん、もの笑いの種ですよ」「二十世紀には、芸術家も天才もないんです」と諭すと、「あなたは俗物ね」と夫人に返されたことから、(生まれ育ちや経済上のことで、実は劣等感を持っている)小説家の心情が露呈する部分が面白い。
僕に対して、こんな失敬なことを言うお客には帰ってもらうことにしている。僕には、信じている一言があるのだ。誰かれに、わかってもらわなくてもいいのだ。いやなら来るな。
「あなたは、何しに来たのですか。お帰りになったらどうですか。」
「帰ります。」少し笑って、「画を、お見せしましょうか。」
「たくさんです。たいていわかっています。」
「そう。」僕の顔を、それこそ穴のあくほど見つめた。「さようなら。」
帰ってしまった。
なんという事だ。あのひとは、たしか僕と同じとしの筈だ。十二、三歳の子供さえあるのだ。人におだてられて発狂した。おだてる人も、おだてる人だ。不愉快な事件である。僕は、この事件に対して、恐怖さえ感じた。
と書き写すうちにもわくわくしてくる、太宰の文章のリズムの良さは、やはり凄いものだなぁ、と余計な感想をはさみつつ。引き続き、『水仙』のあらすじを。
自分の絵がまずかったことに気づいた夫人は、酒に溺れる日々の中で、小説家に長い手紙を送ってくる。「いままでかいた絵は、みんな破って捨てました」「私の絵は、とても下手だったのです。あなただけが、本当の事をおっしゃいました」「私は、出来る事なら、あなたのような、まずしくとも気楽な、芸術家の生活をしたかった」と。さらには、かつて小説家を訪ねたのは、ちょっとましな画がかけたと思ったので見せたかった、見て褒めてもらって、小説家の家の近くに間借りして、まずしい芸術家どうしの友だちになってもらいたかった、という真意もそこには書き添えられていた。
封書にあった番地を小説家が訪ねると、6畳ひと間の何も無いアパートに、あやしい安酒のせいで耳が聞こえなくなり、瞳に生きる輝きの消えた夫人が淋しく笑ってそこにいた。彼女と筆談するうちに、「もしや」と小説家は思う。そして老耄の画伯のアトリエに行き、そこにわずかに残っていた夫人のデッサンを目にするや、小説家は自分の勘が正しかったことを知り、その水仙の絵を画伯の前で破ってしまう。
水仙の絵は、断じて、つまらない絵ではなかった。美事だった。なぜそれを僕が引き裂いたのか。それは読者の推量にまかせる。静子夫人は、草田氏の手許に引きとられ、そのとしの暮に自殺した。僕の不安は増大する一方だ。
太宰治流『藪の中』といったところだろうか。何が真理なのか、ひとの価値観や審美眼とは何なのか。うらやむものと、うらやまれるものとの違いは何なのかーー。この地上にはすべて真理がないものと感じさせ、読み手まで主人公同様に不安な気持ちにさせてしまう。太宰の筆力に、わたしは『水仙』を読んで圧倒される思いだったけれど。
この作品に、実生活で係わりのある人物にとっては、複雑、いや不快な読後感が残るだろう。聖子さんはエッセイに綴っている。
母をモデルにしたというより、母の手紙にヒントを得たと思われる太宰さんの「水仙」には、
ーー耳が聞こえなくなりました。悪いお酒をたくさん飲んで、中耳炎を起こしたのです。
という部分があるが、これはいかにも太宰さんらしい脚色で、悪いお酒を飲んだためではない。萩原先生の死を悼む悲しみの涙が耳に入り、それが中耳炎となって、母の鼓膜を損傷したというのが真相。
なお、母は手紙を無断でつかわれたことと、「水仙」の主人公のあつかいを好まなかった。
「……雨の音も、風の音も、私にはなんにも聞こえませぬ。サイレントの映画のやうで、おそろしいくらゐ、淋しい夕暮です。この手紙にはお返事は要りませんのですよ。私のことは、どうか気になさらないで下さい。淋しさのあまり、ちょっと書いてみたいのです」
という心の奥底を世間に晒されたことと、次のような部分がこたえたのではないかと思う。(『風紋五十年』収録・林聖子エッセイ「いとぐるま」より)
聖子さんが「次のような部分」として挙げるのは、主人公の小説家が夫人のアパートを訪れて目の当たりにした、夫人の描写。「けれども、なんだか気味がわるい。眼に、ちからが無い。生きてゐる人の眼ではなかった。瞳が灰色に濁つてゐる」などという箇所だ。
この件について、わたしには何も言う資格はない。ひとからもらった手紙や、ひとからもらった情報や、そのひと自信のマイナスなことを、なんのことわりもなく文章に組み込んだり、脚色したりして、公然のものとすることを自分もやってしまうから。酷いことだと思うし、そんな自分を庇護するつもりはないけれど、太宰のしたことを責める気にも正直なれない。そういう体質なのだから、しかたがないと思うだけ。嫌われても、縁を切られても、しかたがない。やめられないのだから、わたしたちはそれを。
誰かを傷つける罪とひきかえに、“ほかの誰か”を楽しませることを物書きはする。でもそれだって本当のところは、“ほかの誰か”を楽しませたいわけではなくて、自分が楽しいから、それをするのだと思う。たとえひとをひどく傷つけても、書くことが楽しいから、自分の喜びだから、それをしてしまうのだ。
自分勝手で性悪で薄情な人間である点で、太宰もわたしも同じ。文豪と自分を一緒にする大胆不敵を許してもらえるのなら、わたしたちは同じ穴のむじな。
だとしたら、せめて自分だけでなく、“ほかの誰か”も楽しめる文章を書かなければ。わたしはともかく、太宰治は確かにそれをした。“ほかの誰か”を楽しませることもさんざんしたし、彼はその上、ひどく傷つけたひとたちを、逆にものすごく喜ばせることも文章でやっている。存外、やさしいひとだったのかもしれない。薄情である一方で。
出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録)林聖
子著・星雲社 『水仙』太宰治 参考文献:東京
人2008年12.10臨時増刊号 林聖子インタビュー
/文・森まゆみ「太宰さんは明るい方でした」
バー風紋の黒いソファに向き合って座り、インタビュウを始めて1時間が過ぎた頃だろうか。
「わたし、イボンヌさんの写真を持ってきたの」
聖子さんが唐突に、しかも自分からその話を切り出したので、わたしはハッとした。
イボンヌ。彼女のことは資料の中に出てきたので知っていた。林倭衛のフランスの恋人。
大正10年(1921年)に初めてパリへ渡ったときに、林倭衛はほかの日本人画家のモデルをしていたイボンヌと出会い、恋に落ちた。日本に帰ると彼は秋田富子と深い仲になり、富子の妊娠がわかって結婚したけれど、心はまだフランスに向いていたようだ。
昭和3年(1928年)1月、聖子さん誕生の年に再び渡仏し、イボンヌと再会。パリのアパルトマンや、かつてセザンヌが使っていたプロヴァンスのアトリエを借りて彼女と暮らし、昭和4年3月に帰国するときには、イボンヌのお腹に赤ちゃんがいたという。
「え、イボンヌさんの写真ですか?」
聖子さんの言葉に驚きながら、わたしはとっさにこう続けた。
「どうして、それを聖子さんが持ってるんですかねぇ」
すると、穏やかな目をした銀髪のひとは、ちっとも悪びれずに言うのだ。
「父が旅行していて家にいなかったときに、引き出しを覗いたらネガが出てきたんで、現像しちゃったんです。戦時中、女学校のころに。そうしたら男の子と、女の人が映っていたの。ジョルジュ、という名前なんですけど、わたしよりひとつ下の異母弟は」
差し出されたセピア色の1枚を見ると、思いの外おとなしい感じの異国の女性と、巻き毛の小さな男の子が映っていた。
共犯のものたちーー。そんなフレーズが頭に浮かんだ。思い出したのだ。高校を早退した午後に、薄暗い友だちの家で過ごした時間のことを。父親の不倫相手が有名な女性評論家の誰それだった、とか、認知だけされている新聞記者の実の父に会いに行った、とか。わたしも父が家に帰らぬひとだったし、よくもそんな境遇の女の子ばかりが集まったものだと思うけれど、ロック雑誌を通して知り合った、有名進学校に通う年長の女子高生たちと3人で、秘密の打ち明け話になった。知ってはいけないことを知る、見てはいけないものを覗き見る、共犯の罪悪感と好奇心。見せてはいけないものを見せて、束の間の仲間をつくる、心のさびしい少女たち。わたしたちは、わるものになりたかった。
「お父さまは、そういうことを、お話になる方だったんですか」
写真を手にして訊くと、
「なんとなく、わたしもふたりのことは知っていましたよ。うちの母から聞いたのかなぁ」
聖子さんの口ぶりははっきりしなかった。だが、彼女には次に用意していたものがあったのだ。傍らに置いていた茶封筒から、それを取り出すと、テーブルの上にひらりとのせて話す。
「それでこれが、父がイボンヌと自分を描いた絵。だいぶ前だけれど、信濃毎日新聞に私がイボンヌのことを書きました」
1989年の信濃毎日新聞の記事の切り抜き。林倭衛の作品『無題 パイプをくわえた男の肖像』の写真が大きく掲載され、その下に聖子さんが書いた文章が添えられている。わたしは切り抜きをテーブルの上に置いたまま上からのぞきこんで、絵を一瞥してから活字を目で追った。文章はこんな書きだしだった。
私は、この画を見るたびに不思議ななつかしさを感じる。この気持ちは、単に若き日の父の姿がそこにあるというだけではない。父の部屋の掃除などをしているうちに、押し入れの奥にあるこの画を見つけ、「この女の人は誰だろう」「なぜこの画はいつもこんなところに置かれているのだろう」などと感じた少女時代の自分を思い出すからである。
押し入れから聖子さんが発見した絵は、元はセザンヌが使っていたプロヴァンスのアトリエでの一場面らしい。四角いテーブルにパイプをくわえた黒い口髭の男が座り、その隣で、あごの長さに切りそろえたボブヘアのカーディガン姿の女性が本を読んでいる。壁も、彼らの着ているものも、ジンクホワイトをたくさん混ぜた灰色。全体にモノトーンの絵の中で、テーブルにころがる果物の黄色だけが色味を放ち、さびしげではあるけれど、その空間にしみじみと温かいものが流れていることが伝わってくる。
「イボンヌさん、どんなひとだったんでしょうね」
切り抜きから顔を上げて、わたしは訊いた。
「なんか、とっても面倒見のいいひとだったようです。日本女性以上に男のひとに尽くすタイプで、顔立ちも日本人に似てた、って、父の知人でイボンヌさんに会ったことのある方がおっしゃっています。うちの父はイボンヌさんに愛されて、大事にされていた」
「幸せですよね、お父様は」
「だけどイボンヌには、すごく失礼な話でしょう」
もちろん!と胸の中で応えて、わたしは大きくうなづいた。
もちろん、もちろん、資料を読んで、事の次第を知ったときから思っていた。なんていう男だろう、と呆れていた。だけど娘である聖子さんが事も無げに淡々と話すのに、インタビュアが熱くなってはいけないと思って自制していたのだ。その封印が解かれた気がして、わたしは立ち入ったことを口にした。
「イボンヌさん、知っているわけでしょう? 日本に妻子があることを」
「どうなんでしょう、そのへんはわからない。仕送りだって、ねぇ、最初はしていたかもしれないけれど」
あぁ、仕送り……。「本当に好きな人でないと描けない」画家である林倭衛の経済状態が、決してよかったとは思えない。秋田富子の病気の入院費や治療費もかかっただろうし、富子さんと別れたあともたまに生活費を渡していたようだし。二番目の妻との間にも、子どもがふたりいるし……。その上、海の向こうの遠く離れた“家族”の面倒まで、彼が見たとは思えないのだ。
あ、それじゃあ……と気がついて、わたしは言った。
「じゃあ、お父様、そのあとはバッタリ、ですか」
「2度目に行って、そのあとはフランスへ行っていないんですよ」
「ああ……。イボンヌさん、再婚していればいいけどね」
語尾がいきなり馴れ馴れしくなったのは、親密さを図るインタビュアの計算ではなくて、本心でそう思ったからだ。それに、イボンヌとは結婚していたわけではないから、正しくは“再婚”ではないのだけれど……話が話なだけに、会話が少しくだけたテンポになった。インタビュウ相手が同性だと、女どうしの気楽さで、場がこんなふうに井戸端会議めくことがままある。
聖子さんも、女ともだちに耳打ちするみたいに言う。
「それが、してないの、たぶん」
イボンヌがその後に結婚を、である。
「有島生馬さんが、ときどき向こうへいらしたときに……」
と続いて彼女の口から出た名前は、作家の有島武郎の弟である洋画家で、林倭衛と懇意だった人物。
「有島さんがパリに来ているという情報を知って、イボンヌさんが訪ねてきたらしいんです。だから、しょっちゅう気にしていたんじゃないですか、フランスに渡ってくる日本人の動きを。イボンヌさん、ジョルジュを連れて有島さんのところにやってきて、『どうしていますか』って父のことを聞いてたみたいですよ」
「わあ、せつないですね、それ」
「でしょう?」
「お父さん、ひどいですよ」
とうとう、わたしは訴えてしまった。
「ほっんとうに、ひどいと思います」
聖子さんも深くうなづく。
「数々、みんなをーーー」
という批判めいた言葉も、わたしの口から突いて出た。
「そう」
と、ため息まじりにうなづく聖子さん。
遠い目になって、わたしはつぶやく。
「ジョルジュ、どうしちゃったんでしょうね」
父に一度も逢うことのなかった、海の向こうの彼の人生。想像もつかないではないか。
「だからもう……どうしているんでしょう。わたしよりひとつ下だから、82歳でしょう。亡くなってるんじゃないの? 男のひとのほうが早く亡くなるでしょう」
あぁ、なんという話であろうか。
と、こんなやりとりをしながらも、ずっと、わたしの胸の中でざわざわしていたのは林倭衛の身勝手さではなく、つい今しがた知った事実のほう。不在の父の引き出しからネガを見つけて、こっそり現像した女学校時代の聖子さんのことだ。
印画紙に現れた異国の母子の肖像、それを見たときの彼女の、時間の流れがそこだけパタッと停止したような心の静けさ。遠い昔日のその瞬間を想うと、まるで自分のからだに刻み込まれた記憶みたいだ。秘め事を知ってきゅっとしたあとに、胸にひろがる時化た海の静けさーー。
知ることは、引き受けること。知りたくて知って、引き受けたところで自分にはどうすることもできない虚空を、彼女はその後抱いて歩くことになる。わるものになる快感とひきかえに、おとなになる前に知ってしまった、少女の一生の諦念。それを伴侶に生きることが、彼女に強いられ瞬間だった気がする。
出典:『風紋五十年』(《無題ーパイプをくわえた男の肖像》」収録 林聖子著・星雲社)
「鵜原にも、そんなに長くはいなかったんですよ。6ヶ月ぐらい」
エメラルドの入江をのぞむ南房総の鵜原理想郷で、林聖子さんは小学校3
年生の秋から冬にかけてを過ごした。昭和13年。いくさが始まる3年前の、
まだ世の中がいくぶん静かだった頃に。
理想郷と名の付く風光明媚な土地に暮らしても、(一カ所に定住できな
い)父は絵を描きに方々へ出かけて留守がちだった。代わりに聖子さんの
側にいたのは父方の祖父母と、博多で芸者をしていた二番目の母の高橋操、
それに鵜原で生まれたばかりの義母妹。前年に林倭衛(はやししずえ)と
離婚した、聖子さんの母の秋田富子の姿は当然そこにはなかった。
「母はその頃はサナトリウムから帰ってきて、津山の実家にいたり、東京
に住む伯母の許に身を寄せていたり。未遂に終わったんですが、鵜原から
わたしを連れだそうとしたこともあったみたいですね」
君が行為ゆるすべからずいつとせの吾がいきどほりきはまりにけり
汝を思ふ心は成らずふる里のふりにし家にゆきて忍ばむ
うみべにし夜はさびしき虫の声ききつつあらむ吾子が思ほゆ
これは秋田富子が当時詠んだ歌だ。夫の裏切りに対する憤りと喪失感、
離れて暮らす我が子を思う気持ち……。なんのひねりもなく、感情のまま
にストレートな言葉でうたわれる歌は、かえって詠み手の切羽詰まった“行
き場のなさ”を浮き彫りにする。そしてまた、女という性の単純明快さも。
それにひきかえ、わたしにとって不可解なのは林倭衛という男の言動だ。
1937年(昭和12年)に林倭衛は富子さんと別れたが、自分の身から出た
錆なのに、離婚は彼の本意ではなかったらしい。聖子さんはエッセイ『い
とぐるま』に書いている。
父の傍にはすでに操さんがいたにもかかわらず、どうしても離婚に同意
せず、母を苦しめることになった。父は父なりに母を愛していたのだと思
う。しかし潔癖な母に、そうした境遇が耐えられるはずもなかった。
父は父なりに母を愛していたのだと思うーーと娘の聖子さんはさらりと
書くけれど。絵の才にも友にも知性や経験にも恵まれた林倭衛は、14歳年
下の富子さんを娶るとすぐにヨーロッパに渡り、1年以上も滞在して彼女を
ひとりぼっちにした。女学校のときに岡山の津山から上京し、18歳で結婚
してすぐに子どもを産み、病気を患い……世間を知りようもない年若い妻
はどんなに心細かったことだろう。夫は帰国後もしょっちゅう旅に出てい
たし、その挙げ句によそに女をつくる、子どもを孕ませる。いったいどん
なふうに、林倭衛は秋田富子を愛していたというのだろうか。
わたしには男の心がわからない。どうせわからないのだからと、ハナか
ら知ろうとしないところもある。それでインタビュウのときも、のちに原
稿を書くときにも、そこいらへんは“考えない”“触れない”ことにしてスル
ーしていた(太宰治の話を筆頭に、ほかに触れなければいけない事柄がた
くさんあったし)。でも、インタビュウから時を経て、この文章を書くた
めに再び資料に目を通していると、ふと、心に留まることがあった。
風紋30周年を記念した冊子に、聖子さんが寄せた『林倭衛日記抄』と
いうエッセイ。そこに彼女の父の昭和10年の日記が挙げられている。昭和
10年は、林倭衛と秋田富子が結婚して8年目。父は尾道に滞在して絵を描
き、母は千葉の市川の家で自宅療養をしていた。
一日たりとも欠かさぬ日記の中の林倭衛は、定宿でカンバスに向かい、
仕事に飽きると地元の画家友だちと酒を呑み、カフェーへ行ったり、時に
は芸者をあげたりして、勝手に暮らしている印象だ。電話のない当時の習
わしであったのだろう、家族、親族、友人(意味深?な女性も含む)と盛
んに手紙のやりとりもしている。特に「発信父、富子」「来信、児玉、秋
田房次郎、富子」「十月四日 仕事せず。来信富子」といった記述が目立
つことから、富子さんと頻繁に手紙のやりとりをしていたことがわかる。
その日記を読んで、わたしの目がとまった部分がこれだ。
九月二十九日 曇ったり晴れたり。朝食前、室から六号を描く。ひる前、
岩と松を十号に始める、去年と同じ構図也。午後、長江道にて六号を始め
後ち昨日の十号を描きあげる。富子に雑誌「改造」「文芸春秋」、「週刊
朝日」増刊等を送ってやる。(後略)
林倭衛は尾道から、富子さんに雑誌を買って送っているのだ。病気で外
に出られない妻を思ってのことだろうが、その奧にくすぶる景色が今のわ
たしにはなんとなく目に浮かぶ。
自分が選んだ読み物を届けることは、林倭衛の、彼なりの富子さんの“愛
し方”ではなかったか。遠方から、そばにいられない代わりに、自分が選ん
だ活字を送ることは。一方の富子さんにとっても、男が自分の身の代わり
に送ってくるような書物を繰る時間は、せめてもの幸せのときだったに違
いない。ざらりとした紙の手ざわり。黒々として並ぶ無骨な活字。硬派な
雑誌を開くのは、男のにおいがしみついたセーターをこっそり着てみる感
覚に近い気がする。
林倭衛は1895年(明治28年)長野県上田に生まれた。父親が政治にお
金をつぎ込んだため家業がうまくいかず、12、3歳で上京。書店や印刷会
社に務めるなど早くから労働をした。そうした中で思想関係の印刷物に触
れ、街角でチラシを受け取ったりするうちに、自らの逆境に対する不満も
あって、アナキズムにひかれるようになる。会合に出て16歳で大杉栄に出
会い、大杉らが興したサンジカリズム研究所に参加。同時期に日本水彩画
研究所の夜間部に通い始める。絵よりも政治運動のほうが彼にとって比重
が重かったようで、道路人夫をやりながら大杉栄が出していた『平民新聞』
の配布を手伝っていたが、「大好きな大杉さんが父に、君は運動をやめて
絵一本で行けよ、と勧めたから」(『東京人』記事内の聖子さん談)、19
16年(大正5年)の第三回二科展に出展し、21歳で初入選(東郷青児や
田中善之助も同年の初入選者)。1919年、大杉栄をモデルとした『出獄の
日のO氏』を二科展に出そうとした際に、東京検察局から撤回命令が出て、
やむなく出展を辞退。そのことでジャーナリズムが騒ぎ、大杉本人が「な
ら、俺が絵の代わりに壁の前に立つ」と言ったことなどから、新進画家・
林倭衛の存在がかえって注目されることとなる。その後、渡仏。帰国して
秋田富子と結婚。再び渡仏。1926年(大正15年)に帰国してからは、日
本各地の風景画や人物画を描いたが、徐々に酒や人と付き合う時間のほう
が増してゆき、絵を描く体力と魂の力が弱まっていったようだ。1932年
(昭和7年)、親友の詩人・辻潤を描いた『或る詩人の像』など5点を春陽
会に出品。だが、上記の絵のほかは芳しい批評を得られず、春陽会雑報に
林倭衛はみずからの筆で、自作がふるわない言い訳を書いている。
本性が怠者の故であるか、常に物資と義理を欠き、酒を呑むことだけが
唯一の日常となつたやうな工合である。至極ありふれた道である。仮に、
絵を描くに不自由でない境遇に置かれたとして、果たして僕はその道に精
進するだらうか。さうなつて見ねば自分には明瞭りとは分らない。怠け、
酒を飲み、漫然とぶらついていゐることに後悔なく、泰然としてゐられる
なら、そこにも一つの理はあると思ふ。僕は今の社会に対して甚だ興味が
薄い。(抜粋)
書くことを本業としないひとの文章には、人柄がよく表れる。これを読
んでわたしは、林倭衛は無茶はするけれど、精神の清らかなゆえに弱い人
物だった気がしてきた。だから絵を描けぬ理由も、彼自身の言う「怠け」
というよりも、聖子さんが雑誌『東京人』のインタビュウで話しているこ
とが、本当のところを言い当てているのではないかと思った(以下、文中の
「野枝」は作家でアナキストの伊藤野枝。辻潤の妻で、大杉栄と愛人関係にあった)。
父は、野枝さんの肖像も描く約束をしていましたが、それが果たせなく
なりました。約束はしたけど、どうしても描けなかったとも言っています。
父は本当に好きな人でないと描けない。野枝さんが辻(潤)さんを捨てた
ことも、大杉が前の奥さんや神近さんを捨てて野枝さんといたことも、ス
ッキリしなかったんじゃないですか。
またもや聖子さんはさらりと口にしているが、「本当に好きな人でない
と描けない」画家が、今生で生きやすいはずがない。生きにくさの慰みに
なるのは、酒か女かーー(彼はそのどちらも取ったのだろう)。友人で詩
人の岡本潤は林倭衛をこう描写している。〈猪のような体躯で、飲んでい
るあいだはほとんど固形食物を口にせず、アルコール飲料ばかり底なしに
飲んでいた。それに林は、いつも可愛らしい六つぐらいの女の子をつれて
いた〉(岡本潤『罰当たりは生きている』未来社刊)。
無茶な酒の飲み方をしていたらしい。それにこの文章で気になるのは、
林倭衛が幼い聖子さんを傍らに置いて酒場で呑んでいたこと。いや、それ
を咎めたいのではなくて。つまり聖子さんは父に可愛がられていたらしい。
父がとくべつに愛し、信頼を置いた娘だったらしい。
インタビュウのとき、聖子さんが言った言葉も忘れられない。
「父はアトリエの掃除だけは、二番目の母にはやらせなかったんです。い
つもわたしに『おまえ、掃除しろ』って。ほこりが立つと、描きかけの絵
にほこりがくっついちゃうので。注意深く掃除しないといけないので」
初対面のインタビュアを相手に、つい調子にのったり、余計なことを言
い過ぎたりしない冷静沈着なひと。それでも、この言葉には聖子さんのさ
さやかな自負を感じた。継母や異母妹よりも、自分が父親にとくべつ愛さ
れていたという自負をーー。わたしは自分が父親の愛情を途中で見失った
ふうなので、彼女がちょっとうらやましくもあった。彼女に少し嫉妬した。
著書『風紋五十年』の中のインタビュウでも、聖子さんは聴き手に対し
て話している。
亡くなったのが一九四五(昭和二十)年一月でしょ。その前の年の秋に、
父は「もう戦争は終わる。日本は負ける」って。「そうしたら、フランス
へ行くから、おまえは、俺の鞄持ちだ。ついて来い」「じゃあ、葉子ちゃ
ん(著者の異母妹)は?」と訊いたら、「葉子は嫁に行くんだ」「じゃあ、
もっちゃん(木平。著者の異母弟)は、どうするの?」「男は、ほってお
けばいいんだ」ですって(笑)。(フランス行きを)楽しみにしてたのに。
こう語る人の内心のうれしさがわかるのは、わたしも聖子さんと同じ長
女だからだろうか。自分が父親にとってとくべつな子であるというふうに
思いたがるところが、わたしたち長女にはあるのかもしれない。それが世
に言うファザーコンプレックスというものなのか、知らないけれど。
アトリエに入って、ものに触れることは、聖子さんだけに許された特権
だった。戦火が激しくなる前の戦時中、いつものように父が不在だったと
きだ。手持ちぶさたゆえか孤独をまぎらわせるためか、特権を行使してア
トリエに入った聖子さんは、父の机の引き出しをまさぐり、秘密のものを
見つけてしまった。
出典:『風紋五十年』(「いとぐるま」収録 林聖子著・星雲社)『風紋30年ALBUM』
『大杉栄、辻潤、林倭衛をめぐる、愛すべきアナキストたち』(東京人2008年10月号
森まゆみ・文)
「金木犀の香りはわざとらしくて好きじゃない」って、いつか言っていた親友は、今月もライヴが終わると早々にパートナーとどこかへ消えた。きっと、いつものように高円寺の市場の中のベトナム料理屋で、ディルをまぶした揚げ白身魚やライムを搾ったトマトと牛肉のフォーでランチをすませて、次の楽しみ事へと彼らは急ぐのだ。
10月の日曜日の真昼間。2012年からのすきすきスウィッチの、3回目になるライヴの日。わたしはT夫妻と、金木犀の甘い香りがどうしたってつきまとう青い秋空の下を歩いていた。ゆるい陽ざしと、お酒が入って熱くなった頬を冷やしてくれる気持ちのいい風。円盤での打ち上げを続けているひとたちより一足早く、T夫妻を次の打ち上げ場所である安い中華屋へ案内する役目を買って出たのだけれど。円盤で黒霧島のロックをすでに2、3杯呑んでいる、ふんわりした気分のままにどうやら道を間違えたらしい。近いはずの中華屋になかなか辿り着けない。
「ごめんなさい。間違えちゃったみたい。すごい遠回りしてる気がする」
いつもライヴに来ているので、顔見知りではあるけれど、直接的には言葉を交わしたことがなかったT夫妻にわたしは詫びた。
「いや、これはむしろいい回り道だよ」
夫のTさんがニコニコとした顔で言った。もちろん、わたしに気を遣って、ではあるけれど、実際、彼らは迷い込んだ裏道のなんてことない風景を面白がっているようにも見える。
ひとり暮らし用の小さなマンションや、やっているのかいないのか判別のつかぬ飲食店が混在する迷路ーー。確かに彼の言うとおり、わたしたちがしているのは「いい回り道」だった。50歳を過ぎた大人の男や女になって、日曜日の昼間に、物理的にはまったく親しくないつながりにもかかわらず、ほろ酔いで肩を並べて高円寺の見知らぬ小道を歩いている。ふわふわとニコニコとした気持ちで、意味も目的もない遠回りを楽しんでいる。これもまた例の……ふつうならありえない時空間(そうか ふつうじゃないんだっけ)。
T夫妻はいつから円盤に通っていたのだろう? 夫のTさんはとあるバンドのギタリストで、〈男〉とは旧知の仲らしいから、去年11月に〈男〉とPさんが公開練習を始めたときからずっとなのかもしれない。練習後にそのまま円盤の窓際でずるずると続けられる打ち上げに、わたしが初めて加えてもらった4月には、彼らはすでにそこにいた。いつもニコニコとして、穏やかな口調で〈男〉と会話しているTさん。奥さんが静かに寄り添って、うなづいたり微かに笑ったりしている。そんな彼らの間に割り込むことは憚られたから、わたしはT夫妻と、それまで言葉を交わすことをしてこなかった。でも、それでも彼らは充分に“親しいひと”だった。遠回りの小道を肩を並べて歩きながら、わたしは初めて彼らに話しかけた。
「公開練習の録音を繰り返し聴いているものだから、おふたりの声をわたしはいつも聴いていて」
え? という顔でT夫妻がわたしのほうを見る。
「おふたりがちいさな声で、演奏が始まる前や合間にささやく言葉が、録音されているんです。わたしにとっては、それが公開練習の演奏の一部になっていて、なんとも心地がいいんです。おふたりのささやきが」
本当だった。〈男〉とPさんがカバー曲を演奏したあとで、Tさんが「ブライアン・イーノ」とうれしそうな声で隣の妻にささやき、妻も「はい」とうれしそうに返す。何かの演奏のあとには、よっぽど彼らの好きな曲だったのだろう、「ちょっとこわい」とくすぐったいような声で妻が夫にささやくのも聞こえる。そういう声や、円盤店主の田口さんが演奏の始まる前に流している曲や、誰かの咳き込む音のすべてが、わたしにとっての公開練習の記憶。音楽だけがぽん、と浮かび上がるんじゃなく、そこにいるひとたちの気配の中に音楽がある。そういう時間が、わたしも好きだった。T夫妻同様に。
でも、それももう、遠い時間の記憶となっていく。公開練習を経て、〈男〉とPさんに彼が加わってすきすきスウィッチになって、公開練習の続きのように、円盤の“昼の部”で3回のライヴをやった。次の11月のライヴは、円盤の夜のレギュラーの時間帯に行われる。だから昼間のまほうは、ひとまず10月でおしまい(またそのうちに再開される様子だけれど、そのときはまたそれで新しい時間になるわけだし)。11月からは、また違う物語が始まりそうな気配がある。
10月のライヴのあとで〈男〉が、中華屋での打ち上げにTさん夫妻を誘うと、Tさんは言った、「今日は、参加させてもらおうかな」。「今日は、」なのだな、とわたしは端で聞いていて思った。ということは、いつもは彼らは遠慮していたのだ。ズカズカと入り込まない、ベタベタと馴れ合わない、慎み深いひとたち。
公開練習も円盤の夏祭りも、毎回欠かさず〈男〉の演奏を聴きにきていたT夫妻が、9月のすきすきスウィッチの2回目のライヴには入れなかった。予約をしようとしたときには、すでに定員に満ちていたのだという。入れなくても、彼らは円盤に来ていて、閉められたドアの外で聴いていた。その姿を見つけたとき、なんて奇特な……と少し驚くと同時にわたしは内心呆れてもいたのだけれど。「いやあ、外に漏れてくる演奏を聴くのは、それはそれでいいものなんだよ」とTさんがニコニコしながら言ったので、このひとたちにはまったくかなわないな、と思った。どういうわけか〈男〉には、この手のファンがいる。遠回りを「いい回り道だよ」と言うようなひとたちが。急がない、焦らない、怒らない、決めつけない(わたしと真逆なタイプだ)。だから〈男〉のことを、なんて幸せなひとなんだろうと思う。そんなにすてきなひとたちが回りにいるのだから、彼自身もきっとすてきなひとなのだろう、と思う。でも、実際の彼については、まだよく知らない。
10月のすきすきスウィッチのライヴは、不思議な親密度に満ちていた。〈男〉はなにかを「伝えよう」として、この場に来ているとわたしは感じた。ゆっくりと、かすかにうごめくものを見失わないように、ゆっくりと、ゆっくりと進んでいこうーー。そんなことを、1時間みっちりの演奏のすべてで「伝えよう」としていた気がわたしにはする。演奏の終わりあたりに、彼はこんなことを喋った。
少し話をします。今から100年ぐらい前までは、音楽っていうのは必ず、演奏するひとがそこにいないと、聴けなかったわけですが。そうすると、演奏しているひとが奴隷だろうが、召使いだろうが、村のひとだろうが、必ず関係をとらないと、音楽っていうのは聴けなかったわけです。それが数十年前から、からだがないのに音楽が聴けるようになりました。で、自分の生活のほうに勝手に音楽を引き寄せてこられるようになったのは、この20年のことだと思います。散歩するのに、音楽って聴かないといけないのか。部屋で体操するときに、あるいは料理するときに、音楽かけなくたっていいじゃないか。って思います。ほかに、聞こえてくるものを聴けばいいじゃないか。なあんて思うんですが。だから、かなり音楽の歴史の中で特殊なことが起きている上に、60億の人間の中でそんなことをしているのは、はたしてどれぐらいいるんだろうか、ということも考えます。そんな中、ここに集まってくだすった、え〜、30数名は、ほんとに誤差みたいなもんだと思うんですが、ただ、全員が顔見知りということで。そういうことで、始めませんか。今月はこれで終わります。お店がこれから営業時間になりますので、ぜひ、買い物をしたり、お茶を飲んだり、お酒を呑んだりしてください。そして、僕たちに話しかけてください。今後のことをぜひ相談したいと思います。……………ここは笑ってもらっていいところです。
「顔見知りから始めませんか」なんて客をくどくバンドが、2012年の日本に存在する奇跡に、わたしは驚いて呆れた。呆れて、そうか、そういうつもりなのか、と何やらすがすがしい気持ちになった。それなら焦る必要も、怖れる必要も、焦がれる必要もないのだ、と。
ライヴのあとで、ツイッターに上がった感想を読んで、そのすがすがしさは決して、(またお得意の)自分の思い込みだけではなかったと思った。
すきすきスウィッチの歌には、人間関係を構築する勇気みたいなものを、そっと後押ししてくれる力があると思ってたけど、日曜日見たライヴではそれを直に感じられてとても感動。
昨日のすきすきスウィッチ。先月よりも、更に心情的、とも。『忘れてもいいよ』を1枚目から5枚目まで順番に聴いた、その先の、今の佐藤さんの唄か、と思うと、すきすきは、生活とか、日常の中の音楽であることを、強く印象づけられる。
「これからのことを相談しましょう」って佐藤幸雄さんが最後に冗談で言ったんだけど、"はじめて"の歌詞の世界を体現してくれているようで、ほろりときた。
今も変わらなかった佐藤幸雄の「うた」に対する真摯さに、初ライブの感激も相まって泣きそうになった14日のすきすきスウィッチのライブ。そのライブ後に友人3人と呑んだ酒は今年ベスト3に入る旨さだった。
日曜日の真昼に高円寺のビルの二階の“原っぱ”でたちのぼる音は、ドラムもギターもキーボードも歌も、ただひたすらにみずみずしく、冒険心にあふれたものだ。すくいとって喉をうるおせば、じんわりからだにエナジーがいきわたる。いや、からだじゃなく、たましいに。たましいの奧深いところを、すきすきスウィッチは押してくる。じわっとお灸のように、押されたところはあたたかい。くすぐったいようなあたたかさが続く。まったく希有なバンドだ。たぶん彼らは音楽を聴かせるためにいるわけじゃない。共に存在するために、彼らは演奏している。記憶を共につくるために。だから、ただで帰してはくれないのです。
10月の日曜日。T夫妻は結局、安い中華屋での打ち上げのあとの、安い焼き鳥屋での打ち上げにもつきあって、最終バスに乗り遅れるまでその場にいた。ニコニコと静かに笑いながら、わたしたちはいつまでも尽きない話をした。
それもまた、遠い昼や夜の記憶になっていく。ひとつひとつが記憶となって、はるか遠くへ駆け去っていく。まほうが始まってから、いとおしくてたまらない記憶がわたしの中に降り積もっていくばかり。そして、やがて冬がくる。
★すきすきスウィッチ(佐藤幸雄+鈴木惣一朗+POP鈴木)のライヴ
●11月4日(日曜日)19時開場/19時30分開演@高円寺・円盤 チャー
ジ1500円(1ドリンク込) 予約受付中。
http://enbanschedule.blogspot.jp/2010/05/11.html
●12月2日(日曜日)18時開場/19時開演@渋谷・LAST WALTZ
チャージ2000円(ドリンク別途・前売当日共)
今ここで書き進めている「インタビュウ」は、手袋をはめた指先をさらにポケットに入れたい寒さになる、年の瀬まで続く長い読み物。だからたまにこうして、雑談の隙間を挟もうと思います。
すこし前ですが、事実無根の事柄を調子にのった文章でここに書いてしまって、あるひとに迷惑をかけた、ということがありました。しかも相手に教えてもらうまで、当時者の自分がそのことにまるで気がつかなかった、というお粗末ぶり。文章を書くことは、(書かれる)人や世界に荷を負わせること。自分がそれをしてしまう人間であるという現実と戦う覚悟がなければ、ものを書いたりしてはいけない。あこさんは自分の文章がどれだけ危険なものなのかということに無自覚すぎる気がする。文章の力というのは武器なんですーー。わたしが迷惑をかけてしまったひとは、こんな内容のことをメールで伝えてくれました。本当におっしゃるとおりで、返す言葉もないのです。事実無根の事柄については、表現を変えて書き直したけれど、ブログは一過性のものである割合が高いと思うから、後の祭りかもしれない。それで、自分が「調子にのる」ことがちょっと怖くなっています。というか、それからずっと考え中。文章を書くこと、書いてしまうことについて。
これは「インタビュウ」に今後書くことなのだけれど、太宰治は、誰かと交わした会話がそのまま作品に出てくる、みたいなことがわりとあったそうです。話していることがすでに、次の作品の文章だった、というか。頭の中にあることや日常が、文章と直結していたのだと思います。「インタビュウ」の主人物のひとりである秋田富子さんが、尊敬していた萩原朔太郎が死んだときに泣き暮れて(流した涙が耳に入って結核性の中耳炎になったくらいに)、その哀しみを太宰に宛てた手紙に書いた。太宰の『水仙』は、富子さんのその手紙をモチーフにした短編で、自分の手紙を勝手に使われたことと、小説の中の太宰流の(事実とは異なる少し残酷な)脚色に対して、富子さんはひそかに傷ついていたといいます。この話を知ったとき、「ああ、わたしもやってしまいがちだな」とわたしはすぐに思いました。し、現に過去にも最近にも、そういうことをしてしまっている。自分がとくべつ大事に思うひとに対しても、そういうことをしてしまうのです。おかしな話です。
なんでそんなことをしてしまうのだろう……と考えるに。実際ここにいるひとよりも、物語や文章をでっちあげることのほうが、もしかしたら、わたしには大切なのかもしれない。酷い話だけれど、そうとしか思えないのです。人ごとのようだけれど。物語や文章をでっちあげることのほうが大切だから、自分が好きなひとたちを傷つけることを平気でしてしまう(たぶん肉親に対しても平気でそれをする)。もちろん、そういう行為を肯定したいわけじゃありません。ひとを傷つけたり悲しませたり怒らせたりすることは、もちろんしたくないし、自分だってそれによって傷つくのだし、それをしてしまう自分は許しがたいのです。なのに、してしまう。大げさに言えば、一種の自傷行為のように。そこまでして物語や文章をでっちあげることに、いったいどんな意味があるんだろうか。そんなことをここのところ、ずっと考えています。
と、こんな惨い話につきあってもらって、しかも中途半端で終わるなんて、読んでくださっている方々にまことに申しわけない。なので、ひとつだけ、また物語を。〈まほう外伝〉です。
★
「金木犀の香りはわざとらしくて好きじゃない」って、いつか言っていた親友は、今月もライヴが終わると早々に彼のパートナーとどこかへ消えた。きっと、いつものように高円寺の市場の中のベトナム料理屋で、ディルをまぶした揚げ白身魚やライムを搾ったトマトと牛肉のフォーでランチをすませて、次の楽しみ事へと彼らは急ぐのだ。
10月の日曜日の真昼間。2012年からのすきすきスウィッチの、3回目になるライヴの日。わたしはT夫妻と、金木犀の甘い香りがどうしたってつきまとう青い秋空の下を歩いていた。
ゆるい陽ざしと、お酒が入って熱くなった頬を冷やしてくれる気持ちのいい風。円盤での打ち上げを続けているひとたちより一足早く、T夫妻を次の打ち上げ場所である安い中華屋へ案内する役目を買って出たのだけれど。円盤で黒霧島のロックをすでに2、3杯呑んでいる、ふんわりした気分のままにどうやら道を間違えたらしい。近いはずの中華屋になかなか辿り着けない。
「ごめんなさい。間違えちゃったみたい。すごい遠回りしてる気がする」
いつもライヴに来ているので、顔見知りではあるけれど、直接的には言葉を交わしたことがなかったT夫妻にわたしは詫びた。
「いや、これはむしろいい回り道だよ」
夫のTさんがニコニコとした顔で言った。もちろん、わたしに気を遣って、ではあるけれど、実際、彼らは迷い込んだ裏道のなんてことない風景を面白がっているようにも見える。
ひとり暮らし用の小さなマンションや、やっているのかいないのか判別のつかぬ飲食店が混在する迷路ーー。確かに彼の言うとおり、わたしたちがしているのは「いい回り道」だった。50歳を過ぎた大人の男や女になって、日曜日の昼間に、物理的にはまったく親しくないつながりにもかかわらず、ほろ酔いで肩を並べて高円寺の見知らぬ小道を歩いている。ふわふわとニコニコとした気持ちで、意味も目的もない遠回りを楽しんでいる。これもまた例の……ふつうならありえない、まほうの時間なのだ(そうか ふつうじゃないんだっけ)。
T夫妻はいつから円盤に通っていたのだろう? 夫のTさんはとあるバンドのギタリストで、〈男〉とは旧知の仲らしいから、去年11月に〈男〉とPさんが公開練習を始めときからずっとなのかもしれない。練習後にそのまま円盤の窓際でずるずると続けられる打ち上げに、わたしが初めて加えてもらった4月には、彼らはすでにそこにいた。
いつもニコニコとして、穏やかな口調で〈男〉と会話しているTさん。奥さんが静かに寄り添って、うなづいたり微かに笑ったりしている。そんな彼らの間に割り込むことは憚られたから、わたしはT夫妻と、それまで言葉を交わすことをしてこなかった。でも、それでも彼らは充分に“親しいひと”だった。
遠回りの小道を肩を並べて歩きながら、わたしは初めて彼らに話しかけた。
「公開練習の録音を繰り返し聴いているものだから、おふたりの声をわたしはいつも聴いていて」
え? という顔でT夫妻がわたしのほうを見る。
「おふたりがちいさな声で、演奏が始まる前や合間にささやく言葉が、録音されているんです。わたしにとっては、それが公開練習の演奏の一部になっていて、なんとも心地がいいんです。おふたりのささやきが」
本当だった。〈男〉とPさんがカバー曲を演奏したあとで、Tさんが「ブライアン・イーノ」とうれしそうな声で隣の妻にささやき、妻も「はい」とうれしそうに返す。何かの演奏のあとには、よっぽど彼らの好きな曲だったのだろう、「ちょっとこわい」とくすぐったいような声で妻が夫にささやくのも聞こえる。そういう声や、円盤店主の田口さんが演奏の始まる前に流している曲や、誰かの咳き込む音のすべてが、わたしにとっての公開練習の記憶。音楽だけがぽん、と浮かび上がるんじゃなく、そこにいるひとたちの気配の中に音楽がある。そういう時間が、わたしも好きだった。T夫妻同様に。
でも、それももう、遠い時間の記憶となっていく。公開練習を経て、〈男〉とPさんに彼が加わってすきすきスウィッチになって、公開練習の続きのように、円盤の“昼の部”で3回のライヴをやった。次の11月のライヴは、円盤の夜のレギュラーの時間帯に行われる。だから昼間のまほうは、ひとまず10月でおしまい(またそのうちに再開される様子だけれど、そのときはまたそれで新しい時間になるわけだし)。11月からは、また違う物語が始まりそうな気配がある。
10月のライヴのあとで〈男〉が、中華屋での打ち上げにTさん夫妻を誘うと、Tさんは言った。
「今日は、参加させてもらおうかな」
「今日は、」なのだな、とわたしは端で聞いていて思った。ということは、いつもは彼らは遠慮していたのだ。ズカズカと入り込まない、ベタベタと馴れ合わない、慎み深いひとたち。
公開練習も円盤の夏祭りも、毎回欠かさず〈男〉の演奏を聴きにきていたT夫妻が、9月のすきすきスウィッチの2回目のライヴには入れなかった。予約をしようとしたときには、すでに定員に満ちていたのだという。入れなくても、彼らは円盤に来ていて、閉められたドアの外で聴いていた。その姿を見つけたとき、なんて奇特な……と少し驚くと同時にわたしは内心呆れてもいたのだけれど。
「いやあ、外に漏れてくる演奏を聴くのは、それはそれでいいものなんだよ」
Tさんがニコニコしながら言ったので、このひとたちにはまったくかなわないな、と思った。
どういうわけか〈男〉には、この手のファンがいる。遠回りを「いい回り道だよ」と言うようなひとたちが。急がない、焦らない、怒らない、決めつけない(わたしと真逆なタイプだ)。だから〈男〉のことを、なんて幸せなひとなんだろうと思う。そんなにすてきなひとたちが回りにいるのだから、彼自身もきっとすてきなひとなのだろう、と思う。でも、実際の彼については、まだよく知らないのだけれど。
10月のすきすきスウィッチのライヴは、不思議な親密度に満ちていた。〈男〉は「伝えよう」と思って来ていた。ゆっくりと、かすかにうごめく本当に大切なものを見失わないように、ゆっくりと、いい遠回りをして、一緒に歩いていこうーー。そんなことを、1時間みっちりの演奏のすべてで「伝えよう」としていた気がわたしにはする。
音楽はもともと、左官屋さんとか巫女さんとか床屋のおじさんとか誰でもいいんだけど、村の中で歌のうまいひとが歌うのを聴くものだった。どこかの場所に集まって、知っているひとの歌や演奏をみんなで聴いたものなんです。それが、音楽だけが切り離されて、CDだかなんだかの再生装置で自分のところへ音楽だけを引っ張ってきて聴くようになったのは、たかだかこの数十年の話なわけで。だから、顔見知りから始めませんか。
言葉は正確ではないけれど、〈男〉は演奏の合間にこんなことを喋った。「顔見知りから始めませんか」なんて客をくどくバンドが、2012年の日本に存在する奇跡に、わたしは驚いて呆れた。呆れて、そうか、そういうつもりなのか、と何やらすがすがしい気持ちになった。それなら焦る必要も、怖れる必要も、焦がれる必要もないのだ、と。
ライヴのあとで、ツイッターに上がった感想を読んで、そのすがすがしさは決して、(またお得意の)自分の思い込みだけではなかったと思った。
すきすきスウィッチの歌には、人間関係を構築する勇気みたいなものを、そっと後押ししてくれる力があると思ってたけど、日曜日見たライヴではそれを直に感じられてとても感動。
昨日のすきすきスウィッチ。先月よりも、更に心情的、とも。『忘れてもいいよ』を1枚目から5枚目まで順番に聴いた、その先の、今の佐藤さんの唄か、と思うと、すきすきは、生活とか、日常の中の音楽であることを、強く印象づけられる。
「これからのことを相談しましょう」って佐藤幸雄さんが最後に冗談で言ったんだけど、"はじめて"の歌詞の世界を体現してくれているようで、ほろりときた。
今も変わらなかった佐藤幸雄の「うた」に対する真摯さに、初ライブの感激も相まって泣きそうになった14日のすきすきスウィッチのライブ。そのライブ後に友人3人と呑んだ酒は今年ベスト3に入る旨さだった。
日曜日の真昼間のライヴは、大人の不思議な密会現場のようで、そこからたちのぼる音はドラムもギターもキーボードも歌も、ただひたすらにみずみずしく、冒険心にあふれたものだ。
すくいとって喉をうるおせば、じんわりからだにエナジーがいきわたる。いや、からだじゃなく、たましいに。たましいの奧深いところを、すきすきスウィッチは押してくる。じわっとお灸のように、押されたところはあたたかい。くすぐったいようなあたたかさが続く。まったく希有なバンドだ。たぶん彼らは音楽を聴かせるためにいるわけじゃない。関係するために、彼らは演奏している。記憶を共につくるために。だから、ただで帰してはくれないのです。
10月の日曜日。T夫妻は結局、安い中華屋での打ち上げのあとの、安い焼き鳥屋での打ち上げにもつきあって、最終バスに乗り遅れるまでその場にいた。ニコニコと静かに笑いながら、わたしたちはいつまでも尽きない話をした。
それもまた、遠い昼や夜の記憶になっていく。ひとつひとつが記憶となって、はるか遠くへ駆け去っていく。まほうが始まってから、いとおしくてたまらない記憶がわたしの中に降り積もっていくばかり。そして、やがて冬がくる。
★すきすきスウィッチ(佐藤幸雄+鈴木惣一朗+POP鈴木)のライヴ
●11月4日(日曜日)19時会場/19時30分開演@高円寺・円盤 チャー
ジ1500円(1ドリンク込) 予約受付中。
http://enbanschedule.blogspot.jp/2010/05/11.html
●12月2日(日曜日)夜@渋谷・LAST WALTZ 詳細は近日発表。
林倭衛(はやししずえ)が2度目の洋行から帰ってきたのは、大正15
年5月。パリの5月、といえば、muguetつまりスズランであり、五月
革命……なんて想ってしまうけれど。15年は大正の終年で、西暦にする
と1926年。アナキストやマオイストが学生・労働者を主導した五月革命
は1968年に起こっているから、大杉栄や林倭衛ら日本のアナキストたち
がいたパリは、40年以上も前の“革命前夜”なのだった(日本と違って、
かの地にはアナキズムが根づいたのだ)。
帰国するとすぐに林倭衛は荻窪の家を引き払って、小石川の借家へ移っ
た。そしてようやく妻の富子、生まれたばかりの聖子さんとの三人の生活
が始まったのだが、その安穏も長くは続かなかった。
昭和5年、富子さんが風邪をこじらせ、肺浸潤に冒されて入院。退院後
は妻の転地療養を兼ねて、林倭衛はアナキスト仲間の紹介で、伊豆・静浦
の知人が持つ別荘へ居を移した。
昭和7年、静浦を離れ、小石川の以前とは違う借家へ移転。
昭和9年、聖子さん、小石川小学校に入学。母が腎臓結核に罹り、右腎
臓摘出手術を行う。
昭和10年、母の転地療養のため、千葉の市川へ移転。
昭和11年、母が肋骨カリエス、脊髄カリエスに罹り、八ヶ岳南麓のサナ
トリウムに入院。父と聖子さんは新宿三光町の祖父母の家へ身を寄せる。
バー風紋のソファで。向かい合って座る林聖子さんに、わたしは訊く、
というか話しかける。
「お母さま、お病気で。たまに会える感じだったんですよね。それに小学
校を、卒業までに全部で8回でしたっけ、転校して」
聖子さんは、うふふと笑って、まるで人ごとみたいに言う。
「すごいですね。勉強する暇ないですよ。転校するたびに緊張するし、友
だちはずっと少なかったですね。母の療養のためもありましたが、父が一
カ所に落ち着いていられない人だったんです。散歩に出かけて、いいとこ
ろを見つけると、すぐに『引っ越しだ、引っ越しだ』って父が騒ぎ始める
の。すると、電報で何人かに声をかけて、手伝ってもらって、新しい家に
移るという。忙しいんですよ」
「そんなふうにあちこち移り住む家に、退院しているお母さまがいたり、
いなかったり」
「ええ。うちにいるときも、母は病気だから寝てるでしょう。寝て、本ば
かり読んでいました。もともとが読書家だから。退屈して、わたしが『読
んで』『読んで』と言うと、子どもの本ではなく、自分が読んでいる本を
声を出して読んでくれました。ツルゲーネフなんかを」
いつもインタビュウのとき、当たり前のことを訊くのは相手にもつまら
ないのでは、と思って気がひけるのだが、ときに“当たり前”を投げかけて
みると、その人らしさが浮かびあがってくることがある。それでわたしは
遠慮がちに言ってみる。
「まだ小学生で、お母さまが入退院を繰り返していたから、寂しくなかっ
たかなぁ、って」
取材相手が男なら、ウケを狙う意味でも「そりゃあ、」と返ってくると
ころ。しかし、
「うちの父も絵描きですから、旅行ばかりしていて、わたしひとりのこと
も多かったんです。そういうときは、お婆ちゃんが泊まりに来てくれたり。
小学校1、2年の頃は祖父母の家が近かったんで、しょっちゅう行ったり
来たりしてました」
寂しい、という言葉を、聖子さんは口にしなかった。言葉になってしま
うと、彼女には遠すぎるのだと思った。
昭和12年、母がサナトリウムから帰ってくると、一家は杉並の和田本町
へ引っ越した。この年に事件が起こった。博多で芸者をしていた高橋操と、
父との仲が発覚したのだ。聖子さんのエッセイ『いとぐるま』にこうある。
父は十四歳も年下の妻に手をついてあやまったが、母は祖父に相談のた
め津山に戻った。父と母との間は決定的な破局を迎えようとしていた。
林倭衛は画の頒布会などで、たびたび博多へ出かけていた。そうした中
で高橋操と関係ができていたらしい。博多では手にしたお金を使い果たし
たばかりか、多額の借金を抱えて身動きができず、伯父(富子の姉の夫)
がお金を持って迎えに行ったこともあった。また、林倭衛を駅に送りにき
た高橋操が座敷姿のまま上京して、三光町の祖父母の家を訪ねてきたりも
した。おだやかならぬ空気が徐々にふくれあがっていたのだ。
あれは確か、昭和十三年の帝展の初日のときのことだと思う。操さんは
母の着物を着て父と出かけた。会場には別府夫妻がいた。伯母はすぐに妹
の着物に気がついた。別府の伯父も流石に激怒したが、父もまた自分のま
いた種子の結果に意地になっていた。
そんな最中にも、林倭衛はまた住むところを変えている。津山の実家に
帰った母が不在の状態で、昭和13年秋、聖子さんは父、祖父母と南房総の
鵜原に移った。
鵜原ーーそれは、林聖子さんの資料を読む中で、わたしがもうひとつ心
に留めていた場所だ。
いつだったか、もうずいぶん昔のことだけれど、義弟の石川浩司や友人
たちと連れだって鵜原へ遊びに行ったことがある。いつものように、なん
の目的があるわけでもなく、ぶらぶらと歩く小旅行だった。
エメラルド色に光る入江を臨む、小高い林の道をみんなでゆっくり歩い
ていた。ひっそりとした涼しい空気と南房総のおだやかな陽ざし。その中
に身を置くと、わたしはなんの予備知識もなくそこを訪れたものだから、
不思議に心地よい非日常の世界へ紛れこんだ気分になった。
「いいところだねぇ」
歩きながら思わずつぶやくと、
「なにしろ、理想郷っていうぐらいだからね」
と石川浩司。物知りな、というか、それを知っていたから、彼がみんな
を誘導したのだ。
「へえ。理想郷、なんだ」
「昔は与謝野晶子とか、作家や画家が住んでいたらしいよ」
ふうん……と言いながら、林の斜面に立つ古びた石造りの一軒家を見て、
こういうところに住むのもいいものだろうな、と思った。そんな鵜原のこ
とがずっと忘れられず、数年前には母と妹と再訪して、入江のすぐ近くに
ある鵜原館というこぢんまりとした温泉宿に泊まってもいる。
聖子さんの口から鵜原の地名が出たのは、実はインタビュウを始めてわ
りとすぐのタイミングだった。
「一番最初の、覚えている風景は?」
とわたしが問いかけたとき、彼女は言った。
「それはやっぱり、あの……わたし、鵜原っていうね、千葉県の外房にい
たことがあるんです。うちの父の引っ越し好きのせいで。小学校3年ぐら
いのときかな。当時の鵜原の小学校は一階建てでした。生徒がもう何人も
いないような学校。まず、その村には郵便局がないんです。駅はあるんで
すけど、単線運転の駅で。鵜原って、勝浦の先なんですが」
「はい。行ったことがあります。わたしも鵜原館に泊まったんです」
こう申し出たのは、聖子さん一家が鵜原に移り住んだとき、最初は鵜原
館に滞在したことを知っていたから。自分も泊まったことのある宿に、林
倭衛たちが暮らしていたなんて……と資料を読んで興奮したのだ。
一家はそのあと、近くの別荘を借りて住んだ。そこには母に代わって、
身重の高橋操の姿があったという。翌年二月、この地で聖子さんの異母妹
が生まれている。
一番最初の覚えている風景のことを、聖子さんが話す。
「夏なんか、今は海水浴で賑わうんでしょうけれど、わたしのいた頃の鵜
原は本当に田舎で寂しくてね。宿も鵜原館一軒しかなかったんです。それ
で例によって友だちがいませんから、鵜原館のメイドさんがわたしの遊び
相手だったの。鵜原館の裏にトンネルがあるんだけど、行かれましたか?
トンネルを抜けると、大きな砂浜が広がっていて、その先に通った鵜原の
小学校がある。あのあたりはね、ちょっと口に出すのも恥ずかしい、理想
郷というところなんですよ。昔は“沖津町鵜原理想郷”で、番地がなくても
郵便物が届いた。わたし、自分の店に『風紋』という屋号をつけましたが、
それは鵜原で見た風景が心に残っているからなんです。ひとりでよく、鵜
原館の裏のトンネルを抜けて砂浜に行って。風で砂に模様ができるのを、
不思議な気持ちで見ていたんだけれど、それに名前があるとは知らなくて。
ずいぶんあとになって、鳥取の友だちに『風紋って言うんだよ』と教わっ
たんです。それと『アラビアのロレンス』。あの映画を観ていたら、波模
様の砂浜を馬で進む場面が出てきて、『あぁ、子どものときに鵜原で見て
た。あれが風紋っていうのか』と。鵜原は外房で太平洋に面していますか
ら、結構、波が荒くて風が強いんですよね」
店の名前を『風紋』にした理由、目を通した資料のどこにも出てこない、
初めて聞く話だった。
見つめていた風景に名前があることを、幼い彼女に誰も教えてくれなか
った。それは、彼女がいつもひとりでそれを見ていたからだ。一番最初の
風景ーーを訊いたとき、聖子さんのように、すぐに答えが返ってくる人が
たまにいる。自分の対峙した風景を、からだの奧深くに染み込ませている
人が。
★林聖子さんの著者名で『風紋五十年』(星雲社)が上梓されています。聖
子さんへのインタビューを軸に、風紋を取り巻く人々のよせた文章で構成さ
れた1冊。巻末におさめられた『いとぐるま』などの聖子さん自身によるエ
ッセイは、わたしも取材前に資料として頼りにしたもので、秋田富子や太宰
治のことが詳しく書かれています。アマゾンでも購入可能。
カウンターだけの小さなバーをイメージしていたら、ゆったりとしたソ
ファ席も3つ4つある。黒を基調とした内装で、地下の穴蔵であることに
は間違いないけれど、ひとたび中に入ってしまえばわりと開放的な……風
紋はそんな店だった。
営業前の客のいない空間で文壇バーらしさを感じるとしたら、カウンタ
ー横の壁に、木の本棚が埋め込まれていることぐらい。そこには風紋にゆ
かりある作家たちの、古めかしい初版が並んでいるのが遠目からでもわか
るのだが、燦然と輝く希少本というよりも、何度も引き抜かれ開かれた手
垢のついた書物ばかりである様子。
林聖子さんはおっとりとした、静かな佇まいのひとだった。色白で、心
持ちふっくらとしていて、銀混じりの髪の耳元にシンプルなピアスをつけ、
飾り気のない黒の木綿のワンピースを着ている。若いころは背の高くスタ
イルのいい、クールビューティだったという面影を80歳を越えた今も失っ
ていない。その上さらに、年齢を重ねたからこその奧に秘めたるものを持
っていて、何かの拍子にパッと燃えることもあるような。つまり、そこは
かとない色気を同性にも感じさせるのだ。
「ええと、写真を何か……というお話だったので、夕べひっくり返して探
しまして。これを持ってきてみたんですけど」
挨拶を交わすと林さんはすぐ、雑誌への掲載をお願いしていた、過去の
写真の数枚をテーブルの上に広げて見せた。
「なにせ戦前の写真なので、古びていますけど。このおかっぱ頭がわたし。
小学校3年生ぐらいのとき。母と、父方の祖母と。サナトリウムで。母が
サナトリウムに長いこと入院していたので」
初めて打つタイプのように、ぽつりぽつりと出てくる言葉。薄茶色に霞
んだ写真の解説だ。人物の後ろにある建物の窓ガラスの木枠が、モノクロ
ームの写真でも白いペンキで塗られたものだとわかる。後方に見えるのは
白樺だろうか、頼りなげな林の雰囲気も、いかにもサナトリウムといった
風情。その療養施設の庭に、着物姿の祖母と母、聖子さんが立っている。
細面でさびしげな美人である母の秋田富子さんは、おかっぱ頭の娘の肩に
手をまわし、こちらをキッとした表情で見ている。
もう1枚、「これは……」と指したのは大勢の男女の集合写真だった。
「これは、うちの父なんです。父が18、19の頃。で、こっちが大杉栄」
大正の時代に開かれたアナキズムの講演会で撮られたもの、とか。
写真に視線を落としたまま、次の言葉を待ったが、どうやらつづきはな
いらしい。こちらが訊けば何かしら返ってくるだろうけれど、そんなふう
に写真について一問一答を続けていたら、時間があっという間に過ぎてし
まう。
アナキストたちの若き日の勇姿に見入る格好で、わたしの頭は考える。
ぽつりぽつりと途切れがちな言葉ーー目の前にいる取材相手は、自分から
あれこれ話したいひとではないのかもしれない。あるいは、まだこちらを
警戒しているのか、あるいは人見知りなのか、あるいは(最悪の場合は)
最後まで心を開いてくれない人なのか……。
質問を投げかけて訊くよりも、相手の中から自発的に沸いてくる言葉を
受けとめる、それがわたしのインタビュウのやり方だ。だから「話したい」
空気になんとか場を持っていかねば、と少しだけ焦った。それで、こんな
ときのためにというわけではないけれど、林さんの資料を読む中で自分に
も馴染みのある地名を二、三、胸に書きとめていた。そのことでまずは口
火を切ろうと思った。
テーブルの上の写真から顔を上げて、わたしはおもむろに言う。
「西郊ロッヂング、お生まれになったのはあの辺りだったって」
「そうそうそう」
「わたし、住んでいるのが西荻窪なので、散歩しているときにたまたま西
郊ロッヂングを見つけて、なんてすてきな建物だろうと思ったんです」
ほんとうだった。ある日、荻窪南口の裏通りを歩いていて、その建物に
に出くわしたときには、「なに、これ!」と胸が高鳴った。
現実離れした淡い薔薇色のモルタル仕上げの壁に、緑青の銅板葺きのド
ーム型屋根。建物の角の二階部分が未来派的な丸いラインになっていて、
そこに右から横書きで“グンヂッロ郊西”の小さな文字が浮かんでいる。規
則的に並ぶ窓ガラスは、トランプを上から二列に置いた形状の縦長。屋根
の上にパンタグラフをつければ、そのまま宙を走り出すボギー電車のよう
に見えなくもない。
散歩から帰ってすぐに調べたところ、西郊ロッヂングは1938年築の建
物で、当時は高級下宿だったとか。その後、賃貸アパートだった時代を経
て、現在も旅館として経営を続けているらしい。
林さんがほんの少しだけ、彼女のペースになって話しはじめる。
「わたしの生まれたのが笹塚病院で。のちにそのすぐ近くに西郊ロッヂン
グができたんですね。20代の初めの頃には、西郊ロッヂングに泊まったこ
ともありますよ。藤原審爾という作家が、あそこをお住まいにしてらした
の。藤原さんのところへ友だちと遊びに行くと、いろいろと呑みに行くと
ころへ連れて行ってもらって、それで帰れなくなって西郊ロッヂングに泊
めていただいたり。当時としてはめずらしい、旅館っていうんじゃなくて、
ホテルの旅館版というか、洋風で。板の間で、ベッドで。それであの、生
まれてすぐの頃は、あの先に住んでいたらしいですよ、母が言うには」
林聖子さんが笹塚病院で生まれたのは、昭和3年(1928)3月16日。
お母さんの秋田富子が林倭衛と結婚したのは前年で、まだ草深い田舎だっ
た荻窪に新居があった。
だがしかし、聖子さん誕生のときに父は不在だった。昭和3年1月に渡
仏し、帰国したのは翌年の3月。つまり、18歳で結婚するとすぐに子ども
を産んだ幼妻の富子さんは、新婚の1年あまりを夫に放っておかれ、ひと
りで過ごしたことになる。実はそこにもひとつの“物語”が潜んでいること
を、聖子さんのエッセイを読んでわたしは知っていたけれど、その話を取
材相手に切り出すにはまだ早すぎた。
「聖子さんのお母さまは、もともとは絵を志していた方……」
「ええ。画家になりたかったらしいんです。岡山から上京して、東京の精
華女学校に入ったんですけれど、それと同時に木下孝則という画家の塾へ、
自分で調べて通いだして。どうやら絵の修業のほうが、東京に来た目的だ
ったみたい。それで木下画伯から、『これからはこの人に教わりなさい』
と紹介されたのが父だった」
明治42年に岡山県津山に生まれた秋田富子は、感受性豊かな自立した
人で、早くから自分のたましいの置き場を模索していたようだ。
津山の生家は屋号を淀永屋といって、鼈甲、珊瑚、翡翠など装身具の卸
問屋を幕末の頃から営む、市内でも屈指の豪商だった。だから富子は、友
だちの家に遊びに行くにも小僧さんがついてくるというお嬢さま育ち。地
元の津山高女に進学したが、国内外の文学や西洋画への興味が高じていた
彼女に、田舎の封建的な校風がそぐうわけがない。「学校をやめて画家に
なりたい」と家出をして、神戸のカフェで働こうとしたこともあったとい
う。
そんな娘を見かねて、父親が東京の叔父を頼りに彼女を上京させた。富
子は柏木(北新宿1丁目)にあった精華女学校へ転学し、木下孝則の画塾
で絵を学びはじめる。するとどういうわけか、師は彼女をすぐに、仲間の
フランス帰りの洋画家・林倭衛に託したのだった。
「父は若い頃にアナキズムに傾倒して、16歳で大杉栄さんに出会っている
んです。人間が好きな人で、辻潤さんや芥川龍之介、室生犀星、哲学者の
出隆さんとか、いろんな方と親交がありました。画家としても、わりと早
くから作品が認められていたんですね。ところが大杉さんをモデルにした
《出獄の日のO氏》を1919年の二科展に発表すると、警視庁から撤回命
令を受けて。そんなこともあって、フランスへの憧れがいっそう募ったの
か、お金を工面して、大正10年、1921年の夏にパリへ渡っています。あ
ちらでも……いろいろやっていたみたい。大杉栄さんが、ベルリンの国際
アナキスト大会に出るために、中国人に扮装して密出国してきたんですよ。
それで一緒にモンマルトルのホテルに泊まったり。そんなふうにパリを拠
点にヨーロッパで過ごして、大正15年の5月に日本に帰ってきたんです。
で、すぐに母と出会ったわけです。父は当時32歳。ヨーロッパでの生活習
慣がしみついていたらしく、家の中で踵のある室内履きをはいていたって。
そういう異国の香りも、画家志望の若い娘だった母には、すごく魅力的に
写ったんじゃないかしら」
憧れ強く、こうありたい、こうなりたい、と熱く香るものどおし。出会
って、パチン、と火打ち石が擦られたあとは、激しく溶け合うしかなかっ
ただろう。富子が林倭衛の弟子になるや、ふたりはすぐに結ばれた。18歳
の若さで富子は身ごもり、結婚する。それはとても短く、だからこそ長い
恋のはじまりだった。
「あまり自分のことを語る人ではなかったので、わたしもわからないとこ
ろがあるんですけれど。一度、こうと思い込んだら、テコでも動かない、
母にはそんな強情なところがあったようです」
★前回を書いてから知ったのですが、今年5月に林聖子さんの著者名で『風
紋五十年』(星雲社)が上梓されていました。聖子さんへのインタビューを
軸に、風紋を取り巻く人々のよせた文章で構成された1冊。巻末におさめら
れた聖子さん自身によるエッセイは、わたしも取材前に資料として頼りにし
たもので、秋田富子や太宰治のことが詳しく書かれています。アマゾンでも
購入可能。
「白江さん、面白い人みつけたんですけど、どうすかねぇ」
と言って、その人は編集のOくんが探してきた取材相手だった。
あしかけ6年やっている、女性誌の連載のインタビュウページ。75歳
以上で、名前が知られていても知られていなくてもよく、未だ現役で何か
をやっている興味深い女性ーーの括りで、わたしたちは取材相手を選び、
アポイントメントをとって会いに行き、肖像写真を撮り、話を聞いて、4
ページの読み物を作る仕事を毎月続けていた。
「新宿で『風紋』という文壇バーをやっている、林聖子さんといって。太
宰治の小説のモデルにもなっている人なんですよ。林さんのお母さんが太
宰と親交があったらしくて」
「へえ。そんな人がいるんだ。Oくん、どこでそれ知ったの?」
「呑みに行ったんです、そのバーへ。たまたま女優のNさんのマネージャー
に連れられて行ったんですよ。呑んでて店のママと話したら、それが林聖
子さんで、知る人ぞ知る女性だということがわかって。こういう連載やっ
てるんですけど取材お願いできませんか、って言ってみたら、いいですよ、
と返ってきたんです。どうすかねぇ」
「面白いじゃない。取材をお願いしようよ。アポとってよ。太宰の、なん
ていう作品なんだろう。さっそく読んでみるわ」
「僕もまだ読んでないんですけど。確か『メリイクリスマス』だったかな。
シズエ子というヒロインの少女が林聖子さんで、お母さんも出てくるらし
い」
恥ずかしながら、わたしは太宰治をほとんど読んだことがなかった。教
科書に載っているあたりを少し、くらいの、とても低レベルな読者。最近
夢中になって聴いているビーチボーイズにしてもそうだけれど、あまりに
も名前やイメージや断片が世間一般で浮き彫りになっている存在には、ど
うも積極的に近づく気になれないのだ。
でも仕事となると話は別。好きとか嫌いとかはさて置き、先入観はかな
ぐり捨て、インタビュウ相手のことを事前にできるだけ知っておかなけれ
ばならない。
とにかく資料を読み込む。読んで情報を得るだけでなく、これから会う
人物の人となりに思いを馳せる。それはもしかしたら、役者が台本を読ん
で役作りをするのに少し似ているかもしれない。取材後、いざ記事を書く
段になると、第三者の客観的な視点でというよりも、その人物に成り代わ
って言葉を文字に起こしているようなところがわたしにはあるから。イタ
コのよう、と昔から仕事仲間に言われてきた。
林聖子さんの資料はごくわずかなものだった。
彼女自身の著作もなければ、新聞や雑誌等の記事もほとんどない。唯一、
ひとりの女性作家が、太宰治や聖子さんの父の洋画家・林倭衛(はやしし
ずえ)、林倭衛と親交のあった大杉栄らアナキストのことを訊くために、
インタビュウをしている雑誌の記事が見つかる程度。それからOくんが手
に入れてくれた、バー風紋の25周年記念の冊子と、30周年記念の冊子、
その中に聖子さんが父や母や太宰治や辻潤らについて書いた興味深い文章
が載っていた。
そしてもちろん、読んでおくべきは太宰治『メイリクリスマス』。さら
に聖子さんのお母さん、秋田富子が太宰へ宛てた手紙が、作品に無断で使
われたという『水仙』。作中に秋田富子を思わせる人物が出てくる、太宰
の未完の遺作『グッド・バイ』。
これだけ読めば、取材前の勉強としては充分だったかもしれないけれど。
太宰を読み始めると、文章から立ち上る彼の人柄に興味が沸いて、檀一雄
(バー風紋の常連客だった)が太宰との交流を書いたエッセイにもいくつ
か目を通すことになった。
わたしは明るくいきいきとした太宰の文章に面食らった。なんてチャー
ミングな、という印象。暗さや隠し事の微塵も感じられぬ、むしろ開けた
人物である気がした。世間一般に流布しているイメージとはだいぶ違うと
思った。
それに、酒と女と貧乏と放浪ーー。太宰治や檀一雄や林倭衛を筆頭に、
大正、昭和初期を生きた男たちのたましいと体は、なんと人間らしくはず
んでいたことか。苦しさにはずみ、うれしさにはずみ、夢にはずみ、嫉妬
にはずみ、絶望にはずみ、心と体をたくさん使って、彼らはそれぞれの場
所で死んでいった。当然のこと、かたわらには女がいた。深い仲になる女
だけでなく、男たちをずっと見つめるだけの女もいた。
聖子さんの母、秋田富子はそんな人だった。
短編『メリイクリスマス』は“シズエ子ちゃん”こと林聖子さんと、作家
が戦後の武蔵野の街でばったり再会するシーンから始まる。すっかり娘に
なっている旧知の女の子と自分の係わり合いを書く中で、話がシズエ子ち
ゃんの母たる人に及ぶと、太宰は自分にとって「唯一のひと」という言葉
で秋田富子のことを表現している。その理由として彼が挙げるのはこうだ。
第一には綺麗好きな事である。(中略)第二には、そのひとは少しも私
に惚れていない事であった。そうして私もまた、少しもそのひとに惚れて
いないのである。性慾に就いての、あのどぎまぎした、いやらしくめんど
うな、思いやりだか自惚れだか、気を引いてみるとか、ひとり角力とか、
何が何やら十年一日どころか千年一日の如き陳腐な男女闘争をせずともよ
かった。私の見たところでは、そのひとは、やはり別れた夫を愛していた。
そうして、その夫の妻としての誇を、胸の奥深くにしっかり持っていた。
秋田富子は18歳で絵画の師であった林倭衛と結婚し、10代のうちに聖子
さんを出産した。ほかの女性に妻の座を奪われるような形で、夫と別居し
たのは聖子さんが9つぐらいのとき。新宿の「カフェードラゴン」に勤め
たのちに、富子は31歳で高円寺のアパートでひとり暮らしを始めた。その
部屋をたびたび訪ねていたのが太宰治なのである。
第三には、そのひとが私の身の上に敏感な事であった。私がこの世の事
がすべてつまらなくて、たまらなくなっている時に、この頃おさかんなよ
うですね、などと言われるのは味気ないものである。そのひとは、私が遊
びに行くといつでもその時の私の身の上にぴったり合った話をした。いつ
の時代でも本当の事を言ったら殺されますわね、ヨハネでも、キリストで
も、そうしてヨハネなんかは復活さえ無いんですからね、と言ったことも
あった。日本の生きている作家に就いては一言も言った事が無かった。
第四には、これが最も重大なところかも知れないが、そのひとのアパー
トには、いつも酒が豊富にあった事である。(後略)
こうした自分勝手な言い分を重ねた上で、太宰は秋田富子との結局のと
ころの“関係”を、わりとさっぱりと結論づけている。
以上の四つが、なぜそのひとが私にとって、れいの「唯一のひと」であ
るかという設問の答案なのであるが、それがすなわちお前たち二人の恋愛
の形式だったのではないか、と問いつめられると、私は、間抜け顔して、
そうかも知れぬ、と答えるより他は無い。男女の親和は全部恋愛であると
するなら、私たちの場合も、そりゃそうかも知れないけれど、しかし私は、
そのひとに就いて煩悶した事は一度も無いし、またそのひとも、芝居がか
ったややこしい事はきらっていた。(後略)
つまり、秋田富子は美貌の人でありながら、太宰治と男女の仲にならな
かった「唯一のひと」らしい。あの、太宰と。本当だろうか、という気も
するけれど、いやたぶん本当なのだろうと思う。そこにわたしは強くひか
れた。触れもしないで、たましいの交流を求めにやってくる男をただ受け
入れ、見つめているだけの女。
そんな母を見てきた娘の聖子さんもどうやら、自分の人生を“見つめるだ
けの人”として生きてきた様子。
見つめるだけの人は、歴史の中にも、伝承の中にも、物語の中にも、歌
の中にも浮上しない。でも、それらが生まれるあちらこちらで、彼女たち
はひっそりと息をしていた。
開店する前のバー風紋を訪ねた。新宿花園神社のちょっと先、古いビル
の地階への外階段を下りて、暗闇の中にある重たい扉を押す。そこにはお
ばあさんーーとはとても言いがたい、静かな灯のような女がわたしたちを
待っていた。
出典:太宰治「メリイクリスマス」
手でつるりんと皮のむける里芋が入った、とヒロセくんがツイ
ートしてたのが気になって、高円寺のバー鳥渡へ行った。浜千
鳥というお酒を呑みつつ、里芋の煮たのや蒸かしたのをつまみ
つつ、壁にかかっているヒロセくんのモノクロームの写真を眺
めたり、若いひとたちがつくっている写真集を見たりしつつ、
レコードを聴いた。原田芳雄のあとにかかったのは、樋口可南
子の20歳ぐらいのときのレコード。その中に忌野清志郎作詞作
曲の『別れたあとも』という曲があった。グッときた。清志郎
がうたえば、もっともっともっともっとグッときただろう。
千鳥模様の猪口に並々注がれる浜千鳥を3杯呑んでバー鳥渡を
出ると、結構な雨が降っていた。でも駅まではすぐ。ホームに
立ってざあざあと降る雨の音を聞いていたら、突然涙が湧いて
出た。電車に乗ってドア側を向くと、涙がぽろぽろとドロップ
みたいに出てきてしょうがないので、ああ、もう……と手ぬぐ
いを出して目を覆った。去年の誕生日だったか、ヒロカにもら
ったスズラン柄の手ぬぐいだ。いい歳をした女がこんなにぽろ
ぽろ泣いているのを、まわりの乗客が訝しく思っている気配が
ないのが、泣きながらちょっと癪に障った。
西荻駅で降りると、雨はさらに激しくなっていた。でも家まで
はすぐ。ざあざあの中を歩き出すとドロップもぼろぼろとこぼ
れる。夜道だし、そのほうが少しラクになるかもしれないと思
って、ちょっとだけ声を出して泣き始めた。だいぶ前に2コが
大泣きしたとツイートしていたのを読んで、うらやましく思っ
たことを思い出して、そうだ、たまに大泣きしないと心の澱が
たまってしまうから大泣きはしたほうがいいのだと頭の中で言
いながら、オイオイと少し声を出し、ぽろぽろと涙をこぼしな
がら歩いた。
うしろから歩いてきた女の子がわたしを追い越す。腿もふくら
はぎも同じ太さの長い脚をショートパンツから出して、黒い髪
を無造作に伸ばした子どもから娘になりかけの女の子。いい歳
をした女がこんなにぽろぽろ泣いているのを、この子も訝しく
思っている気配がないのが、泣きながらちょっと癪に障った。
それで引き続きオイオイと少し声を出し、ぽろぽろと出る涙を
ヒロカにもらったスズランの手ぬぐいでぬぐいながら歩いてい
ると、追い越していった女の子がこちらに戻ってきてわたしに
言った、「あの、大丈夫ですか。あの、もう1本向こうの道な
らアーケードがありますから」。ああ、ありがとう、大丈夫。
ありがとう。白い手ぬぐいで涙をぬぐいながら、たぶん彼女に
笑顔で言ったはずだけれど。そうか、わたしはどしゃぶりの雨
に打たれていることじたいがすでに気の毒ないい歳をした女な
のだと思うとさらにぽろぽろと涙がこぼれて、でも駅から5分
の距離なのでじきに家に着いた。
服を脱いで髪を拭いて顔を洗って歯を磨いている間も、涙はあ
ふれてきて止まる気配がない。母が寝ているのでオイオイと声
を上げることはやめようと思うのだけれど、それでもほんの少
し漏れてしまう。ベッドに横になってからも。でも眠ってしま
えばこっちのものだ。いつだってそう。ぐらぐらの乳歯を抜く
のに麻酔の注射を打たれたのが気持ち悪くて、ソーダ味のアイ
スキャンデーでとんとんと歯肉をたたいても気持ち悪くて。で
も眠ってしまえば起きたときにそれが消えていることがわかっ
てから、どこか調子が悪いときは寝ちゃうに限るのだと知った。
寝ちゃえばなんでも治るのだ。
翌朝、どしゃぶりの雨の音。目覚めてもなお、涙が出てくるこ
とに驚かされた。どんな傷みだって、眠ってしまえば治ってい
たのに。根が深いんだな、これ。ベッドの上で自分の内側を観
察してみる(自分の内側を観察することはヨガで学んだ)。お
腹の下の奧のほうがふるふるとふるえるようになって、どうや
らそこから哀しみの感情が湧き出ているみたい。ふるふるとし
たふるえが胃や肺や心臓を通り越し、のどから鼻を通ってアー
モンド型をした目の縁からあふれ出てくるのだ。おいおい、か
んべんしてよ、と思う気持ちにそれを止める効果は微塵もない。
自分をかわいそうだと思う人間なんて大嫌いなんだけど、でも
自分がかわいそうでわたしは泣いている。強く求めているのに、
それがかなわなくてかわいそうで泣いている。同情はしかねる
けれど、事実は曲げようがない。宵越しの涙。いったいどうし
たものか。鮭の缶詰に醤油をたらしたの、食べたいな、と、ち
っとも食べたくないもののことをふいに思って。渇望の根っこ
がわかってしまった。お腹がふるえるようにして涙が出てくる
理由。あきらめられないんだな、わたしは。妹たちがとっくに
あきらめた(ように見える)ことを。でもそれはとてもブログ
に書けるような話じゃない。だから書かないけれど、書かない
ということは書いておこうと思った。あの女の子への感謝の気
持ちだけは。それでこの項の挿入歌はオシリペンペンズの『大
人も泣くんやね』がいいかな、とも考えたんだけど、いや、や
はりここは清志郎の『別れたあとも』で。
あれは日曜日 あさひ通りをちょっと曲がったところで
きみの声を聞いた
ぼくの名前 呼ばなかったかい?
ふりむいたら もう きみはかくれたあと
意地悪しないでよ 別れたあとまでも
それからこのあいだ 多摩蘭坂を下ったところで
きみの姿を見た
あのバスに乗ろうとしてた 逃げるようにバスは行ってしまう
ああ 意地悪しないでよ 別れたあとまでも
今日ここに来る時 明治通りをちょっと入ったところで
きみの後ろ姿
あのセーター着てた 追いかけたけど いつもきみを見失う
ああ 意地悪しないから もどって来て いつか晴れた日に
飛んでくる矢がいつしか百合の花に姿を変えて、騎士の鉄兜や鎧や楯に当たり、地面が白い百合の花だらけになるーーっていうイメージ、どこから浮かんでくるのかな。むかしむかしにそんな画を見たことがある気がする。そんなイメージも頭の中にときたま浮かぶ。ひとつき、っていうのは本当に長くて。3月に〈男〉の公開練習を見に行って、まほうの時間に迷い込んでしまってからの、ひとつき、っていうのは気が狂いそうに長くて。7月の円盤の夏祭りから、8月の〈男〉たちのライヴまでのひとつきは、まるでどこまでも続く蟻の行進を眺めている気分だった。
あの矢をみんないったいどうしたんだろう。円盤の夏祭りの夜、Pさんのあやしい太鼓の音の中で、〈男〉ののどから飛んできた透明な矢を。いや、持ち帰ったひとだってきっといる。あるいは射られたまま数日を過ごしたひとだって。でも、歓声を上げたり拍手したり手拍子打ったり笑ったりしたフロアから、ひとびとが消え去ったあとで。いつしか百合の花に姿を変えた矢が、冷たい闇の中に横たわっているイメージがわたしの中にふと湧く。あのとき生まれて、流れた歌は、どこへ行ったんだろう? そんなことばかり、7月から8月にかけて考えていた。
だから8月が来て、その日がやって来たとき。とうとう3人での演奏が聴ける! とワクワクな半面、「どんなことになるんだろう?」と心配でもあった。いったい何が出るかわらかないから、〈男〉のライヴの前はいつも逃げ出したいぐらいどきどきなのだけれど、しかも何しろ今度は3人なのだし。
あなたは惣一朗くんと一緒にやるべきだ、鈴木というドラマーが二人いるバンドをーーと山田正樹が〈男〉に告げた呪文。その力がはたらいて、かつてすきすきスウィッチをやっていた彼と、〈男〉は30年ぶりぐらいにまたバンドを組むことになった。それも今度は、絶望の友のメンバーだったPさんと3人で演奏をするのだ。どんなバンドになるのか想像もつかない。名前もまだ決まっていない。だけど、最初のライヴは円盤だよ、それしか考えられないーーと〈男〉が呪文をとなえたから、場所は高円寺の円盤で、公開練習ではなく、お客を集めてライヴをする。約20年間音楽から離れていた53歳の〈男〉。プロデューサーやミュージシャンとして、ずっと音楽を生業にしてきた53歳の彼。ドラマー一筋で、20代からずっとバンドを続けてきた47歳のPさん。真夏の日曜日、円盤の開店前(!)の12時〜13時というまほうの時間に、30人入ればいっぱいになってしまう店の中で、彼らの初めてのライヴが始まろうとしている。いったいどんなことになるんだろう? いったい何が起こるんだろう?
窓際のスペースに楽器をセットして、3人の男たちが並んでいる。店に流れていた音楽が途切れると、挨拶も何もなく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざく、ざくと最初にギターが無骨な音で鳴りだした。途中からギターに寄り添うように、たたとん、たたとん、たたとん、たたとんとドラムが入り、さらに流れを作るように、たたたた、たたたた、たたたたと抑えた音のドラムがもうひとつ入って、そこから歌が始まった。
なにを聞きにきたの?
なにを聞かせにきたの?
なにを聞きつけてきたの?
なにを聞いてきたの?
かがやくスイッチ
かがやかすスイッチ
サーッといきなり胸に風が流れ込んできた。大量の風だ。明るくて澄んでいて、すずしい大量の風。からだがふたつに割れそうなほどの勢いで、風がサーッとわたしの中に吹き込む。真夏の真昼間に、それはふしぎな感覚だった。まるで天命のような風。ギターの音階が上がった。同時に声の高さも上がり、まぶしいくらいに明るく澄んだせつない声が〈男〉の中から出て、
はじけるスイッチ
はじけさすスイッチ
と叫んだ。やばい、と思った。この声は突き刺さる。突き刺さって胸に穴をあける。そこからサーッと風が入ってくるのだ。
うたうほどに、〈男〉の声はどんどん高さと透明度を増していく。真夏の入道雲の勢いで。雲の間から陽が射すから、まぶしすぎて目をあけていられない。まぶしいのに、からだの中にはすずしい風がサーッと大量に吹き込んでくる。吹き込んで、からだの中を循環して、どこかへ流れていくのだけれど、新しい風がたえず入ってくるものだから、風の循環はいつまでたってもとまらない。
こわれるスイッチ
こわしてくスイッチ
とどけるスイッチ
とどけさすスイッチ
なにを確かめにきたの?
なにを見せびらかしにきたの?
なにが知りたくてきたの?
なにを置いてってくれるの?
せつないまでに澄んだ声が、こちらに問いかけてくる。問いかけている? いや、そうじゃない。はじめよう、としているのだ。そう思った。一緒に、はじめよう、と誘っている。ほかに手段を持っていないから、声をふりしぼって、〈男〉は求愛している。わたしに、わたしたちに、この地上に、世界に向かって、歌で。
はじけるスイッチ
はじけさすスイッチ
まるめるスイッチ
まるめこむスイッチ
ひびかすスイッチ
ひびかせるスイッチ
かきだすスイッチ
かきうつすスイッチ
この新しい1曲目で、わたしはもう充分だった。とんでもない贈り物をもらってしまったと思った。からだと心がジンジンしていた。高いところから飛び降りた足の裏みたいに、全身がジンジンしていた。ここ数年でだんとつの瞬間だった。やったぁ! って叫び出したかった。
伝えたいわけじゃない。言いたいわけじゃない。教えたいわけじゃない。答えたいわけじゃない。でも、歌はいつだってここにある。口から出る。鼻からも出る。頭の中でも鳴っている。歌はどこへ行った? いや、歌はいつもここにある。消えようがない。だから〈男〉は、わたしたちの前に現れた。歌を持って。そして、はじめよう、と彼はうたい始める。答えは持ってないけど、なんだかよくわからないけど、でも、一緒にはじめよう。一緒に考えよう。一緒にいよう、って、〈男〉はうたう。こんな歌を聞いたことがあるだろうか。わたしは初めて聴いた。答えのない歌。届けない歌。伝えない歌。だけど聴くと、心がすずしく明るくなるのは、スイッチがここにあることが差し出されるからだ。わたしたちのスイッチ。
最高だな、と聴きながらわたしはひとりで首を横にふった。悦に入った映画の登場人物みたいに。白い百合の矢の残像なんて、どこかへ消え去ってしまった。そんな気持ちにさせてくれる歌があることが、何より幸せだった。それで正直に言うと、最初に受け取ったあまりの衝撃のせいで、そのあとのことはよく覚えていない。3人で演奏した昔の曲も今の曲も、ふたりのドラマーがひとつのシンバルをうれしそうに叩く可愛らしさも、ドラマーがきれいなアコースティックギターの音を出したり、ドラマーがお茶目なカシオトーンを弾いたりする面白さも、最初のジンジンとする衝撃のまま、うっとりと聞き流してしまった感じ。
だけど、そんなふうに惚けたようになっていても、唯一聞き逃さなかったことがある。アンコールの『アンテナ2』が終わった拍手の中で、「あ、そうだ」と思い出したように〈男〉がメンバー紹介をして。そのあとに最後の最後に言った言葉、それだけは聞き逃がすわけにいかなかった。
「鈴木惣一朗……鈴木康文。佐藤幸雄です。バンドの名前はすきすきスウィッチです」、〈男〉はそう言った。
なーんだ、わたしの呪文も、あながち間違いじゃなかったじゃん。
すきすきスウィッチの0回めのライヴを見たひとたちのつぶやき、ツイッターにたくさん挙がっていたけれど。すてきな感想文、と思って、わたしが“お気に入り”に選んだのは、まるで知らないひとのこのつぶやき。
真っ昼間から、ミラーボールではなく扇風機が回る小さなレコード店で、昨日から今日にかけて聴いた音楽が全てが吹き飛んでしまいそうなくらい最高のバンドの演奏を聴いてしまった。そのバンドの名前はすきすきスウィッチ。
というわけでこの物語、次はどっちの方向へつづくのやら……。
挿入歌/すきすきスウィッチ『スイッチ3』
★すきすきスウィッチ(=佐藤幸雄 v.g+鈴木惣一朗 dr.g+POP鈴木 dr.kb)のライヴ!→→→●10月14日(日)12:00?13:00 高円寺円盤にて。チャージ1500円(飲み物込)★★★と告知したらば、予約が定員に満ちていたようです。次々回は11月4日(日)。
あれはたしか大震災の前。地面がガクリガクリと、突然信じられないおおきさで揺れ動いた、そこにつながっていた日々のことを覚えていますか? まるで世界の終わりみたいな青空の日が続いていた。雲ひとつないオソロシイような晴れの日が、来る日も来る日も繰り返されていた。乾いた強い風が吹いて、土や樹木のうるおいを奪い取っていた。二階の仕事部屋の窓から、青い空を毎日ぼうっと眺めていて。静かな町にきーんと、かすかな音を立てて虚無が降り注ぐのを聴きながら、デッドエンドまで来てしまったな、と思った。デッドエンド、さいはてまで、わたしたちは来てしまっている。なにか屈しがたい力が働きつつある。こわれていくための。終わりを迎えるための絨毯が、草むらに、海に、ひかれつつあるーー。でも、それでもまだその時点では絶望ではなかった(絶望が襲ってきたのは大地震が起きてからだ)。それを証拠にわたしはそんな日々の中で、いっそ諦めて、なにやら晴れ晴れとした気持ちになって、ふいに思ったのだ、これからは男の子の力を借りて生きていこう。
もう長いこと、男の子の力は必要じゃなかった。なんの足しにもならないものだった。たまに可笑しいことを言って笑わせてくれるぐらいで、だって、彼らの力が何かの役に立ったことがあるだろうか。彼らはすてきなものをくれた? 彼らはおいしいものを作ってくれた? 彼らは連れ去ってくれた? 彼らはわからせてくれた? 彼らは満足させてくれた? 彼らは黙らせてくれた? 彼らは走らせてくれた? 思いきり泣かせてくれた? ぐにゃりと溶かしてくれた? ぎりぎりとねじ巻いてくれた?
それどころか、彼らは行く手を阻む……とまではいかなくても、足手まといになるものたち。すぐにつっかかる、変な方角を見ている、曖昧を良しとする、いじける、調子にのる、口ごもる、逃げる、あえて逆を言ってみる、昔の話を何回でも繰り返す、内向する、根に持つ、やめる、訴える、甘える、文句を言う、とどまる…………彼らの存在はスムーズではない。わたしが乗っている大観覧車の木のハンドルは、スムーズにまわし続けられなければならなかった。大観覧車は、徐々に加速してまわり続けなければならない。「次へ」「次へ」「次へ」………木のハンドルをぐるぐると回さないと、ころん、と大当たりの赤玉は出てこないのだ。赤玉の景品は何だかわからないけれど。きっとシアワセとかなんとか、そんな名前をつけられた偶像物なのでしょう。
70年ほど前のいくさで傷ついたのは、国土やオンナコドモよりも何よりも、生き残った男たちの精神ではなかったか。信じるものを失って骨抜きになった男たちを横目に、女は焼け残りのわずかな地面に食べられるものをせっせと植え、田舎へ出向いてモノと食糧を交換し、やがて小さな家からスタートして、アメリカ式モダンリビングやフリーダムを手にするために、男の尻を叩いて労働させた(ものをじっくり考える時間を彼らから奪い、彼らの口を封じて)。女は子どもに勉強をさせ、自分もより良い仕事やたくさんのお金を手にしようと精を出した。シアワセの赤玉が出るまでは、と大観覧車をまわし続けたのは、だから女なのだと思う。この国に今ある“ゆたかさ”を導いたのは。
笑われるのを覚悟で言うけれど、わたしは自分の半分、いや2/3ぐらいは、世界だと思っている。世界、社会、時代だと思っている。だから〈もう長いこと、男の子の力は必要じゃなかった〉のは、世界、社会、時代。大震災の前の狂ったような青空の日々に、これからは男の子の力を借りて生きていこうと啓示を受けたのは、世界、社会、時代。曖昧なものを、先の尖った鉛筆でくっきり縁取ることを女はしたがる。曖昧のあわいにあるものを見つめる美徳は、すっかり忘れ去られた。でないと物事を「次へ」「次へ」「次へ」………スムーズに進められないから。
女は自分たちにわかりやすい言葉で、この国の風景を変えてきた。モノノケや混沌を消し去った、軽さと元気の跋扈するおとぎの国。それはドラッグのハイ状態にも似た毎日ハレばかりが続く世界だから、いきすぎるとオーバードーズのパンクロッカーみたいな瞳孔の開いた空(くう)になる。狂った青空の日々は、しらじらと明るく塗りこめられた闇だった。覆い隠す層が厚すぎて、もはや暗さが這い出して来られないほどの。まばゆさの中で、わたしは呼吸が難しくなっているのを感じた。視力が落ち、視界が妙に狭まっている感じだった。苦しかった。這い出さなければ、と思った。なんとかして………。だから、デッドエンドにいることが見えたとき、〈異物〉が必要だ、という想いがどこからか湧いてきたのだろう。それまで無いものにしてきたものの力、が必要だと感じた。大観覧車の回転からいち早く遠ざかって(あるいはハジメからそこにいずに)、地下深く潜り込む者たち。彼らが深海の底から持ってくる謎解きみたいな暗号や、玉石混淆の思想こそが、わたし=世界を助けてくれる。それは、〈長いこと必要じゃなかった〉男の子の力だ。
もしも世界が もうひとつあれば
ひとつが終わり ひとつが始まる
そして ひとりは ふたり
ふたりはひとりで
おたがいの空を 見つめあう
長い前フリの最後に、もうひとつ小話を加えておく。かつて雲南省の麗江を旅したときに、かの地に生きるナシ族の女性の着物の意味を知った。群青色の上着のバックスタイルには、7つの円盤のような丸い飾りがついている。それは北斗七星を表し、「披星載月」(朝早くから星の出るまで働く)の意味が込められているとか。ナシ族の女性はものすごく働き者なのだ。「では、男のひとたちは? 男は何をしているのですか?」。地元のひとに尋ねると、「男たちは鳥を愛で、詩をつくります」という返事。当時30代の働き盛りだったわたしは大いに呆れると同時に、でも案外それが男と女の役割分担の本質かもしれない、と思ったりもした。
これからは男の子の力を借りて生きていこう
こんな呪文をとなえたあとに、大震災が起きて、絶望の波が襲ってきた。それから1年がたった頃に、わたしの前に彼らが現れた。男の子たちが、歌を持って。そして〈まほうの時間〉がはじまった。わたしの側から、この“物語”を見れば、そういうことになる。
7月15日、円盤の夏祭りの日。約20年ぶりに〈男〉がライヴをする二回目の日。わたしはてんぱっていた。2フロアある渋谷のライヴスペースには大勢のひとが集まっていたし、知り合いも何人も来ていたし。自分がこんなにまで「惹かれている」と公言している音楽を、彼・彼女たちがどんなふうに受け止めるだろうかと、どきどきだった。それに、わたしがたまたま迷い込んだ〈まほうの時間〉が、渋谷のライヴスペースで開かれる〈お祭りの時間〉とクロスするのだ。時間と時間の重なりに、いったいどんな火花が散るのか、あるいはモクモクと煙が上るのか、あるいはシャボン玉の虹色が混ざり合うのか……とにかくどきどきだった。
ステージに登場したときだったかな、〈男〉が「来たよ」って感じでステージの上で両手を挙げて。オールスタンディングのフロアに集まった客たちが、ウォーという歓声で彼を迎えた。それがわたしには恥ずかしかった。一回目のライヴのときと様子が違うんだな、と思った。一週間前に行われたPOP鈴木祭りでは、約20年ぶりのライヴの一番最初だったせいもあるのか、〈男〉のたたずまいは粛々としていた。アヤシイ風と闇の中から生まれた、熱っぽくふるえる火のような演奏だったけれど、終わりはまた静かに闇へと消え入る慎ましさだった。ところが夏祭りは、もちろん祭りだし、元気な客層であったし、何しろ円盤のイベントだから、〈男〉が御輿に乗って登場したかのような。暗黙の了解で、はなから歓迎されてパフォーマンスが行われるのが、祭というものなのだろうけれど、そういう空気がわたしはあまり好きではない。鼻白む、というやつ。
そんな中でも演奏が始まると、〈男〉はごつごつとした独特なふるえ方で、“その場”に切り込んでいった。どっどど、どどっど、どどっどどど、どっどど、どどっど、どどっどどど…………という太鼓の音でPさんが風を運んできた3曲目あたりから、徐々に演奏がアヤシさを増していった。切羽詰まったものへと。なめらかさがかなぐり捨てられ、ふつふつとしたマグマが〈男〉の内から湧き上がってくる。それは彼の透明なのどを通るときに、過剰なカロリーや水分や不純物をふるい落とされ、水晶の羽根のついた矢となる。彼のからだから飛び出た矢が、こちらをめざしてくる。かわすのも自由。手で払うのも自由。もちろん、射されるのも自由。透明だから見えなかった、と言って無きものにするのも自由。胸に抱いて帰るのも自由。みんなはどうするだろう?
どっどど、どどっど、どどっどどど、どっどど、どどっど、どどっどどどドッドド、ドドッド、ドドッドドド、ドッドド、ドドッド、ドドッドド、円盤というくらいだから、それは丸いものだと思っていると、それは違うんだーーーーっ、尖ったものが、それがすごいスピードでまわっているから、だけなんだって! だから近づきすぎると、細かい傷だらけになって返ってくるでしょ。
風を運ぶ太鼓の中で、歌とも説法ともお囃子とつかない、ふしぎな文句を〈男〉が絶叫すると、客たちはくすくす笑って喜んだ。くすくす笑って、手をたたいて喜んで、そうしてステージから飛んできた透明な矢を、彼らはいったいどうするんだろう? わたしの頭は疑問符だらけ。それこそふしぎだった。
続く4曲目も、“その場”を湧かせた。この曲は公開練習で断片が演奏されたことがあって、そのときはきらきらとした可愛らしさのギターの音から始まったのだけれど。夏祭りでは、鳴っていることもわからないくらいのかすかなギターで、こんな言葉を〈男〉がうたいはじめた。
すべてを見せるって なんだろう
ならば何を見せないようにしてるのか
きれぎれのむこうに なにを隠しているのか
ほんきになっているってなんだろう
では心はどこに置いてあるのだろう
あせやらなみだやら何やらでなんだかからだが光り出す
はじまりはひそやかに。でも次第に力がこもって、歌もギターもドラムも、強く、激しく、明るく、がたがたに、つややかに、なっていく。〈男〉は一呼吸置くと、ギターを弾くのをやめて、両手を打って、歌とも説法ともお囃子とつかない、“その場”限りのふしぎな文句を歌に続けた。ノリのいい客たちが一緒に両手を打つ。どんたん、どんたん、どどん、どん、どたたた、たたた、Pさんの太鼓がめちゃめちゃな変拍子になった。一見、祭りの宴のような盛り上がりを装っているけれど、そこでうたわれているのは実に謎めいた言葉だ。
問題を解決するってなんだろう 答えがそこにあるなら
問題ってわからないじゃない もし答えが見つかったときも
問題ってわからないし だいたい答えが見つかるようなら
問題はほとんどぉ解決してるわけでしょうし であったときに
それが答えかどうかもわからないじゃないの、ってぇ〜
じゃじゃじゃじゃじゃ、じゃじゃじゃじゃん、じゃじゃじゃん、じゃじゃじゃっん、じゃじゃじゃんっ、とギターがひときわ高く強く音を刻んで、その絶頂で〈男〉が、
それではいい音ってなんでしょうぉ?
と鋭く叫んで歌を終えたものだから、ウォーウォーと大きな歓声と拍手が起こった。ざわつきの中で、今度は〈男〉がエレキギターをフォークギターみたいにかき鳴らす。その前奏だけ聴いて、5曲目がわかったひともいたのかな、そうとも思えないけれど。ウェーイ、ヒュー、みたいな歓声がまた湧いて、始まったのが『Five Years』だった。
スーパーマーケットでは みんなが騒いでいた
ニュースがつたわった 地球のいのちが あと五年しかない
ニュースキャスターが泣きながら報告していた
だからきっとうそじゃない
みんなが泣いていた あと五年しかない
麻雀、パチンコ、アルバイト、携帯電話、音楽端末、
焼き鳥屋のおやじ、気のふれたサラリーマン、
問題をーーな人、根拠をもとめる人、
太った人、やせた人、ちびの人、のっぽの人、誰だかわからない人
こんなにたくさんの人が ぼくは必要だと思ったことはない
まだ若い女が 子どもをなぐりつけている
誰かがとめなければ 死ぬほどのことだった
(パンダなんかどうでもいいんだっ!)
腕の折れた兵士が車をみつめている
(天皇はいったいどうしてるかな?)
ぼくはぼくで今日街へ出て
喫茶店でミルクセーキを飲んでいる君をみつけて
それをこうして歌にしている あらわしている
君はぼくの 美しいーー
寒くて雨が降ってこごえそうだ
突然、母のことを思い出して
お母さんーーーーー
あと五年、あと五年、あと五年、もう五年
あと五年、あと五年、あと五年、もう五年
あと五年
とたんたたん、とたんたたん、とたんたん、とたんたたん、とくぐもったドラムの音が、つむじ風のように〈男〉の歌声に砂埃を撒き散らす。透明な歌声がざらざらになったり、風の音にかき消されてところどころ聞こえなくなったりしながら、ひとびとの間を通り抜けていく。もう誰も笑わなかった。みんな、静かに彼らの演奏に耳をすましていた。ここは街角だ、とわたしは思った。渋谷のビルの中のライヴスペースでも祭りの会場でもなく、〈男〉とPさんは街角で、ひとびとの前で演奏している。この世の終わりの歌を。パンク吟遊詩人として。淡々とした口調で。確かな呼吸で。つむじ風のようにーーー。『Five Years』という歌は、こんなふうにうたわれる歌なんだ。レコードの黒い溝から立ち上がるわけでもない。朗々とうたい上げられるのでもない。哀しみの感情を込めて演奏されるのでもない。ただ、つむじ風のように。ひととひとの間を通り抜ける澄んだ空気のように。ただ、流れればいい。ラジオのように。くぐもって鳴るから、お腹の底のほうから心臓へざわざわと響くリズムと、淡々とのびやかに、そのときどきの“自分の言葉”でうたわれる詞。彼らの演奏なら、街角から遠くのほうまで流れていくだろう。動きの悪くなった大観覧車に乗ったひとたちのところにも、いつか届くかもしれない。『Five Years』はそういう曲なんだ。
極東の島国にオソロシイような晴れの日が何日も何日も続き、大震災が起きて、絶望の波が襲ってきた。そのあとで。男の子たちがうたう歌がわたしの耳に届くようになった。それぞれのうたい方で、彼らがうたうこの歌が。〈男〉は元歌の『Five Years』の曲名で、田口さん、たけヒーローは、この曲を『5年』というタイトルでうたっている。
『Five Years』のままだったら。BOWIEの有名な曲名だから、それで検索して、たけヒーローがこの曲を演奏するのhttp://www.youtube.com/watch?v=8vJbg8qYkNAYouTubeを、たまたま見聴きすることのできるひとも多いのかもしれない。でも、わたしのところに届いたみたいに、この曲にはもうひとつの流れがあった。〈男〉が岩谷宏の日本語訳をベースに、“自分の言葉”でうたうのを聴いて、男の子たちが自分もうたいだした。そしてこの歌を、歌詞に出てくる『5年』と受けとめて、うたいつないできた。彼ら自身の“言葉”で。それでわたしはこの歌と出会えた。だからもう、『5年』という歌は、DAVID BOWIEの『Five Years』とは違う歌なんだろう。2011年3月11日以降のこの島国では。
夏祭りの夜。演奏を終えて、自分の住む街へ帰る〈男〉を乗り物の場所まで見送りながら。ライヴの興奮さめやらぬ中で、Pさんがつぶやいた。「いやあ、モンスターが目を覚ましちゃいましたね」。2つのライヴを終えて、〈男〉が完全に復活しちゃった、っていうこと。待ってました、とわたしは胸の中でつぶやいて。待ってました、という言葉が、これほどふさわしく使えることもないと思った。
待ってました。現れてくれるのを。だってわたしは彼や彼らに会う前から、呪文をとなえていたのだから。これからは男の子の力を借りて生きていこう、って。ーつづく
挿入歌/羅針盤『がれきの空』
佐藤幸雄+POP鈴木『Five Years』ほか
★すきすきスウィッチ(=佐藤幸雄 v.g+鈴木惣一朗 dr.g+POP鈴木 dr.kb)のライヴ!→→→●10月14日(日)12:00〜13:00 高円寺円盤にて。チャージ1500円(飲み物込)
さまざまな催しの会を開いてもらったりしまして、この夏は超ハッピィだったのですが。楽しい会にはアルコヲるが付きもの。呑みすぎ遊びすぎ楽しみすぎました。それで時間がなくなってしまって……スミマセン。今日の更新ままなりません。来週月曜まで持ち越しになるか、あるいは明日あたりこっそりアップしているか、あるいは明後日になるのか……様子見えず。なので申しわけないけれど、来週月曜にまた覗いていただくのが確実と思います。スミマセン。
円盤の夏祭りにおける〈男〉とPさんのクライマックスは、5曲めの『Five Years』だった、とわたしは思う。ざわざわと胸さわぐ絶頂に、この曲があった。円盤の夏祭りだからこそ、演奏された曲。それを証拠に、一週間前のPOP鈴木祭りではやらなかった(もっともPOP鈴木祭りと円盤の夏祭りでは、1曲しか同じ曲はやらなかった。約20年ぶりのライヴだというのに、〈男〉はふたつのステージをまるで違う内容にした)。
『Five Years』あるいは『5年』という歌のことは、前にも書いたことがあるけれどhttp://acocoro.nihirugyubook.but.jp/?eid=120。ちゃんと、いちから、物語の中に記しておかなくちゃいけないな。だってそれこそ、まほうの粉をふりかけれた歌なのだから。1970年代にイギリスで生まれた歌が、どうして極東の島国で今、あたらしく生まれ変わって、うたわれているのか。それも2011年3月11日のあとに、数名の歌い手によって。そこにはやっぱり、ある種の〈まほうの力〉がはたらいているとしか思えない。
あれは3月の終わりだった? 考えてみればその頃のわたしは、まだ〈男〉に会ったこともなければ、姿を見たことも、実際の歌声を聴いたこともなかった。買ったばかりのすきすきスウィッチのCDを繰り返し、毎日毎日聴いていた。わたしがそんなふうになっているのを知って、ともだちが教えてくれた。たけヒーローという若いバンドマンのライヴに行ったら、『5年』という日本語の歌を演奏したのだけれど、それはかつて佐藤幸雄がうたっていたカバー曲らしいですよ、って。興味津々でわたしはともだちに尋ねた。元々はだれのカバー曲なの? 音楽収集家であるともだちは「そっちまで手を出すとキリがないから」という理由で洋楽をいっさい聴かないひとだ。だから、たけヒーロー本人に聞いてくれて、答えが返ってきた。DAVID BOWIEの『Five Years』だそうです、と。
ええーっ、そうなの!? ファイブイヤーズの『5年』なの!? 胸が高鳴った。ほんとうに!マークで、感嘆符で、高鳴った。なんと、ボウイーのファイブイヤーズ! それを〈男〉が、かつて日本語訳でうたっていたなんて! 毎日毎日取り憑かれたようにCDを聴いて、なんでこのひとはこんな歌をつくって、こんなふうに演奏して、こんなふうにうたっているのだろう……とずっと考えているすきすきスウィッチのヴォーカルの〈男〉が。わたしが中学、高校のときに歌詞カードを見なくても、そらでうたえるほど聴き込んだボウイーのあの曲を、日本語でうたっている! いったいどんな歌詞でうたっているんだろう? ものすごーーーーーーく胸が高鳴った。とびきり大きな感嘆符で、胸の中がいっぱいになった。
しかも、この情報にはおまけの物語がついていた。2011年3月11日の東日本大震災の直後に、たけヒーローが円盤(と続けて書くと、なんか怪獣モノみたいだけど)のライヴに出たとき、震災の影響で高円寺まで来られなかったバンドがあった。代わりのピンチヒッターとして、店主の田口さん(!)が、うたったのが『5年』だったというのだ。田口さんは、かつて〈男〉がうたうのを聴いて、自分もうたい始めたのだとか。いつもニコニコしている温和な田口さんが、喉を切り裂かんばかりの激しさでうたう『5年』を聴いて、たけヒーローが感動して自分もうたい始めた。「この歌を自分も大切にうたいつないでいきたい」と言って。そして、『Five Years』あるいは『5年』という歌は、〈男〉→田口さん→たけヒーローとうたい継がれていくことになったのだ。
元歌であるDAVID BOWIEの『Five Years』は、1972年に出たアルバム『ZIGGY STARDUST』の最初の曲。ものすごく有名で、有線とかでもよく流れているから、とくべつボウイー好きでなくても聴いたことがあるかもしれない。この時期のボウイーは表向きはギンギンのグラムロックのイメージだったけれど、彼の本質はボブ・ディランみたいなフォークシンガー(初期のアルバムにはアコギでうたう曲がある)。『Five Years』もフォークソングみたいに言葉の数が多く、朗々とうたい上げられるドラマティックな歌だ。
Pushing thru the market square,so many mothers sighing
News had just come over,we had five years left to cry in
駅前の商店街で、母親たちが声にならない悲鳴をあげていた
ニュースが流れたのだ、わたしたちにはあと5年しか残されていない、と
こんな歌いだしで、『Five Years』には、地球の命があと5年しかないと告げられたときの、絶望と、自分のまわりの世界へのいつくしみがうたわれている。大震災と、それが引き起こした原発の爆発から1年半がたった今でこそ、絶望が諦念に取り替わって、自分の内に住み着いてしまったようなわたしたちだけれど。震災直後のあの頃は、もっと感情のひとつひとつが大きくふくらんであらわになっていた。膿んだニキビのように外に出したいものや、触れられるとすぐに溢れだしそうなものを、誰もが抱えて生きていた。そんなときに、田口さんがこの歌をうたったのか……と思うと、それだけで何か、言いようのない気持ちになる。
そんなことを想っていたある日、思いがけず、〈男〉が初めて『Five Years』をうたったときの録音をわたしは聴くことができた。なぜそんな希有なことが起こりうるのかといえば、またしても、まほうが働いたから、としか言いようがないのだけれど。〈まほうの時間〉がひとたび始まると、“必要なもの”が自然と、まわりに集まってくる。欲しがる手など伸ばさなくても。向こうからやってくる。まったくふしぎなことだ。
それは三軒茶屋にあるフジヤマという、知る人ぞ知るレコード・CDショップの5周年イベントでの演奏だった。フジヤマは開店して30年ぐらいになる店だから、5周年ということは、もう25年ぐらい前の録音。なんてことはない。5周年だから5年ということで『Five Years』、そうひらめいて、〈男〉はこの歌をうたったらしい。地球が死につつあるという歌詞は、お祝いの席に決してふさわしいものではない。でも、その歌が、信じられないくらい透明で、湿度を寄せつけない乾いたきらめきの声でうたわれると、そして何より、ちゃんと伝わってくる日本語でうたわれると、『Five Years』という歌は絶望の歌でも、いつくしみの歌でもなく、〈男〉というちっぽけな人間のさけびのように聞こえた。
ひとりでは生きられないから、救いを求めるひとつのちいさなたましい。それが震えながら、そこに“いる”ことを知らせている。震えているたましいに気がついて、歌を聴く人間はたまらなくなる。せつなくなる。なんとかしなければ、と思う。救わなければ、近づいて抱きしめてあげなければ……。そんなふうに駆り立てられると同時に、歌を聴く人間は、震えているたましいは、実は自分自身であることに気づく。約25年前のフジヤマの5周年パーティの現場にいた田口さんは、〈男〉のうたうのを聴いていた。それで、この歌のことが彼の記憶のどこかに残った。それは〈男〉が、“自分”のことをうたっていたからではないだろうか。ふるえるちいさなたましいのことを。だから、自分もうたえる、うたおう、そう思って、田口さんは自分も『5年』をうたい始めたのではなかったか。
それから数年後に〈男〉が忽然と姿を消してからも、そうして歌だけは残ったのだ。
円盤店主の田口さんが、かつて自分がうたっていた歌をうたっていることを、去年11月から円盤で公開練習を始めた〈男〉が、その時点で知っていたのかどうかはわからない。たまたまなのか、なんらかの意図があってなのか、公開練習の第5回目に〈男〉は『Five Years』をうたった。たぶん20年以上ぶりにうたった。そしてそのあとで、日本語訳がどこから来たものであるかを、彼はわたしに教えてくれた。わたしが知りたがったから。“答え”を聞いたときには、わたしはもう、おどろかなかった。ああ、やっぱり……と自分の持っているカードとの符号を、あたりまえのように思っただけだ。
『Five Years』にはいろんな訳があると思うけど、“こんなにたくさんのひとが必要だと思ったことはない”という感じをきちんと落とし込んでいる訳詞は、岩谷宏が白眉で、ほかにはあまり見たことがないーー−。こんな言葉で〈男〉は教えてくれた。心の中でわたしはうなづいた。そう、やっぱりイワタニヒロシ……。そう、やっぱり、“こんなにたくさんのひとが必要だと思ったことはない”ということ……。『Five Years』は、わたしにとってもそういう歌だった。それしかなかった。愛しいものも、憎たらしいものも、美しいものも、醜悪なものも、自分にこんなにたくさんのひとが必要だと思ったことがない、って、そういうことをうたっている曲なんだって、岩谷宏の訳詞を読み、岩谷宏がボウイーやロックについて書く文章を読んで受け止めていた。中学生の頃から。ずっと。
尋ねることはしても、こういう“自分の話”を、〈男〉にじかに話したことはなかった。それでも『Five Years』の日本語訳について、わたしが並々ならぬ興味を持っていることがわかったのだろう。第6回目の公開練習のあとには、〈男〉は自分のリュックから1冊の本を取り出して見せてくれた。1977年にロッキングオン社から刊行された『岩谷宏のロック論集』。本を手に取る前から、わかっていた。その中に『Five Years』の訳詞が載っているのだ。
〈男〉から差し出された本を受け取ると、何もかもがなつかしかった。大類信による装丁も、紙の質感も、開いたページの文字の書体や、写真やイラストの配置もなつかしい。ああ、やっぱりこれね………という気持ちだけで、もう充分だった。『Five Years』の訳詞が載ったページを開いて、確認するまでもない。かつてわたしもこの本を持っていたのだから。15歳か16歳のときに、ロッキングオンに直に申し込む通販でこの本を買った〔書店に並ぶような本ではなかった)。買って熟読した。お守りのように通学鞄にもいつも忍ばせていて、休み時間にひとりで読んだ。クラスメートとは共有できない、ロックの時間。学校の勉強よりも、ともだちとのおしゃべりよりも大切な、唯一の自分の時間ーー。でも、不思議の国のアリスを例に出すまでもなく、女の子は次へと「急ぐ」のだ。いつだったか、「こういうものとも決別しなければいけない」と思い立った時期に、持っていた岩谷宏の本は全部、古本屋に売ってしまった。それからずいぶんたって(ほとぼりが醒めて?)、違う古本屋で見かけた数冊は買い直したのだけれど。『岩谷宏のロック論集』は残念ながら手元にない。だからなおさら、なつかしかった。文字を目で追うこともしたくないほど、存在じたいがなつかしい本だった。
「ありがとう」と言って、〈男〉に本を返したときだ。背表紙に貼られたステッカーが目に入ったらしく、山田正樹(彼もまた岩谷宏の読者だった)が、「え、佐藤、それ、わざわざ図書館から借りてきたの?」と驚きの声をあげた。すると〈男〉はふしぎなことを言ったのだ。「うん。もともとは俺の本なんだけどね。図書館に寄贈したんだよ。だからほら……」と言って彼が本のいちばん後ろを開くと、そこには確かに〈男〉の所有物だったことを思わせるシルシが残っている。それを見てわたしは、あぁ……と心の中でため息をついた。胸の中をぱちん、とはじかれたような感じだった。本がもう自分の手元にない、という点ではわたしと〈男〉は同じだけれど。わたしはとっくの昔に遠いどこかへ捨て去ってしまって、今の今まで忘れていた(あるいは忘れたふりをしていた)。一方、〈男〉はその本を、自分のそばに置かずとも、ずっと持っていたのだ。その本というか、その歌を。ーつづく
わたしは呪文を持っている。誰もが呪文を持っている。そのときがきたら、呪文が自然に口から出る。すると、それが現実になるから不思議。そっちの方角へ、ころりんころりんと物語が進んでいく。もちろん、空(から)呪文のこともあるけどね。できるだけ物語が面白くつながっていく呪文を、唱えるようにしたいわけ。だからわたしたちはアンテナをみがく。と、ああ……書いていて、今わかった。アンテナをみがいている段階で、わたしたちは〈わたしたち〉なんだ。たったひとりの思惑や欲望やたくらみで、何かが始まるわけじゃない。
まほうの物語の続きを書こうとしています。まほうの物語、といったって、現実世界の話。誰もがやっている、アンテナのみがき方の話なのかもしれない。
最初の呪文をとなえたのは、山田正樹だった。あなたは惣一朗くんと一緒にやるべきだ、鈴木というドラマーが二人いるバンドをーーと、彼は〈男〉に言った。その呪文が伝わってきたとき、「ああ、それこそがわたしも望むこと!」とわたしはひとりの部屋で首を激しく縦にふった。新緑がまばたきしている4月の夜だった。まだ見ぬバンドの姿を想いながら、ベッドの上で丸くなり、胸を焦がした。奇しくも同じ名前の太鼓ふたりに、歌うギター弾きがひとり。なんてチャーミングな編成だろう。ロックバンドでもフォークバンドでも、彼らはきっとないでしょう。やんちゃでおもしろくてはげしかったりさびしかったり冷静だったりする太鼓ふたつに、澄んだせつなの声のトライアングル。銀の三角。彼らはきっと波にも雨にも風にもなれる。
最初のライヴは円盤だよ、それしか考えられないーーという呪文は、〈男〉によってもたらされたものだ。6月の中頃のぴかぴかした雨上がりの夜に。聞いたとき、びっくりした。「えっ、そんなこと考えてたの!?」って。だって、3人でバンドを始めることになった6月の初めには、「では、ライヴをどうする?」みたいな話にさっそくなったけれど、あのときはみんな、もっとありきたりな未来を想像していたはずだから(でも、〈男〉はそうではなかったのだ)。
あの夜。わたしたちは夢見心地だった。ありきたりな未来は、熱に浮かされて見るものなのかもしれない。「そうそう、やっぱりそれだよね!」って、すぐにすくいとれる浅瀬にたゆたうイメージは。3人でバンドをやることが決まると、大事件だ、とわたしは思った。約20年ぶりに姿を現した〈男〉が、すきすきスウィッチを一緒にやっていた彼と、絶望の友を一緒にやっていたPさん、ふたりのドラマーを伴って新しいバンドを始めるのだ。彼らを見たい聴きたいひとはきっとたくさんいるはず。だから、ドーンと夜空に咲く大輪のダリアみたいなライヴで幕開きを…………と、そんなことをわたしたちは話し合った。今はもうない西荻THE“ロック”食堂で。ぷちぷちと浮かんでは消える、琥珀エビスの泡つぶを口の中ではじけさせながら。それじゃライヴハウスはどこがいい?とか対バンはどうする?とか、実現しそうな空想話で盛り上がって、楽しくてうれしくてワクワクで、みんなで笑ってばかりいた。六月の都会の菫色の空の下で。
あの夜。あまりの楽しさに、ぼうっと熱を帯びたピンク色になって、わたしはみんなと別れるとスキップで家へ帰った。そして、このまほうの日記を書いた。〈バンドの名前はすきすきスウィッチ。〉と書いて、物語の第一部を終わらせた。書いてしまった、言ってしまった、のだということは、ずいぶんあとになってから知ったこと。バンド名なんて、実際にはあのとき誰もそんなこと言ってない……って? わたしの空耳だって!? そう教えられたとき、え、まじで?????!!!!!!!!!!!!!!!と息がとまりそうになった。なんてことをしてしまったんだろう、どうやらわたしは自分の呪文を間違って使ってしまったようなのだ(驚きの真実でしょう? わたしも驚いたし、焦った。で、あまりのことに、無視を決め込んだのです。ひどい話だ)。
3人のバンドは、実際にはまだ名前がなかった。それでも、最初のライヴは円盤だよ、それしか考えられないーーという〈男〉の呪文に導かれて、8月の日曜日、高円寺・円盤で初ライヴをすることが決まった。それも正午の12時〜13時という、円盤の開店前の時間帯に。それこそ「まほうみたいな話」だと感心してしまう。だって、こんな展開、ふつうは誰も想像しないもの(そうか ふつうじゃないんだっけ)。
高円寺南口の線路脇。夜にはアセチレンランプの瞬く異国の屋台めく飲み屋小路を、阿佐ヶ谷方向へ歩いて左手にある古いビルの二階に、円盤はある。ゴジラ屋までは行きません、その手前。外階段をのぼると重たいドアがあって、それを押して中に入ればCDやら本やらを売っている小さな店だ。「作り手自身が納品すること」を条件に、日本全国の自主制作盤を扱っている。昼間は喫茶店でもあり、夜にはライヴや寄席や読書会やコーヒー講座などのイベントが毎晩何かしら行われている。ライヴは………おびただしい量のCDやCD-Rや本やミニコミの中で、演奏者が演奏をし、客がそれに耳を傾ける、といった具合い。ステージと客席に段差があるわけでもなく、アンプやらの機材が窓際にあるから、どうやらそっち側が演奏者の立つ場所とわかる程度のこと。立ち見も含めてお客さんは30人も入れば満員。一番前に座ったひとは、演奏者の楽器弾く手の至近距離。窓の下は線路脇の飲み屋小路だし、防音対策が完璧なわけではないから、あまり大きな音は出せないーー。と、そんな変わった形態の店である円盤は、確か今年、10周年を迎えた。
「店主が自分の好きなものを集めて売っている、セレクトショップみたいな古本屋っていうのが最近あるじゃない? ああいう店と円盤ってどう違うんだろう?」 あるとき、山田正樹がわたしに訊いた。うーむ………そう訊かれると…………どう違うんだろう?
彼は、山田正樹は、高校時代からの親友である〈男〉が去年11月から公開練習を始めたので、それで円盤に来るようになった。つまり円盤初心者。初心者ではあるけれど、その小さな(あるいは大きな)遊び場を、彼なりに静かに楽しんでいる様子だ。円盤店主の田口さんがニヒル牛で売っているタグチニッキを、海の近くで暮らす山田正樹に送ったとき、彼から届いた御礼のメールにこうあった。〈佐藤と再会してから何かと面白い目に逢っているんですけど. 田口さんのような人がこの街に生きていて,月に一度くらい会えるというのも,とても嬉しいことの一つでした. まあ,会ったからと言って,CDや本のいくつかを買って,泡盛をお代わりするだけなんですけど. 田口さんと円盤のせいで,高円寺をだいぶ好きになっている〉。
あ、答えはすでにこの中にあるじゃない、と今、書きながら気がついた(文章を書いていてわかることは実に多いのです)。セレクトショップみたいな古本屋と、円盤との違い。前者には泡盛は……きっと置いていない。いくら店主が沖縄帰りだからといって、ハブ酒も置いていない。ビールを国産はもちろん、ハイネケンもクローネンブルグもシンハーも青島も揃えている、なんていうセレクトショップは滅多にないだろうし、それだけじゃなくて円盤には、日本酒も焼酎もホッピーもジンもウォッカもウイスキーもいろんな種類がある。自主制作盤の店なのに。しかも店主がお酒飲みでないにもかかわらず。コーヒーだって、夜に行われるコーヒー講座で、(「水中、それはくるしい」の)ジョニー大蔵大臣以下、店のスタッフがおいしい淹れ方を学んでいるという本気度。だからたとえば、ちょっと気になった鳥取のバンドのCD-Rを買いに円盤へ行って、500円+消費税で目当てのものを買い。一服していこう、と思ってコーヒーを頼んでソファに腰掛けると、思いがけず、「おっ」と唸ってしまうような、ちゃんと香り立つおいしいのが出てくるという。そういう環境をなんて言いますか? わたしは“自由”と呼んでいる。
円盤では音楽も“自由”。自分はアルコールを好まないのに、いろんなお酒を置いているように、円盤で扱っている自主制作盤は、店主の田口さんが自分の“お気に入り”を選んだものではない。音楽のジャンルすらもここでは問われない。ただ、「演奏したい」「歌いたい」「作りたい」想いに駆られているもの・ひとを受け入れているだけ。だから、ときには聴くひとによると「虫ずが走る」「なんとも嫌な気分になる」CDやCD-Rも売られていたりする。店主が自分の好きなものを集めて売っている、CD屋やレコ屋や本屋や洋服屋や雑貨屋のセレクトショップとは真逆なのです。
そういう“場”で、去年の11月から〈男〉が公開練習を始めたのは理由がある。田口さんがそんな“場”を作るきっかけを作ったのが、誰あろう〈男〉であったからだ。田口さんはニッキの中で、〈男〉についてこう書いている。
ポップさんがその若き日に音楽のイロハを教わった師匠のような人なんです。で、実はかくいうこの私も同じような出自がありまして、二十代前半の私に「ライヴハウスにも優れた音楽家がいる」と誘い出し、その佐藤さんのバンドはもちろん、現ラブジョイのビッケさんたちが当時やっていた「積極的な考え方の力」や、ルナパーク・アンサンブルのメンバーたちが当時やっていた「イカのフユ」というバンドなどを紹介されました。そこから僕のライヴハウス通いが始まったと言ってもよく、佐藤さんには恩義があるのです。「円盤タグチの二○一二年一月のニッキ」より
約20年間、音楽活動から離れていて、楽器を触ることもしなかった〈男〉が、再び、音楽を始めたい衝動に駆られたとき。自分がどれだけできるのか、何をできるのか、何をしようとしているのかもわからない、そんな状態の中で。人前での公開練習という策を思いついたのは、円盤という場所が、彼の頭の中にあったからではなかったか。店主の田口さんが自分の“お気に入り”を選んだものではない。音楽のジャンルすらもここでは問われない。ただ、「演奏したい」「歌いたい」「作りたい」想いに駆られているもの・ひとを受け入れているだけーーの場所があったからこそ、〈男〉はそこでおずおずとギターをならし、久しぶりに“声”をならしたのではなかったか。
最初のライヴは円盤だよ、それしか考えられない、という呪文を〈男〉がとなえたのは、日曜の昼間の公開練習というイレギュラーな試みを受け入れくれた円盤への恩義からだろう。それと、3人のバンドが、「こういう音楽を演奏したい」「こういうバンドをやりたい」ということではなくて、ただ、「演奏したい」「歌いたい」「作りたい」想いに駆られて始まったことのあかしなのだと思う。約20年ぶりに音楽を始めた〈男〉だけでなく、音楽を長年の生業としてきた彼にしても、いろいろなバンドでずっと音楽をやってきたPさんにしても、〈男〉と一緒に音楽をやるというのは「やりたい!」からだから。
なーんていうことを注意深くみつめるのも、アンテナをみがくこと、かな。
ものに名前をつけるように
ぼくはぼくの靴をえらぶ
言葉でのりづけしてしまうように
ぼくはきみにプレゼントを包む
どこで買ったの
いつ買ったの
なにを買ったの
休みの朝にはアンテナをみがこう
休みの朝にはアンテナをみがこう
円盤は“自由”の場だと書いた。“自由”は、「何をしても許される」こととイコールではない。他人に許される“自由”など、この地上のどこにもない。“自由”は、自分の中にある。自分を深くしずかに見つめて探って、そこから、ざわざわと駆り立てられたり、サーッと開けていく視界や身のこなしが“自由”。「なんでもありますよ、どうぞご自由に」と店主ににっこり微笑まれたときに、自分がその“場”で何を味わうのか。何を楽しむのか。何を自分のものにするのか。
3人のバンドで初ライヴをする前に、7月に渋谷の大きなライヴハウスで行われた円盤の夏祭りに、〈男〉とPさんのふたりが出演した。最初はワーッと歓声で迎えられて、3曲目あたりからかな、空にアヤシイ雲が流れはじめたのは。
どっどど、どどっど、どどっどどど、どっどど、どどっど、どどっどどど、と山のほうから吹いてくる風の太鼓の音ではじまる曲がある。ざわめく気持ちが毎日のくらしをたたきのめす、その直前に踏みとどまる、と〈男〉がうたい、どっどど、どどっど、どどっどどど、とPさんが太鼓にバチを落とす。
どっどど、どどっど、どどっどどど、どっどど、どどっど、どどっどどど、ドッドド、ドドッド、ドドッドドド、ドッドド、ドドッド、ドドッドドド、円盤というくらいだから、それは丸いものだと思っていると、それは違うんだーーーーっ、ドドッドドッ、ドドッドドッン、ドン、ドドドドン、ドン、ドドドドンン、ドン、ド、ドン、ド、尖ったものが、それがすごいスピードでまわっているから、だけなんだって! だから近づきすぎると、細かい傷だらけになって返ってくるでしょ。
〈男〉が、歌とも説法ともお囃子ともつかない、ふしぎな文句を絶叫する。異形という言葉をわたしは久しぶりに思い出した。この国にはかつて、そこいらじゅうに闇があって、そこには見てはいけないものや、見られたくないものがひっそりと息づいていた。異形のものが。夏祭りの〈男〉とPさんの演奏は、闇の世界にいるそれだった。なめらかさやかっこよさの対局にあるもの。ゴツゴツとして、いびつで、ぶざまで、変に熱っぽくて、いがらっぽくて、見てはいけないものを見ているようで。ステージの上で顔を赤くして、キングコングみたいに胸をこぶしでトントン叩いて、澄んだふるえる声を出す〈男〉の立ち姿を見て、わたしはいたたまれない気持ちになった。くるしくてせつなくて。でも、空調の効きすぎた渋谷のライヴハウスに集まる大勢の客は、あいかわらずヒューッという歓声や、拍手や、笑い声を上げている。わたしは違和感を覚えた。ステージの上の明かりのついている場所、あそこに今現れているものは、拍手で撫でられるような、そんな可愛らしいものじゃないのに。でも、これが祭の祭たるゆえん? いつもは闇の中にあるものも、おもしろい見世物になる。それが祭なのかもしれないけれど。ーつづく
挿入歌/すきすきスウィッチ『アンテナ2』
最初は多喜子だったそうだ。わたしにつけられそうになっていた名前。
(と、この話、ミニコミとか以前にやっていたブログとか
mixiに書いたことがあるから、知っているひとはすでに知っている話で恐縮です)
51年前、わたしがうまれる当時の父は小林多喜二に心酔していたそうで。
だから多喜子。
獄中で拷問死したプロレタリア文学作家の名前を
ほんのミーハー心の気分で長女につけることに、母は激しく反対した。
小学校低学年のとき、作文の宿題が出た。
自分の名前について辞書で漢字を調べたり、
親に意味を聞いたりして書いてくるように、と。
亜ーーー。古ーー−。辞書を繰ってみたけれど、
娘の名前に積極的に使いたいような意味のひとつも見つからない。
しかたなく、一週間のうちに数日しか家に帰ってこない
ヤクザな父をつかまえて尋ねたところ、
「響きが可愛いだろ。あっちゃんに将来、恋人ができたときに、
“あこ”って呼ばれたらいいな、と思ってな」と返ってきた答えがこれ。
「恋人だなんて、小学生がそんなこと作文に書いたらだめ」と母。
「じゃあ、なんて書いたらいいの?」
そう聞いたところで、母から気の利いたアイデアが出るはずがない。
しばし考え、わたしは書いた。
〈あこ、って、よんだときに音のひびきがかわいいから〉
文章でちょっぴり嘘をつくのが、当時から得意だったみたい。
写真は高円寺・円盤のソファに座る母(79歳)。
しかし、父の思惑のとおりに現実はいかなかった。
どうもわたしは偉そうだから、なかなか呼び捨てで名前を呼んでもらえない。
10年ぐらい付き合った男の子なんて、最後まで「白江さん」だったし。
わたしを知るひとのほとんどは、「亜古さん」と「さん」づけ。
「亜古ちゃん」と「ちゃん」づけで呼んでくれるのも……3〜4人の親友と、
3〜4人の年長の仕事相手と、あと知久くんと料理家のケンちゃんぐらい。
ましてや「亜古」と呼び捨てなのは、親族以外に2〜3人しか思い浮かばない。
「亜古のお父さんはそれこそ、デザインの本とかたくさん持ってるんじゃない?」
小学校高学年のときの担当の守野和子先生は、「亜古」呼びの希少なひとだった。
「ううん。本はたくさんあるけど、デザイン関係とか美術書は案外少なくて、
なんか、○○○○の本とかが多い」
「○○○○……」と小説家の名前を思わず自分も口に出して、
守野先生はちょっと嫌そうな顔をした。
中学生になって、児童文学に耽溺するあまりに、
大人の本へなかなか移行できなくて悩んでいたとき。
父の書棚からあれこれ引っ張り出して、読み漁ることをしていた。
その中で自分にとって唯一おもしろかったのが大江健三郎だったので、
以来、大江健三郎と『ロッキングオン』の岩谷宏の文章のみを熟読する
中学&高校時代を過ごすことになるのだけれど。
父の本棚にたくさん並んでいながらも、
なぜか引き出す気になれなかった○○○○の本。
やっぱ、子どもの目ながらも、なんだこの顔写真、かっこつけすぎじゃないの?
と訝しく思ったからだろうし、彼の名前を聞いたときの守野先生の
軽蔑したような顔が印象的だったからだ。
○○○○は今、80代なのかしら。最近また人気がぶり返している。
老いとかについて書いているのかな。顔写真を見ると
若い頃とあまり印象が変わらない。
つい先日、初めて仕事で組んだカメラマンが言っていた。
「この間、○○○○さんを撮ったんだけど、
○○○○さんは写真写りにうるさいって聞いてたから
肖像写真をあれこれ見てどっちの角度でどういうアングルがいいのか、
すごく研究したんだよね。そしたら、一発でOKだったんだ」
そんなナルシストな小説家に憧れていたなんて、うちの父親はやっぱり
骨の髄までミーハーだったんだな。
写真は夏休みになって、なぜか毎日、うちのガレージのところに脱ぎ捨ててある隣の小五坊主の靴。
5〜6年前に舞台美術家の朝倉摂さんをインタビューした。
名詞を差し出すと「まあ、亜古さん! うちの娘と同じ名前」と摂さん。
摂さんのご主人の富沢さんも「おや、ほんとだ。うちの娘の名前は
お義父さんが、彫刻家の朝倉文夫がつけてくださったんですよ」。
「ああ、そうでしたか」とにこにこしながら
わたしは胸の中で合点がいった。「あ、そういうこと」と。
芸大を二浪の末に諦めて、武蔵美に入って中退して。
少しは美術心があったかもしれないが、大した才能もなく努力もせず。
当時はしりの広告畑へ行っても、オリジナルを生み出す力量なく、
ひとの真似ばっかりしていた父。
彼は娘の名前もパクッたのだ。
ミーハーな彼のこと、もちろん朝倉摂さんの活躍ぶりは知っていた。
芸大を受験したぐらいだから、摂さんの父上の彫刻家・朝倉文夫のことだって
(作品をよく知らなくても)リスペクトしていただろう。
わたしより3年早く、摂さんに女の子が生まれて、
彫刻家の祖父がその赤子に「亜古」と名づけたことも、
父はミーハーの引き出しの中にちゃんとしまっていたのだろう。
という、しょうもない由来まで含めて、
わたしは自分の名前を愛しております。んで、もうじき51歳。
ああ、今週は時間はあるのに、まとまった文章が書けそうにない。まとまった文章、っていうのはわたしにとっては、短文にしろ散文にしろ何にしろ、ある種の物語のこと。物語を書くのが好きなんです。でも今週は、普通に説明するような文章しか書けそうにない(きもちがね、そーゆうときもある)。
いつも言っていることですが。音とか映像とか踊りとか絵とか味とか香りとか、せっかく言葉以外のものでなにかをあらわそうとしているのに、言葉を持ち出されると、わたしはうんざりするんだよなぁ。言葉でわからされることが、なにしろ好きじゃない。鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』だったか、次の作品の『陽炎座』だったか忘れたんだけど、夢か現かわからぬ不思議なできごとに翻弄される主人公の男に向かって、映画の最後の最後におかっぱ頭の童女が「死んでいるのはもしかして、おじさんのほうかもしれなくてよ」みたいなことを言う。言うなよー、ってあれ観たとき、映画館の中で叫びそうになった。説明するなよー、って。がっかりだった。せっかく映像で物語ってきたのに、それはないだろ、って思った。
物語って、まほうなのよ。まほうっていうのは、人智を越えた力なの。言葉による説明は人智の最たるもの。言葉を使われたとたんに、まほうがとけちゃう。
音楽は、わたしはまほうであってほしい。音楽に、わたしはまほうを求めている(音楽だけじゃない。小説も映画もなんでもそう)。放り出されたいんだ、いつだって、どこか知らないところに。知らないところを見たいんだ。自分の中にあるしらないものを。だれかの中にある遙か遠くてちかいものを。ありえないけど、ある、ものを。見せる、感じさせる、味わわせる。音楽はそういうものであってほしい。
でも、世の中にはまほうじゃない小説や映画もあるように、音楽にまほうを求めない聴き方もあるのかな、って、円盤店主の田口さんというひとを観察して、ようやく最近わかってきた。
たとえば田口さんが「身銭を切って」夏と冬の年二回やる、大きなお祭り。そのお祭りには何回も行ったことがあるんだけど、あれって楽しみ方があるな、と思っていて。なんでもおもしろい、と思えば、あそこで行われることのすべてがおもしろくて楽しめる。でも、自分の好きな感じの音楽やパフォーマンスしか欲しくないと思って行くと、だいたいのものがつまんなかったりする。
田口さんは学生時代からずっと音楽と係わって生きてきたひとで、もちろんバカみたいに音楽が好きなわけだけれど、でも田口さんにとって音楽は、まほうじゃなく、ひと、なんじゃないかな。彼が音楽に求めるのはまほうじゃないから、説明を帯びた言葉と音楽が結びつくようなことも彼にはOK。
音楽=ひと、人間。田口さんはほどよい距離をたもちながらも、日本全国に行って、たくさんのひとと出会って、たくさんのひとを見て、そのひとがうたったり演奏したりするのを聴いている。歌や演奏だけをピックアップする、っていうことは彼はしないのだと思う。あくまでも、ひとがついてくる音楽を彼は円盤という場所で紹介している。そんな田口さんのことが好きだったり、そんな田口さんのことを面白いと思ったり、興味を持ったりする人間にとっては、円盤で扱う商品や行われるライヴや、祭りや映画祭なんかはすべておもしろい、楽しめること。でもそれと、音楽を聴くことは、必ずしも一致しない気がする。
ということが、わかっていればいいんだと思う。田口さんが伝えようとしているのは、こういう音楽もあるんだよ、こういう人間もいるんだよ、ということであって、この音楽がいいんだよ、このひとが最高なんだよ、っていうことじゃない。音楽の聴き方を教えているわけじゃない。彼は音楽の先生じゃないし、音楽評論をしているわけでもない。そのことが、わかっていればいいんだと思う。でも、田口さんがいいっていうから、きっといいんだ、と無条件に思う若い子たちもいるんじゃないかという気がする。そこで止まっちゃっている、その先を見聴きしようとしないひともいるんじゃないかしら。7月14日の円盤の夏祭りに行って、すごく盛況で、みんなが楽しんでいるように見えた中でわたしも楽しみながら、そんなことを感じていた。
円盤で知った音楽で、わたしにとってまほうだったものが3つある。ひとつはタバタミツルの演奏。ひとつは佐藤幸雄の演奏。ひとつはつい数日前に聴いた丸尾丸子の演奏。タバタミツルについては以前ここに書きました。佐藤幸雄についてはここのところずっと書いているし、これからもきっと書く。丸尾丸子については、何しろまだ聴いたばかりだから、もうちょっとよく知ってから、彼女についてはまとまったものを書きたい。いずれにしても、わたしが「書きたい」のは、そこにあるまほうについて、なのです。わたしにとって音楽は物語であり、まほう。示唆や道徳や哲学や煽動や、ましてやイデオロギーではない。
さて、来る8.12。高円寺・円盤で〈男〉とPさんと彼と、いよいよ3人での初ライブがある。日曜日のお昼12時から。円盤の開店前のじかんという、それこそ、まほうのじかんに。彼らがはじめて3人で演奏をする。それはまったく新しいこころみだ。
〈男〉と彼がかつてやっていたバンドすきすきスウィッチに、『気がついて思い出して』という曲がある。気がついて、思い出して、という2センテンスを延々繰り返してうたっているだけの曲。これが、まほう、なのです。気がついて、思い出して、気がついて、思い出して、気がついて、思い出して、気がついて、思い出して…………とうたわれるのを聴いていると、なんともいえない気持ちになってくる。感動しちゃったりするんだよ。これだけの歌詞、これだけのメロディなのに。すごくおもしろい体験。不思議な、でも、なにか、なつかしくあたたかい気分にもなる。たった2センテンスなのに。あ、その曲をやるかどうかはわかりませんよ。でもいずれにしろ、なにかとてつもなくへんてこりんなことになるのは間違いない。ものすごく楽しみです。真夏の真昼間のまほうのじかん。
生まれまして50年、描き上げた漫画が3作だけある。
当ニヒル牛マガジンにおいて、この夏、
漫画ブームが起こりつつあるような、そんな気持ちの波に乗って
1988年、27歳の夏に描いた処女作を発表してみんとす。
と、上段構えしてみたが、ほんとは本業の原稿締め切りで
ココに穴をあけそうだったための、急場凌ぎの苦肉の策だったりもする。
件の漫画は石川浩司が当時、ほぼ月一で発行していたミニコミ
『官報 地下生活者会議』第59号の漫画特集号のために描いたもの。
この号には巻頭を飾った故・山田花子の書き下ろしのほか、
当マガジンでもおなじみの奇才・大谷ひろゆき、
石川ある、知久寿焼、青木孝夫、広瀬勉……等々の
いつもの豪華マイナー執筆陣が勢揃い、でありました。
で、わたしの漫画はこれ↓
(スキャンとかいう技がなく、読みにくくてすみません。
でも便利より不便のほうが、だいぶすてき、なはず〜)
1.白江亜古作「チョウ採りの日」
夏の宵。すいかを買ってきてくれたともだちに「すいか、嫌い」と言い。
メロンを買ってきてくれたともだちに「メロンなんて、ちっとも興味ない」と言った。
あれれれれ、そうだった? とか、またそんなこと言って、とか、
知ってるよ亜古ちゃんそうだよね、とか
聞き流してくれる、ともだちとはまこと希有ないきもの。
と書いているのは日曜の早朝で、7時7分発の電車に乗らなきゃいけない。
電車→モノレール→飛行機で福岡へ仕事で行くのです。
仕事の進み具合いによっては、今夜は向こうに泊まりになるかも。
なので急いでこれを……。ってだけでもなくて。
実は今あんまり、個人的な文章が書き進められない感じ。
なんだろうなぁ。ひととの距離感、のことを思っているのかな。
一時的な遊び「場」で擬似的に盛り上がったり、
みんなが遊び「場」だと勝手に思っていた「場」所が突然なくなったり。
それって、人間関係と一緒かもしれないと思ったりして。
ちかちか細かく光っている板の中の文字でばかり話していると、
近さ・遠さをはかりにくいじゃん。はかれなくなるじゃん。
だからふと通りすぎたときの、汗のにおいが妙に愛おしかったりする。
あなたとはまだともだちにすらなれていない。顔見知り程度。
顔見知り程度なのに、ちかちか光る板の中の文字に、
一喜一憂熟考感動嫌悪するのは、もうやめにしない?
夏の宵。ともだちが買ってきたすいかとメロンは、くだものを切るのが
得意なエバが食べやすく切って、豪快に盛り合わせてくれた。
いきなり「夏!」って感じで気分盛り上がるわ、
薄暗い畳敷きの部屋でみんなでそれに食らいつくとき。
すいかもメロンもおいしかった。すごく。食わず嫌い、ってわけでもないんだけど。
おいしいものって、やっぱ、「場」を選ぶからな。
こんなに多くの声と交わって
だれひとりの声も知らないで
挿入歌/seiichi yamamoto『PLAYGROUND』
いつものようにヘッドフォンで音楽を聴いていて、“手は頭に直結している”という言葉をふいに思い出した。〈男〉の右手がギターの弦をツカッツカッツカッと無骨にかきならす。それはまさに頭の中にあるものがストレートに右手に降りてきている、そんな気がしたから。“手は頭に直結している”という言葉は、世界各地の染織物の収集家である岩立広子さんが言っていたのだ。かつて彼女にインタビューした記事を、久しぶりに取り出して読んでみた。
みずからが織物作家だったとき、岩立さんは個展で毎回、新しいものを出し続けなければならない、それが現代芸術のさだめである、という強迫観念にとらわれていたという。でも、毎日同じことをしている日常の中から、そうそう新しい表現方法なんて出てこない。自分に才能がないのが悪いというよりも、昨日よかったものが、今日はもうダメになってしまう社会のほうが変なんじゃないか、と彼女は考えた。「結局、ルーツが不確かなんですよ、私たちは。何を創作の源にしていくか、何を自分の拠り所にするか。ルーツを見失っているから、“新しさ”に組み敷かれる……」。そう思っていたときに、たまたま古いペルーの布を見て衝撃を受けたことから、彼女は自分で創作することをやめて、貴重な古い手仕事を収集するようになった。
岩立さんの開くフォークテキスタイルミュージアムで、1200年〜1300年前のプレインカの織物を見て。その繊細な紋様が、どんなふうに織られているかの説明を受けたとき、おそろしく時間がかかりそう、とわたしが言うと岩立さんはこう応えた。
「そう。おそろしく時間がかかる。でも、できたんです。昔の人はそれをやっていたの。道具が単純だと、自分の頭で考えていることが、すぐにここに伝わるんですよ」。ここ、と言って触ったのは手だ。「頭で考えたことが、すぐに手に伝わる。つまり、大昔の人たちの頭の中にあるイマジネーションがどれだけすごかったかということが、これを見るとわかるわけね」
頭で考えたことが、すぐに手に伝わる。イマジネーションが手に宿るーー。
☆
7月8日、吉祥寺の老舗のライヴハウスで行われたPOP鈴木祭り。そこで約20年ぶりに、〈男〉が公式のライヴをした。Pさんがドラムを叩く4バンドのうちのひとつとして、二番手でステージに上がると、〈男〉はA4より大きな厚手の紙を4枚、自分のあしもとに等間隔の半円形に並べた。
同じだな、とおもしろく思った。ここ数年、わたしが夢中でライヴを見てきた山本精一も、やはり演奏前に儀式のように、あしもとに半円形にいくつもの物体を等間隔に並べていた。最低でも4つぐらい、多いときは10個ぐらい。エフェクターというやつを。そんなにたくさんの音響増殖装置をあしもとで自在に扱って音楽を奏でるのは、めちゃめちゃ技量とセンスが必要なのだということを、つい最近になって知ったけれど。山本精一と同じエレキギター弾きの〈男〉があしもとに等間隔に並べたのは、複雑な音を出すための小さな装置ではなかった。もっと(そして、もっとも)単純な“道具”だった。黒いマジックインキで、ひらがなばかりで、歌詞などを走り書きした紙切れ4枚なのだった。
さらに〈男〉は大きめの目覚まし時計を取り出して、アンプの上のよく見えるところに置いた。「律儀なひとなんだね」と後ろの席で同行の友人がつぶやく。わたしたちは〈男〉のライヴを聴くのははじめてだった。わたしも公開練習ではなく、正式なライヴを聴くのがこれがはじめて。〈男〉の約20年ぶりの人前での演奏。いったい何がはじまるんだろう。時計は友人の言うように、演奏時間をきっちり計るためのものかしら? それとも逆に、時間を止めるためのもの?
楽器の準備が整ったのがいつなのか、いつふたりが合図しあったのかわからない。ささやくようなかすかな音で、気がつくと〈男〉が抱きかかえるギターをつまびき、Pさんがドラムをスティックでこすりはじめていた。まだ橙色の明かりが客席を照らしている中で、遠くのほうから音が近づいてくるようにふたりが演奏を始めている。それに気がついたひとびとがお喋りをやめ、客席の照明が落ちてステージが明るくなった。ジャワ島に行ったときに体験した闇の中から自然に沸いて出たような、朝一番めのコーランのことをわたしは思い出した。音と空気と時がまざりあって、なにがかはじまる。
場ができると、〈男〉がすぐに力のみなぎる声でうたいだした。
いちばんはじめはなんだっけな それをそれからどうしたっけな とうとうとまらなくなっちゃったな けっこうむつかしいことになっちゃったなーー
一度も聴いたことのない歌だ、録音物でも公開練習でも。うたっている〈男〉自身も、もしかしてはじめて聴く(うたう)歌かもしれないとわたしはなぜか思った。うまれたてのみずみずしい歌を、彼はうたっているのではないか。いちばん新しい歌で、彼は約20年ぶりの場の口火を切ったのではないか、そんな気がすごくしていた。音楽と、音楽が奏でられる場と、音楽を聴くひとたちへの、この歌は〈男〉からの捧げ物のように思えた。
明るく澄んだおもいきりの力で、〈男〉はからだの中から歌をうたう。掛け値のないひとなんだ! って新発見をしたようにわたしは目を見開いた。大勢のひとの前では、〈男〉はもっとすまして演奏するのかもしれないと思っていたから。もっとかっこつけて、もっと余裕をもって、作ったものをひとへ届けようとするのかと思っていた。だけど〈男〉のやり方はそうじゃなかった。はじめから、いちから、掛け値なしのむきだしのひとの形でそこにいる。高円寺の線路脇の古いビルの二階の公開練習の場でも、早々にチケットがソールドアウトしたライブハウスの満員の客の前でも、〈男〉は何も変わらず、マイクのように震えてそこに立っている。途中で声が出なくても、ギターの音がずれても、歌詞がばらばらになっても、一向に躊躇することなく、顔を歪ませて、からだの中から声を出す。頭と直結した光りの手でギターをならす。ちょっといびつで変わったかたち。でも、ぎりぎりのとぎすませ方でそこにいて、空気の粒の中に潜むものをたぐりよせる。わたしたち、そこいらじゅうの中にあるものを、“まほう”の感度でたぐりよせて、言葉とも音ともつかない現象にして、その場にあらわす。
新しい歌のあとには、公開練習で聴いたことのある歌が続けて演奏された。曲と曲との境目がなく、全部が濃密な闇の中を流れる時間のようにひとつづきなので、お客は拍手を入れるタイミングがなかった。でもだからといって、緊張を強いられるわけでもない。なにか熱をだす光るものがそこにあって、くるくる廻って音をふるえさせているので、わたしたちのたましいがついそこにひきこまれる、という感じ。どこか知らない国の夜祭りの見世物みたいなあやしさ、不思議さ、透明なわくわくがある。
ふつうに生きている中で見過ごしている、気がつかないでいる、だけど大事なことを〈男〉は歌にする。ひらがなの反復の多い歌は、一見、童話のように誰にでもわかりやすくておぼえやすい。ひとつの言葉が幾重にも意味をはらみ、音と一緒になることで本来の意味から自由になっているから、わかりやすいけれど、すごくおもしろくて、いつまでも舐めていたい色変わりのあめ玉をわたしたちは受け取るような感覚だ。
あしもとに等間隔に置かれた紙を、男が演奏中に見ている気配はないけれど。それはセットリストや、歌詞を書いたものであることが遠目でもわかる。歌詞といっても、わりと大きめな文字でへなへなと、一曲につき数行が書かれている程度(メモみたいなものなのだろうか)。でも、そんなものも不要なのでは? と思うほどに、知っている曲も歌詞やメロディやリズムが、公開練習でわたしの聴いた曲のそれとはまるで様相が違う。だから、次にどんな言葉や音が出るのだろう? とドキドキしっぱなしだ。みんなはどんなふうに聴いたかな、と後日ツイッターを覗くと、いくつもの声が挙がっていた。
最小限のアンサンブル、思わず皆が耳をすまして聴いてしまうような小さな音量で鳴っていた音楽。年を重ねたからこそ鳴らせる音楽というものが確かにそこにあった。
まだ客電がついてるあたりから、さざ波のようなギターを奏で始め、じんわりと演奏が始まったのでした。音量は控えめ。そのかわり歌詞がよく聞き取れ、ふわりとして鼻歌のようなメロディーも耳に残ります。
20年間(?)音楽シーンに居なかったことで、よりピュアな感じで音楽(創作)に向き合えるのかなあと。だから、他のミュージシャンとは違った必然性が佐藤さんの音楽から感じられました。
初めて観た佐藤幸雄さんのLIVE最高でした。『グラントリノ』のクリント・イーストウッドがモーリン・タッカーとセッションしてるかのような、人生の重みを激しくも優しく感じさせる切実な演奏に胸がジーン。
曲間の拍手もためらわれるような流れのライヴで感無量でした。何より歌に奥行きがあった。
佐藤幸雄さんの透明感はヤバかった。
じんわり、とか、人生の重み、とか、年を重ねたからこそ、とか、奥行きとか、そういう言葉で53才の歌い手が表されるのはわかるけれど。透明感だって…………。透明感、という言葉を使っているひとはほかにも何人かいた。
透明感。透明。すきとおっていること。
では、透明じゃないのはどんなもの?
まじりけのあるもの。混濁しているもの。迷いのあるもの。
約20年ぶりの演奏の最後は、また、〈男〉とPさんの音がどんどん小さくなって、闇の中へと消えていく。〈男〉が唇に指を当てて、シーッというポーズをして、アンプのシードルを静かに抜きとる。それですべての音が消えて、まっくらになっておしまい。目覚まし時計の針が、そこからまた動きだしたような気がしたのは、たぶん〈まほう〉にやられたわたしの錯覚だろう。
頭と直結した右手と、言葉の書かれたあしもとの紙たち。ふるえるからだ。宙を射貫くどんぐりまなこ。すきとおった明るい声と心のまなざし。ロマンティックな形容詞も花鳥風月もうたわない〈男〉の、削ぎ落とされた歌のちから。それはやっぱりすごいものだと、わたしはただ呆気にとられるばかりだった。
もう疑うことを やめてしまえばいい
不思議なものを ただ見とれるだけでいい
挿入歌/羅針盤『光の手』
どーおんなーに、はーや〜いー、しーん〜ご〜でも
1…………………2………………3…………………
ほら、3センテンス。たった3センテンスでしょ。ごつごつ、かつかつとしたエレキギターと生の声だけで、どんなに速い信号でも、とうたわれる出だしの3センテンス、「それだけでいい」と今のわたしは思ってしまう。いつも胸の奧で、その調べが鳴っている。声高らかに。本当にふしぎ。ふしぎなことだ。それこそ、まほう。どーおんなーに、とうたわれる1センテンスの中だけでも、ぐんっと何かが立ちのぼる。ぐんっぐんっぐんっと上がっていく。夏休みの前の日の入道雲みたいに。ぐんっと胸が誇らしくひらいて、ひろがる。なんでも入って来られるひろさにひろがる。目の前にいつかの遠い夏の青い海原がひろがる。つまり、自由になれる。言葉の意味、なんかじゃない。意味は関係ない。なんだろう、これはいったい。言葉が言葉の意味から開放されて、音とひとつになっている。それと、のびやかであかるくてつよくてきれいな声の持つまほう、かな。それが、わたしの芯の部分に響きかけるのだ。だから「意味なんてどうでもいい」と今のわたしは、古いハンカチを投げ捨てたい気持ちになっている。〈公開練習vol.8 6:26〉
たら、たら、たら、たら、たら、たら、たららら
たたん、たたん、たたん、たたん、たたん、たたん たたん
ちゃちゃ、ちゃちゃ、ちゃちゃ、ちゃちゃ、ちゃちゃ ちゃちゃん
つんっ、つんっ、つんっ、つんっ、つっどど、つっどど、つどど
どど、どど、どどっ、どどっ、どどっ、どどっ、すべてをみせるとはなんだろう?
たら、たら、たら、なんて文字にすると不細工だけれど、そのはじまりのとっかかりのギターは、きらきら燦めくすごくきれいな音。かわいい、といつも思わずつぶやいてしまう。そのきらきらの次に、音階を下げて(というのかな楽器のことはわからない)同じように刻むギターの音がいくつも続いて、最後にどっどどどど、という日本の音(風の又三郎みたいな)に変わる。そこから歌が始まるんだけど。歌が始まるまでのカツカツとしたギターの4つのラインがすでに歌みたい。つなひきしてるみたい。ギターの音のつなひきで、言葉を含むメロディが土(闇?)の中から出てくるみたい。芋掘りみたい。それでやっぱりわたしには、言葉の意味はどうでもよくなっている。汗だくとか涙とか、なにやら、ひかりだーす、どどっどどっどどっどどっ、とうたわれ演奏されるとき、言葉と音には切れ目がないわけだし。それでこの曲は、ではひみつって、と歌われたところで突然終わる。演奏がプツッと切れてしまう。未完ということなのだろうけれど。ではひみつって、のあとがうたわれなくてもいいとわたしは思う。ではひみつって、のままだったら、そのあとにいくらでもそれこそ無尽蔵に、歌が続いていくから。〈男〉がこう続けてうたうんじゃないかな、という妄想の中で、自分の中で、誰かの中でも。とぎれとぎれでも永遠に歌が続いて、残っていく。だから思うのだ。そもそも歌(曲)って、完成させなきゃいけないものなの? なんていうアヤシイことまで考え始めてしまった。〈公開練習vol.8 9:20〉
と、少しスケッチ風に書き出してみたけれど。最近のわたしは毎晩こんなことをしている。6月3日の公開練習vol.8の録音を、来る日も来る日も聴いて、こんなことを考えている。考えている、というか、考え中。トータル1時間47分54秒、計30曲の録音。そんなふうにカウントするのも意味のないことかもしれない。たった一行の短いフレーズや、鼻歌もあるし。どこまで続くのかわからない長い曲や、がたがたがたと途中で崩壊してまた再構築される曲や、アイドルの歌のカバーや、Fripp&Enoやビーチボーイズの曲の日本語カバーや、すきすきスウィッチや絶望の友の曲や、いろんなスガタカタチの曲がぞくぞくぞくぞくと続けて演奏される。〈男〉は最後に客(というか、円盤タグチさんはじめとする公開練習の立ち会い人)に言っている。自分史上最長なんだよ。こんなに長い時間、人前でやったのって。ものすごく、びっくりしてる、自分でも。
“普遍性”という言葉を使っているひとがいたな。6.3の公開練習vol.8を聴いて。今の〈男〉の歌(演奏)には、その場にいて聴いたひとが「どうして自分のことがうたわれているんだろう?」「どうして、そのことを知っているんだろう?」と思ってしまうような“普遍性”がある、って。そうね、わたしも最初はそう思った。あの場では。自分のことがうたわれている、と思った。ほかにも、ほかにも、そう思ったひとが何人もいたみたい。だからたぶん、みんながそう思うんだと思う。“普遍性”という言葉は好みではないので、“永遠性”と置き換えたいのだけれど、今の男の歌(演奏)に“永遠性”みたいなもの、があるのは確か。でも、それだけではない。
本当のことを言えばあのとき、高円寺の線路脇の古いビルの二階で8回目の公開練習の場にいたとき、わたしは固い椅子にからだが縛りつけられたみたいに、身動きひとつできなかった。演奏を見聴きしながら、なにかとんでもないことが起こっているな、と思った。目の前で、と同時に、自分の中で。大切なことが起きてしまっている。でもそれが何なのかわからなくて。からだをじっと固くして、あの場にしっかり芯根を張って、groundingしているしかなかった。揺るがないように。そうしたら、それまで自分のまわりをびょうびょうと吹いていた風が、わたしの中に一気に全部流れ込んでしまったのだ。だから今、あの日を境にからだの外は凪。しーんとしている。一方、からだの中の奥深いところで風がざわざわと鳴り続けている。
今年の2月にCDを買い、3月から月に一度の公開練習に行くようになって、わたしは本当に〈男〉の音楽以外の音楽が聴けなくなってしまった。それが今はさらに進んで(悪化して?)、極端な話、6.3の公開練習vol.8の録音(=いちばん新しい〈男〉の演奏)しか聴きたくないような気持ち。さらに言えば6.3の中でも、最初だけだったり、断片だったり、かたちを次々に変えていったりする、完成されていないような曲や音や演奏しか、聴きたくないような気持ちになっている。変態になってしまったんじゃないだろうかと、不安になるほどだ。
なんでだろう? わからない。試しにほかの音楽を聴いてみることがある。すると、〈わあ、音でぎっしり塗りつぶされてる。すきまがないんだね〉と驚いたりする。〈ベタっと塗られた油絵のようだ〉と感じたりする。〈約束の繰り返しばかりだね。それが果たされることはないんだろうな〉と思ったりもする。〈これとこれをつなぐためだけに配置されているんだな〉と言葉や音がかわいそうになる。でも、かわいそうだけど、いらないものはいらない。世の中にはなんてムダが多いんだろう。
そう。ムダが、わたしはダメになったのかもしれない(とこれを書きながら考えている)。ムダって何か、って言ったら、“ほんとう”を包んだり隠したりしているもの、かな。“ほんとう”を見えなくしているもの。“ほんとう”の生気を失わせるもの。“ほんとう”のむきだしのみずみずしさを損なうもの。すきまはムダではない。すきまはいつも“ほんとう”と隣り合わせにあるから。ムダは空(くう)ではなくて、むしろ空を埋めるもの。いたずらに。亀裂があると不安だからと塗り込めるパテみたいなもの。そうだ、とりあえず安心させるためのうそが“ムダ”なのだ。
2010年に再発された、すきすきスウィッチのCD『忘れてもいいよ』のライナーノートに、〈男〉がみずから書いたこんな一文がある。
「すきすきスウィッチ」の本体自体のスタイルはかなりの速さで移ろって行った。(人口に膾炙するためにはもっとじっくりとやらなくてはだめなのだろう。)
約20年ぶりにまた音楽を始めた〈男〉の演奏は、彼が約20年分の齢をとっても、かなりの速さで移ろい行くことに変わりはないようだ。同じ曲も、次に演奏されるときはもう、姿を変えている。ひとつの曲の中でも、曲がどんどん姿を変えていく。
変わる、変わる、次へ行くために、変わる、壊す、壊す、ばらばらにする。安心、安定、安寧、安泰よせつけず。うっとりもさせてもらえない。それなのに、わたし(たち)は彼によって壊されることに、むしろ安堵するのだ。壊して次へ、と切り立つところに、永遠を見るのだ。
それで困ったことに、これはどうやら音楽の話だけではないみたいなのね。価値観にもまっすぐ係わってくること。ものごとの見方にも。だからムダがイヤになってしまったわたしは、ムダな言葉を使う前にふと立ち止まるようになった。そのうち、ムダな文章も書けなくなる気がしている(まだまだその途中。それに仕事は別ものにしてる)。つまり、そこまで及んでしまっている。音楽が。こんなふしぎがあるんだね。ふしぎ、というか、まほう。
まほうはつづく。のかな?
すみません、わたくしごとですが
本日が単行本の原稿書きの締め切り日で
仕事でてんぱっていて、本日の更新はかないません。
大変に申し訳ないです。にっちもさっちも……って感じです。
書きたいことはあるんだけどなぁ。
ということで、一回パス。また来週お会いしましょう。
この話、酔っぱらったときに見境なく話している気がするから、もしかしたら聞いたことがあるかも、ですが。その昔に『シティロード』という月刊の情報誌があって、それは情報誌であると同時に面白い読み物雑誌だったんだけど、と書くときに。たぶん“サブカル系の”とかっていう形容詞が付きがちなんだと思うけど。“サブカルチャー”とかっていうのが言葉としてピンと来なくて、何がカウンターで何がサブなんだか、50年生きてきてまだわからないので、ましてやそれを略されてもちょっと困るんだよな、わたしは。ともあれ『シティロード』という雑誌があって、そこに日記のページがあったのです。
見開き(2ページ)を横長に5段ぐらいに区切って、5人の執筆者がそれぞれの日記を一週間分だったかな、書くわけです。1日分の文字量が200字程度だった気がする。つまり、ツイッターとブログの中間みたいな日記なのだ。執筆者を全員覚えていないのだけれど(途中で変わってるし)、町田町蔵が下のほうにいて、一番下が詩人の平出隆だった気がする。町田は作家になる前の自称・パンク歌手だった頃で、肉体労働のバイトと何も起こらない日常を普通に綴る中に、出演中だった映画『熊楠・KUMAGUSU』のことがたまに出てくる程度の日記だった。と書くために山本政志監督のこの映画を検索したら、資金難で完成に至っていないのね。ご愁傷様です。まあ、そんな時代だったんだな、80年代の末から90年にかけて。バブルってやつの裏側で、あんまり面白いことが起こらなかった気がする。
日記はどれもたいていつまらなかった。いや、どのひとのもつまらないけど、でも日記だからそれなりに面白いふうで。毎月わたしは楽しみに読んでいました。読んでも片端からわすれていって、わすれてもいいよ、ってな感じの読み物であったのだけれど。あるとき、平出隆の日記を読んでいて、あ……と気づいて。その瞬間の戦慄だけはよく覚えている。それまでずっと、詩人の何も起こらない日常を淡々と綴った日記だと思って読んできたものが、あるとき、小さな文章の一節で、フィクションであったことに気づいた。うそ日記だったのだ。やられた、と思った。それから平出隆というひとが少し好きになった。ちなみにその後、作家になった町田康の文章はいまだに読む気がしなくて、『シティロード』の日記が最後。
興味深い男のひとたちがまわりにいるので、ここのところのわたしの関心事は男と女の違いであったりするのだけれど。男が日々を淡々と綴ったまじ日記はつまらない。肉がついていないから。暮らしとはしょせん、女のものなのではないかしらと思うのは、武田百合子の『富士日記』をまた、ぽつりぽつりと読み返しているからだ。このひとに限らず、わたしは物語をつくる女の作家よりも、日常をいきる作家の妻のほうがなぜか好きみたい。『富士日記』はまじ日記。うそ日記ではない。作家の妻の日常がスケッチみたいに、ひたすら淡々と書き続けられている。食べたものとか買ったものとか聞いたこととか見たこととか話したこととか。でも、読んでいてときおり、ウッとなる。ウッとなって、ページを閉じて、胸に手を当てて、浮かんだ風景を目の裏で読み返したりする。たとえばこんなとこ。と引用して乱暴に今週を終えてしまいます。すみません、公私ともによゆうがないの。
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八月十七日(火)晴
朝ごはんを終えてすぐ、河口湖駅より列車便の原稿を出しに下る。主人同乗。駅から思いたって、そのまま本栖湖へ行く。ボートに乗る。岸づたいにはこられない。人のいない溶岩の入江に舟を着け、水着をもってこないので、主人真裸になって湖水に入り泳ぐ。水は澄んでいて深く、底の方は濃いすみれ色をしている。ブルーブラックのインキを落としたようだ。そのせいか、主人の体は青白く、手足がひらひらして力なく見える。私は急に不安になる。私も真裸になって湖に入って泳ぐ。
帰り、農協でビール二十六本買う。
おそい夕飯のあとかたづけをしていると、豆粒のような灯りの懐中電灯をちらちらさせながら、笑い声の男と女、勝手口へ下りてくる。電報配達の男に、女が一緒に遊びがてらついてきたらしい。
タカミサンシス ソウギミテイ モリタ
これを書きはじめた日曜の夕がた。
すごく蒸していて、窓の外に広がる空が灰色と薄赤い紫色の混じった色だ。
スペイン産の冷えた水みたいな白ワインを仕事帰りに買ってきた。
もう何年前になるだろう。
ひとりでヴェトナム・ハノイの安ホテルのベランダへ椅子を出して、
買ってきた白ワインの栓を開け、当時は吸っていた煙草の紫煙が
夕方の空に混ざり溶けていくのを、ずっと見ていた。
ハノイの空には黒い蝙蝠がひゅーんと飛んでいて、
低い屋根の上のところどころ、黒いアンテナのシルエットが立っている
モノトーンの風景だった。
もうぢき闇が降りると、ハノイの街にはあやしい灯りがともって
昼間とは違う喧噪の世界が生まれる。
もうぢき闇が降りるけれど、住んでいるこの街では今はもう、
夢は夜でもひらかない。
明くる朝は月曜の朝。
それにしても、ずいぶん気分が変わってしまったな、と思う。
最近はおしゃれをしたくなくなった。
せめてこざっぱりと、とは思うけれど、
着飾る余裕もなければ、服を選ぶ余裕もない。
喋ったり、こうして書いているけど
ほんとうは言葉を選ぶ余裕もないくらい。
だけど昔から、そんなふうだった気もする。
わたしが大学へ行かなかったのは、余裕がなかったからだ。
経済的な余裕もだけれど、精神的な余裕がなかった。
勉強に時間を費やす、こころの余裕がなかった。
なんとか生きなきゃと必死だった。
信じられるものが希薄なのかもしれない。
希薄が浅はかを呼ぶ。
確かなものなんてなにもないと心の底で思っていて
そのくせ、大声でものを言い、平気で前言撤回を繰り返す。
なにものも生み出さず、なにものも大切にせず、
浅はかのうわぬりで50年生きてきた。
それがわたしには一番らくだから、そうしてきたのだけれど。
でも、そればかりでは、やっぱりだめみたい。
満足できない、というか生きていけないみたい。
なにものかを大事にしたいと思ったとたんに、あらわれる
よろこびと同列のこの気配はいったい何なのだろう?
「結局、どの不幸を選ぶかなんだよ」と昨日妹がわたしに言った。
うそいつわりのなさ、は重くてめんどうだから、
前言撤回でばっくれたい気持ちが沸いたのも確か。
いつまで続くかわからないけど、残りの人生逃げつづけろ、と。
浅はかをさらに重ねて自分勝手におきらくに終わればいいじゃないか、と。
でも、言葉はむりやり消すことはできても
掴んでしまったものは、もう、離すことはできない。
わたしは結局、言葉の使いかたを間違ってきたのかな。
ずっとそのことを考えているのだけれど。
今の時点でのきもち、
でもやっぱり、言葉は半分うそにしておきたい。
5月12日(土曜日)
まるで、ほんとに火の玉ボーイだった『家出少年』(神戸)のジョニーくん(vo)。
常からデヴィッド・ボウイーやイギー・ポップや
マーク・ボランを思わせるひとではあるけれど。
この夜の彼らの演奏、疾走感や膨張感や刹那度がはんぱなくて
円盤・田口さんも「今まで聴いた中でも一番よかった!」と。
ほんとによかったよね、でもなんでだろう?と訊くと、
「それはやっぱり、文谷さんに対する気持ちじゃない?」と田口史人。
ジョニーくんが憧れる年長のパンクシンガー・文谷昌弘ひきいる
『駅前旅館』(岡山)の7インチ新譜のレコ初ライヴなのでした。
ひとは気持ちのいきものなのだな、やはり。
ようちゃんこと本松洋子。
かつて村岡(藤田)ゆかとふたりでやっていた『手水』(岡山)は
いまは音楽活動はしていないけれど、それぞれがソロでやっている。
彼女ひとりの演奏は、さびしさがひんやりとふるえている。
『手水』での演奏は、さびしさが冷たいほどだった、と思う。
音楽活動はしていないけれど、円盤国際映画祭に『河童』を出品した
元『手水』のふたり。田口さんから受賞のトロフィーをもらったところ。
村岡ゆか(左)が最近出したアルバム『海』は、
今年のベストワン、と言っているひと多し。わたしにとってもそう。
まったく、自分のともだちが作ったなんて信じられないーーと
聴くたびに頭を小さく横にふる感じ。
うたうこと、語ること、演奏すること、に彼女はとうとう覚悟を決めたのだと思う。
この建築物、ちかぢかなくなってしまうと聞いている。好きだったのに。
いつも近くまで行って見上げていたのに。
5月20日(日曜日)
生まれた町の名物は焼き団子。しょうゆをつけて、炭火で焼いただけの
ごくシンプルなおやつ。これが案外、よその土地で見つからない。
図書館があったので、小学生の頃にさんざん通った旧・文化会館。
スクエアな建物で、ルベットキンとかシンドラーとか、
あそこいらへんの建築物を思わせる。といったら買いかぶりすぎ?
いまはほとんど機能していないような、でも壊せないような廃屋一歩手前。
背の高い木が多い旧市街。勝手知ったる……で、写真を撮るわたしを置いて
サッサと早足で抜け道を歩く母。この土地がやっぱり似合うな、と思った。
後ろ姿に漂う、地面と人間の結びつきの恐ろしいような力強さ。
5月26日(土曜日)
土曜日の吉祥寺なんてきらいだ。というか、吉祥寺がきらい。
でも駅から離れたあたりには、好きな場所がいくつかある。
クイーンズホテルアンティークスという、主に日本の古いものを扱う
二階建ての小さな店。恒例だった「お早う市」をやめると聞いて、
店主のりみちゃんに会いに行かなきゃ、と思っていた。
「そんな大した理由はないの。最近は市をやるみんなが
一緒の気持ちになれていない感じがしていたし、
だとしたら、同じことを続ける意味がないかな、って。
違うことを考えるよ。夜に何かやるとかね」
よかった。元気そう。というか前向き。
ひととひととの関係は移ろいゆくものよね。
ちぇ、ちぇ、ちぇ、ちぇ、ちぇんじず!
星野里美ちゃんは店のディスプレイをしょっちゅう変えていて、
それを見るのも楽しい。クイーンズホテルの入り口の脇にある
小さな窓には、とうの立った大きな筍と青い葡萄の葉っぱが。
春が終わって初夏がやってきた井の頭通り。
5月27日(日曜日)
うちの玄関のドアから差し込む光が、なにやら探偵めいていた。
3つ離れた駅の初めていった店で、2コがソロで歌いました。
元『角煮』(北海道)の碧衣ちゃんとのツーマンライヴだった。
ふたりともとてもよかった。
ときにミミズで、ときに水晶球で、ときに太陽でときに闇の娘たち。
2コがライヴ中に花とお菓子を配った。
「利根川の河原で摘んできたの?」と聞いたら、
「こんな洒落た花、咲いてませんよ。それにキタカン(北関東)の花は
セシウムだらけですから」。
そんなことを心のクローゼットにたたんでしまって、
わたしたちはそのあと、ロック食堂で食べて呑んで話して笑って、
男の子がきれいな声でうたってくれる歌に聴き惚れたりしました。
それでも遊ぼう、生きよう、とするしかなくて。
それでも遊ぼう、生きよう、とするひとを見に行くことしか、
わたしはもう、したくないんだ。
毎回来ているともだちはもちろんのこと、8回目の公開練習には遠方の友まで演奏を聴きにやってきた。〈まほうの時間〉がはじまってから、胸のざわつきを自分ひとりで抱えきれなくて、わたしはことあるごとに遠方の友にメールで話を聞いてもらっていた。〈佐藤さんは“巻き込むかた”なのですね。でも、わたしもこんなに“物語”の行方が気になってしかたがないのだから、案外、亜古さんも“巻き込むかた”なのかもしれませんよ。〉と彼女はあるときのメールに書いてきたけれど。実際そんなところもあるのだろう。翌日に自分が高円寺のビルの二階で演奏をするという事情にのせて、公開練習を見るために、彼女は一日早く新幹線でやってきた。
かつて男のカタワレであった彼も公開練習を聴きにきた。ぼく、ちょっとパリまで行ってきます、みたいな格好で。つまり高円寺の古いビルの二階の外階段を、ボーダーのシャツを着て、大きなスーツケースを抱えてのぼってきた。わたしはおかしくて(=うれしくて)クスリと笑ってしまった。その中に入っているのが楽器だと知っていたから。こんな大荷物、本気だな、っておかしかった。実はこの日、〈男〉がPさんと8回目の公開練習をしたあとで、今度は〈男〉と彼がスタジオに入って、ふたりで非公開練習をすることになっていた。練習、なのかな。よくわからない。とりあえずふたりでスタジオに入ってみよう、という話。
公開練習が終わって、楽器を片づけているときだった。事件が起きた。事件じゃなくて、やっぱり〈まほう〉? 彼がPさんに訊いた。
「POPくん、このあと時間ある?」
「ありますよ」
と、ちょっと身構えつつも呑気に応えるPさん。
「いや、このあと、佐藤くんとスタジオに入るんだけどさ」
「ああ、そうなんすか」
「POPくんも来ない?」
「えっ、行ってもいいんすか? 聴かせてもらってもいいんですか?」
「ちがうよ。一緒に練習するんだよ」
「え、ええーっ! 3人で? やるんすか!? まじですか!?!」
そのやりとりをそばで聞いていた〈男〉が、夜空で口笛を吹くお月様のように笑った(←あえてタルホ風にね)。
同日、夜の7時すぎ。透きとおったお酒をコップに注いで呑んでいた山田正樹とわたしは、連絡を受けて駅に向かった。そこへ、自転車を引いたPさんが現れた。そうそう、普通に公開練習だけをするつもりでいたPさんは、いつものように自転車で来ていたのだ。ところが急遽スタジオで3人の練習をすることになったので、彼は約2時間の公開練習を終えると、高円寺→阿佐ヶ谷→荻窪→西荻窪→吉祥寺の距離を、機材を前と後ろに積んだママチャリで移動しなければならならなかった。そして約3時間の非公開練習を終えると、吉祥寺→西荻窪へママチャリを飛ばしてきた。46歳の日曜日にしてはかなりハードである。なんだか解脱したような顔をしているPさんに「どうでした?」と聞くと、「いや、もう、すごいのなんの、って感じっすよ」。解脱しながら興奮してる。
ギターを肩から提げた〈男〉と、スーツケースをころがす彼が駅の改札を通ってきた。南口を出てピンクの象のアーケードを歩きながら「どうでした?」と彼に聞くと、「もう、完璧ですよ。ばっちりだね。すごくうまくいった。すばらしい」。まっすぐ前を向いたままの、ニコリともしないクールな顔で興奮してる。
六月の夜の都会の空の下。ロキシーミュージックが流れる店で。わたしたちは黄金色の琥珀エビスの生ジョッキで乾杯した。〈男〉があらたまった感じで言った。「というわけで、ぼくたちは3人のバンドになった。いや、あたらしいバンドがぼくたちを選んだ、というべきかな。佐藤幸雄、鈴木惣一朗、POP鈴木こと鈴木康文。バンドの名前はすきすきスウィッチ」。
と、わたしには〈男〉がそう言ったように聞こえたのだけれど。だから、書いてもしまったのだけれど。男はそんなことは言っていない、バンド名はこの時点ではまだ決まっていなかったーーという事実をあとになって知った(→まほうの9参照)。
夕星を仰いで空中世界を幻視する時、そんな晩方はまた、やがて「六月の夜の都会の空」でなければならない。汗ばんで寝苦しがっているまんまるい地球を抱くようにのしかかっている暗碧の空には、星々がその星座を乱したのであるまいかと疑われるほど狂わしげな位置を採って燦めき、そして時計のセカンドを刻む音と共に地表の傾斜がひどくなって、ついに酸漿(ほおずき)のように赤ばんだ月をその一方の地平線におし付けてしまった刻限には、昼間から持ち越しの苦悩に耐えかねた高層建築物たちは、もはや支え切れずに、水晶の群像のように互いに揺らめきかしいで、放電を取り交わしているのでなければならない。
ーー念願とはこの場合何であろうか?」と彼は考えを追った。「それは大乗起信論よりも、線球変換よりも、そんな事柄ではなく、自分が人間として出発し直さなければならぬという一事である。ーー目指す人間とは何であるか? それはこの自分自身である。固有の色合いがある、振動的な、即ち生きている、真鍮の砲弾や花火仕掛けの海戦に心を惹かれている自己自身である。その最も自分らしい場所に立ち返らなければならぬのではないか。」
それはまさしく「六月の夜の都会の空」の下に生まれた。六月三日の夜に。まほうのチカラが働いて、約20年の月日を飛び越え、自分らしい場所に立ち返ったわたしたちは、そこでふたたび出会った。そして、バンド、すきすきスウィッチがあたらしく生まれた。
挿入文/稲垣足穂『弥勒』
★★ちょっと休む……とか前回言った舌の根も乾かぬうちに、また〈まほう〉の続きを書いてしまいました。だってこんな事態だし……。でも来週からは休みます(たぶん)。ということで〈まほうの時間〉を覗くチャンス→→→7月8日(日)POP鈴木祭りhttp://d.hatena.ne.jp/pop-suzuki/20120708@吉祥寺MANDA-LA2。7月14日(土)高円寺・円盤夏の祭り@渋谷O-NEST(佐藤幸雄・POP鈴木出演)。夏以降、すきすきスウィッチのライヴを予定。広報活動はじめした。https://twitter.com/#!/watashitachi5
★【改訂】について。本文中にも書きましたが、この時点で〈男〉の口から「すきすきスウィッチ」というバンド名は出ていなかった、ということをあとでわたしは知りました。わたしの思い込みによる空耳だったのです。すみません。詳しくは「まほうの9」を読んでください。8月12日の円盤のライヴ時に、3人のバンドは「すきすきスウィッチ」と名づけられました。
その日曜はまったく、おかしな天気の日だった。お昼まではやけに白っぽく晴れていたのに、公開練習の終わる頃にはあやしい雨雲がたちこめていた。それから3時間ぐらい、断続的にどしゃぶりの雨が降ったけれど、わたしたちが“野原”から出た夕刻にはもう、雨のしずくの跡形もない。雲間に青空がのぞき、みんなで歩く線路脇の小道には薄陽がさして、雨上がりの夕方特有の薄荷の香りのする風も吹きはじめた。
歩きながら、〈男〉は、インディーズ音楽界の長老に「これからソウちゃんに会うんですよ」と話した。「あぁ、惣一朗くんとも会っているんだね」と長老。そんなやりとりを、ボロボロの自転車を引きながら一緒に歩いている沿線住まいのPさんは、どんな気持ちで聞いているのかな、とわたしは思った。
中断していた音楽を再び始めようというときに、〈男〉がまっ先に会いに行ったのがPさんだった。Pさんは、〈男〉が最後にやっていたバンド、絶望の友のドラマーだったひと。〈男〉にさんざんしごかれた挙げ句に、音楽を「いったんやめる」と言って突然去られたときの心境を、彼はブログhttp://d.hatena.ne.jp/pop-suzuki/20111003にこう書いている。
その頃の僕はと言えば、せっかく本気で好きになってきた年増女が不意に忽然と姿を消し、
「なんでぇ。」とむくれつつも、身悶えしている少年。といったところか。
あんな事こんな事、色んな事を教えてくれた年増女が。
それから約20年がたった去年の秋のこと。忽然と消えた〈男〉が、また忽然と姿をあらわした。たぶん、なんらかのまほうによって。〈男〉はPさんがドラムを叩いているバンドのひとつ“スカート”のライヴにやってきて、あろうことか「ピアノのチューニングが合っていない!」と客席から何度も注意の声を挙げた。長年、ライヴ的なものから離れていたはずなのに、音楽と向き合う真摯さに変わりはなかったのだ。ライヴが終わって、Pさんが〈男〉と顔を合わせたときーー。
僕には何も言わず、僕も何も言わず。
んでもそれもなあ、と思って何か喋ろうと努力するのだが、だめで、
「なんか、間があき過ぎて、何を話していいのかわかりません。」と言った。
あと、
「それで今後、どういう展開になるんす?」
と聞いた。
佐藤氏は、
「後日こっそりキミにだけ教えるよ。」
と言って、もう時間になった。
■
その2、3日後なんだが。
ああ!と僕は突然思いだした。
何をかというと、20年前のことで、
絶望の友が終わったときのことなんだけど。
佐藤さんはまた必ず戻ってくる。だって、あんな人が音楽から完全に離れるはずが無い、というか離れられるはずが無い。だから、そのきたるべき時に備えて、バンドを続けていようと。経験を積んでおこうと。思ってたんであった!
忘れてた!
それでいろいろバンドをやってたんであった。
Pさんはたいへんに大らかなひとであるようだ。当時に抱いたこのような崇高かつ健気な想いも、師と慕う〈男〉の姿が見えなくなるや、ポイッとどこかに置き忘れていたらしい。彼はさらに思い出す。
あと、その当時、
いろんな音楽に触れるにつけ、ドラムを叩くにつけ、
佐藤さんだったらどう言うだろう、とか、
佐藤さんだったらこう考えるだろうな、とか、考えていたんだった。
そして、何でもそういう佐藤幸雄風に考えるのが癖になり、
いつしか、それが自分のオリジナルの考え方だと思い込んでいた。
僕がちょっと人と変わった事を言ったり、考えたりするのって、
僕のオリジナルだと思っていたが、
いや、まあ、オリジナルもあるんだろうけど、
だいたいは佐藤幸雄氏の影響なんだ。
あわわ……。
http://d.hatena.ne.jp/pop-suzuki/20111017
と、こんなふうに多大な影響を受けた〈男〉と、Pさんはまたバンドを始めることになった。二児の父である46歳のPさんと、永らく音楽から離れていた53歳の〈男〉。ふたりは去年の秋から月に一度、日曜の昼間に練習をしている。ひとびとの前での“公開練習”というオモシロイ試みは、〈男〉の考えだした特異なリハビリの方法らしい。そして、練習にはもちろん目標が必要。彼らの目標は、“公開練習”の場である高円寺の店が主催する、7月の夏祭りに出演すること。全国から多数のバンドが集まり、渋谷のライブハウスの2フロアを使って2日間にわたって行われる毎年恒例の大きなイベントである。祭りのテーマみたいなものは、大上段に掲げられていないけれど、店主で主催者のタグチさんは“〈男〉の復活”を今度の祭りの裏テーマにしているのではないかしら、とわたしは勝手に思っている(タグチさんにとっても、〈男〉はとくべつな存在のようだから)。
7月の夏祭りに、〈男〉はPさんとのバンドで出演する。それを目指して、ふたりで“公開練習”をしてきた。そんな物語が進行しているところへ、新しい登場人物があらわれた。彼である。インストゥルメンタル主体のバンドを率いる(楽器はギターを担当)と同時に、さまざまなアーティストのプロデューサーでもあるひと。そんな彼もプロとしてデビューする前は、〈男〉とバンドをやっていた。すきすきスウィッチで、すごいドラムを叩いていた。
Pさんもドラマー。彼もドラマー。ちなみに偶然だけれど、ふたりは同じ“鈴木”という姓を持つ。
線路脇の小道には、夕方の早い時間でもちらほらと、テーブルを路上に並べて営業している飲食店があった。老舗の焼き鳥屋の前まで来ると、Pさんにつきまとっているアブナげなファンの青年(腕に無数の切り傷があるという話)が、「あ、ここ! ここでぼくはPOPさんの頭を叩くんですよ!」とまったく意味不明のことを口走った。「じゃあ、ここでちょっと飲んでくか」と言って、自転車を居酒屋の脇に停めようとするPさん。青年に付き合うつもりなのだ。なんて“ダメやさしい”ひとなんだろう。
その様子を見て、わたしは〈男〉に提案してみた。「この時間は中途半端で開いている店が少ないから、とりあえずうちに来てもらおうと思っていたんですけど。ここで呑みながら惣一朗さんを待つ、っていうのもアリですよね」。すると〈男〉はまっすぐ前を見たまま、きっぱり言った。「俺は呑みたくないんだよ、ソウちゃんと会うまでは」。あ、そうでしたか、すみません、という感じ。わたしはこういう強い物言いの男のひとがホントは苦手。ビクッとしてしまう。30歳ぐらいだったら「怖いひとだな、いやだな」と、それだけで〈男〉を避けていたかもしれない。でも、(14歳であると同時に?)50歳という少しは豊満な年齢になったいまは、ビクッとしながらも気づくことができる。ということは………そうか、練習後にみんなに囲まれて話していた宴の席でも、今日の彼はずっとお酒を呑んでいなかったわけね、と。
Pさんと別れて、駅のホームで、逆方向の電車に乗る長老とも別れた。そして、〈わたしたち〉は3人になった。〈男〉と、彼の高校時代からの親友の山田正樹と、わたし。わたしははじめて彼らと肩を並べて歩き、はじめて電車の中に並んで立った。だれも話をしない。視線も合わせない。おたがいの中に灯るタマシイの青い火の在処を感じながら、ただ一緒にいるだけ。一緒に何処かへ“向かっている”だけーー。そこは森の中のようにひんやりと涼しかった。胸がすうっとして、とても静かだった。とても静かで、澄んでいた。薄荷の香りのする夕方の風のせいかもしれない。なんてきれいな時間なんだろう……とわたしはからだ全体で感じていた。その時間の中にいる自分は、なかなか叶うことのない理想の自分だった。と、そのとき〈男〉が小さく言った、「あ、虹だ」。彼の目線の方向を追って車窓を覗き込むと、大輪のわっかが空にひっかかっている。〈男〉が何かを認めるように、うん、とうなづくのが気配でわかった。おまけに虹まで出てしまって。そう、〈わたしたち〉のきれいな時間には、虹さえもがおまけだった。
「何をのみますか?」
「ぼくは、アルコールじゃないものを。なんでも、あるものでいいです。山田くんはお酒でしょ」
「でも、ひとりで呑むわけにはいかない」
「亜古さんが呑むよ」
「わたしも呑みます」
夕方の薄暗い我が家で。〈男〉のためにコーヒーを淹れて、山田正樹と自分のために小さなガラスのコップに麦焼酎を注ぎ、テーブルに運んだ。それにしてもソウちゃん/惣一朗さんは、どうしてぼく/佐藤幸雄と一緒にやりたいのかなぁ、向こうはすっかりプロの音楽家なのにねぇ、かえって迷惑になるんじゃないかな……なんていうことを3人で話しながら、彼から連絡がくるのを待った。それからわりとすぐに〈男〉の携帯電話が鳴った。〈男〉の嬉々とした話し方や受け答える言葉から、仕事の終わった彼が速攻で駆けつけるらしい様子が伝わってきた。隣町で仕事をしていた彼がうちに到着するまで、本当にあっという間だった。
「惣一朗さんは何のみます?」
「ビール!」
「あ、ごめんなさい、うちビールはない。お酒はいま焼酎しかないの」
「じゃ、なんでもいいですよ、あるもので」
「よしっ、じゃあ、おれも呑む!」
水の中でジャンプしたときの、空気やあぶくが浮き立つ感じ。彼への礼儀として自分に課していた禁酒タイムをクリアして、「おれも呑む!」と言った〈男〉は、なんとも晴れ晴れとした顔になった。晴れ晴れというか、すごくうれしそうだった。むきだしだった。麦焼酎、氷、炭酸水、ちょっとしたつまみをテーブルの上に置くと、それを見て「お腹すいた!」と彼が叫んだ。屈託のないひとがいることがわたしにうれしかったのは、こんなこともあろうかと、お昼のお弁当のおかずを多めに仕込んで冷蔵庫に入れていたから。空腹はさておき、彼はすぐに真剣な顔で男に向かって話しはじめた。
「いろいろ考えて、この間、久しぶりに佐藤くんの歌を聴いて。ぼくは思ったんだよね。イベント的に一時的にバンドを再結成するんじゃなく、ぼくは佐藤くんとまた一緒にバンドをやりたい、そう思った」。やっぱりそうなのだ。自分の中にくすぶっていた気持ちを、いよいよ(ようやく?)〈男〉にじかに伝えるために彼はやって来た。そのことを確認できたので、わたしは席を立ち、エプロンをつけて台所に立った。太白ごま油を揚げ鍋にトクトクトクと注ぐ。下味をつけておいた鶏肉を冷蔵庫から出して、水をすこし加えて指で大きくもみこむ。薄力粉と片栗粉を合わせた衣をつけて、冷たい油の中に落とす。火は弱め。じくじくじくという音が、ぱちぱちぱちに変わり、じゅうじゅうじゅうとなるまで、弱めの火でじっくりと揚げる。ぱちぱちやじゅうじゅうの合間に、男たちの話す声が聞こえる。まほうによってわたしが最近出会ったひとたち。実はまだ二、三回しか会ったことのない、53歳の男たちが話している。とぎれとぎれに聞こえてくる会話の内容には、もちろん興味が大アリだったけれど。それに負けないぐらい、わたしは唐揚げの揚がる音を聴くのも好きなのだ。
あなたと会っていると あなたとわたしは わたしたち
あなたに話しかける あなたとわたしは わたしたち
みんなが見ているから あなたとわたしと誰かで わたしたち
わたしたちは約束をする のぼる朝日としずむ夕日を見る
口をとじてからだをまっすぐにする
別れてもまた きっと会う
あなたが笑っている あなたとわたしと わたしたち
揚げたての皿を持っていくと、「録音しておいたほうがいいよ」と山田正樹が静かに熱を帯びた口ぶりでわたしに言った。〈男〉も目で皿を指して「こんなことさせるから、亜古さん、話を聴けなかったじゃないか」なんて言う。核心的なおもしろい話になっていたのだな、よかった、とわたしは思った。“おもしろい話”の当事者である彼は「わぁ、こんなの出てきたよ。うれしいな。お腹すいてるんだ」とさっそく唐揚げに箸を伸ばしている。「ご飯もありますよ。冷やご飯だけど」と言うと、「欲しい! ご飯欲しい!」。うちに毎日おやつをもらいに来る、隣の小学五年男子のような遠慮のなさ。こういうのは嫌いじゃない。
にんにくとしょうゆを利かせた唐揚げをおかずに、白いご飯を食べながら彼が話を続ける。「ぼくは仕事のとき、自分のやりたいことを追求して、完璧な形になるまでやって、それをいったん壊す。一度壊して、考えた末に違う形にする、ということをする。つまり、自分がやりたいことをストレートに表に出しているんじゃないんですよ。作品であると同時に商品でもある音楽の世界では、ぼくの場合は一度壊して再構築する必要がどうしてもある」。と、門外漢のわたしがこんなふうに書いてしまっているけれど。録音したわけでもないし、わたしは音楽のことに本当に無知。だからこれから書くことについても、間違ったとらえ方をしていたり、正確さを欠くかもしれない。どうか、ご了承&ご容赦ください。
彼は言う。「それで、そういう“仕事としての音楽”とは違うこともしたい、という欲求がどうしてもあった。数年前から、そういう欲求がすごく強くなった。だから、佐藤くんがまた始めたことを亜古さんのブログで知って、すごく興味を持ったんだよね。で、この間の公開練習で、佐藤くんの演奏を聴いて、ぼくはやっぱり佐藤くんの歌がすきだ。佐藤くんとまた一緒にやりたい、って、その気持ちが自分の本心だと思った」。これを聞いて〈男〉は、「うん」と息をためてから「ソウちゃん……ありがとう」と熱い瞳で言った。「ありがとう」とまっすぐに感謝されて、彼も内心うるっと来ているように見えたけれど。さすがにもう、男たちのむきだしぶりにわたしもすこし慣れてきたみたい。誰かのグラスに氷やお酒をつぎ足したり、自分でもぐいっと呑んだりして、目の前のめずらしい景色をただ楽しんでいた。
彼らの会話の覚えているところを、例によってアトランダムに拾い集めてみる。
●だけど、この間、ソウちゃんが「録音しよう」と言ってくれて、すごくうれしかったけど。音源を作ることじたいには正直なところ、俺はそれほど興味がないんだよ。そういうことをしたくて、また音楽を始めたわけじゃない。だって俺の歌は毎回、歌詞も違っちゃうし。ー〈男〉
○ぼくは、すきすきスウィッチをまたやりたい。なぜなら、佐藤くんが20年間、声を封印していたように、ぼくも“すきすき”のドラムは封印してきたからね。
◇わぁ、なんか感動的。ーわたしの心の声
○なぜ封印していたかといえば、あんなこと、どこでも求められないからなんだけど。ー彼
●すきすきをやる? ああ、だったら、ふたりで始めれば、たぶんまたすぐに同じこと(すきすきスウィッチ)はできるんだよ。でも、それをいま、もう一度することにはあまり意味が感じられないな。ー〈男〉
●それでね、これは山田くんから出たアイデアで、俺もそれがいいかなと思っていたのは、“ドラマー鈴木がふたりいるバンド”、っていうのはどうだろう? ー〈男〉
○えっ、それって、POPくんとぼくってこと? ー彼
■うん。鈴木というドラマーがふたりいるバンド、すごくいいと思うんだけど。ー山田正樹
◇わっ、すごくいい! 大賛成! ーわたし
○ぼくと? POPくんと?? ドラムがふたりいるわけ??? えーっ、それは、ちょっと、どうなのかなぁ〜〜〜。“佐藤とダブル鈴木”っていう名前のインパクトだけで言ってるんじゃないのぉ? ー彼
■うん、それもある。面白いよね。ー山田正樹
○えーっ、それは…………どうだろう? POPくん、やりにくいんじゃないかな……。ぼくだって彼に気を使うし。ー彼
■ドラマーだからって、何も太鼓叩かなくてもいいわけじゃん。ー山田正樹
◇あぁ、すてき。そういうのがいいな、賛成だなぁ。ー門外漢なのに未知なるバンド編成を空想してワクワクして、つい口を出してしまうわたし
○ソウちゃんは今日の練習を聞いてないけど、POPくんのドラム、すごくよくなってきたんだよ。叩いている。あちこちで叩いてる。思いがけないところでも叩いてる。今日すごくよかったんだよ。なぁ? ーと山田正樹に同意を求める〈男〉
■うん。ほんとにそうだった。ー山田正樹
○POPくんもだけど、俺も、公開練習の間の一ヶ月に、たぶん自分にいろいろなことが起こっているんだよね。ー〈男〉
◇いろんなことが起こっているーーっていうのは、そのときどきで自分の内に蠢いているものや移ろいゆくものや、自分のまわりのさざ波のような気配を見つめて、感じて、とらえる、っていうことかな? ーわたしの心の声
■公開練習と公開練習の間の一ヶ月間で、佐藤がやっているのは、曲を作ることでも楽器を練習することでもなくて、“見当”をつけることなんですよ。“見当”というか“目当て”というか。ーと彼に向けて話す山田正樹
○“見当”って? ー彼
「“見当”って?」と首を傾げた彼に対して、〈男〉も山田正樹も何も言わなかった。わかりやすく説明する言葉が、きっと見つからなかったのだと思う。どっちの方向へ行くか、っていうことかな、未来を読むこと……とわたしは考えてみたけれど。でもやっぱり、それは言葉にあらわしにくいことなのだ。〈男〉が話を続ける。
●ぼくは、完成された歌をうたおうとしているわけじゃないから。でも、“うたおう”とはしている。だから“見当”がいるんだよ。ソウちゃんは……キレイだよね。何をしてもキレイ。身なりだってそうだし、作る音楽もキレイなんだ。さっき聞かせてもらった話もそうだね。仕事で作り上げたものをいったん壊して、またキレイに作り上げるわけでしょ。ー〈男〉
○うん。ぼくは、キレイかもしれない。佐藤くんはイビツだよね。ー彼
■イビツ! そうそう、それそれ。佐藤はイビツなんだ。ー山田正樹
●うん、そうかもしれない。歌詞も毎回違っちゃうし、演奏だってそんなにうまいわけじゃないし、俺はイビツなんだよ。だから、ミルフォード・グレイブスの動画の……。ーと言いかける〈男〉
●亜古さんも、あれ観てるんだけど……。ーと彼と山田正樹に説明する〈男〉
◇ああ、なるほど。こういうときのために、あの映像をわたしにね、やっぱ必修科目だったんだわ。ーわたしの心の声
●あの動画の中でさ、ミルフォード・グレイブスがうたおうとしてマイクを取ろうとして、なかなか取れないでしょ。ー〈男〉
○■◇ああ、あそこね! ー全員
●マイクを取ろうとして取れなくて。あそこから、演奏ががぜんよくなるんだよ! すごくなる! イビツさがあらわになってからのミルフォード・グレイブスがすごいんだ。それでね、あそこからが、俺なんだ。ー〈男〉
わたしは〈男〉から聞いていた。鈴木惣一朗と、POP鈴木のドラムのお手本はミルフォード・グレイブスである、と。ミルフォード・グレイブスを見ているから、彼らはドラマーとして化けたのだ、と。でも、ドラマーではない、ギターを弾いてうたう〈男〉自身も、ミルフォード・グレイブスに“自分”を見ているということは、このとき初めて知った。それはつまり、こういうことなのかな……と思った。〈男〉は自分と組むドラマーに“ミルフォード・グレイブス”を求めるけれど、それはドラムのスタイルを模倣しろ、ということではない。演奏する楽器やステージの立ち位置に係わらず、“ミルフォード・グレイブス”であれ、ということ。それが演奏する自分たちのルールである、ということ。
このとき〈男〉が話していたのは、69歳のミルフォード・グレイブスの映像の中盤以降についてだ。ドラムを叩きながらうたおうとして、マイクを自分のほうに向けようとするのだけれど、マイクが思う方向へ動いてくれず、美しい百合の花に翻弄される男のような一瞬の無様さ、滑稽さが露呈する。だからこそ解き放たれた感のあるミルフォード・グレイブスのドラムが、そこから、山脈を縦横無尽に軽やかに駆けめぐる怪物みたいなチカラを放つ。うたいながらダンスするとき、彼が胸を抱くように腕を×の形に交差するポーズをするせいか、わたしは演奏するミルフォード・グレイブスを鳥みたいにも思った。鳥が飛ぶのは、ただ羽根をばさばさ動かしているわけじゃなくて、羽根の動きは心臓から出ている。鳥は生きるために必死で、心臓から羽根を動かしているんだな、と映像を見ながら思った。ミルフォード・グレイブスは心臓から出た腕で、スティックを持ち、ドラムをたたく。心臓から音を出し、歌をうたう。だから鳥みたいに見えるのだーーと、そんなことを考えた。http://www.youtube.com/watch?v=XV5SE8XCISk&feature=relmfu
音楽をすること、は、羽根をばさばさせること? ばさばささせないと、死んでしまう生き物がいるのは確か。それをしないと死んでしまう必死さは、ときに無様で滑稽で、イビツなのだ。
ニヒル牛の店番を終えてうちに帰ってきた母は、居間にいる見知らぬ男たちを見ても、それほど驚かなかった。「あら〜、いらっしゃい」とか、そんな感じだった。彼らもスクッと立って、母に丁重な挨拶をしてくれた。むきだしではあるけれど、みんな、遠の昔から大人だから。仕事後の明るいテンションを引きずっていても、母は歳だからやっぱり疲れているので、わたしたちはすぐに外に出た。いつもロックが流れている駅向こうの店へ行って、続きの話をしようとわたしは思った。
「でもね」と、みんなで肩を並べて歩く夜道で〈男〉が言った。
「亜古さんがいなかったら、ぼくたちはたぶん、こんな話はしていないんだよ」
なに言ってんだか、と思いながらわたしは言った。
「そんなことはないでしょう」
「いや、そうなんだよ。だって気づかない? ぼくたちは話していても、さっきからずっと目を合わせていないんだから」
げっ、まじですか。男っていうのはつくづく、めずらしい生き物なのだな。
さて、〈まほう〉のファーストシーズンの物語はこれでひとまずおしまい。一息つかせてください。でも〈まほうの時間〉はもちろんまだまだ続くし、物語も書き続けるつもりです。バンドのゆくえについて、いま現在わかっているのは、7月14日の夏祭りと、その前に7月8日に行われる〈POP鈴木祭り〉には、〈男〉とPさんのふたりで演奏すること。それとは別に、彼と〈男〉はとりあえず最初はふたりでスタジオに入って音を出してみようかね、なんていう話になっている。ふたりなのか、3人なのか、何人なのか、そもそもバンドになるのか、こちらはまったくわからない未知数。だからまたワクワクする物語が展開するかもしれない、そんなアヤシイ風の吹く中にいま、〈わたしたち〉はいます。
挿入歌/わたしたち『わたしたち』
★★〈まほうの時間〉を覗くチャンス→→→6月3日(日)12時〜14時佐藤幸雄公開練習VOL.8(無料)@高円寺円盤。7月8日(日)POP鈴木祭りhttp://d.hatena.ne.jp/pop-suzuki/20120708@吉祥寺MANDA-LA2。7月14日(土)高円寺・円盤夏の祭り@渋谷O-NEST(佐藤幸雄・POP鈴木出演)。
5月の第一日曜の、公開練習第7回目。乗り物に乗り遅れて、〈男〉は20分ぐらい遅刻してきた。高円寺の線路脇の古いビルの二階にある“野原”には、日曜のお昼だというのに結構たくさんのひとが集まっていて、みんな静かに〈男〉が現れるのを待っていた。そこに「すみません、遅れました!」と飛び込んできた〈男〉は、急いで黒いケースからギターを取り出してチューニングをすませ、「あ、そうそう。POPくんこれ」と持ってきた長い大きなチューブみたいなものをPさんに渡した。「わかるよね。お客さんにぶつけないように」。「はい」とPさんは少し困惑気味な顔でそれを受け取り、ぐるりとあたりを見廻して、“野原”の一番隅っこに、チューブを持ったからだを棒のように細く長くして立った。
演奏が始まった。どきっ、とする歌詞の新曲がうたわれ、〈男〉が昔からうたっているらしいポップなメロディの曲がうたわれ。いつかどこかで聴いたことのある気がする歌がうたわれ(それらはアイドルの、それほどヒットしなかった曲であることが多い)。次から次へと、〈男〉はエレキギターを弾きながら歌をうたった。うたうほどに声が澄んでいくのが、聴いている側にもわかった。もともと高いというか、明るさと華やかさのある声が、軽さとそこに潜むせつなさを増してぐんぐん透明になっていく。そんな声で、驚いたことに〈男〉は、ロバート・ワイアット Robert Wyattの(カバー&アレンジしている)『At last I am free』を日本語訳でうたった。
知っていますか、ロバート・ワイアットの声を。なんて表現したらいいんだろうと思って検索してみると、“世界一かなしい声の持ち主”というフレーズに出くわした。出くわしたというか、よくそう言われているらしい(わたしには音楽評論のたぐいを読む習慣がない)。事故で下半身に障害を負った彼は車椅子生活で、来日公演がかなわないのだけれど、もしも万が一、あの声で生でうたうのを聴いたら、第一声から背筋がぞぞーっとして、泣いてしまうひとが多発するであろう、そんな声がロバート・ワイアットの声。深海に沈んだビー玉のような胸のいたみも、湯気のあがるスープにこめられた内緒話も、彼にうたわれると、聴くひとは自分のことのように思ってしまう。そんなチカラを持つ歌声でロバート・ワイアットがうたう歌を、自分もうたおうとする日本人がいることじたいがすでに驚きなのだけれど。〈男〉の歌声が、ワイアットにまけない儚さで、湿気のない乾いた空気のように透き通っていたのでせつなくて、ほんとにわたしは聴いていて、まいってしまった。あぁ…………と聴いていてたまらなくて、うつむいてしまった。声のほかにはもう何も入りそうになくて、うたう〈男〉の姿を見ることはできなかった。視力をなくして耳だけになるしか、その歌声を受けとめる方法はない気がした。ちなみに『At last I am free』は、タイトルどおり、やっといま、ぼくは自由になれた、とうたう歌。
〈男〉がひとりで練習をする間、Pさんは部屋の隅っこで、曲によってはチューブを宙にまわして、ひゅうひゅうという音を出したりしていた。でも、思い切りチューブをまわすと、そこいらじゅうにぶつかってしまうから(この“野原”はそんなに広くない)、ごくごく控え目な音で。
そのうち〈男〉が、「じゃあ、Pくん次の曲から入って。最初はそれをやってください。そんなところじゃなく、こっちへ来てやれよ」と言った。Pさんは客席の中に入って、座っている客の頭上で今度はおもいきりチューブを宙にまわして、ひゅうひゅうひゅうひゅう〜という音を曲の間に入れた。ドラムとして加わったときには、「フィリーズのアントン・フィア(のドラムの感じ)で」という〈男〉の指示にコクンとうなづいて、石野真子の『プリティー・プリティー』(などという知識はもちろんわたしにはなく、あとでともだちに教えてもらった)に、ぱかぱかぱかチャッチャッチャッしりしりしり、と電波のようなリズムを入れた。かっこよかった。そんなふうに軽くてせっぱつまったリズムに、〈男〉のじゃーじゃー鳴るギターがからむのが、なんともいえずかっこよかった。あたらしかった。すごく。わくわくするあたらしさだ。
最後のほうには、毎回やっている“音ズレ”の歌(タイトルわからず。『耳をすまして』かな?)や、“息子も娘も気がつかないけど、パパとママは激しい恋をしたんだよ、やめろといわれても、一度燃えたこころ〜”という歌詞をドドンパのリズムにのせる曲などを演奏して、とにかくいろんな曲が次から次から出てきたという印象。それでも公開練習を14時きっかりに終わらせた〈男〉は高揚した顔で、「もっともっとやりたかった。曲はたくさんあるんだよ」と誰かに話していた。
いろいろなひとが公開練習を聴きにきていた。下は20歳そこそこのぴかぴかした男の子たちから、上は知る人ぞ知る、東京のインディーズ音楽の生き字引みたいなひとまで。そういうひとたちが、いつものように〈男〉を囲んで窓際のコーナーに座り、これから数時間歓談するのだ。どうしようかな、とわたしは思った。実はこの日、電車で数駅離れた場所で、〈男〉とかつてバンドを組んでいた彼が仕事をしていて、仕事が終わる夕方以降に〈男〉と落ち合うことになっていた(彼と〈男〉の間でそんな約束がされていた)。“野原”を利用できるのは、夜の演し物の準備が始まる17時までと決まっていたから、どこか彼らが話すのによさそうな場所へ、沿線に住むわたしが導くことになっていた。
どうしようかな、とわたしは思った。〈男〉を囲む宴の席に加えてもらって、17時までの時間を過ごしてもよいのだけれど。そこで交わされる会話は、〈男〉のことにも音楽にも詳しくない新参者のわたしにとって、パリのお菓子屋マニアの友人たちが盛り上がっているのを聞いているときのような疎外感がある。ぶっちゃけ、おもしろくない。知らないひとばかりで緊張もする。ともだちとごはんを食べに行くほうが気がラクだなぁ、どうしようかなぁと考えながら宴のほうを見ていると、なんとなく、この〈物語〉を書くために必要な話もちらほらと出ている様子。それで宴の輪にそろそろと近づくと、〈男〉の親友である山田正樹が自分の隣の空いている椅子をサッと差し出してくれた。
その末席の低い椅子に座ると、すぐに山田正樹がわたしにささやいた、「ロッキングオン、読んだよ」。え、あ、うわぁ、「まじですか」。思いがけないありえないことに赤面して、思わず顔を伏せた。が、次の瞬間に、あ、じゃあ、と気づいたので顔を上げ、「持ってたの?」と訊くと、「うん。全部じゃないけどね、あの頃のは家にあった」。やばい。ほんとに読まれてる。中学2年のときに衝動的に書いて、衝動的にロッキングオンに投稿して載ったわたしの文章。自分の文章と名前が初めて活字になって雑誌に載っているのを見つけて、本屋でぶるぶるふるえたときのことを、わたしはウェブのどこかにいつか書いたのだ。たぶん、それを見つけられて、このひとに36年前に書いた拙い文章が読まれてしまっている。〈まほうの時間〉にはこんなことも平気で起こってしまうんだ……。はずかしくて赤面して再びうつむいて、もう顔が上げられない。追い打ちをかけるように山田正樹が「かわいかった」とつぶやいた。まるみを帯びた爽やかな声でそう言われると…………うれしい。はずかしいけれど、うれしさのほうがだんぜん勝ちだ。「かわいかった」と彼がいうのはもちろん14歳のわたしが書いた文章のことだけれど、14歳の自分自身のことを「かわいい」と言ってもらった気持ちになった。それは、〈わたし〉のことなのだ(!)。「かわいい」という言葉のまほうの粉をふりかけられて、時がぐるりんと逆戻りした。わたしのいまと、あの頃が一緒になった。からだの中にスーッと涼しい風が吹きはじめて、お腹の底のほうからだんだん澄んできて、自分が静かに落ち着いていくのがわかった。未来を見通すチカラはないけれど、有刺鉄線の柵を越えてどこまでも歩いていける気がしていたあの頃の気持ち、おびえながらも清々しく自由だったあの頃のこころにわたしはなってしまった。
だから、なおさらなのかな、宴の席からやっぱり逃げ出したくなった。摩訶不思議な三月お茶会から抜け出すアリスのように。“こっち側”に来ないで、いつまでも五月の野原で遊び続ける頭のおかしなエミリーのように。
やっぱりごはん食べに行こう、それで17時頃に戻ってくればいいーーそう考えて、山田正樹に「ちょっと出てきます」と耳打ちをし、知らないひとたちがぼそぼそと話している宴の席を立った。そのときだ、〈男〉が全身でギロリとわたしを見た気がしたのは。“どこに行くんだ?”。“なんでここにいて話を聞かない?”。“〈物語〉の書き手は当然ここにいるべきだろう”。“どうして抜けるんだ……。行くなら行けばいい。でも必ず時間厳守で戻ってくること。”と、〈男〉が詰問し、命令するような気配がわたしを射した。やばい、怒ってる、と思った。スパルタだな、やっぱり、とそう思ったのは、〈男〉にしごかれた若き日のことをPさんがブログhttp://d.hatena.ne.jp/pop-suzuki/20111005に書いているからだ。
“野原”のドアは開け放たれていた。光のようにそこから抜け出ると、古いビルの外階段を駆け降りた。エスケープ。イケナイことをしている気がして、胸が圧迫された。それから高架線路下の道を隣町のカレー屋まで、ともだちと、〈男〉の『五年』という曲をカバーしている若いバンドマンの“たけヒーロー”と話しながら歩いたのだけれど。50歳で14歳のわたしの胸はずっと、どきどきどきどき鳴りっぱなし。マトンカレーと海老のカレーとキーマカレーを3人で食べながら、生ビールを飲んで、あれこれお喋りしているときも、ざわざわ騒ぎっぱなし。わたしが抜け出してきてしまったことを、〈男〉は宴の席で歓談しながらも、心の中で怒っているんじゃないだろうかという勝手な妄想が沸いて、どきどきざわざわが落ち着かないのだ。
突然降ってきたスコールのような雨が、カレー屋の外の路地をけたたましく叩く。その音に胸のどきどきざわざわが重なって、不安な気持ちが増幅された。激しい雨音の中でふと思った。いや、もしかしたら、わたしだけではないのかもしれない。どこへ向かっているのかわからない〈まほうの時間〉の中で、不安で、怖くて、孤独なのは、わたしだけではないかもしれない。あのひとも、同じなのかもしれない。怒っているように見える〈男〉も、実は不安や寂寥を抱えているのかもしれない。約20年ぶりに“こっち側”に現れて。“野原”に取り残されて。だから、早く帰らなくちゃ……とわたしはますます妄想の虜になったけれど、目の前にはまだカレーもナンもサフランライスもたくさんあって、「あたし、もう行かなくちゃ」と店の席を立ったのは結局、17時の10分ぐらい前。やばい、ほんとに急がなきゃ間に合わない。
ともだちと“たけヒーロー”と別れて、高架線路下の道を来た方向へ急ぐ。急に降ってきたスコールで、ムクムクとふくらんだ黒い雲があたりを闇に近いグレーの色に染めている。ザーッと降ったかと思うと、一瞬やんで、またザーザーザーと泣くように降る雨。走る寸前の急ぎ足で、わたしは歩いた。歩きながら思い出した。まだ〈男〉の姿を見る前に、竹下通りの雑踏の中を、買ったばかりのすきすきスウィッチの音楽をヘッドフォンで聴きながら歩いた日のことを。
あれはいつだった? 手帳を見ればすぐわかる。2月21日と22日の境目のところに、斜めにベタッと、CDのジャケットカバーについていたシールが貼ってある。CDが届いた記録として貼ったのだ。端がちぎれたそのシールには、白地に赤い文字でこんな惹句が記されている。
常に何かを欠きながら最速度で移ろい消えた
小さな音の偉大なるポップ・バンド
すきすきスウィッチ
シールを貼った日付の数日後に、裏原宿へ行く用事があって、ヘッドフォンでその音楽を聴きながら歩いた。原宿の駅を降りて、竹下通りの雑踏を歩いているときだ。流れてきた曲に、突然激しくゆさぶられた。直下型大地震が自分ひとりに起こったように。大津波が地面の底から湧き上がり、こころが“そちら側”に丸ごと呑み込まれてしまった。あまりのことに驚いて、立ち尽くすと、からだの中から熱い水がにじみ出てきた。この曲を知っている、と思った。これはわたしの歌だ、と思った。
毎日がとてもつめたい
毎日がとてもせつない
きみになにができるかしら
考えこんで かたくなになって
考えこんで あたまかたくなって
きみに なにが できるかしら
お腹の中がチョコレートでいっぱい
お腹の中が小麦粉でいっぱい
お腹の中がフルーツでいっぱい
毎日がきみの誕生日
毎日がきみの誕生日
毎日がきみの誕生日
見て聴いて食べて味わって
見て聴いて嗅いで嘗めて
五感は いつでも 働いているから
自分のしてること わかってるか わかって
自分のしてること わかってるか わかって
急がなきゃ、急がなきゃ、と焦りながら交互に動かす足は重くて、夢の中のようにちっとも前に進んでくれない。急がなきゃ、急がなきゃ、と心臓から送り出される血液は、わたしをちっとも温めてくれない。高架線路の上では、雨雲が空をぐるぐる駆け巡っている。わたしの足はちっとも前に進まない。こんなに急いでいるのに。〈男〉が不安に怒りながら待っているかもしれないのに。あの、まほうの“野原”の中で。
いまがきみの誕生日
いまがきみの誕生日
毎日がきみの誕生日
毎日がきみの誕生日
覚えて並べてつないで考えこんでゆるして
毎日がときどきはうれしい かなしい
せつない たのしい むずかしい
感じかたにくせがいっぱい
考えかたにくせがいっぱい
からだの中にくせがいっぱい
想い出の中に風がいっぱい
古いビルの二階へ上がると、出ていったときと同じようにドアが開け放たれていた。おそるおそる中をのぞくと、再び現れたわたしをタグチさんが不思議そうな顔で見た。宴に参加していたひとたちは、もうみんな帰った様子。帰り支度をして残っていたのはPさんと、彼にまとわりついている若いアブナげな男の子のファンと、インディーズ音楽の生き字引の長老と。CDの棚を眺めていた山田正樹がわたしを見つけて「いま、トイレ入ってます」と教えてくれた。わたしはボウッと立った。“野原”の中に。すぐに〈男〉が出てきた。わたしを見て「ああ」と言った顔が、気のせいか、なんだかホッとして見えた。
挿入歌/すきすきスウィッチ『毎日が君の誕生日』
★〈まほうの時間〉を覗くチャンス→→→6月3日(日)12時〜14時 佐藤幸雄公開練習VOL.8(無料)@高円寺円盤。7月8日(日)POP鈴木祭りhttp://d.hatena.ne.jp/pop-suzuki/20120708@吉祥寺MANDA-LA2。7月14日(土)高円寺・円盤夏の祭り@渋谷O-NEST(佐藤幸雄・POP鈴木出演)。
物語には風が吹いている。昔からそう決まっている。『風の又三郎』や『ゲンセンカン主人』や、内田百鬼園『サラサーテの盤』の例を出すまでもなく。音楽にも、音楽の中にも風が吹いている。映画や絵の中にも。胸をざわざわとさせるあやしい風が吹いているのが「物語」。だからわたしはこのまほうの物語を書くことにした。彼と初めて会った夜に、想いを伝える電気の役目をふりあてられたときから、胸のざわざわが止まらなくなったから。
〈男〉の4月の公開練習に彼がやってきて、練習後の小さな宴の席に加えてもらって彼らと一緒の時間を過ごしたことで、わたしの胸のざわざわはいっそう強くなった。からだの中を苦しいほど強い風が吹きはじめた。何をしていても、ずっと胸がざわついている。夜明け前の青い気配の中で、朝露をつけた桃の花の写真を撮っているときも。お昼の味噌汁用に、昆布とかつお節で黄金色のだしを引いているときも。もちろん、二階のベランダから白く丸い月を見上げているときも。
遠くへ行くときもそうだった。胸のざわざわはいつもわたしに着いてきた。公開練習6日後の土曜日、生涯で最優先にしている(いた?)山本精一のライヴを聴きに遠方へ出かけたとき。輝く緑の間を走る列車の座席でも胸のざわざわが治まらなくて。読んでいた本も目で活字を追うだけになって。しかたがなく携帯電話を取りだし、この日記にアクセスして、かつて〈男〉が寄せてくれたコメントを読み返した。彼が昔やっていたバンドのアルバムについてわたしが書いた文章への、短い御礼のコメント。〈男〉の名前の下にメールアドレスがあることに、わたしはそのとき初めて気がついた。膝の上に載せていた本の、書店がかけてくれた緑色の紙カバーに衝動的にそれを書き写した。書き写したものを見ながら、携帯メールにアドレスを打ち込み始めた。衝動的に。何回聞いても覚えられそうにない暗号のような英数字を打ち込んだあとに、「この間の日曜日はとても楽しかったです」みたいな短い挨拶文を書き、〈男〉へ送信した。間もなくこの日記で、〈まほう〉と題したシリーズを書き始めることも、そこに書き添えた。
彼との出会いについて書いた〈まほうの1〉をアップしたのは、それから2日後の月曜日。公開練習から8日がたっていた。夜に〈男〉からメールが届いた。
読ませていただきました
今居住まいを正しているところです
一体何が始まってしまったのでしょうか
惣ちゃんがそんなふうだったとは
惣ちゃんがぼくの話をしてたという事はそりゃ間接的に伝わらないではなかったのだけど
それは単なる噂話、思い出話のレベルだと
思っていました
だってふつうはそうでしょう
そうか ふつうじゃないんだっけ
あなたの日記を教えてくれたのは、ライナーノートのはじめのほうに出てくる山田正樹です。(大体彼にしたってメンバーでもないのに書くことはないよね普通)そのうちお話しする機会もありましょうが昨年9月のお彼岸、ぼくは篠田昌己の墓参のために19年ぶりに横浜を訪れ、23年ぶりに山田正樹と会い、鈴木康文のドラムを聴くため池袋へ行き、チューニングが悪いことにクレームをつけた訳です
翌月円盤田口くんに公開練習のお願いに行き、11月からのスタートと相成成ってゆくのですが
(まあ最初はね)
しかしこの間の動き、蠢きは何だろう
そしてこれからだ
あなたも登場人物の一人になってしまった以上
巻き込まれ続けなくてはいけません
つくる音楽や詞と同様、なんてオモシロイ手紙を書くひとなんだろう、という想いはさておき、わたしはこれを読んで驚いた。というか呆れた。“え、まだ、そんなことを言っているの?”って。
〈惣ちゃんがそんなふうだったとは〉なんて、〈男〉は言っているけれど。わたしに“想い”を託したはずの彼が、自分で〈男〉の公開練習へやってきた。かつてのバンド仲間が〈男〉に会いに来た、〈男〉を見に来た、〈男〉の歌を聴きに来た。初めて足を踏み入れる高円寺の古いビルの二階の“野原”に、彼はわざわざやってきたのだ。そのことで充分に“想い”は伝わるはずではないか。それに先の公開練習の日は、夜までずっと、ふたりで話し込んでいたのではなかった? 〈男〉が住む町への乗り物が出るぎりぎりの時間まで、ふたりは一緒にいたのではなかった? いったい何をしていたんだろう、と女のわたしは思ってしまう。約20年ぶりに再会して、まさか音楽談義や思い出話に花を咲かせていたとか? ありえないわ、この感じ。というか、それってどういう感じ?
もうひとつ、“え、まだ、そんなことを言っているの?”と思う箇所があった。〈あなたも登場人物の一人になってしまった以上 巻き込まれ続けなくてはいけません〉だって。わたしなら、とっくの昔に巻き込まれている。それに、とっくの昔から〈巻き込まれ続け〉るつもりでいる。だからこんなに胸がざわざわして苦しいのに。男と女の中を流れる時間の速さには、ちょっとタイムラグがあるのだろうか。
たぶん、男と女の時間にはタイムラグがあるのだ。それを証拠に、公開練習の2日後(つまり〈まほうの1〉をアップする前)に届いた少女小説家からのメールには、すでにこう書かれている。
亜古さん、なんだか深くかかわっちゃいましたね。
そもそも発端は、『亜古さんのブログ』なので、
もう逃げられませんね。
ふふふ・・。
ほら、ね。彼女にはちゃんと見えている。巻き込まれて、逃げられない風の中にいるわたしの姿がちゃんと見えている。とっくの昔から。
まぁ、いいでしょう。駆け足は得意ではないけれど、わたしは女の特権を行使してちょっとだけ先走ることにしよう(先走って、間違って許されるのもたぶん女の特権!)。
でも、走る、けれど、どっちの方向へ? そう考えあぐねていたある夜、男からふいにメールが届いた。以下、全文ママにて掲載。
前回の練習の隠れたテーマのもうひとつに
ミルフォードグレイヴス
があります。
http://www.youtube.com/watch?v=XV5SE8XCISk&feature=relmfu
1941年生まれなのでこの時すでに69歳!
そんなことで。
そんなことで。って…………。なんなのだ、このメールは。
呆気にとられる、とはまさにこのこと。ミルフォード・グレイヴスというアーティストは、ぜんぜん知らなかったけれど。69歳の彼の演奏画像について、公開練習のあとの宴で、〈男〉と彼が盛り上がっていた記憶はある。「見た?」「見たよぉ!」「すごいよねぇ!」のやりとりのあとに、〈男〉がポンと自分の腕を叩いて「まったく落ちてないんだよ。むしろ、もっとさらにすごいことになってる!」と言った。あら、このひとも……とあのときわたしは思ったのだ。才能が腕に宿ると仮定して、そこをポンと叩いて、落ちるとか上がるとか言ったりする、例のアクションをこのひとも自然にする……。もしかしたらこれ、かつて彼らが組んでいたバンドの共通言語なのかもしれない、と、宴の末席で冗談混じりにそんなことを考えていた。
でも、それにしてもなんで? なんで、わたしにわざわざメールで教える? ミルフォード・グレイヴス。彼の演奏の画像を貼り付けて、なんで〈男〉はわたしに送りつけてくる?バンド仲間でもないのに。
もちろん、見た。すげえーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。まじですごいです。めちゃめちゃかっこいい。この物語をご愛読のみなさんがたも、ぜひ見てみてください。
そんなことこんなこといろんなことそんなことどんなことあんなこといろんなことこんなこと
おーぼえーていーてねー
おーぼえーていーてねー
おーぼえーていーてねー
そんなことこんなことあんなこといろんなことそんなことあんなこと、それから、へんなこと、あ、それから、あー、あああ、なんだっけ、それから、その、そのうち、
おーぼえーていーてねー
おーぼえーていーてねー
おーぼえーていーてねー
おぼえていてね
おぼえててね!
公開練習と公開練習の間にはいつも、一ヶ月という月日がある。第五回目を初めて見に行って、第六回目までの一ヶ月間の長さ遠さがわたしの身に染みた。〈男〉も第六回目の公開練習の最後に、客に向けてこう話している。
言いたいことは山のようにありますので、たぶん、これからぼくはたくさんしゃべりますので、こういうふうじゃない席に、あの、しますから、よかったら付き合ってください。先月から今月までの間が、ぼく、とても長くて、毎月。あの、なんていうんですか、とても、困ります。いろんなものがたまって出てきてしまうので、放出するところが、ない、んです。なんか、そういうふうになりました。すみません、とりとめがありません。ありがとうございました。
この言葉を聞いて、わたしだってそうだよーーーーと思ったのは、わたしだけではないことをわたしは知っている。〈男〉の公開練習の現場に、最初から毎回立ち会っている(というか一緒にやっている)Pさんや、場所を提供しているタグチさん。〈男〉の高校時代からの友人で、〈男〉いわく「ぼくの外付けハードディスクのような存在」の山田正樹。それに毎回、公開練習を見に来ている客たち。「公開練習を聴くようになって、ほかの音楽が聴きたくなくなっちゃった」とわたしに教えてくれた女の子もいる。みんな、きっと一ヶ月という月日を、ものすごく長く感じている。いや長さは、長いんだか短いんだか、よくわからないけれど、一ヶ月という日々を、一粒一粒かみ砕くようにしてカウントダウンしているはずだ。
そんなひと月の中にいて、わたしにふいに不安が沸いてきた。このまほうの物語を書き進めていいものだろうか。わたしは自分のことがよくわからない。仕事仲間から“アコギなアコ”と呼ばれていたりもして、「こうしたい!」と思うと、かなり乱暴なことをしたりもする。一応プロだから、文章でひとを傷つけるようなことはしないつもりだけれど、何しろひとがたくさん(かな?)介在する、バンド(なのかな?)の立ち上がりをルポしているのだ。これからきっと、かなり立ち入ったことを書くことになるだろう。約20年ぶりに音楽を再びはじめた〈男〉の、これからの活動の妨げになったりしないだろうかーー。こんな不安がムクムクと沸いてきたので、〈男〉に尋ねようと思った。ある夜、「続けてもいいでしょうか」とメールで聞いた。翌朝、メールボックスを覗くと、さっそく彼が返事をくれていた。
書かれて困ることなんかなにひとつ有りません
起きている事はそんなに個人的で小さなことではないと
当事者のひとりとしては感じています
ということで
どぞよろしく
ちなみに件名は〈遠慮もしないでね〉。
その日はそこいらじゅうに金色の粉がふりそそぐような陽ざしで、なんだかいいなぁ、なんだかしあわせだなぁ……とわたしはずっと心の中でささやいていた。なんだか一日じゅう、春の海に足先だけ入れてちゃぷちゃぷやっている気分だった。なんでだろう? なんでしあわせなんだろう……と幾度か思ううちに、あ、そうか、と気がついた。書いてもいい、って言われたからだ。書いてもいい、は、生きてもいい、と同じこと。書いてもいい、は、居てもいい、と同じこと。居てもいいのだ、物語の中に。
びょうびょうと風吹く物語の草むらに、そうしてわたしはまた深く足を踏み入れた。
挿入歌/すきすきスウィッチ『あんなこと こんなこと』
★このような〈まほうの時間〉が進行中で、この物語の行く末は皆目わかりません。先走っているはずのわたしにもまるで見えていない。でも、やがて迎える〈わたしたち〉の夏は、今までの人生でいちばんアヤシク光る、そんな予感がしています。
ひかりのどけき春のひかりが、しゃんしゃんとふりそそぐテーブル。高円寺の雑居ビル二階の窓際で、まひるまに催された小さな宴は、久しぶりに再会した男たちの弾んだ声で盛り上がっていた(店の営業中にもかかわらず。店主のタグチさんが放っておいてくれるのだ)。約20年ぶりに姿を現した〈男〉のいま再びの“誕生”を、昔の彼をよく知るひとたちが集まって祝福しているみたいに。そこで話されていたことの記憶は、新参者かつ畑違いのわたしには残念ながらおぼろだ。
あのレコーディングのときは本当に土壇場のギリギリにいたんだよ、とか、誰それとはもう連絡が取れなくなった、とか、もしもわたしが日本のインディーズ音楽物語を書こうとするライターならば、心のメモ帳に必死にペンを走らせるような話も、(何しろ彼らはむきだしだから)次々に飛び出していたようだけれども。知っている単語もたまにはあったけど、好きこそあれ探求心のないわたしには音楽のことはちんぷんかんぷん。だから、ほげ〜と彼らの話を聞いていただけだったし、元来小さいひとが好きなので、レアな音楽裏話よりも、どうにもPさんと娘さんのやりとりが気になってしかたがない。
「もう限界だよな。お腹すいたよなぁ〜。でも、もうちょっとネ、ここッ!(とホッピーのグラスのラインを示す) ここまで呑んだら、ご飯食べに行くから!」と娘さんをなだめすかして、宴に居続けようとするPさん。しばらくするとまた、「飽きたぁ〜? そりゃ飽きるよなぁ、小学2年生だもんなあ。でも、いまなのよ! いまがちょーうど話が面白くなってきたところだからネッ! もうちょっと、だから。もうちょっとだから、お父さん、もう一杯呑んでいい〜?」。それに対してウ〜ン、とためてから「いい!」とお嬢さんがOKを出したりするものだからたまらなくて。眼光するどい銀色短髪のひとのいるあたりではなく、つい、こっち方向の心安らぐ風景をわたしは見つめてしまう。
でも、覚えている言葉がすこしはある。かけらを拾い集めてみようかな、順不同&脈絡なしに。
●今日の練習のひとつのテーマはアイドルものだったんだけど、最後の曲、わかったひといる? あれはアグネス・チャン。ー〈男〉
○ああ、そうか、アグネス・チャンか。ー〈男〉の高校時代からの親友で、フェヴァリッツというバンドをやっていた山田正樹
○佐藤くんのギター、カッティングの音ばかりが聞こえるのがよかったな。ー彼
●いや、あのアンプの使い方が、まだよくわからないだけなんだよ。ー〈男〉
○そうなんだ。でもむしろ、あのカツカツいう音が、いまの佐藤くんの歌に合う気がしたよ。ー彼
○もう、どのぐらい練習したの? ー彼
●だから、今日が公開練習第6回目だから、6回だよ。ー〈男〉
◇わあ、ほんとに6回ぽっちなんだ。ーわたしの心の声
●ポップくん、マンダラ2のPOP鈴木祭http://d.hatena.ne.jp/pop-suzuki/20120708/は7月8日だよね? おれ、出るから。ー〈男〉
○えええええっっっ、ま、まじすか??? いやあ、いやいやいや、いいですよー。ーPさん
●なんでだよ。出るから。予定に入れてあるから。ー〈男〉
○いやいやいや……それは……いやいやいや…………。ーPさん
●だって、もう、予定に入れてあるんだもん。ー〈男〉
◇わあ、とうとう本番やるんだ。しかもその日って、佐藤さん再デビューの円盤祭の前だよな。ーわたしの心の声
○いや、それは、いや、ちょっと……いや、どうかなぁ…………。ーPさん
○ポップさん、自分の企画に、佐藤さんに出てもらうのは申しわけないという気持ちなんですよね。ーともだち
○う、うん。ーPさん
○佐藤くんがこれからどうするつもりかわからないけど、録音したほうがいいと思うんだよね。ー彼
○!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ー宴にいる全員
◇ろ・く・お・ん……! 20年ぶりに会ったばかりなのに、なんという急進展! ーわたしの心の声
○もったいないと思う、今度はちゃんと録音しないと。プロデュースはぼく、やりますよ。少しは腕を上げていると思うし。ー彼
○!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! −宴にいる全員
◇わぁ、すごいこと言ってる。でも、そっち言うんだなー。「また一緒にバンドやろう」「一緒にやりたい」って、それが最初かと思ってた。ーわたしの心の声
○今日演った『おみやげ2』だっけ。あと、いま、どのくらい曲があるの? 見せて。ーと〈男〉にリュックから創作ノートを出させる彼
◇わぁ、プロデューサーっぽい。ーわたしの心の声
○ふ〜ん。6ヶ月の間にこれを? ーノートをめくりながら言う彼、隣にいるものだからつい覗き込んでしまうわたし
●うん。ところでポップくん、知ってる? ーと居住まいを正す〈男〉
●実は前回の公開練習の日に…………。ー〈男〉
○あ、そうなんですか。ーPさん
「あ、そうなんですか」と、〈男〉の言葉を鎮かに受け止めたPさんは、それを解禁の合図と察したようだ。次の瞬間にいきなり、酒にしたたかに酔ってハイになった男に変身した。丸く赤い鼻をさらに丸くふくらませて、「だって、だってね〜〜〜」と明るい酔っ払い口調で、〈男〉の約20年間の“喪失”の真相を語り始めた。「だって、だってね〜〜〜○○○○○○、○○○○だったんですよねっ?」「それで、それでぇ〜〜〜○○○○○○、○○○○なんですよねっ?」と毎回、語尾だけ〈男〉に振って承認を得る話し方。腕組みをして黙って聞いている〈男〉は、それを否定しないことでPさんの話が事実だと認める。おもしろいなぁと思った。〈男〉とPさんの(師弟?)関係が。Pさんはつくづくやさしいひとであり、〈男〉の絶好の相棒なのだ。〈男〉が自分からは話しにくいことの、でも、この場にいるひとたちには明らかにしておきたいことの代弁者を彼は買って出た。さすがバンド仲間とも言うべき、暗黙の了解の“あうん”の呼吸で。しかも“酒に酔って”のことにして。それらのすべてがバレバレ。Pさんもまた、むきだしの男なのだなぁ、とわたしは心の中で唸った。
〈男〉の約20年間の“喪失”について。これもまた、わたしにはよくわからない。ただ、ひとつだけ伝わってきたのは、〈男〉を昔から知るひとたちは、約20年前に彼が一方的に“音楽とその周辺にいるひとたち”との関係を断ち切った、と思っていたらしいこと。そしてそれが誤解であったということ。
Pさんを介しての事情説明を聞くと、その場のみんなが驚いて、すぐにいくつかの質問が出た。
○じゃあ、佐藤くんは何も知らなかったわけ? ー宴の席の誰か
●そう。だから、どうして誰も連絡をくれなくなったのかと、おれのほうが不思議だったんだよ。ー〈男〉
○え、それじゃ、「幸福な人間には音楽はいらない」と言ったというのは?
ー宴の席の誰か
●いや、だから、話っていうのはそんなふうに伝わるのかな、ってそれ聞いたときに思ったけどね。ーと困った顔の〈男〉
●いや、売り言葉に買い言葉じゃないけど、「それじゃ、『幸福な人間には音楽はいらない』って、そういうことなのか!?」と聞かれて、「ああ、そうだよ!」みたいな返事をしたことはあったかもしれない。でも、自分から言った覚えはない。ー〈男〉
と、ほらね、わたしみたいな新参者が、こんなことを中途半端に書いてもよくわからないでしょ。だからもうやめにします。
よくわからないのだけれど。まほうにかかっていたんじゃないかな、とわたしは勝手に思うことにした。〈男〉はなんらかのまほうにかかっていたから、約20年間、“音楽”という野原に出てこられなかった。ようやくまほうがとけたから、こっちへ出てこられた。でも、こっちだって、まほうなのだ。まほうからまほうへ、ひとは生きるのだ。
ギターを弾いたり歌ったり、はしなかったけれど。再び姿を現したとき、あるひとに「20年間音楽から離れていたのなら、最近の音楽はあまり聴いていないですか」と尋ねられて、〈男〉は真顔で言ったそうだ。「えっ? 音楽を聴かずに生活できますか?」。これ、(こっち側の)まほうによって密かに入手した、わたしの好きなエピソード。
それにしても、約20年間の“喪失”は、〈男〉にとって酷なことだっただろうか。約20年間の“喪失”で、彼はなにかを失っただろうか。いや、むしろ音楽活動をしなかったからこそ、損なわれないものもあったようなのだ。
宴の席で彼が言った。「佐藤くんは声が……。どんなひとでも年齢とキャリアのせいで、声は低くなるんですよ。劣化する。だけど佐藤くんは長い間、歌っていなかったからか、声が温存されている。そのことにぼくはちょっと驚いた」。これを聞くと、〈男〉はパッと顔を輝かせた。ほんとうに、薄桜色に光るぐらいに顔をパッと輝かせたのだ。そして「ああ! ほんとに!? そういうことってあるのかなあ!」と感嘆の声を上げた。「ソウちゃんにそんなこと言ってもらえると、うれしいなあ!」とつくづくうれしそうに言った。その、あまりのむきだしぶりがまぶしくて、わたしは自分がなんだか恥ずかしくなった。
きみのおみやげは何かな
きみのおみやげは何かな
わからないことがないことがなかった
わからないことがないことがなかった
わからないことが
ないことがないことがなかった
おみやげはあるのかな
だれの
だれからの
いつまでも
いつからも
いつまでも
おみやげは おみやげは おみやげはないのかな
その日はそれからずっと、夜遅くに、〈男〉の住む町への乗り物が出る時刻まで、彼と〈男〉は一緒にお酒を飲んでいたらしい。約20年ぶりの再会の昼と夜。きっと居酒屋かどこかにいたんだと思うけど、わたしの幻想の中では、彼らは駅前の噴水の向こうの夜の芝生に座り込んで、ずっと話し込んでいる。終始、うれしそうな顔で。言葉がとぎれることもなく。あくびやため息の入り込む余地もなく。
ちなみにこの夜のことも、まほうによって密かに入手した、わたしの大好きなエピソードとそこに加わった妄想。で、まほう物語の次なる展開やいかに?
挿入歌/すきすきスウィッチ『おみやげ』
★目下、このような〈まほうの時間〉が進行中。このあとどこへ行くのやら、わたしにも、たぶん彼らにも皆目わからないのです。まだとうぶん、これまでの日記の体裁から離れた文章が続きそうです。
彼が店に入ってくると、いつもはレジカウンターの中にいるタグチさんが急いで外に出てきた。見廻して空いている席を見つけ、彼に勧めている。“作り手自身が納品すること”を条件に、日本全国のインディーズ音楽を引き受けて売る、高円寺の雑居ビル二階のアンダーグラウンドな店。若い頃からプロの世界にいる彼は、もしかして初めてこの混沌に足を踏み入れたのではないかしら、とわたしは思った。手作りのCDやCD-Rがぎっしり詰まった棚と、新譜や本(湯浅学『音楽が降りてくる』や石井モタコの漫画『超能力』など)を平置きした台の間の、ひとひとり通るのがやっとの通路。その狭き道を、ボタンダウンのシャツを着た彼が進む。通路の先に立っていたPさんが大きなからだをできるかぎり平べったく縮こませて彼を通しながら、丸い鼻と丸い輪郭をさらに丸くした擽(くすぐ)ったいような笑顔で会釈した。
ローテーブルを囲むソファの空席に腰を落ち着けると、彼は最初こそ、ひび割れた荒れ地に下りてしまった白鷺みたいにキョトンとしていたけれど。目の前で演奏する〈男〉に目を向けるや、すぐさま、あの表情になった。譜面を見ながら音を奏ではじめる寸前の、止めた息の奧深くに熱いものをたっぷりと溜め込んだ表情。そのきれいな横顔から目を反らして、わたしも再び、演奏する〈男〉の姿を見つめた。
わたしたちは〈男〉を見つめている。〈男〉の中から湧き出す音を、耳を凝らして聴いている。〈男〉がそこにいることで生まれる、空気のゆれを感じている。〈男〉が激しくかき鳴らすギターの弦と指の響きを、〈男〉がしぼりだす声のふるえを、〈男〉が見せる表情を、逃すまいとしてじっと見つめている。そこまでは、ふつうのことかもしれない(いや、決してふつうではない。練習を視聴するなんてことじたい奇妙な体験なのだから)。ふつうじゃなくて、面白くて、そして怖いのは、〈男〉もまた、演奏しながらわたしたちを見つめていることだ。
いったいどこに、もうひとつの目を隠し持っているのだろう? 彼はからだ全体で“触媒”なのかもしれないと思う。自分の中から出てくるものも、いまこの場にあるものも、彼にとっては同列。自分はひとりじゃないと思っている。〈男〉はその場のぜんぶを見ている。聞いている。感じている。それを証拠に、ドラムのPさんも加わって半ばライヴを想定した形の練習が始まると、もとあった歌詞に即興でこんなフレーズをつけくわえて歌うのだ。
飲み物に口をつける 音を聞く
組んだ脚を組み替える 音を聞く
ステージにいないメンバーの 音を聞く……
そのとき青島ビールの小瓶に口をつけていたわたしは、どきん、とする。足を組み替える癖のあるわたしも、どきん、とする。ステージに立っていないメンバーだって、どきん、としたはずだ。自分のことを目の前で歌われて、心の中をのぞき込まれたような気がして、どきん。きっと、そこにいた誰もがそうなはず。〈男〉は歌という腕をにょきっと伸ばして、目の前にいるひとびとに触れようとする。遠慮なしに。わたしにはそれが、スコップで掘って、心臓という名の球根を探り当てようとする怪物みたいに思える。いやらしい、という言葉が果たして適しているのかどうか。できれば逃げ出したいような。でも、どきん、とさせられたら、そのことが翌日も三日後も一週間後も、ずっと気になってしかたがない。
公開練習第6回目、最後は熱唱熱演だった。できうるかぎり、ぎゅうぎゅうと絞ったタオルから、ぽたぽたぽたぽたと熱い水がしたたり落ちた。そこから湯気が上がっているようだった。湯気がかげろうになって、黒っぽかった店の空気を白くした。〈男〉は演奏を止めて、静かな笑顔になった。「ありがとうございました」と銀色混じりの頭を下げる。みんながそこで初めて拍手をする。
「ソウちゃん!」と、〈男〉が満開のサクラの声で彼に近づいた。「よく来てくれたねぇ!」と、〈男〉が彼をまっすぐ見つめる。すこし離れたところでわたしはそれを見ていた。
わたしは、彼に挨拶をしてすぐに消えようと思っていた。気の重い役目から、電気の役目から開放されたわけだし、この場にとどまる必要はないのだ。ところが「よく来てくれたねぇ!」という〈男〉の呼びかけに対して、彼は「亜古さんが……」などとわたしの名前を出しながら、こちらをちらりと見て何やら話しているではないか。しかたがなく彼らに近づいた。そして、「白江です。ブログにコメントをいただいてありがとうございました」と〈男〉に挨拶した。〈男〉は怪訝な顔をした。そりゃそうだろう。久方ぶりに会う自分のかつてのバンド仲間と、いきなり現れた自分の新しいファンがすでに知り合いなのだから。いや、実のところ、知り合いというには日が浅くて、彼と顔を合わせたのはこれが二回目だったのだけれど。それでも、なぜか〈わたしたち〉は出会ってしまったのだ。時間や距離の遠さの有刺鉄線をくぐり抜けて。あやしい春の風にふうっと吹かれて、いま、この野原に一緒に立っている。高円寺の古びたビルの二階にあるフィールドに。それぞれ50を越えた年齢になって。日曜日のまひるまに、みんなで集まっている。すべて、まほうのせいだ。
機材の片づけをするために〈男〉がわたしたちから離れると、ともだちがやってきて「南野陽子の『話しかけたかった』をやった」とうれしそうに言った。ひとりで練習するときに、〈男〉が演奏した聞き覚えのある1曲がそれだったらしい。ともだちは日本のものなら、アンダーグラウンドな音楽もアイドルも同様に好むひとなのだ。わたしは隣にいる彼に訴えるように言った、「いらっしゃらないかと思っていたから!」。彼はうなづいて応えた、「うん。たまたま時間ができたんですよ。だからちょうどよかった。彼からもメールをもらったんです」。自分が公開練習をやっていることを、半年が過ぎてようやく、〈男〉はかつてのバンド仲間である彼にメールで伝えたようだ。「いらっしゃらないかと思っていたから、惣一朗さんの代わりに、わたしは佐藤さんになんて言ったらいいかと思って、どきどきだったんです」。「だからそのせいであこさん、今日の公開練習に遅れて来たのかと思った。プレッシャーで」とともだちがわたしをひやかした。彼は彼で「ぼく、あのとき、なにか言ったんでしたっけ?」なんて銀縁眼鏡の奧でとぼけている。
「どうする? どうしたい? どこかでお昼を食べなくちゃ、とは思うんだけれど」とわたしはともだちに耳打ちした。彼は小さな声で言った、「ぼくはあこさんとは食事に行くつもりでいたけれど……」。「わたしもそう思っていたんだけどね」。「みんなとは……こわいな」、そう言って、わたしより20cmは背の高いともだちは目を伏せた。店の窓側のスペースにあったドラムセットやアンプが片づけられ、そこにテーブルや椅子が運ばれて、残ったひとたちが集まりはじめた。彼が「座りません?」と誘った。わたしは音楽をやっているわけでもないし、音楽マニアでもないから専門的な話はわからないし、打ち上げ的なものへの参加は滅多なことでない限りしないのだけれど。このときばかりは滅多なことである気がした。
「今日の練習、おもしろかったぁ〜? 小学2年生に面白いわけないよなっ!」、そう言いながらPさんが小さな女の子をめちゃめちゃに抱きしめている。ずっとひとりで座って公開練習を見ていた髪の長い女の子は、彼の娘さんなのだった。Pさんのそんな様子で場の空気がほころんで、「いやあ、あの扉は重かった」と彼が口火を切った。店(というか野原?)の会議室みたいなスチールの扉。「実は12時前にここに着いたんだけど、この扉を開けて中に入るべきなのか……と足が止まってね。そうだ、まだ早いからコーヒーを飲もうと思って、いったん駅までもどってドトールに入ったんですよ」。あぁ、このひともそうなんだ……と思ったのは、Pさんのブログhttp://d.hatena.ne.jp/pop-suzuki/20111017を読んでいたから。去年の9月、約20年間ゆくえをくらましていた〈男〉から突然メールが来て、Pさんのやっているバンドのライヴを見に来るという、その顛末を書いた血湧き肉躍る抱腹絶倒の文章だ。ライヴ当日、Pさんが地下のライヴハウスへ降りていくと、すぐ目の前に〈男〉の後姿があったので、Pさんはへなへなへな〜とそのまま逆回しのように降りてきた階段を上って、ライブハウスの外の路上まで出てしまったという。彼らをそこまでビビらせる、約20年ぶりの〈男〉の出現とはいったい何なのだろう?
彼はゆっくりと話を続ける。「ドトールでコーヒーを飲みながら考えてね、『でも、やっぱり、佐藤くんの演奏を聞きたい』と思った。それでここに引き返したから、遅れてしまったわけです」。彼のカミングアウトに、その場のみんなが笑った。次に彼は〈男〉に向かって言った、「よかったよ、すごく」。「ほんと? ソウちゃんに言われると、うれしいなぁ」と〈男〉は顔を輝かせた。文字通り、パッと輝かせたのだ。顔が薄桜色に光るぐらいに。むきだしだな、とわたしは思った。ここにいる男たちは、なんてむきだしなんだ。恥ずかしいほど、むきだしだ。こんな、むきだしの現場、長い人生でもめったに遭遇できるものではない。
まほう? いや、わたしが知らなかっただけかもしれない。こんな世界があることを。知っていたとしても、はるか遠いところに置き去りにしていたのかもしれない。いや、でも、やっぱり、まほう? 〈男〉の怪訝そうな眼がこちらにまっすぐ向けられませんように、と祈りながら、わたしはそのめずらしい野原の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
あなたのこと まだよく知らないけど
なんだかなりたいよ すきに
あなたのこと まだまだこわいけど
なんだかなれそうよ すきに
あなたとわたしとちがうぶんだけ 世界がよけいひらけそう
あなたのことば まだまだわからないけど
なんだかなれそうよ すきに
あなたもわたしがこわいぶんだけ 世界がよけいひらけそう
ねえ、だから話しかけてみて 無視してしまうの少し惜しい
挿入歌/すきすきスウィッチ『はじめて』
★このような〈まほうの時間〉が進行していて、まったくどこへ行くのやら、わたしにも、たぶん彼らにもわからないのです。とうぶん、これまでの日記の体裁から離れた文章が続きそうです。そしてこの物語がいつどんな形でゴールを迎えるのかも、皆目検討がつきませんのです。
〈まほうの時間〉、ひとたびそれが始まってしまえば、“ふしぎ”があたりまえになる。“たまたま”や“ぐうぜん”があらかじめ準備されていたものに思えてくる。世界がぐるりと回転して、いままで見えなかった扉があらわれる。時間の巻き尺から目盛りが消える。“必要なもの”がわたしのまわりに集まりだす。古い記憶も新しい情報もまことしやかな噂話も。この世に無いはずの物質も、未知なるひとも。50年も生きていれば、新な出会いなんてもうないだろうし、いらないと思っていたけれど、とんでもないことだった。〈男〉とかつてバンドを組んでいた彼にしても、その妻である少女小説家にしても、今年になって初めて会ったひとなのだし、それに新しいともだちもわたしにできた。
ともだちと夕方に待ち合わせをした。まだ陽の余韻の残る菫色の時刻に。わたしのほうが先に店に着いた。5分後ぐらいに彼がやってきた。重そうな大きな黒い鞄を肩から提げている。「すごい荷物」と言うと、「店の環境で聴けないかもしれないから、いちおPCを持ってきた」という返事。どうしてそこまでして……という思いがモンシロチョウのようにわたしの中に一瞬止まったが、すぐに飛んでどこかへ消えた。
顔見知りではあるけれど、ちゃんと話したことはなかったひと。日本のレコードのコレクターである彼はわたしのブログを読んで、自分も〈男〉のアルバムを持っていることを思い出し、聴いてみたら妙にはまってしまったという。そしてある日、友人の若いバンドマンのライヴに行くと、そのバンドマンが“たまたま”、かつて〈男〉が歌っていたらしい『5年』という曲をカバーした。驚いたともだちはウェブを通して、そんな曲が存在することをわたしに教えてくれた。さらに“たまたま”、ある音楽が彼のところへやってきた。それをわたしに聴かせてくれるというので、初めてふたりで会うことになったのだ。
ともだちが店長のナナオさんに持ってきたものを渡すと、すぐに音が流れ出た。思いがけず、とてもクリアで臨場感がある。想像していた30倍ハードな音楽だ。これ以上は無理という限界までぎっしりと、小石混じりのシロツメクサを詰め込んだような音。ふうううう、とわたしが唸ると、「ねっ、意外でしょ? プログレなんですよ」とともだちが言った。
突き刺してくる音の刃(やいば)を受けながら、わたしたちは武士のように食事をした。「今シーズン最後のものですよ」とナナオさんが教えてくれた、春の名残りの根つきの芹が入ったきりたんぽ鍋をつつき、ともだちは焼酎のホッピー割りを、わたしは日本酒を飲んだ。「この間の公開練習に行ったんですよね、どうでした?」、ともだちがわたしに訊く。「どうって?」と返すと、「髪は、あのひとはいまはどんな髪型なんですか?」と彼は尋ねるのだ。わたしは思わず吹き出した。ほんとに知らなかった、男がこんなに髪に固執する生きものだということを。以前、どこかの理髪店の店先で『男は髪型』という短いコピーのポスターを見て、なんてひねりのない……と呆れたことがあるけれど、あれは案外、核心を突いた名コピーだったのかもしれない。
これを皮切りに、わたしたちは〈男〉のことを話しだした。約20年ぶりに姿をあらわして、再び「音楽をやる」と宣言した〈男〉は、去年の秋から月1度の公開練習を行っている。その第1回目を見た音楽ライターが、ウェブマガジンhttp://ure.pia.co.jp/articles/-/1198に書いている。
「エレキギターに触れるのも数年ぶりだ」とおっしゃっていた。
「帰ってからきっと落ち込むだろう」ともおっしゃっていた。
「まだ何を歌ったらいいかもわからない」と佐藤さんはおっしゃっていた。
冬のあいだ、公開練習は回数を重ねて、はりつめていた空気がようやくゆるんできた3月初めに、わたしが見たのは公開練習第5回目だ。そのときのことは誰にも話していない。話せる相手がいない。文章に書いてもいない。自分にまだ見えないものについて書くことはできないから。でも、話せなかった・書けなかったことも、夜のしじまにともだちに囁くことならできる。わたしは彼に話した。
なんていうかね、最初はすごく困った。目のやり場がないの。だってそれは練習だからね、練習を覗き見するような感じなんだから。初めはひとりでギターを弾きながら歌ってた。音が続いたり続かなかったり。歌詞が突然出てきたり、すぐに消えたり。そういうことよりも、そこに立っているあのひとを、見てはいけないような気がして。彼も、だろうけれど、自分がいたたまれないんだよね。自分がなんのためにそこにいるのか。なにを見たがっているのか聴きたがっているのか。自分の所在がないのよ。だから組んでいる自分の脚をじっと見つめてみたり、隣のひとが身につけていた毛糸のレッグフォーマーを見つめてみたり、壁に貼ってあるレコードのジャケットを見てみたりして、わざとそっちを見ないようにしたりね。声はきれいだった。アルバムとまるで変わらない感じ。アルバムの中の昔の曲のフレーズが出てきて、ドキッとさせられる新曲があったりして、おもしろかった。最初は彼ひとりでやって。途中から、ドラムのPさんが加わって。あのひとがひとりで演奏しているとき、Pさんはものすごく気を使っている様子で店の隅っこに立っていたの。いや、何をするっていうんじゃないんだけれど、聴きにきているお客さんに対して、なんか感謝しているような気配が彼からすごく感じられた。彼のブログhttp://d.hatena.ne.jp/pop-suzuki/20111007もめちゃめちゃ面白いよね。わたしもあれ、大好き。実際の彼を見ても「いいひとなんだな」って思ったよ。Pさんが加わると、わたしはちょっと安心した。違う意味での緊迫感はあるんだけれど、曲のできていく成り立ちが見えるから、びくっとするだけでなく、わくわくした。たとえばね、ある曲を始める前に「ポップくんはドラマーだから、叩きたいんだよね」とあのひとが言うわけ。「はい」とドラムセットの後ろに座ったPさんが身構える。「でも、この曲は叩かないんだよ」。「はぁ……。はぁ?」とPさん。「宙で無音で叩く一音があって、それからスティックが落ちる」。「はぁ、あ、なるほど」。って、そんなやりとりのあとで音が生まれるわけ。面白いでしょ? ああ、バンドってこういうことか、って思った。わたしは音楽やらないからわかんないんだけど、バンドっていいな、と思ったよ。違う曲のときに「ポップくん、前回の練習でさ、曲間に歳を叫ぶときに、あなたは最初の歳だけ言って、あとはやめてしまったじゃない? あれどうして」とあのひとが訊いた。そしたらPさんがこう言ったの。「最初に自分が言った歳が、自然に出てきたんですけど、その歳を言った瞬間に感極まるものがあって」。それを聞いてあのひとは「ああ、そうか」とだけ言った。そんなやりとりのあとで始まったその曲は、曲間にPさんが「36!」とか「12!」とか「8!」とか「41!」とか叫ぶわけ。たまんないんだよね、すごいな、この曲、と思って。すごい詞でしょ。数字だけで、聴く側にイメージが託されるのよ。そんなふうに新しい曲が、その場で形になっていくの。
その夜、ともだちと駅で別れたのは、12時を廻った時刻だったと思う。いままでは夜10時頃には必ずベッドに入っていたのに、〈まほうの時間〉が始まってから、わたしは夜更かしになってしまった。夜更かしをしても、それまで通りに朝の4時とか5時には目がさめる。気持ちが常に覚醒している。南の海に浮き輪に入ってぷかんと浮かんで、青空と対面したり、気持ちのいい風に吹かれているようなのがいちばん好きなのに。いまのわたしは武士みたいに隙がなくなっている。飛んでくる刃をいつでも受けようとしている。シンドイけど、なにかの使命を授かっているのだから、こんな状態もしばらくはしたがないのかな、という感じ。
そうそう、使命について。スウィッチの間を行き来する、電気の役目について。ともだちに打ち明けると彼は言った。「わぁ、緊張する。それじゃぼくは次の公開練習にはやっぱり行こう。行って、その役目をするあこさんを離れたところから見ていよう」。
そして4月のその日がきた。公開練習第6回目。
高円寺の線路脇の古いビルの二階の店で、日曜のお昼からそれは行われる。前回もだけれど、今回もわたしは30分遅れた。理由は、ニヒル牛2へ店番に出る母のお弁当を作るから。この日に作ったのは、そら豆、えんどう豆の緑の豆と、アスパラガスと錦糸卵の春めいた手の込んだおすしだった。いや、でも、そんなことは時間を工面すればなんとでもなるはず。だから、やはり怖いのだと思う。ふつうのライヴとは違って、何が起こるのかわからない公開練習を見るのが怖いから、つい出遅れる。まだ、どんなひとなのか知らない〈男〉のたましいが、何もまとわぬ姿でそこにある。裸みたいにそこにある。それを見るのが怖いのだ。
しかも、この日は練習後に、わたしはその場で使命を果たさなければいけなかった。いったい何から話せばいいのだろう? まず、〈男〉に近づき、話しかける。軽く自己紹介をする。それから、つい先日、初めて会った彼のことを話す。彼とわたしとのつながりについては、一度聞いたくらいではピンと来ないだろう。でも話す。それから、彼の想いを〈男〉に伝えるーー。こんなに難しいことがわたしにうまくできるだろうか。文章で伝えたり、ひとの話を聞くことは得意だけれど、自分から話そうとすると言葉がしどろもどろになってしまうわたしに。
古ぼけたビルの外階段を二階へのぼっていくと、ギターの音がすこし漏れていた。今日も〈男〉は時間厳守で公開練習を始めたらしい。会議室みたいなスチールの扉を押して中に入る。小さなローテーブルをコの字型に囲むように配列されたソファや椅子に、男、男、女、男、女、若い男、小さな女の子、男……10人ほどのひとが座って、〈男〉の演奏を静かに聴いていた。ともだちがわたしを見つけて軽く会釈した。彼は、そばに親らしきひとの見えぬ小さな女の子の隣に座っている。その女の子は小学校低学年ぐらいの幼さなのに、なぜか〈男〉の演奏をじっと見つめていた。
店主のタグチさんから青島ビールの瓶を受け取ると、わたしは部屋の隅に空いていた丸椅子に腰を落ち着けた。〈男〉はギターを弾きながら、ひとりで歌っている。いつか聴いたことがあるような曲だ。2度目に見る〈男〉の姿を、わたしは目でなぞるように確認する。髪は、彼の髪は……白いものが混じる短髪。薄手の赤いセーターを着て、足下はぺたんこのズック。上着はやはり、傍らのピアノの上にきちんとたたんで置いてある。ふしぎなことに、2度目はもう目を反らさなくても平気だった。なぜかはわからない。でも、ギターを弾きながら、ふと身を返してこちらを向いたときに、〈男〉の面球が浄瑠璃人形のようにぐるりんと一回転してわたしを見据えたような気がしたから、怖いことはやはり怖いのだ。
ひとつの曲を終えると、〈男〉が次に演奏したのは『5年』だった。デビッド・ボウイーの『FIVE YEARS』を日本語訳にした曲。地球の命があと5年しかないと歌う絶望の歌だ(でも〈男〉は「あと5年も」とも歌ったhttp://acocoro.nihirugyubook.but.jp/?eid=120)。背の高いひと・低いひと、年取ったひと・若いひと、自分にこんなにたくさんのひとが必要だとは思わなかった、と歌う哀しい歌だ。その中の「ミルクセーキを飲む君のことを、ぼくはこうして歌に歌っている」というフレーズを聴いて、ああ、このひとは……と胸の中に熱い水が湧いてきた。ボウイーもまったくそのままの歌詞を英語で歌っているのだけれど、日本語にすると現実離れするフレーズを、陳腐にも思えるフレーズを、ずんぐりとした日本の中年の〈男〉がラブソングのようなせつなさで歌ってしまう。現実から離れる“物語”の言葉を、このひとは歌って語る力を持っている。本物なのだ、と思った。
〈男〉がひとりでする練習が終わりかけて、続いてPさんが加わる第二部の練習が始まろうとするときだった。店の扉が開く音がわたしの後ろで聞こえた。入ってきた人物が、わたしの視界にあらわれると、なんとそれは彼だった。場がかすかにざわめいた。当たり前だ。30年ぐらい前に〈男〉と一緒にバンドをやっていたかたわれが、ずっと姿を消していたかたわれの公開練習を見るためにやってきたのだから。わたしはジャケット姿の彼を見て安堵した。気の重い役目から開放された、と思った。と同時にちょっとがっかりした。気の重い役目をやってみたくもあったのだ。
カタカタカタカタカタ コトコトコトコトコト
カタカタカタカタカタ コトコトコトコトコト
まだ会えないひと 思い出す
間に合う かしら
かたわれとかたわれ
光になりましょうね
まだ会えない ひと・こと 見つめだす
間に合う かしら
かたわれとかたわれ
光になりましょうね
挿入歌/すきすきスウィッチ『カタコト』
★このような〈まほうの時間〉がものすごいスピードで展開していくものだから、書き留めるのが追いつかず長文になってしまいました。しばらく、このシリーズが続くかもしれませんし、続かないかもしれません。何しろ、この先がいったいどうなっていくのか、わたしにも、たぶん彼らにも皆目わからないのです。
聴いたことはないのだけれど、いつも自分が好んでいる音楽と少し傾向が違う、という先入観を持っていた。ところが生の演奏を聴いた3月の夜、わたしは魅せられた。彼が音を出す瞬間に。譜面を見ながら慎重に慎重にギターをつまびき始める寸前の、ほんのあわいに止まる彼の息に。はじまりの前の、無に。すごく熱い夏の夜のような暗がりを見たのだ。
トゥインクルトゥインクル きみはスターダスト ほしの屑
トゥインクルトゥインクル ぼくもスターダスト ほしの羽根
アンコールにも「好きな曲だから、やっぱり『Stella』を」とバンドリーダーの彼が言って、この夜に二回演奏されたカバー曲。その強く静かな旋律をからだにしみこませたまま、ライヴ終了後に彼と話した。その場にいるひとりひとりに、ビールの瓶をカチンと合わせに歩いていた彼がやって来ると、わたしの近くにいた彼の妻がわたしを紹介した。ニヒル牛マガジンの、このブログhttp://acocoro.nihirugyubook.but.jp/?eid=116の書き手であると。
少女小説家(少女漫画というジャンルがあるのだから、少女小説とジャンル分けしてもいいのでは?)である彼の妻とも、この夜が初対面だった。それでもお互いがお互いのことを知っていたのは、わたしの親友が少女小説家の親友でもあって、お互いの話をよく聞いていたから。3月の終わりに行われた彼のバンドの演奏会は、親友のパートナーが主催するライヴ企画だった。だから彼の妻である少女小説家がそこにいて、わたしも客としてそこにいた次第。
その夜に聞いたところによると、少女小説家は少し前にわたしがこのブログに書いたことを読んで驚き、「ねえ、ねえ、これ……」と彼にも読ませたのだそうだ。そこには、彼がかつて一緒にバンドをやっていた〈男〉のことが書かれていたから。約20年ぶりの、〈男〉の復活のことが。
「会ったんですよね。それで、どんなでした?」と、ライヴ後の彼は開口一番わたしに訊ねた。彼自身は細いフレームの眼鏡をかけて、ジャケットを着込み、ネクタイを締めている。きりっと紐を結んだ革靴を履いている。ミュージシャンであると同時に、音楽プロデューサーとしてプロの世界に長年いるひと。だからというよりも、たぶん育ち(がきっと良いのだろう)や彼自身の趣味が、ソフトでトラディショナルなスタイルを選ばせるようだ。
「どんなって?」とわたしは返した。このひとが何を知りたがっているのかわからなかったから。彼は言った、「髪はどんなでした? はげてる? 長い? それか、今も坊主頭に黒縁の眼鏡だったりして」。髪……。どうしてこのひとがまっさきにそれを知りたがるのか、あいかわらずわからなかったけれど、わたしは一度だけ見た〈男〉の姿を頭の中で復元してみた。
髪……。「長くはないです。短い、のかな。ちょっと白、というか銀色混じりで」。男の髪について語る言葉を、自分があまり持っていないのが申しわけなかった。「眼鏡は黒縁じゃなくて、ふつうの、銀か何かのフレームでした」。そんなことを、ふむふむと彼は興味深げに聞いている。だから、ほかにもデータをあげたくて、髪のことではないけれど自分にとって印象深かったことを付け加えた。「コートが……上着がきちんとたたまれて、そばのピアノの上に置かれていました。その上に持ち物がきちんと載っていました」。こう聞くと、「らしい」と言って彼は微笑んだ。
それからだ。彼が一瞬、息を止めたと思うと、暗闇のハイウェイを疾走するかのように話しだしたのだ。〈男〉が自分にとって、どれだけ大切な人間であるかというようなことを、わたしに(なぜわたしに?)。「だって、彼が書いた、あのアルバムの文章を読んだでしょう。特に最後のところなんか」と言って彼はたまらないという顔をする。そして、ポンと自分の腕を叩いて「落ちてないな、と思ってね」と続けた。才能が腕に宿ると仮定して、そこをポンと叩いて、落ちるとか上がるとか、そういうアクションをするひとを久しぶりに見た気がした。というか、近年(あるいはこれまで)、わたしのまわりにそういうアクションをするひとは皆無だった(大工の友だちもいないし)。それに初対面の女を相手にいきなり、自分の大切な人物のことを熱っぽく語るような男にも近年出会っていなかった(普通はもう少し時間をかけたり、体面を考えたりするのだ)。カルチャーショックだった。わたしは静かに圧倒されていた。ネクタイを締めてジャケットを着た彼に。会って話してみるまでは、“都会派のクールな音楽業界のひと”と思っていた男の、あまりのむきだし具合いに。
「彼が『やろう』って言えば、僕はいつだって、また一緒にやるつもりでいたんですよ」。忽然と姿が消えたあとに残った、長い長い無に向けた慟哭のように彼は言う。そして続けた、「よろしく言ってください」。「はい」と応えながら、わたしは思った。なぜわたしが? 初めて会ったひとから、一度演奏を聴きに行っただけでまだ言葉も交わしてない〈男〉へ、わたしは何か大切なものを渡されて届けなければいけないらしい。約20年分の……いったい何をわたしは託されたのだろう?
ジングル ジャングル 出会う奇跡
ジングル ジャングル 星にねがう
その夜、家に帰ると、遠方の友にメールを書いた。ひとりで抱えているには強すぎる刺激物、話の通じるひとにわずかでも共有してほしかった。〈というわけで、なぜか、想いを伝えるという使命がわたしに託されてしまいました。スウィッチの間を行き来する、まるで電気ですね、わたしの役目は〉
挿入歌/Sketch show『Stella』
★このような〈まほうの時間〉が始まってしまったので、しばらく、これまでの日記の体裁から離れた文章が続くかもしれませんし、続かないかもしれません。何しろ、この先がいったいどうなっていくのか、わたしにも、たぶん彼らにも皆目わからないのです。
サクラの花咲く頃がいちばんさぶい。ふとんを深くかぶると、
ずしんといつもよりも重たく感じた。
ごくたまにそういう夜がある。なにものかが覆い被さってくる気配のする。
外や、部屋の中の暗闇の立てる小さな金属音が、
意味ありげなものとしてからだに響きはじめる。
ずしんと覆い被さってくるものの正体のことを、
なるべく考えないようにしようと、わたしは務める。
考えはじめれば、そいつの思うつぼなのだ。
そのうちに、嫌な痺れでからだががんじがらめになるに決まっている。
意識がしだいに沈んでいく。
このまま深く沈みこめれば……と願う心を揶揄するように、いろんな声が聞こえ出す。
「で、どうしたって?」「あんたさ……」「亜古のところは……」
「結局、昨日言ってたのはね」「だから、そうなると……」
「で? おまえはどうなのよ?」「亜古ちゃん!」「聞いた?」
妙に生き生きとした声たちが、縦横無尽に現れて、
横たわっているわたしのからだに向かってくる。それは射るような鮮烈さだ。
この二日間に会った親戚たちの無数の声。さっきまで一緒にいた
男や女の声が闇の中から湧いてきて、眠りに沈もうとする意識を波立たせるのだ。
邪魔っ気な……と、ふとんの下の動かぬからだで声を追い払おうとして、同時に思った。
滅多に会わない親戚のお喋りを、動かぬからだでずっと聞かされていたのは、
わたしではなく、死んだU子のほうなのだ。
棺の中で。やがてそこが花に埋め尽くされた中で。
乾いたものになった白い陶器の中で。
箱におさまり、膝に載せられ揺られて、帰ってきた自分の家で。
隣の部屋で話す生き生きとした男や女の声をずっと聞かされていたのは、
わたしより10も若いのに先に死んでいった従姉妹のほうなのだ。
彼女が発病してから、わたしは生まれ育った町のあたりにしばしば通った。
彼女が入院していた病院のある新興の駅には、
中学時代に学校をエスケープしてひとりで迷い込んだ“森”があった。
彼女が転院した病院へ向かう大通りには、
通っていた幼稚園のバス停を示すポールが当時のままに立っていた。
てっぺんにピノキオとくじらのオブジェのついた錆びた青いポールが。
彼女の葬儀会場へは、一番古い駅の裏道の線路脇を歩いていくのが近道だった。
30年ぶりに歩く道。
共学の県立高校へ、卒業後一年だけ勤めた県立女子校へ、通うために歩き続けた道だ。
文化レベルの低い、東京近県のベッドタウン。
エーツー歌うところの、中途半端な“とかいなか”。
一番古い駅の周辺やメインストリートには、昔ながらの商店はもう跡形もない。
そのかわりにチェーン店の居酒屋、ドラッグストア、100円ショップ、携帯屋、
ゲームセンター、カラオケ店、金やプラチナの買い取りショップ、保険対応の整骨院……。
スーパーマーケットの安売りポップを思わせる店が麻雀パイのように並んでいる。
それなのに葬儀へ向かうために、30年ぶりに歩き出きだした
駅の裏側の線路脇の道は、まるで昔のままだった。
あの頃となにひとつ違わない風景の中にいきなり放り出されたものだから、
わたしは思わず立ち止まってしまった(ソノ先ヘ進ンデヨイモノカ?
ソノ先ヘ進ムコトハ過去ヘ還ルコトデハナイカ?)。
西友の裏手の青白いバックヤード。
石の柵に、四角い飛び石のある歩きにくい線路脇の道。
小学5年のときに、ここで痴漢にあった。昼間なのに。
後ろから来た男が甘い言葉でわたしと並んで歩きだし、
話の途中でふいにわたしの胸を触った。
線路脇の小道を抜けてすぐの左手、当時でもだいぶくすんで見えた
病院の蛍光灯の下でU子は生まれた。
生まれてから死ぬまで、ひとりの人間の一生を見たのはわたしはU子が初めてだ。
病院はとうに壊されていたが、あとに高層マンションが建っているわけでも、
分譲住宅になっているわけでもなく、
コンクリートの病院が消えただけのがらんとした空き地だった。
土地の買い手すら、つかないらしい地面になっていた。
愛着の一粒もない町。追憶どころか、思い出したくないことや、
だから記憶から葬り去っていることの、あちらこちらに転がっている町。
わたしもだけれど、きっとU子もわたしに負けないほど不味い、
この町の水を飲んでいたはずだ。
そう思っていたのに。
春の夕方の風の中を30年ぶりに歩きだすと、
その土地の気配はあたりまえのように、わたしの肌に寄り添った。
飼い主を忘れない猫のように、わたしの足もとにまとわりついた。
わたしが生まれ、彼女が生まれ、彼女が死んでいった地面から湧き出る水は
とくべつ美味しくもないけれど、とくべつ不味いわけでもなかった。
翌朝の日曜日、生まれた町とは違う町で、いつものように目が醒めた。
闇の魑魅魍魎の力にどうやらわたしは打ち勝ったようだ。
こちらの世界に再び生まれた。
その夜に渋谷センター街のはずれにあるビルの4階の小さなバーで
山本精一が歌ったうた、『まさおの夢』。
彼が歌うのをいままで何回も聴いているのに。
いつものように、彼はただ淡々と歌っていたのに。
まさおはひとり ひとりでうまれた
まさおは人間 ひとからうまれた
まさおはひとり ひとりでうまれた
まさおはいきもの 人間以外の
けれどまさおは動く だから動物
うまれた時から 死人のまさお
ひとから ひとりでうまれてきたのに
せっかく 自分でうまれてきたのに
るーるるる、るーるるる るーるー るーるるる
らーららら、らーららら らーらー らーららら
今年は町じゅうがサクラばかりな気がする。
弥生、火曜、ひかりのどけき春の日。終日原稿書き。
ほんのわずかな外出のとき、住んでいる三階建ての集合住宅の一階の外壁に
ぽつんぽつんと花の咲いているのが目についた。
飛んできた種が、コンクリートのすきまのわずかな土の中で息づいて、
季節が来たからと小さな花をつけるのだ。
菫(スミレ)王国、と日本は言われるそうだ。
菫の種類がはんぱなく多いのだそうだ。
一方、蒲公英(タンポポ)戦争、が日本で起こっているという。
在来種と外来種のせめぎ合い……。そんなことを若かりし日に、
女性誌の植物図鑑のページに書いたことを思いだした。
そうだ、その仕事をした直後に阪神淡路大震災が起こったのだ。
郷里の神戸に住んでいる、小学校高学年のときの担任の守野和子先生の無事を知り、
先生に超久方ぶりの手紙を書いた。雑誌の別綴じ付録であった件の植物図鑑小冊子を
手紙と一緒に送った。こんな仕事をしています、と。
「すてきな女の人になってくれたんですね」と先生からの返事にあった。
わたしにとっての「すてきな(大人の)女の人」は
まさに守野先生だったのだけれど。豆タンクみたいな小さな身体に
知的な笑顔を載せたひと。こういう内容を歌った歌だから、
歌いたくなかったら歌わなくていい、と教室で生徒たちに伝えた彼女の口もとを、
わたしは卒業式の日に凝視していた。唇がかすかに動く程度ではあったけれど、
守野先生はその歌をうたっていた。本当は歌いたくないけれど
卒業していくわたしたちのために先生は歌ってくれていると思った。
先生は、おしまいまで、わたしたちの先生でいてくれようとしていると思った。
ひとのいのちの“居場所”は、ひととひととのつながりがあってこそ、できるもの。
自分ひとりでは、いのちの“居場所”がないのだ。と、
今読んでいる児童文学の形をとった哲学書に、そんなことが書いてある。
水曜、インタビューのテープ起こし。嫌いだけれど
やってしまわないと次の原稿が書けない。
話し方のくせなどを聴いているうちに、自分が潮来(いたこ)になれるのだと思う。
話している内容よりも、ちょっとした言い回しとか、
そういうところにそのひとらしさが出る。
夜のはじまりの時間にロック食堂で待ち合わせをしていた。
夜の更けるまで、音楽を聴きながら音楽の話をした。初めてふたりで話すひとと。
「絶望の友の会」結成。
木曜、インタビューのテープ起こしの続きを必死でやっていると
母が苺大福を買ってきた。いくら高橋の苺大福がおいしいからといって、
そう年中ではありがたみが薄れるというもの。
一緒につきたての柔らかいお餅も買ってきた。この冬に
白菜と豚バラ肉のお雑煮を作ってみたら母がとても気に入ってしまい、
うちではお雑煮というと、それしかない、みたいなことになってしまった。
でも、これが最後のお餅かなぁ。だいぶ空気がゆるんできたもの。
金曜、本の「はじめに」のところがとてもうまく書けた。すてきに書けた。
読むひとの心が沸き立つように書けた。よかった。
まだ明るい夕方に友だちと待ち合わせて、目白のギャラリーへ
イラストレーターのいぬんこの絵本『おかめ列車』の原画展へ行った。
いぬんこちゃんは大阪のひとで、2年ほど前から西荻に住み始めた。
夫でやはりイラストレーターのチャンキー松本さんともども、
西荻の津々浦々にとっても詳しい。
いぬんこちゃんのホームページ
http://www.aozoratei.com/Frameset3.htmlで読んだ彼女の文章、
思わずツイッターに、何回かに分けて引用してしまったもの。
〈お祭りの日は、お目出度いものが勢揃いしてアホになれる日です。
頑張り過ぎてアホになる。アホになってまたがんばれる。
そんな日本の持つ明るくたくましい力に惹かれます。〉
〈できれば、多くの人が、いま乗っている日本とゆう列車を
おもしろがってくれたらいいな、できれば、たまたまの縁で乗り合わせた
この運命を諦めずに愛して欲しいな、と思います。〉
〈いろんな不安や喜びや哀しみや無関心を下地にして、
つかのまアホになってこのおかめ列車の旅をご堪能ください。〉
〈ポー。〉と文章の最後に鳴って、おかめ列車が発車したようです。
そうそう、木曜に発作的にツイッターをやめた。
実は二回目なので、またぁ、という感じで自分でも呆れるわけだけれども。
土曜、前夜に遅くまで友だちカップルの家で
白ワインをまたもやたらふく楽しくおいしく飲んでしまったものだから。
身体に残っているお酒でたゆんとなって、どうにも仕事をする気力が沸かない。
仕事じゃない文章を書く気にもなれない。
それに自分より年若い親戚のいのちが今にも消えそうになっている。
眠ったままで、つながらなくなってしまったから、
いのちの“居場所”を彼女は無くしてしまうのだろうか。
ベッドに入って児童文学の形をした哲学の本を読み、うたた寝していると、
ピンポンピンポンピンポンッ、とけたたましいチャイムが鳴る。
そんな鳴らし方をするのはひとりしかいない。隣の新五年生だ。
サッカー着の半ズボンからすらりと実にいい脚を出した彼と
おしゃべりしていると、すごい楽しい。すごいうれしい。
夕方から急にまた寒さが戻ったので、ふたりでコタツに入って、
「金持ちの家に生まれたかった〜」とか「鮨、食いてぇ〜」とか
アホみたいに言い合っているうちに、憂さが飛んでいく。
彼が帰ると、かつてインタビューした、
80代の中国文学の先生から久しぶりの電話あり。
「一度しか会っていないのに、あなたのこと気に入っているのよ」
「書きなさいよ。あなたは書ける人よ」と彼女はいつも同じことを言う。
夜になって、2コがやってきた。今日はいろんなひとがわたしのところへ来てくれる。
二階の仕事部屋で、わたしが仕事椅子に座り、2コがベッドに座って、しばしおしゃべり。
アホな変拍子の会話で、ずっとげらげら笑い合っているけれど
話している内容は、かなり真面目でかなりピュア。
怒りの話でも何でも笑い話にできれば、たましいはそれだけで喜ぶ気がする。
★
と、土曜で日記を終わらせようとしていたら、日曜にも来訪者があった。
★
日曜、岡山から友だちが来てくださったよ、と店番の母から連絡を受けて、
ニヒル牛2へ自転車飛ばした。久しぶりに会う、思いがけない来訪者。
成長途中の少女のように華奢な彼女もまた、音楽をやっているひとだ。
近況などをひとしきり聞いたあとで、あまり笑わず口も上手でない彼女が
わずかに反らせた視線でわたしに尋ねた、「それで、どうですか」。
どうって? 「いや、大変だと思って」。心配してくれていたのだ。
うん、大変なの。岡山は平和でしょ。と返すと、
「平和ぼけじゃないですか」と少し怒ったように言う。
「だってわたし、東京でいろいろ優しくしてもらったんです。落とし物をすれば
拾って声かけてくれるひとがいるし、さっきも店の前うろうろしてたら、
『どこか探してますか?』って、通りがかりのひとが訊いてくれるし」
そうか、ホテルをチェックアウトした足ですぐに西荻に来たから
彼女は開店前に着いてしまったのだな。
この数日間、東京を歩きながら、いろんなことを想っていたのだな。
次は円盤へ、岡山みやげと自分の新作CDを持っていくと言う。
一緒にニヒル牛2の外へ出ると、「えっと、駅はこっち、ですね」と彼女は
地面の上で銀色のコンバースの方向をキチッと定めた。
えらいね、久しぶりに来て二度目なのによくわかるね、思わず口から出た。
えらい、とひとを誉めるのは上から目線で、わたしの悪い癖だと
仲の良い編集者に言われたことがあるけれど。
えらい、は無条件の尊敬の気持ち。わたしもそうありたい、と思う気持ち。
ひとりでしっかり歩いて、歩きながらいろいろ想うひとがすごく好きだ。
で、どうでしょう、この“居場所”。東京。
彼女の言うように、平和ぼけには到底なれない毎日を1年以上続けてきて、
わたしたちのいのちの在り方は少しは変化しているのだろうか。
言われてみれば、少しそんな気もするね。
わたしたちは少し、さびしんぼになっちゃったね。
自分のまわりにあるたましいを、こんなに近しく思えることはないから。
彼女のおみやげ、ありがとう。
いつの間にか、あれから一年が過ぎていました。
この一年の間に、「近く」に感じたり、実際近づいたり、
遠くに感じたり、実際去っていってしまったり。
たましいの移動が激しかったように思う。
最近、毎日のように聴き、毎日のように想っている
すきすきスウィッチの佐藤幸雄さんは、
かつて〈絶望の友〉というバンドをやっていた。
残念ながら、わたしは聴いたことがない。だからなおさら気になって、
〈絶望の友〉という名前だけを内ポケットに入れて暮らしている。
〈絶望の友〉とは、なんと言い得ていることか(と勝手に)。
この一年、誰かのたましいを「近く」に感じたり、
誰かのたましいが去っていくのを感じているときにも、
いつも〈絶望の友〉がそばにいたから(と、もう自分のものにしてる)。
その佐藤さんがDAVID BOWIEの『FIVE YEARS』を訳詞した
『五年』という曲があるらしい。去年、震災直後の高円寺・円盤で、
震災の影響で出演できなくなったバンドの代わりに
店主の田口さんがその曲を歌ったという。
それを聴いて胸打たれた、たけヒーローというミュージシャンが
ついこの間、円盤でやはり『五年』を演奏した、という話を聞いた。
『FIVE YEARS』を佐藤さんが
どんなふうに訳しているのかわからないけれど。
あと五年で地球が滅亡する、
わたしたちにはあと五年しか残されていない、とBOWIEが歌っていることは
中学の頃からのファンであるから、わたしももちろん知っている。
自分でもトライして、ここに訳詞を書こうかと思ったのだけれど、
すみません時間がありません。だけどわたしは想ってしまったのだ。
とってもとっても不謹慎だし、誰が目にするのかわからないこんな場所で
そんなこと言うもんじゃないということはわかっているけれど。
「あと五年」と、佐藤さんにでも田口さんにでも
たけヒーローにでも歌われたら、なんか、安堵する気がする。
みんなで、あと五年生きればいいんじゃん、って。
そう想うと、ちょっと気持ちがラクになる気がする。
みんなで消えちゃえばいい、っていうことじゃなくて
とりあえず「あと五年」(も)あるとしたら、
その間にやらなければいけないことができると想ったのだ。
ほらね、こんなことはこんな場所に書くことではない。
それを証拠に、あとに続ける言葉が見つからない。
この一年の間に、いなくなってしまったひともたくさんいる。
信じられないぐらい、大切なひとが次々にいなくなってしまった。
今日(3月25日)は、そんな知人の追悼コンサートが行われている。
遠方だから、わたしは行けない。そのコンサートで友人の本松洋子が、
やはり友人の藤田(村岡)ゆかとふたりでやっていたバンド〈手水〉の、
『想』という曲を演奏したと、さっき知った。
ひだまりの中を歩くような明るいメロディで、
ようちゃんの澄んだ落ち着いた声で、
『想』に歌われているのはこんな言葉。
湿った地面によこたわる
ひろがる虚空に想念は
やがて 針の山へとのぼる
待ち人は修羅だったのか
それでは
しなびて飾られることのない想いは
どこへ行くのか
不自然に青白い顔をして
安らぎの匂いに 震える手のひらは
肉塊を飛び散らせる
でも
満たされぬ欲望が燃えているから
歌声は高く昇る アルバム『手水』より
ずいぶん前から知っていたはずのこの曲を
ある晴れた日に、川沿いを歩きながら聴いていて。
「ああ、そうだったのか……」と突然思ったときのことは忘れない。
「ああ、そうだったのか」と思って、
空を見上げることも地面にうつむくこともできず、
ただまっすぐ前を見て歩き続けた。
想う、とは厄介なもの。
それが昇華することは、たぶんない。
だから歌や言葉にして、煙のようにたなびかせるしかない。
窓の外、急に風が強くなってきた。
昼間はあんなに穏やかだったのに、今は灰色混じりの雲まで蠢いている。
このざわつき。うそつきのような春なのだ。
夕刻、買い物に出て、柳葉魚(北海道産の雄)と賀茂鶴(生)をぶらさげて帰った。
家の扉を開けると、まっすぐの廊下の先の居間に
隣の小四(間もなく小五)坊主のぺたんと座る姿あり。
「あら、お帰り」と口から出たのは、彼は昼間もうちで遊んでいて、
いったん自分の家に帰ったから。
わたしを一瞥すると、うん、とも、はぁ、ともつかぬ息で返事をして
坊主は老母の毎週欠かさぬ『名探偵コナン』に一緒に見入っている。
昼間、甥がやってきて蛸焼きを焼いた。甥と同学年の隣の坊主も食べに来て、
食後は10歳の彼らと、40歳年上のわたしの三人でトランプをした。
数字が苦手だし、たとえゲームとは言え、ルールに縛られるのはどうにも。
加えてアルコールのせいも多少はあるのか、久しぶりの大貧民だのなんだのの、
まあ、見事にやり方のわからないこと。
「一回やれば思い出すから、一回目は練習にさせてよ」は一度二度なら許容範囲でも。
新しいゲームのはじまりに必ず「どういうのだっけ?」が続くと、
「え、それも知らないのぉ?」と10歳たちに呆れられ、
仕舞いには「めんどくさ」とか言われて、匙ならぬカードを投げ出される始末。
「パパと同じタイプだね」は隣の10歳の捨て台詞。
訊けば「ママはバリバリ強くて、パパはルールをひとつも覚えてない」のだそう。
にしても、昼間のスパークリングワイン1本、酔っぱらわないなぁ。
酔っぱらって、寝ちゃって、たこ焼きのせいにして
一日を無駄にしてしまおう、と思っていたのに。
少し前に酒を抜いた日を続けた。陽が落ちてもアルコールを口にせず、
食べるものもほとんど口にせず、すぐにベッドに入ってしまう。
すると夜中の3時近辺に目が醒めるので、起き上がって仕事を始める。
頭を使う原稿書きの、切羽詰まったときはこの方法。
もちろん空腹に苛まれるが、食欲が落ちて昼食も食べ過ぎることなく、
午後も眠気が襲ってこない。
ただ、覚醒が続くせいか、精神がちょっと冷たくなる感じがする。
これが世に言うストーンな状態なのかしら、と思ったりして(キット違う)。
そんなふうにして書いた原稿が、またダメだった。また、と言うのも、
年末に一冊分の本の原稿を書き上げて、印刷所にも回したのにダメ出しされて。
それで、めちゃめちゃ苦労して書いた再チャレンジなのに、またダメだった。
ということは、もうダメかもしれないな、という気持ちの結論が明日出る。
これだけでなく、最近は続けざまにふたりの編集者から
「アコさんにだけ話すんですけど……」と休職を考えてる旨コクられたりとか、
思わぬひとの思わぬ頭の中がうすらぼんやり見えてきて、なんかなぁ、と思ったり。
で、思うのは、こうして文章を書くという行為は、上澄みなんだな、ということ。
攪拌した泥水みたいな状態だと、文章にもできないのだな。
泥水ながらも、ちょっと鎮静して上澄みの液ができないと、
表に何かをあらわすことはできない。だけど、醸したワインならともかく
泥水のようやくできた上澄みなんか、誰が飲みたがるだろうか。
〈今となっては、そのようなことを誰もが発信できるようになってしまい、
なんだか気持ち悪いです。その書いたことを
「あの人が読んだらどう思うかな」とか、
「こんな風に読んでほしいな」とか、みんながやっているわけでしょ〉
〈インターネットを見ていると、調子に乗った人間の愚かさばかりが
ずらりと並んでいるのが醜く気分悪いです。
人間なんてただでさえ愚かなのに、
さらに自分でそれをことさらに曝け出すなんて。
そんなもの(本物の)芸術家だけで十分なんですよ。
(本物の)芸術家を反面教師にして、みんなおとなしくつつましく暮らしてほしいです。
うるさくてかなわないです〉 ほんとにね……………………。
と、今週もまた円盤タグチの二○一二年二月のニッキから引いてしまった。
ほんとにね。ほんとにそうだと思う。繰り返しになるけれど、
攪拌した泥水の上澄みなんて、カスだからねぇ。そんなもん曝け出すことないんですよ。
そんなもん読んでもらうのは失礼だ、と思う。だからホントすみません。
朝日新聞の『南三陸日記』を書いている記者の三浦英之が、座談会で言っている。
〈以前、ネットで(頻繁に)書いてみないかと誘われたが、断った。
記事には時間が必要なものもある。「南三陸日記」はデスクに何度も書き直しを命じられ、
取材に4日、執筆に3日かけている。35行の短い記事だが、
「私」という一人称を使って、それが一つの「物語」として深みを持つまで取材する〉
〈今、世の中には情報が氾濫している。良い記事でなければ人の心に残らないし、
後世に伝えられない。〉
こんな新聞記者がいまどきもいるのだな、と感銘を受けながら読んでいると、
三浦の言葉を受けて津田大介というジャーナリストが
〈書いても多くの人に伝わらなければ意味はない。マスメディアの自己満足ではないか〉
〈古いやり方にこだわっているように思う〉と発言している。
多い、速い、大きい、簡単、便利、が、こんな日本を作ったのだとわたしは思う。
多い、速い、大きい、簡単、便利、の、逆をやって生きていこうと思っている。
それしか成す術がないから。
件の座談会の中で池上彰に〈被災地が今一番求めている情報は何ですか〉と聞かれて、
三浦英之は言っている、〈逆に被災地は情報を発信したがっています〉。
メディアにおける震災報道のフォーラムでの、池上彰によるまとめの言葉はこうだ。
〈被災地に何を届けようかとばかり考えがちですが、被災地は情報を発信したいと、
それをどう伝えていくのか。課題が一つ見えてきたと思いました〉
3月13日の夜10時25分頃、ミュージシャンのPhewが
三度に分けてつぶやいた言葉(BBCの震災ドキュメントを見て)。
いろいろな文章読んだり映像見たり熱弁聞き流したりしました。
話すこと書くこと、言葉にすることが必要なのは被災した方々
大切なものをなくした方々だと
思いました、まずは。originalphew
ところで、夕刻に再びうちに現れた隣の坊主のこと。
「これ、パパから」と彼の差し出したるは、1枚のチラシとまあるいお菓子の缶。
たくさんできすぎた蛸焼きを隣へ持っていった、そのお返しということらしい。
「ジャクソン・ポロック展……そうそう、今やってるんだよね。
なに、パパ、これに行ったわけ?」
「うん、そう。わけわかんないけど。こーゆうの行く?」
「美術館に行くかってこと? うん、あたしはわりと行くかな」
そう答えると彼はにやりと笑って「やっぱりパパと同じタイプだ」。
ひとから批判されたり否定されたりするのは大嫌い。
でも、観察されるのは悪くはない。
で、わたしと同タイプの父親から彼が託されたのが、なんでポロックのチラシと、
ディーン&デルーカのピスタチオ入りのチョコかと言うと、
「ニューヨークつながり、だって。わけわかんない」。
お隣もまた、すきまっぽい感じだなぁ。
鳥渡(と書いてチョット、と当て字で読ませるらしいですよ)
という名の高円寺のバーから、つい先日に届いた封筒。
中には店が出している『千鳥文(ちどりぶみ)』という月刊の刷り物が幾号かと、
写真ギャラリーでもある鳥渡の今月の展示案内が入っていた。
こういう封書は嬉しい。読む物をたくさんもらう嬉しさもだけれど
郵便受けにぽとりと落とされた封筒に対しては、
メールや電話で「ありがとう」をすぐに言わなくてもいいから。
「ありがとう」と言えば、そこで終わってしまう。
「ありがとう」をすぐに言わず(言えず)に、そのうちに言おう、と思っていると、
嬉しさは長続きする。そんなあたりまえのことに気づかされた。
いつかの夜にまた鳥渡にぶらっと呑みに行って、思い出したように店主の広瀬くんに
「あ、そういえばありがとね」とか言うのだ。
無口な彼は氷を丸くピックで削る手を止めて、「え?」と顔を上げ、
「ああ」と言って、すぐにまた視線を下に落とすだろう。
なんていうふうに、時間のすきまを持てるのっていいですね。
即レス必須の世の中においては尚更。どこぞのモガ嬢ではないけれど、
大正時代ぐらいの時間の流れで生きてみないか、俺とおまえ。ってな気分。
三月に入ったので、ニヒル牛に納品された
円盤店主による『円盤タグチの二○一二年二月のニッキ』を読んで。
ウェブ上でこうして(←今生日記)ダラダラと文字を書き連ねるのって
どーなんだろ、と思ってしまった。ウェブだと、なんだか一方的で、
読んでくれるひとに言葉をちゃんと渡している感覚が希薄だから。
その点、『タグチニッキ』も『千鳥文』も、実際モノとして
わたしの近くに存在している。その体積の重量の確かさ、みたいなものって、
送り手側の覚悟のような気がする。
田口さんはこのニッキに根性入れてる(いつだって彼はそうなのだろうけど)。
ウェブのような平べったい(のはわたしがMacBookAirを使っているからだ)
ところには根性の入れようがないではないか。
そもそもココには、逃げ込める暗闇もすきまもないじゃないですか。
ところで、先週、“すきま”のつづきに書こうと思っていたのは
R.M.SHINDLER(シンドラー)という建築家のことだ。
シンドラーを特集した『建築文化』は1999年9月号、2900円。
当時に買った雑誌だから、つまり13年前、か……。
つい最近、雑誌の一番うしろに掲載されている隈研吾が
シンドラーについて書いた文章を初めて読んだ。ぱらぱらとめくって、
『民主主義という幻想』というタイトルが気になったのだ。
〈シンドラーは、失敗した建築家である。彼はさまざまに、そしてたびたび失敗した〉
と、いきなり書きだしがこうですよ。どんなひとだか知らなかったのだけれど、
わたしの好きな建築家は失敗者らしい。
建築家が書く建築家についての文章は、ちょっとわかりにくいところもあるのだけれど。
へえーと思ったのは、20世紀は建築においても民主化の進んだ時代で、
〈権力を表象することが目的だった建築にかわって、使いやすさを優先した建築〉
への転換期であったということ。そーなんか。建築って権力の象徴だったのか。
で、建築の民主化とは何ぞや、と言えば……
〈空間という概念も、同様に、建築の民主化における重要な概念であった。
実体と実体との間に存在する空隙の部分が空間と呼ばれ、
注目されはじめたのは、19世紀である〉なんて書かれている。
実体と実体との間に存在する空隙の部分が空間?
それって、すきまのことじゃんねぇ。
この『建築文化』の隈研吾の文章は、原発疎開問題やら、
すきすきスウィッチのことやらで
あたまの中がすきまでいっぱいになっていたときにこれ読んだものだから
なんというかシンクロニティ!
隈研吾の文章は終始わかりにくいのだけれど、
結局のところ、建築の民主化は失敗に終わったらしい。
建築物って、写真とかのメディア(二次元ビジュアル化)ばえしないと
なかなか評価されにくいのだというようなことが書いてあった。
で、空間=すきまは写真に写りにくいから、やっぱりどうしても
バーンとダイナミックな造りの建築物に二次元ビジュアル世界で負けてしまう。
それが、建築の民主化失敗の原因みたいなことが書いてあった。
隈研吾の言うことが本当だとすると、
建築って世界も(アタマ良さそな顔して)表層的な権威主義なんだな。
フランク・ロイド・ライト(←帝国ホテル建築等で有名)も
一時は民主的建築方面へ触手を伸ばし、活動の拠点を東海岸から
民主的地方であるアメリカ西海岸へ移していた。
でも(別方面から聞いた話だけど、ライトはがめつい男だったようだ)
民主的方向は早々にやめにして、西海岸を去ったという。
しかしライトの弟子であるシンドラーだけは西海岸にとどまった。
その地で、空間=すきまを作る仕事を続けた。
〈シンドラーは20世紀を生きる建築家としては、
ナイーブすぎたのかもしれない。
彼はほとんどメディアとは無関係に、建築をつくり続けた〉
〈そのシンドラーを支えたのは、西海岸という特殊な場所であった〉
〈(前略)西海岸では人も物もすべてが低密であった。
すべての個人が自由に振る舞いながら、しかもそこに、
おのずから調和が生じるという予定調和的幻想を与えるやさしい密度が、
その地には存在していた〉
〈人も物もすべてが低密〉の、テイミツっていう、
あんまり使わない言葉がなんかいいな、と思った。
なんか、すきますきましていていいな、と。
〈やさしい密度〉っていうのもいいな。
すきまが宿るすきまがありそうな密度で。
わたしがいま住んでいるここも、
西海岸(とくに好きなのはサンフランシスコ!)も
ある意味で“村”なのだ。どんな“村”かということは、
二月のタグチニッキにぴったしのことが書いてある。
せっかく紙に書かれた日記を、
ウェブ上に引用するのは掟破りな気もするけれど。
すみません田口さん、使わせてー。
〈それぞれが個人として独立できているからこそ共棲できる。
勝手な個人が集まったこの村に僕も棲んでいる〉
〈別にお互い仲間であることを確認するような行為は必要ない。
どうせ同じ村に棲んでいるんだから〉
高円寺の円盤にしろ、バー鳥渡にしろ、西荻のニヒル牛にしろ、
気の合う仲間が集まるサロンではない。
ひとりでやってきて、ひとりで適当に遊んで、ひとりで帰っていく、
すきまのたまり場。
でもって、東京のここいらへん以外にも、すきまはあるかしら。
わたしやかれらの遊び場は。
日本に来たことはないようだけれど、
シンドラーの作る家は、まるで日本の昔の家みたいなのだ。
ソトとナカとの境目が曖昧で。
日本の家は木枠の障子を開け放つと、竹林からの風が通り抜ける。
シンドラーの家は木枠のガラス戸を開け放つと、ビーチからの風が通り抜ける。
余計な装飾は何もない。ただ、くるりと周囲を包むものがあり、
中はがらんとして、ひとのいる空間=すきまがあるだけだ。
周囲を包むものだって、開け放してしまえば、ないに等しい。
なにかに似ている?
そう、風呂敷みたい。
鳥渡(と書いてチョット、と当て字で読ませるらしいですよ)前のことだけれど。
「ことしは風呂敷がクルね!」と宣言したのです。
西荻と吉祥寺の間の吉祥寺寄りにある、
日本モノの古雑貨屋クイーンズホテルアンティークスの2階にて。
折しもそこでは『風呂敷の部屋』なるフェアが開かれていて。
http://blackscreen.weblogs.jp/queens/2012/01/風呂敷をたくさん集めました.html
ディスプレイされていた風呂敷の使用例や、
商品である風呂敷の柄行きの楽しさもさることながら
わたしはクイーンズホテルアンティークス店主のりみちゃんが見せてくれた
風呂敷の本(図書館で借りた二冊)の中の写真に魅せられた。
昭和20年〜30年代の老若男女が自由闊達に風呂敷を使いこなしている、
そのあまりのかっこよさに大いにシゲキされた。
それで「ことしは風呂敷がクルね!」と思わず言ったものの、内心思っていた。
“でも、こけしブームみたいになるのはイヤだな”と。
伝統こけしの学術的熱烈ファンは愛すべき存在だが、
雑貨テイストでこけしを愛でる昨今のブームはどうも……。
いや、しかし、風呂敷はキット大丈夫だ。とそう思ったのは、
某月某日、高円寺の円盤にてのDEBUDEBUのライヴのとき。
決して広くはない円盤店内にて
風呂敷をデイリーに愛用している方をふたりお見かけした。
ひとりは某モガ女史。ボルドーと赤の中間ほどの色合いの絹の風呂敷は、
コロンと丸い形に結ばれると、まるでベルベットのバッグのよう。
もうおひとりは、DEBUDEBUの「年とったデブのほう」(←石川浩司による呼称)の
メンバーであられる方。どこぞの漁業組合のロゴ入りの、淡いブルーの大判風呂敷で
楽器(というかアートオブジェというかゴミというか)を包んでいらした。
彼らを見て確信した、「やっぱり、ことしは風呂敷がクルね!」。
“すきま”なひとたちの間でのブームかもしれないけど。
さてさて、“すきま”とは何ぞ。
ここのところずっと考えているテーマです。
まあ、発端は3.11の引き起こした原発の爆発事故のこと。
あれのせいで福島・宮城・岩手・山形・茨城、群馬・栃木・千葉・埼玉・東京・神奈川、
日本の本州の半分ぐらいの土壌や空気や水がすっかり汚染されてしまった。
わたしはあれから趣味のウォーキングもやってない。
憩いの地である善福寺公園の枯れ葉は大丈夫なのか。
それより有酸素運動で積極的に取り入れる空気は大丈夫なのか。そんなこと、
真剣に考えてるわけじゃないんだけど、どうもね、その気になれないのだ。
食品の安全性に関してもはなはだ疑問でありますし。
それでまた大きな地震が来たら、東京じゃ逃げるとこもないし。
福島あたりが大きく揺れたら、またさらにトンデモナイ事態になるわけだし。
逃げたほうがいいよね。頭の働くひとはそりゃ逃げるさ。そーゆう事態だよ。
いわゆる有事だよ。逃げるよ普通は。
でも何処へ?
ということを悶々悶々悶々悶々と考えて、行き当たったのが
“すきま”というテーマ。
DEBUDEBUのこの間のライヴは月曜の夜だった。
友人知人や知らないひとが結構たくさん集った。
ちなみにDEBUDEBUは円盤店主の田口さんに「でたらめやってください」と言われて
結成されたようなバンド。50歳と60代のおデブな男性おふたりが、
がらくたみたいなアートオブジェやマジながらくたや楽器や豊満なからだや
狂ったソウルの持てる限りを使って、即興の演奏(と言っていいのか)を行う。
それを週のはじまりの平日の夜に、ひとびとは鑑賞するのである。
それはまごうことなき“すきま”なひとびとなのだと思う。
林立する高層ビルの白昼のごとき照明を避けて、
ビルとビルのエアポケットのような暗闇で遊ぶ大人たち。
彼らの遊び場、行き場はほかにあるかしら?
わたしの遊び場、生き場は、ここいらへん以外にもあるかしら?
“すきま”が気になりだすと、“すきま”に関係することばが
あっちこちから集まってくる。
風に乗って、わたしのところへ舞い込んでくるみたいに。自然に。
不思議なことだ。
すきすきスウィッチというバンドのアルバムを買って、
そればかり聴いていて、すきすきスウィッチのことばかり考えていたある日のこと。
ウェブで「すきすきスウィッチ」を検索して、行き当たったブログのページ
http://d.hatena.ne.jp/nomrakenta/20110206/1297516386の
最初に書いてあった言葉がこれだった。
〈小さな頃は、もっと隙間があったように思う。
いや、隙間同士がつながっているのが世界だと理解していた〉
〈大人とよばれるものになんとかなってみると、
まず第一に、空と自分の頭との間の隙間は確実に五十センチは狭まった。
ハイウェイのようにすり抜け疾走していた小さな路地も
雑で粗くなった視界には入らなくなるか、あるいは本当に無くなってしまった〉
そうそう、すきすきスウィッチというバンドの名前だって、そうなのだ。
(と思いついて、最近はいつもベッド脇の小さな椅子の上に置きっぱなしになっている
『忘れてもいいよ』のジャケットを机まで持ってきた)
バンドの主宰者である佐藤幸雄は、アルバムのブックレットに書いている。
〈“すきすき”は、好き好きだけでなく、隙き隙きだったし、
透き透きでもあったし、空き空きでもあった〉
〈なんとなく、畳語を強調したかったので、もうひとつ“す”から始まる
“スウィッチ”を重ねた。入れたり切ったり、継いだり断ったり、開いたり閉じたり、
点けたり消したり、切り換えたり。(もののけ、妖怪のたぐいは
同じ語を2語繰り返して言うことができない、ということはずいぶん後から知った〉
“すきま”の話はまだ終わりそうもないので、来週も引き続き。
あ、ひとつ、忘れないうちに書いておこう。
風呂敷は結び目をほどいて、中身を出せば、ぺろんと1枚の布になる。
ぺしゃんこの平面になる。
それで端っこと端っこを結んだり畳んだりすれば、中にぽわんと空間ができる。
結んだり開いたり。畳んだりほどいたり。かたちをいかようにも変えられる。
そして、いつだってぺろんと1枚の布に戻れる。
ただの平面の布になれる。
包んで、逃して。受けて、無くして。
そうした行為の合間に生まれるのが、“すきま”なんじゃないかな。たぶん。
最近買ったCDを、もう、そればかり聴いている。
よく、言うじゃないですか、
「昔は1枚のLPをすりきれるぐらい聴き込んだものだ」とか。
今まさにそれ。そんな感じ(いま青春真っ盛り、なんかな?)。
発端は、高円寺のインディーズ音楽屋『円盤』店主、田口史人さんの
『円盤タグチの二○一二年一月のニッキ』を読んだこと。
今年に入ってから、ニヒル牛で売る分だけ少量生産されている日記である。
その中に、とても気になることが書いてあった。80年代初頭に
すきすきスウィッチというバンドをやっていた佐藤幸雄という人が
長い間ぷっつりと人前から姿を消していたのに、
去年秋に20年ぶりに田口さんたちの前に姿を現して
バンドを始める、と宣言したという。
でも、始める、と言っても。
佐藤さんは約20年間ギターを持つこともしていなかったので、
これから毎月、円盤店内で公開練習をやらせてくれ、と田口さんに言ったそうだ。
で、公開練習が去年11月から行われているらしい。
公開練習の様子について、タグチニッキから引いてみよう。
〈これが本当に面白くて、音楽をどうやって立ち上げていくかのドキュメントのよう。
何かを人前でやろうと考えている人、やっている人にぜひ見てほしい〉
〈僕には前半の一人で、そのなんとも所在の難しい現場の中で
「練習」する佐藤さんの姿こそ、もう最高にグッとくる「ライヴ」で、
こんなことが真摯にできる人絶対いないと思います。
こんなシチュエーションだったら、
絶対みな、その状況からの逃げ方を見せるでしょう。
物事に正面からぶつかって自身の目論みすら揺るがす、っていう、
これも佐藤さん自身の言葉。完全に実践してます〉
引用したのは一月二十九日の日記で、この日だけで
田口さんは40字×76行も日記を書いている。
すきすきスウィッチは大昔にライヴを見たことがある。
でもよくは知らなかった。田口さんの日記の言葉の力に押されて、
すきすきスウィッチのCDを買ってみた。
届いたアルバムを開くと、内側に若かりし頃の佐藤さんとおぼしき人物の写真があった。
それを見ただけで、あっ、と直感が先走った。
あっ、このひとは……と思った。
いまどきの言葉でしか、そのニュアンスは伝えられない。
あ、このひとはやばい、と思ったのだ。
なんだろう、全身から漂う、ゆとりのなさ、余裕のなさ。
必死さ。懸命さ。言葉がからだの中をうねっている感じ。
音を聴いて、見た目はなんて、そのひとをよく表すのだろうと思った。
明るくのびやかな声で、彼は歌う。
ポップな曲を、ひらがなの反復の多い、こんな歌を歌う。
ぼくときみと、ぼくときみと、ぼくときみと、むすぶ水道管
ぼくときみと、ぼくときみと、ぼくときみと、むすぶ水道管
スイドウカーンと発せられる言葉は
なにか新しいコミュニケーションツールのような印象。
音楽の中の詩は、言葉本来の意味ではなく、音とまじり合うことで
話し言葉とも、書き言葉とも別の、あたらしい皮膚感覚みたいなものをつくりだす。
だから、こうして歌詞を文字に書き写すことには、実はあまり意味がないのだけれど。
でも音は文字で伝えられないから、
すきすきスウィッチのアルバムのタイトル曲でもある
『忘れてもいいよ』を聞き書きしてみる。
とても大事なときにきみはいなかったね
思うとか思わないとかでなく
とても大事なときにきみはいなかったね
わかるとかわからないとかでなく
とても大事なときにきみはいなかったね
そんな大事なことをきみ言わなかったね
そんなことではなく、ただ
とても大事なときにきみはいなかったね
とても大事なときにきみはいなかったね
届くとか届かないとかでなく
会えばすぐにわかるのにきみは来なかったね
守るとか守らないとかでなく
そんなやりかたなのにきみ直さなかったね
そんなやりかたなのにきみ気づかなかったね
そんなやりくちなのをきみ忘れちゃったね
そんなため息ばかりきみ譲らなかったね
そんなことではなく、ただ
とても大事なときにきみはいなかったね
わ・す・れ・て・も、いいよ
わ・す・れ・て・も、いいよ
わ・す・れ・て・も、いいよ
わ・す・れ・て・も、いいよ
まるで大きく開いた窓の光みたいだったね
風が言葉のように通り過ぎていった
窓枠にあごをのせて二階から見下ろしているから
まるで首だけがそこに転がっているようだった
そんな大事なときにきみはいなかったね
そんな大事なときにきみはいなかったね
そんなことではなく、ただ
とても大事なときにきみはいなかったね
だけどいまは
このアルバムは、もともとは、ライブハウスの客席でカセットテープで
録音されたような演奏ばかりを集めたソノシート5枚組。
それが2枚組のCDにうつされている。
聴いても聴いても聴いても飽きない、有機的な音の集まり。
祖父江慎によるデザインワークも圧倒される迫力だし、
すべてを記さない穴あきの歌詞カード(それを真似て
わたしも『忘れてもいいよ』の聴き取れないところを穴あきにした)も
佐藤幸雄自身によるすきすきスウィッチというバンドの説明も
曲の説明も、ライブ記録も、どれをとっても、
最近のCDにはない充実感にみなぎっている。
どこか突き放し、冷めているけれど、過剰な熱量がみなぎっている。
アルバムのブックレットに佐藤幸雄は書いている。
〈聴いたことがある人、もっと少ない見たことがある人、
そこに残っている印象というものがあるのだとすると、
それはバンドそのものにではなく、
聴いたあなたの中にそれがあったということなのだ〉
円盤で行われる、次回の佐藤幸雄公開練習には行くつもり。
音楽を道しるべに、またひとつの旅が始まったのかもしれない。
自分の中のどこかを訪れる旅。
ライブに行ったら、彼も来ていた。仕事仲間のスタイリストの旦那。
去年末に初対面で酒を呑み、その翌日、
同席したひとたちから「一触即発だったね」と聞いてびっくり。
わたしったらまたやったのか、と呆れた。
つっかかったり、からんだり、暴言を吐いたり。
しかし自分はほとんど覚えていず、相手は男に限られる。
件のスタイリストの旦那は、
「バトル? いや、面白いひとだったよ」とあとで言っていたというが。
自分が酔って何を言ったか、どういう経緯でバトルめいた会話になったのか、
まるで記憶がないので不安だし、うしろめたさがあった。
だからライブ会場で顔を合わせた瞬間に言った。
「この間はなんかやっちゃったみたいで、すみません」。すると彼も
「いえいえ、こちらこそ。若造が生意気なこと言ったみたいですみません」。
言葉面では謝罪しあっているけれど、
腹の底ではお互いに実は謝ってなんかいない。その証拠に彼が
にやりと笑って続けた言葉は「またお願いします」。
おもしろい。やっぱ、あたし、男に生まれればよかったかな。
だけど今生では、からだも心も女に生まれたものだから、お酒呑んだ翌日は
いつも大きな自己嫌悪の海を抱えてたぷんたぷんしてるんだよね、と話すと。
先週呑んだ年下の男の子は、俺はそれはないな、と断言した。
西荻南口の酒蔵千鳥で。
彼は言う。年長の男の呑み友達がひとりいて
そのひととは呑んでいる席で喧嘩もかなりしたけれど。
俺が怒って「帰ります」と席を立ってしまったこともあって、
そのときはもうこれで終わりだな、と思ったんだけど。
一ヶ月後ぐらいにそのひとから「どう、呑まない?」と連絡がきて
普通に会って呑んだから、あ、それでいいんだ!と思ってね、
それでいいんだと教えられたよ、と年下の男の子は言う。
陽の落ちきらぬ五時に待ち合わせて、入ったときにはまだ客がまばらだった酒蔵千鳥だが、
わたしたちが白鶴の燗を呑み進めるうちに、大きなコの字型のカウンター席も、
小上がりも、徐々に客で埋まっていった。冷やしトマトが並んだ皿を前に
カウンターの一番角で呑んでいるお爺さんもいれば、会社帰りの七三ポマードヘアの
実にいい顔をした昭和なおじさんたちが楽しそうに酒を酌み交わしていたり。
かと思うと、わたしたちの反対側のカウンターに座った
そっくりな顔つきの老年の姉妹は、大ジョッキと小さなおつまみを頼むと、
次にはもう、ふたりでおむすびを1個ずつかじったりしている。
「もう上がりなんだね」と年下の男の子。
いろんなひとを観察しながら呑むのがわたしも大好き。
見るからにクセのありそうな巨体の強面男と、えびす顔の男の二人連れが入ってきて、
わたしたちの隣に座った。腕に数珠を何本か重ねづけした巨体は「いやいや、
こいつに連れられて初めて来たけど、ここはいい街だねぇ。実にいいよ」と
ビールを口に運びながら誰にともなく大きな声で話す。
わたしたちの前に4〜5本並ぶ白鶴の透明な空き瓶を見て
「お、そちらさんは日本酒か。日本酒呑むのはいい男だ。
おじさんもこれ呑んだら、すぐにそっちへ行くから」。
話しかけられた年下の男の子は如才ないひとだったので
「やっぱりうまいですよね」とかなんとかいい感じに受け答えした。
彼とはじめてふたりで呑んだけど。年下のひょろりとした男だが、
見かけによらず案外、懐が深いのかもしれない。
酒蔵千鳥はお財布の中身のとぼしい、中年以降の客しか来ないような店なのに、
カウンターの中にいる従業員は男も女もみな意外なほどに若い。
若いけれど無愛想で笑顔を見せたためしがない。新入りとおぼしき女の子がいた。
とびきり若くて、地味だけれどアイドル級に目鼻立ちのきれいな子。
年長の女の子におでんのひっくり返し方を教わっている。
「可愛いねぇ」と耳打ちすると、年下の男の子は「ふたりとも可愛い」。
「可愛いのに、なんでこんな店で働いてるんだろうねぇ」と続けると、
「案外、呑んべえだったりして」。
巨体の強面はビールを飲み干して自分も白鶴にすると
運ばれてきた熱い酒をまず、わたしたちの盃に注いでくれた。そして、
カウンターの中のおでんの桶の前にいる年長の女の子に訊いた。
「この店は閉まるの早いんだろ? なんでそんなに早いの?」。
年長の女の子といっても、まだ20代の小柄な彼女は相変わらずにこりともせずに言う。
「呑みに行きたいからですよ」。きれいなジャブだね。
「行こうか」と席を立つ年下の男の子。うん、ちょうどいい頃合いだ。
隣の巨体を避けたふうでもなく、でもこれ以上いると
めんどくさい展開になりそうでもあるから。
「あ、帰るの? うるさくしてごめんね」と巨体が太い指で
年下の男の子の細い肩をたたく。やっぱ、いい店だな千鳥。
呑んでも呑まなくても、いいのだけれど。
呑んで、よく知らないひとと袖触れ合うもまたおかし、だ。
それでたとえ火花が散ったとしても、
それがなんの意味もない火花だったりするのが、いとおかし、だ。
何も生まれない非生産的な夜。
意味もなく笑い、意味もなく怒り、意味もなく喧嘩して、意味もなくまた会う。
何も生まれなかった非生産的な夜が明けると、わたしはいつものように
二日酔いの自己嫌悪にとらわれる。ふくらんだ輪郭も、ぼやけた頭も、重苦しい胃腸も
すべて消し去りたいと願う中に、ポッとかすかな体温みたいな感触だけが残っている。
ひとの魂のあとかた。自分のそばにひとがいた感覚のおぼろげな記憶。
話をするのは、やっぱり会って顔見て、にしたい。
どうにもこうにも閉塞感がある。
おもしろいことなんてなにもない。
なんでおもしろくないのだろうか。
ゆめ見ることができないからだ。
〈それにしても高知のトマトはきれいだな〉
うっとりできないからだ。
〈老母は高知産の白菜で白菜漬けを作ります。
この国ではずっと、冬にはそれを食べてきたから〉
情報収集はもっぱらウェブからになってしまった。
昨日は『子供達をたすけなきゃな!』と題されたライブ企画が
六本木のこじゃれたライブハウスで行われることを知った。
小山田圭吾とかカヒミ・カリィとかジム・オルークとか、
都会的なミュージシャンが集うライブだ。
また昨日は和田誠が描いた反原発のポスターを
誹謗中傷するひとたちがいることを知った。
原子力発電所からニコニコマークの球が降り注ぐ中で、
母親が幼子を抱いている絵、それに対して、広島県民にしたように
福島県民を差別するつもりか、みたいな発言がウェブ上に羅列されているのを見た。
〈白菜を割って干します。放射性物質を含む空気になるべく避けて室内に〉
気味がわるい。気味がわるい。気味がわるくて反吐が出る。
「子供達をたすけなきゃな!」というかけ声で演奏しようとする音楽家たちにも、
「福島県民を差別するのか」と評するひとたちにも。
〈母は今年もお雛さまを出して飾りました〉
のっぺらぼうが喋っている。
のっぺらぼうが言葉を喋っている。
気味がわるい、と感じることと、わたしのつまらなさは、たぶんどこかで関係がある。
これもそれと関係があるのかどうか、いつかPC上に保存したらしい
ファイルの中にこんな文章があった。
“もしかすると、日本人は言いたいことを言わないのではなく、
言うべきことを最初から持っていないのかもしれない。
それを持とうとしないことで波風立てずに生きる術を幼い頃から身につけ、
悪癖となり、謙虚という言葉で誤魔化し、
遂には国民性にまでなったのだとすれば、これほど憐れなことはない。”
誰の言葉だか忘れたが、やはりウェブ上で拾った言葉だ。
“言うべきことを最初から持っていないのかもしれない”、
確かにそうかもしれないな。でもそれは決して悪くはないんじゃない?
言うべきことを持っていないのに、何かもっともらしいことを
言ったり書いたり歌ったりすることのほうが、よっぽど悪い。
それが、この国をこんなに気持ち悪くしたのではないだろうか。
今読んでいる本『感覚の近代』(坪井秀人)に面白いことが書いてある。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と同年代に来日していた
イギリス人の日本研究家、バジル・ホース・チェンバレンの著書に、
“この国では文字は単に話し言葉を書き写すばかりに用いられるのではない。
文字は実際に新しい言葉を生む。
奴隷が実際に主人となっているのである。”と記されているとか。
文字=書き言葉(ライティング)は奴隷で、
言葉=話し言葉(スピーチ)が主人であるという
西欧的な音声中心主義を前提として書かれた一節である旨、本に解説がある。
ウェブ上には文字が氾濫しているけれど、あれはすべて“話し言葉”で書かれた文字。
ウェブだけではない。
かつてこの国で“書き言葉”で書き、“書き言葉”で描き、“書き言葉”で奏で、
“書き言葉”で写しされていたものが、いつの間にか消えつつある。
そして代わりに、“話し言葉”が街じゅうに、国じゅうに溢れ出た。
だからこんなにおもしろくないのかもしれない。
おもしろくなくて、気味が悪くてしょうがないのかもしれない。
“歴史観、宇宙観、人間観は、時代の進行とともに深まっているのではなく、
むしろ退行しているようにさえ感じます。
マイカーもテレビもパソコンも携帯電話も原発もなかった昔のほうが、
一部の人びとは、いまよりも心の視力にすぐれ、
表現が自由闊達であった可能性があります。”『瓦礫の中から言葉を』(辺見庸)。
心の視力、ですって。辺見庸はうまいことを言う。
それで最近わたしは、自分が闘うべき敵が見えてきた気がしている。
敵は自由闊達を奪い、閉塞感を生む“言葉”たちだ。
のっぺらぼうな“言葉”。
でもって、さて、どうやって闘おうかしらね。
〈ところで牛乳を飲むことをやめたわたしは、改心して
最近はカルシウム摂取のための食事を心がけています〉
月曜、牛乳のことで迷っていた。
取材先で医師にカルシウムをとることの必要性と難しさを説かれ、
最近は西のほうの牛乳をせっせと飲んでいたのだが。どうも
この国の風土から生まれた食文化に由来しない乳製品を恒常的にとることに違和感がある。
どうも牛乳を飲んだあとやヨーグルトを食べたあとに「無理感」がある。
心がすっきりしない。どうしたものか。
〈写真は西荻で一番おいしいお餅といちご大福の店〉
火曜、2月朔日からニヒル牛マガジンにてスタートの
『最後の風景』のプレ動画がPCに送られてくる。繰り返し、何度も観る。
あえて画面を大きくしないモードで観たり、大きくして観たり。
星野有樹さんの映像は、風景の1枚1枚がすでに映画。
それを自宅で好きなときにひっそり観られる喜びよ。
星野さんとメールで手紙のやりとり。その中にこんな言葉があった。
雪が色んな色に変化するのは、やってくる車のヘッドライトもあるんだけど
街頭の蛍光灯が切れかかってたみたいで、
それが常に点滅してたのも影響してるみたい。
映像を撮る時いつも思うのは、三脚そえてフレーム決めて、
カメラを回した途端に色々なことが起こり始めるってこと。
各カット、せいぜい3分ぐらいしかカメラは回してないんだけど
その間に人が走っていったり、電気が点いたり消えたり、鳥が飛んだり、
タクシーが去って言ったり……。
世界というものは瞬間瞬間刷新されているんだなと今更ながら思い知らされます。
水曜、目黒のドレメ、すなわち杉野学園の近辺を初めて歩いた。
杉野学園の校舎、体育館、衣裳博物館……なんとも建物の雰囲気がよく、
その道を歩いているとまるで違う国あるいは違う時代へ迷いこんだよう。
東京にもまだまだ知らない場所があるのだな、と新鮮な喜びだった。
その道の端に建っていた仕事先のマンションも古きよき空気。
高層なのに中庭があって。たぶん東京で最も最初の頃に建てられた集合住宅。
つつましやかな生活を営んできたひとびとの体温が刻まれたような場所。
木曜、田園調布の料理研究家のスタジオで、彼女の片付け&掃除の作法について聞く。
帰り道、食に詳しい編集者に牛乳についての疑問を投げかけてみた。
中国人に乳がんが少ないのは乳製品をとらないせいだし、と彼女。それに、
牛乳がどうやって作られるか知っていますか、と田園調布駅で聞いたホモジナイズの話。
わかりました。やはり牛乳はわたしには不要ということで決着。
金曜、長患いのインタビュー原稿をようやく書き終える。
話している内容よりも、本当は話し方に人柄が出るんだけど、
それを文章に起こすのは難しい、というかタブー。
世界で一番有名なこの日本女性は、短いインタビュー中に何度も
「なんだっていえば」という間接詞(?)をはさんだ。
「なんだっていえば、表現したい心があるから!」
「それでなんだっていえば、私たちが今一番わかっているわけじゃない?」
「なんだっていえばね、昔の白隠だとか、ああいう人たちがね……」
お茶目で単純で先走るタイプであることが、
「なんだっていえば」が入ることで伝わって来る。
映画や芝居や小説の登場人物の台詞なら必要不可欠だね。
土曜、大片付け。
「ものを停滞させない」という料理研究家の片付け作法の話に触発されて、
気になっていた紙類を一掃する。ためこんだ旅関係のスクラップや雑誌。
そこにあるおびただしい量の店情報や食べ物情報を見て、
なるほどねぇ、わたしたちが最近まで踊っていたのはこういう世界か、と感慨深し。
日曜、片付けの続き。
部屋の隅に置いていた大きなトランクふたつをどけたら、
カーテンの裾のほつれがあらわになった。それで以前からヨガをするたびに
目に入って気持ちが悪かった、もう一方のカーテンの裾のほつれともども、
25年ぶりぐらいに針と糸を手にしてちくちくとかがる。音楽を聴きながら。
音のひとつひとつ、音の重なりと拡散と強弱とはじまりと消えていく姿を、
針を動かしながら慎重に聴いていると
まるで教典のような深い言葉の本を読んでいるみたい。
頭士奈生樹という音楽家は、ソロのCDを3枚しか出していない。
その発表の間隔も長いし、ライブも年に一度やるかやらないか。
時間の概念が、いつもあせっているようなわたしとはまるで違う。
彼の演奏の深淵は、そのことと理由がある気がするけれど、まだよくわからない。
今読んでいるのは『瓦礫の中から言葉を』(NHK出版新書)。
たまに辺見庸の言葉に触れないと、わたしは馬鹿を突き進む。
なにかはかりがたいものは、上から強制的に布かれているのでなく、
むしろ下から醸されているようです。
この過程は、歴史的にはこれがはじめてではないにせよ、
もっと注意をはらわれてよいことなのではないかと思います。
大震災、原発メルトダウンなどの緊急事態では、じつのところ、
法律やそれをささえる思想がさほどの議論もなく排除されていく。
緊急事態以前の法が事実上停止されたり無効化されたりして、
法がいわば溶解してしまうことにも注目してよいのではないでしょうか。
実際、憲法九条は大震災によりさらに陰が薄くなったとわたしは見ています。
見ること、感じること、考えることにもっと注意深くあらねば。
震災の前からだけれど、警戒心がわたしの中に蔓延っている。
某レビューサイトで見たんだけど、
東京のPhwe+山本精一で唄われたという
“「もうそこには私の家はないのです」と歌われる日本語詞の歌”って
ラブジョイの「家」のことじゃないのかな?
ツイッターでフォローしているひとの、このツイートには続きがあった。
元は水銀ヒステリアの曲だけど、残念ながら原曲は聴いたことない。
水銀ヒステリア?
わたしは初めて聞く名前だ。さっそく検索。
(ウエブはマイナーワールドを探求するにほんとに便利なツールだ)
87〜96年に京都で活動した女性4人のポップロックバンド、であるらしい。
『家』という曲の歌詞もあった。
あるとき気がつくと
わたしはそらをかけて
わたしの家をめざし
道なき道をたどる
たどりついても
もうそこには
瓦礫の山さえなくなって
べつのだれかの家があって
窓のあかりがゆれていました
眠れぬ夜も動けぬ昼も
わたしはわたしの家を思う
存在しないわたしの家をめざして
わたしはそらをゆく
本当のことを言えば、わたしには帰りたい場所などない。
去年、久しぶりに生まれ育った街へ行ったのは、
航空公園で行われるTONOFONフェスでの
山本精一とPhewのライブを聴くためだった。
妙な感覚だった。学校をさぼり、有刺鉄線の柵を踏み越えて中に入って
ひとりの時間を過ごした、米軍の基地跡の無人の荒野。
やがて公園に姿を変えたそこで、
つい最近好きになった遠方の音楽家が演奏をしているのだ。
そのとき彼らが紡ぎ出した音は、場所だけでなく、
時間の感覚も狂わせるような濃密なものだった。
時のしじまに溶けゆくサイケデリック。
前出のツイッターのひとが、“某レビューサイト”と書いている
音楽マニアのひとのサイトに、こんな記述を見つけた。
昨年のTONOFONフェスの時のような果てしなく広がっていく
音空間ではなかったですが(あれはあの会場でないと再現不可能か)、
わたしだけが(地元への感傷から?)そう感じたわけじゃないんだな。
あのときの演奏はやっぱり、米軍基地跡の荒野であった航空公園の
まあるいグランド型ステージでしか、起こりえなかったことなのだ。
10代でも20代でも30代でも、ここが自分の居場所だ、と思って、
ひとりで逃げ込んでいた草むら。
“森”とこころの中で呼んでいたLand。
いえ、と同時に、“森”が必要で。
東京という街も、多くの人間にとっての“森”だったのかもしれない。
“森”の中でしか、夢幻は味わえないーー。そう思ったとき、
そこを失いつつある、わたし(たち)の居場所はいったいどこなのか。
いえなき子と、森なき子の遊ぶ場所は。
新しいLandは。
ふいに西荻へやってきた友だちと、近所のAmy's Bakeshopでお茶したとき。
彼女は言った。「私はいつか生まれ育った街へ帰るよ。
ある程度の歳になると、みんなそうなんだって。
生まれた街へ帰りたくなるみたい。たとえ東京生まれでもね。
カメラマンの○○も、生まれ育った広尾に帰りたいって言ってた」
そうか。そうなのか。そうなんだ。みんな、“いえ”を持っているんだね。
東京から出ることになったときのことを最近よく想ってみる。
北へ行く? 南へ行く? それとも西? あるいは東?
わたしが行くべき地はどこだろう?
北、かなぁ、もしかしたら。そう思うのは、父方が北海道だし、
前にも書いた神沢利子の『流れのほとり』を読んで
樺太(わたしの祖父も一時いた)の自然の中で育つ少女の見るもの感じることに
からだの芯のほうが呼応するからだ。
でも、寒いのは嫌だなぁ。それにそれほど自然派でもないよなぁ。
神沢さんの美しい文章にヤラれているだけかもしれないよなぁ。
実際問題、西荻から北海道の大沼というところに移住した
『三月の羊』のひさこさんのブログを読むと、北の地の暮らしは
すてき!だけれど、めちゃめちゃハードそう。
〈生きているだけでやっとという寒さ。
しなくてはいけない事があるのに、始動まですごく時間がかかる。
一日にほんのちょっとの事しか出来ず、
自分の力のなさを思い知る。〉
〈寒さに対しての感情。
始め、泣いた。次、怒った。
今日は笑った。〉
〈北口はロックだ。
東京にいるときアンビエントが好きだったけど、
今はブルーハーツとかやたら聞きたくなる。〉
おりしも『三月の羊』さんたちは今、北海道にじぶんたちの“いえ”を建築中。
2000坪の理想の土地にめぐりあったようですよ。
http://d.hatena.ne.jp/nekohi3/
その地の自然と混じり合いながら
抵抗しながら、譲りながら、敬いながら、
歳をとるのは、なんだか気持ちのすっきりすることに想える。
でもって、わたしはどこへ?
いつのまにか生まれた場所で座ってる、
という歌詞がずっと頭にこびりついている。〈山本精一『眼がさめる前に』〉
そこへ最近もうひとつ、気になる歌があらわれた。
前回ここに書いたライブで演奏された歌。
ツイッターでフォローしているひとのつぶやきにこうあった。
某レビューサイトで見たんだけど、
東京のPhew+山本精一で唄われたという
“「もうそこには私の家はないのです」と歌われる日本語詞の歌”って
ラブジョイの「家」のことじゃないのかな?
もうそこには私の家はないのです、だって。
気になる気になる気になる気になる…………。
近所の古本屋なずな屋へ、ラブジョイのCDを見に行った。
(半径1㎞以内に欲しいもののある街の便利さよ!)
けど、CDに「家」という曲の収録はないようだ。
もう一度、フォローしているひとの“お気に入り”に入れたツイートを読む。
ラブジョイの「家」のことじゃないのかな?
のあとには続きがあった。(つづく)
疲れてます。年明けから仕事三昧は毎年のことだけれど。
飲み過ぎ、もあるんよなぁ。
とにかく疲れを吹き飛ばすべく、むりやりライブに行った。
高円寺は住んでいる駅から3つめ。気がらくだ。南口を線路沿いに下っていく。
そこは日頃、仕事でお付き合いしているような方々は絶対に足を踏み入れないであろう、
ばっちくて混沌とした飲み屋路地。
焼き鳥、ビストロ風居酒屋、マッコリがアルミの小さなやかんで出てくる韓国居酒屋、
インド、タイ、チャイナ……なんでもごちゃ混ぜ、が楽しいやん。
路地の先の雑居ビル。
二階への階段をのぼると、知る人ぞ知る自主音楽のメッカ、円盤がある。
ドアを開けて入ります。そんなに大きな空間じゃないよ。客がちらほら。
あ、はみーさんだ。と円盤の中で友人知人を見つけると、いつもちょっとホッとする。
ホッとするけど、すでにステージ(といったって店の窓際のちょっとしたスペース)で
スタンばっている御方のたたずまいを見て、うわぁ、と息をのむ。
今井次郎さん、言いますねん。御年60歳ぐらい。
次郎さんのまわりにはいつも、自作のすてきなオブジェがいっぱい。
足もとのレコードプレイヤーの上で、焼酎のペットボトルを利用して作った
白い豚ちゃんがまわってる。
その今井次郎さんと、石川浩司とのふたりのユニット。それがDEBUDEBU 。
DEBU2とも書くんだって。キョン2みたいだね。
彼らの演奏(演奏?)は、まあ、一度体験してみてください。
この夜の(個人的な)見所は、年少のDEBUが黒いゴミ袋を空中に浮遊させていたのが、
マイクにひっかかって面白い音が出たところ。
それと年長のDEBUが、シルバーの楕円形の皿の裏に目鼻をかいたのをかぶって
王様になったところ。王様が貢ぎ物を欲しがると、年少のDEBUは
「そうだ、これをあげよう」と赤いビニールテープで王様のからだをぐるぐる巻きにした。
すると王様は言った。「うれしー! 束縛をくれたんだね」
足もとのレコードプレイヤーの上では、いろんなものがまわった。
ステージの最後には年長のDEBUが、しその葉をたくさんのせた。
青い葉っぱは重なりあってぐるぐるまわって、GURUGURUのDEBDEBUでライブ終了。
予定も調和もない演し物。意味なんかまるでないし、かっこわるい?
いや、何がかっこわるいって、まわるしその写真を撮ろうと身をのりだして
こけた私が一番かっこわるい。高円寺の雑居ビルの二階の円盤の中で。
知らなかった。いつの間にか古い友人が、高円寺の駅の向こうのビルの中で
ひっそりとバーを開いていた。
『鳥渡』と書いて、ちょっと、と店名を読めるのは相当な文学好きだな。
カウンターで石川浩司がおかしなことを話していた。
「俺は夢の中で『これはどうせ夢だから、こんなこともしてやれぇい』って
話を自分の好きに作れるし、場面や風景も自由に変えられる」って。
へえ。わたしはそんなことできたためしがないや。
それにしても写真家でもある古い友人の写真、あいかわらずすごくいい。
これはウイスキーに入れるために、まあるくカットする氷を撮ったもの。
翌日もライブに行った。今度は出かけていくのにちょっと気の重い渋谷。
かつてよく映画を見に行った地下の場所が、いつの間にかライブハウスに変わってた。
その映画館には感傷がある。いつかちゃんと文章に書いておきたい感傷だ。
だからライブの間中、感傷に包まれてしまって、演奏をちゃんと聴けなかった気がする。
それでも音楽に圧倒された。長く音楽を続けている50台の女と男。
彼らの中から今このときに湧いたものがバチンとがちんこでクロスして、
言葉となり、音となる。そのキリキリとそそりたって広がる世界は、
わたしがいまだかつて一度も体験したことのない物語。
手探りの暗黒の魑魅魍魎の未来へ、しっかりとした足取りで進むための
パレード曲。細胞がふるえるような。
ライブが終わったあと、地上へ出る階段のところで
口のあいていたお財布から小銭をばらまいた。
おしゃれで元気な大勢の渋谷の客の中で小銭をばらまく。
わたしはなんてかっこわるいんだろう。
ペケ、ばかり。なんだか毎日ペケばかりだ。
本当のことを言えば、ここに書けない大きな穴のようなペケも抱えている。
ペケペケペケ。オッペケペ。それにしても、のどが痛いなぁ。
二日、隣の小四坊主から届いた年賀状の文面に吹き出した。
毎日アイスをもらいに来ること。あればお菓子も一緒にもらうこと。
「うちに何もないんだよ」と食べるものを見つけにくること。
どこかへ遊びにつれていってもらうこと。ヒマなときに話し相手になってもらうこと。
そのすべてを、古い言葉で言うところの“鍵っ子”である彼は
“色々”と表現したのだろうな。
「よろしくお願いします」よりも現実味のある新年の挨拶。
三日、朝に外を掃く音がする。
マンションの向かい側の豪邸のおかっぱ頭のご主人が、
毎朝ぴったり決まった時間に掃く音とは違う。
角の弓道場の生徒だろう。さっそく初稽古なのかもしれない。
四日、早朝に外を掃く音がする。さっ、さっ、と。
心臓から血液が送り出されるのを、からだの外から聞いているみたいな静かな音。
向かいの豪邸のご主人だ。白髪まじりのおかっぱ頭の背中がまがった長身の男。
三が日は死んでいた、彼の日常がまた始まった。
年の頃は60ぐらい。早朝に家の周りをきれいに掃き清める、彼は昔ながらの日本人だ。
午前11時には豪邸の一角にしつらえた小さな店を、店主である彼の妻が開ける。
すると今度は、脳に障害を持つ彼らのひとり娘が店の玄関周りを掃く。
父親そっくりで大柄なおかっぱ頭の彼女の音は、彼とも、弓道場の生徒たちとも違う。
地面を激しく、でも彼女なりのやり方でなでつけるような音。昼前になると彼は、
妻と娘と自分のために食料の調達に出かける。歩いて5分の駅周辺まで。
西友か京樽あたりで買い物をした大きなレジ袋を抱えて戻ってくる。以上。
以上が、わたしの知る彼の一日のほとんどだ。彼は終日、家の中にいるけれど、
たまにスーツを着てどこかへ出かけ、すぐに帰ってくる。
きっとその唯一の“仕事”で、豪邸と自分たちの暮らしを維持できるのだろう。
五日、老母と甥が明治神宮へ初詣に行った。
小四の甥はうちに帰ってくるなり、そこいらへんにあった紙で賽銭箱を作り始めた。
参詣の長い列にいて、目の前の賽銭箱ばかりを眺めていたらしい。
甥が自分の家へ帰り、日がすっかり沈んだ頃、
隣の小四がうちのガレージでサッカーボールを蹴り始める。
トントンと弾む音はかまってもらいたい証拠。
仕事をやめて階下へ降り、彼としばし立ち話。
正月に父親の実家の徳島へ行ってきた話が、彼の中からどどどっとあふれ出す。
自分の夕飯用に餃子を焼き始めた老母が、彼にも食べろという。
サッカー靴を脱いでうちに上がり、山ほどの餃子をたいらげると
彼は私と同じようにコタツに入って、おしゃべりを続ける。その間にふと、
テレビの上の紙製の賽銭箱に目をやった。ニヤリと笑って言う。
「いいね。俺も作ろうかな。中に何か入るかなぁ」
七日、D先生に会って三時間ばかり話す。
その後、秋葉原のライブハウスへ、高円寺・円盤の新春イベントを見に行く。
岡山の若い友人たちがやっているバンド、ボムケッチの出番にジャストで間に合った。
切り絵師のモチメ嬢と一緒に、ステージの最前列でライブを堪能。
轟音でくらくらと踊るのはいつだってきもちがいい。
八日、ウェブで絵を見た。『鳥男の涙』と題された絵。
哀しいのに、なんでこんなに美しいのだろう。そんなふうに思うとき、
今までは自分を戒めてきた。哀しいものを、美しいなんて言ってはいけない、と。
だけど昨日のD先生の言葉が胸に残っていた。
セバスチャン・サルガドがアフリカを撮った写真のことを、先生は話した。
「木の下に難民のひとたちが集まっていたりする、それは悲惨な哀しい写真です。
でも美しいのよね。飾らないむきだしのものは、哀しみを伴っていても美しいんです」
〈鳥男 部分 猫と星になってゆく人〉
と、作者のわたなべいくこがアップにした部分にコメントをつけている。
〈鳥男も無題の人間もがりがりにやせた男の絵です。〉
去年の後半から、わたなべいくこは信じられないペースで次々に絵を描き、
自分のブログhttp://tanpopoou.blog15.fc2.com/に挙げている。
憎しみも、哀しみも、怖れも、希望も何もかもが、むきだしにごろんとそこにある。
どれもが力強い美しい絵だ。
八日の夜、下北沢へYのライブを聴きに行った。
彼がしょっぱなに歌った曲のサビの部分。〈正月だから、
賽銭箱の真横に座り込んで、外れて落ちる小銭を拾い集めるのはやめろ〉。
『ものを投げるなや』と題されたこの歌について、Yは言った。
「子どもの頃、賽銭箱の横に座って集めた小銭でプラモデルとか買ってた」
小学四年生でも五十三歳でも、どうやら男とは賽銭箱に執着する生き物らしい。
〈腹が立つからといって、ものを投げるなや。ものは投げたら壊れるんだ〉
〈腹が立つからといって、人を投げるなや。人は投げたら、壊れるから〉
九日、携帯でツイッターを見て、早朝のベッドの中で不安に駆り立てられる。
原子力発電所の4号機が傾いている、とのこと。
東京だってやばいのだ。いつ? どこへ逃げる?
頭の中で妄想が錯綜する。想像ばかり走らせるのは愚かなことだけれど、
どうしてもそれを止めることができない。
こうして息をしている自分たちを、みすみす壊すわけにはいかないから。
絶望の朝でも、外を掃く音がする。
さっ、さっ、と心臓から律儀に流れ出す血液のような。
]]>日本人は一年に一度死ぬ。そしてまた新しく生まれ変わる。という。
月のめくれた新しいこの場所は、誰も踏まぬ雪野原のようにまっさら。なはず。
でもやっぱり“想い”は、年末にあれこれ考えていたことを引きずっているな。
ここ3年ばかり、クリスマスの夜には六本木のライブハウスへ行っている。
好きな音楽家のYがライブをやるから。
2009年と2010年は『スイミンSHOW』と名づけられたソロライブだった。
スイミンのための音楽会。演奏者のYも70人の客も全員が寝て行われる。
人が横になれるスペースには限界があるから70人限定。
チケット代が3.500円だとして(←忘れた)×70=245.000。
昨年、2011年はYが9年前に出したソロアルバムの再現&レコ初ライブだった。
そのアルバムは、延べ60人ぐらいの音楽家に関わってもらったにもかかわらず、
結局すべてをボツにして、ほとんどYひとりで作った。だからこれまで
ライブが実現しなかったのだけれど、
ようやく一緒に演奏できるメンバーが集まった、ということでレコ初。
マニアックな企画だよなぁ、わたしみたいに骨の髄までYを愛している
アホなファンしか来ないんじゃないかしら、と思っていたらば。
北風がびょうびょうと吹く寒い聖夜にもかかわらず、
六本木のライブハウスは始まって以来のぎゅう詰め400人の客入り。
チケット代が3.500円だとして(←忘れた)×400=1.400.000。
ぎゅう詰め400人の夜、演奏が始まったとたんに
ライブハウスの空間がぎゅわんと膨らんだようだった。
音が鳴り出したときに。空気の粒が膨らんで、白い天上や壁を押し上げてしまった。
人がたくさん、その“場”にいたことも関係しているのだろうし、
そういう音が奏でられる予感があったから、人がそれほど集まったのだろうし。
一方、『スイミンSHOW』のときは、天から音の雨が降り注いで、
からだを打たれるような感触があったのだ。
刃のような鋭さの、でもやわらかい音の雨。
面白いと思った。同じハコで70人から400人まで。
変幻自在に“場”を変えてしまう。“場”の形も質も空気も変えてしまう。
ひとりの男が。Yは自分のことを
「音楽をやっているんやない。手品や」と言ったことがあるらしいけど、
手品師というか魔術師だな。
六本木のクリスマスの数日後、今度は新宿にあるジャズの老舗のライブハウスへ。
平日の昼間だけど客席は埋まっていて、まぁ、のんびりとしたムード。
共演者の大友良英を相手に、Yがステージで言った。
「もうグローバルの時代は終わりました。これからは小商いですよ」
ぷふっ、と吹き出してしまった。心の中がかゆいようなおかしみの中で、
私は思った。なんてリアルな、と。
言葉は、誰が発するかによって、リアル度がまるで違う。
オノヨーコの口から聞く「自由」と、Yの口から聞く「小商い」。
去年の私の双璧だな。
作品作ろう、とか、自分の生きる意味を遂行しよう、とかじゃなくて
「小商い」しよう、と思ってみる。
「小商い」とは、生身のひとを相手の商売だ。
生身のひとを喜ばせたり楽しませたり、びっくりさせたりすることだ。
それをして日銭を稼ごうと、ちょっとだけ狡猾に考えてみる。
するとそこから「自由」になれる、気がしませんか。囲われていた柵が切れて。
いずれにしても“想う”のは、掴みに行かなければならない、ということです。
謹賀新年。
湯船の中にいると想うのは、いつかの空の青い日に、
死んでしまった人たちのこと。
〈なぜだろう? 江戸アケミがお風呂の中で死んだから?〉
今年、死んだ彼女のことも。
同世代だけど、ろくに話したことがなかった。
価値観が違う、と思っていた。
彼女は、まやかしの世界でもうっとりできる夢を売る。
私は、うつつの人の中にある光る玉を取り出して見せたいと思う。
肉体に脂肪をつけないように努力して、彼女は仕事と恋をしたがった。
一生。だから上を見た。
自分より年齢が上の女に目がいった。
お手本を探していた。憧れた。
女の子が人形を持つのは、自分の子どもや分身が欲しいからではない。
人形は自分の下にあるものではない。いつだって上にあるもの。
自分よるはるかに、きれいなもの、可愛いもの、かっこいいもの、強いもの、
はかないもの、冷たいもの、哀しいもの、弱いもの。
いつだって自分以上に。
人形は、“いつの日か”の自分の仮の姿。
その日は永遠に来ないかもしれなくても。
最初の人形を手にしたとき、私は青いスチュワーデスの制服姿を選んだ。
替えの衣裳として、純白のウエディングドレスのセットをつけてもらった。
仕事と結婚。いつの日かーー。1961年生まれの小学生の憧れ。
いつの日かーー。腕も首も背中も胸もお尻も、こんなふうになる。
いつの日かーー。
それは今の私にとって、まったく嫌なことではない。
むしろ、というかもちろん、掌に乗る白い髪の人形は憧れの対象だ。
自分より上のもの。愛おしいひと。
水玉のワンピースをまずは作って着せる、と作者が言っていた。
そうなると夢は膨らむ。
シャネルスーツに、素材も仕立てもいいダッフルコート。
王冠の刺繍つきのビビアン・ウエストウッドの
ニットアンサンブルもいいかもしれない。
なんでも着こなせる。どんな服にも負けない、この容姿があれば〈だから憧れるのだ〉。
こんな人形が現れたんだよ。すごいね。私たちの見てきた夢の勝利だね。
MoMAに所蔵されたっておかしくない、歴史的な一体でしょうーー。
人形を見た翌朝、湯船に浸かりながら心の中で私は話していた。彼女に。
同世代の、女性誌の辣腕編集長だったひとに。
私たちが紙の上に立ちのぼらせようとしていた世界の行く先には、
きっと、この人形があった。
彼女と私、別々の方向から進んできた線も、この一点で焦点が合うはずだ。
桐島洋子を好んで読んでいた彼女とも、森茉莉を好きな彼女とも、
武田百合子が好きな彼女とも、有吉佐和子が好きな彼女とも、
岡本かの子が好きな彼女とも、富岡多恵子が好きな彼女とも。
それにしても、死んでから話しかけるなんて、性格のねじれていること。
許してください。
西荻で暮らし始めて何年目のクリスマスを迎えるのか、いつも数字が抜け落ちてしまう。
引っ越して間もなく、近所を歩いていて発見した、井の頭通り沿いにある
小さな二階建てのアンティーク屋さん。〈写真は違う店のウインドウ〉
誰かにとってはゴミのようなものだけれど、
誰かにとっては宝物が見つかる店(どこかで聞いたフレーズだな)。
どの駅からも離れた立地と、そのオンボロな佇まいも含めて、
私にとっては即座に「お気に入り」となったその店の店主の女の子とは、
すぐに顔なじみになった。
〈近所の庶民派お菓子会社で、ご近所向けのクリスマスセールがあった〉
アンティーク屋さんが開く朝市に店を出していたエバジャムを知り、
数年後に仕事を依頼した関係で、ジャム屋のエバと親しくなり、
数年後にエバの先輩が西荻に店を出したというので、ロック食堂のナナオさんを知った。
ニヒル牛マガジンを始めるとき、「知った」ばかりで別に親しくもなんともない
ナナオさんに連載メンバーになってほしいという話をもちかけたのは
ロック食堂のホームページに彼が書いていたブログの文章を私が好きだったからだ。
「最近読んだあらゆる文章の中で、私は一番あれが面白かった」と妹に言った。
西荻で暮らし始めて、今年が何回目のクリスマスになるのか、
数字が抜け落ちてしまっているけれど、つい先日、
件のアンティーク屋さんの二階でお酒を飲んだ。
アンティーク屋さんの店主の女の子のパートナーに「相談事」があった。
その話をすると、店主が酒席を設けてくれたのだ。
店の休業の日。大通りに面していない裏口から入って。
トントントンと小さな狭い木の階段を上って二階へ。
すると、なんていったらいいのでしょう、そこには、マッチ売りの少女が
マッチ売りの少女のままで夢見たような食卓がしつらえられていたのです。
燭台なんてない。シャンデリアも、薔薇の花も。
マッチ売りの少女がナニジンなのかわからないから、彼女が夢見た
ご馳走がどんなものなのかわかんないれど、まぁ、そういったものもない。
〈写真はまったく関係ない女子大近くの民家〉
ペチカもない。でも、ペチカはある気がした。近くにとんがり屋根の教会もない。
でも、澄みきった冬の空気の中で、教会の鐘が鳴っている気はした。私たちは
思い思いの格好だったけれど、でもたぶん、
雪の結晶を編み込んだ着古したセーターかなんかを着込んでいた気がする。
何よりも「わぁ」と思ったのは、トントントンと二階へ、彼らのアジトへ上がっていくと、
店主の夫のU氏が、階段脇の小さなコンロの前に立って
何やら黄色い丸いものを焼いていたこと。
私がテーブルの窓側に座るや、ちょうど焼き上がった、
その黄色い丸いものはすぐにテーブルに運ばれた。
「わぁ! 何、これなあに!?」 招かれた側のお世辞ではなく、心底の感動と驚き。
〈先週末、近所の弓道場に、突如こんな貼り紙が〉
「まあ、食べてみて」と彼。「私、これが大好きなんだ。
これをおかずにご飯食べるのが好きなの」とアンティーク屋店主。
見事な満月みたいな黄色い卵焼き。その下にあるのは……。
「もやし?」と聞きながら自分の皿(店で売っている印判の手塩皿)に取り分けながら、
中身がわかって「お芋? と挽き肉? へえ〜〜、味つけはなんだろう」とつぶやくと
「まあ、食べてみて。うちのおかんレシピなんだけどね」とU氏。
細切りにしたじゃが芋と挽き肉を炒めて、味はソース、塩、こしょう、
それにもしかしたらしょうゆ? それぞれが少しずつ入っているのかもしれない。
上にのった卵焼きを一緒に食べるのです。日本の子どもの、
むかし子どもだった大人の、好きなおかず。
U氏は映像を作る人で、私はこの夜が彼とまともに話した始まり。
でも、彼の映像はウェブでずいぶん前から見ていて、いいなーと思っていた。
風景を映したふとしたワンシーンだけで、「映画!」と迫ってくるものがある。
彼の映像を見て久しぶりに「映画!」を見る欲を目覚めさせられた。
物語ではなく、スクリーンの奥で蠢く映像。暗闇の中に動くものたち。
宴会の密談の結果は、やがてこのウェブ上で。たっぷりあった黄金のおかずは、
翌日のお昼ごはんに、案外さめてもイケルという、昭和の主婦の凄腕レシピ。
〈写真は一足早い白菜のお雑煮。それにしても
あの夜の満月おかずの写真を撮っておくべきだった〉
稀少品のおすそわけがあった。京都・北野天神近くの小さなお酢屋さん製造の玉姫酢。
空き瓶を持参して売ってもらうような(つまりリピーター限定?)
少量生産の手に入りにくいものらしい。
ひと舐めしてみると、グンと迫ってくる甘みと塩分。
ネット上には「まろやか」という表現が多用されているけれど、むしろ
愛用の京都・千鳥酢のさっぱり加減に比べて、玉姫酢には古の日本の味の強さがある。
提供者から「いなり寿司にするとおいしいですよ」とアドバイスがあり、大納得。
風味の強いお酢を使えば、甘辛のいなり寿司がキリッと仕上げることだろう。
油揚げのストックが1枚半しかなかったので、それを甘辛に煮含めて、
玉姫酢で作ったすし酢で、手始めに超シンプルおすし。
〈具は油揚げの刻んだのとれんこんだけ〉。
砂糖不使用・塩分控えめの料理、おからのドーナッツ、揚げないかりんとう、
春雨ばかり食べている女の子たち、お酒を飲まなくなった男の子たち。
彼・彼女らが人生に求めているのは、いったい何なのだろう?
「ひばりさんも死んじゃって、森繁さんも死んじゃって、談志さんまで死んじゃって、
ロクな人間が残っていないから。わたしはもう、コチラに未練はまったくないの」と
先々週にインタビューした人。
「大根1本も、皮までおいしく食べるのはどうしたらいいかを考えるわけ。
ふきん1枚でも、徹底的に使い込むんですよ。それが“愛する”ということ。
逆を言えば、自分が愛せないものは生活に持ち込まない。
そうすれば、無駄なく気持ちよく生きられるんです」と先週にインタビューした人。
彼女はこうも言っていた、「私は自分も使いきって死にたいの」。
「日本の男の人が元気がない? ハハハ、今は世界中がそうよ!
理解してあげることです。女性が男性にしてあげられるのは、
理解してあげること。それと愛すること。それしかないわ」と
先週にインタビューした違う人。ステージで絶叫する彼女の姿を見て、
客席の若い女の子たちが心底驚いた様子で
「こういう人だから、彼に愛されたんだね」と話していたと聞いたけど。
激しさ、強さ、辛さ、寂しさ、せつなさ、そんなものは
とうに抱えすぎて通過した彼女たちが
唯一手放していないもの、それは“あきらめ”なのだと思う。
もう、この世に未練はない、と言えるのも、自分をあきらめていないから。
最期まで「どうでもいい」と自分を突き放していないから。
きっちり甘いもの。きっちりしょっぱいもの。きっちりお腹にたまるもの。
曖昧でないものを食べて、ガシッと地面に立ってきた。
たとえ地面が大きく揺れても。銃弾が頬をかすめても。幼子を抱きかかえて。
凛として生き抜いてきた、彼女たちはまごうことなき“日本の女”なのだ。
コーヒーはからだを冷やす極陰のものーー。
食べものを陰陽で分ける東洋的な発想、10代の頃はおもしろいと思ったけれど。
おいしいものが好きだし、朝一杯のコーヒーのシアワセを捨てることは土台できない。
子どもの頃は熊の視線の中で暮らしていたーーなんて
話してくれるひとのインタビュー記事をおとついまで書いていた。
出会ったことはなくても、森へ野いちごを摘みに行けば、
熊もそれを食べるわけだから、そのへんに“いる”のを感じるのだって。
そのひとが樺太で過ごした幼少期のことを書いた本が、読みかけで、
ずっとベッドのところにある。薄青いきれいな表紙の厚い本。
少しずつ味わうように読んでいる。
〈夕ぐれはどこからやってくるのだろう。川の向こう、北方にそびえる
敷香岳の山裾あたりから、川の下流にはるかにひろがるツンドラの野から、
蝦夷松やとど松の林から、夕ぐれはいつの間にかしのび寄ってくる。〉
〈気がつくと、家も垣根も鶏小舎も、薄ねずみ色の夕闇につつまれて、
追いかけ合う子どもたちの背中も、鼻先も一様にぼやけてくる。〉
〈すべてのものが輪郭を失って、すこしずつすこしずつ夕闇に溶かされていく中で、
自分たちの遊ぶ声だけがいっそう透きとおって聞こえてくるのだった。〉
原稿を書いているときも、傍らのベッドの上にある薄青いきれいな本のことを想うだけで
気持ちがスウッとよくなった。こういうものだけ食べていたら、
もうちょっとキレイな人間になれるのかしら、と思ったりした。
神沢利子の『流れのほとり』
高崎のtonbi coffeeを知ってから、うちのコーヒー遍歴が終わった感じ。
好きな豆と一緒に、その時期に入るおもしろそうな豆を選ぶのが楽しい。
今飲んでいるのはタイ北部のドイチャン村に暮らす山岳少数民族が作るコーヒー。
アヘンの材料であるケシの栽培と引き替えに、コーヒーを作り出したとかで、
すんごくめずらしい。
コーヒー未開地の豆、実はあまり期待していなかったのだけれど……わたしは好きだ。
やさしい酸味とやさしい甘みとやさしい苦み。
あっさりとしているようで、とろりともしている。
ていねいな仕事ぶりが好ましいtonbi coffeeからの送り状に
「タイのコーヒー、ありがとうございます」とあった。
若い夫婦みたいだけれど、どんなひとたちが高崎で店をやっているんだろう?
彼らのホームページにこうあった。「時々顔を出す、
トウモロコシのような穀物の香り、エンドウ豆のような野菜の香り、
これもタイらしさかもしれません」。
エンドウ豆の香り? 今朝はいつもより注意深く味わってみなければ。